最近ブランドの本を2冊読んだが()、続いて山田登世子「ブランドの条件」を読んでみた。こちらはファッション・ブランドに関するブランド論なのだが、本当に素晴らしい一冊。ヴィトン、エルメス、シャネルを通してファッション・ブランドに迫る力作である。ファッションブランドにとどまらず、ヨーロッパ文化論・消費社会論などの社会学に興味がある人にもお勧めできる。

 

いまでこそファッションブランドといえば女性モノが主流である。しかし、絶対王政化ではファッションの最先端はルイ14世に代表されるように男性側に主権があった。赤のハイヒールといえば現代では女性のイメージだが、近世ではルイ14世が愛したファッションだ。ファッションは貴族の富や権威を表現する手段として公的な事柄に属していた。しかし、近代社会になると、貴族社会は終わりをつげ、近代資本主義に突入する。男性はゴテゴテしたファッションを捨て、大富豪もダークなスーツに身を包む。その時点で、ファッションの最大の消費者は、男性ではなく女性になるのだ。大富豪の夫に代わり、夫の財力の誇示のために妻である女性は代理的に消費をするようになる。またファッションの担い手が、貴族から市民に移る中で、ファッションはその公的性格を失い、プライベートの事柄に矮小化される。ここらへんの「公」から「私」への移行は音楽も美術も構図的には同じだ。

 

この近代の「以前」と「以後」でファッションブランドは性格を異にする -- ヴィトン・エルメスと、シャネルとでは、絶対的にブランドしての性格が異なる。前者はナポレオン3世皇后が寵愛したロイヤルブランド。一方でシャネルは極貧の娘が立ち上げ、貴族社会のファッション文化を埋葬し20世紀のブランドを築いた(ポール・モラン曰くシャネルは「皆殺しの天使」)。現代でこそ並び称されるが、その出自は違うのだ。貴族女性のファッション文化は、女性はコルセットで身体を締め付け、耳や首を過剰装飾で飾りたてていた。それをシャネルはシンプルで動きやすいが、優美なファッションに置き換えたのだ。世界大戦を通し、女性の社会進出が進み、シャネルは時代に受け入れられ、モードの一時代を築くのだ。

 

それにしても勉強になった。特にシャネルのファッションの革命性については「シャネル論」として一領域を占めるほどだろう。シャネルの「わたしは今、贅沢さの死、19世紀の喪に立ち会っているのだ。」という言葉の意味の重さを本書を通して知ることとなった。シャネルの人生は映画化もされている。こちらもお勧めだが、映画を観るなら本書を、本書を読むなら映画の視聴をお勧めする。映画だけではシャネルの歴史的な重さが理解できず、本書だけでは視覚的な理解が疎かになる。

 

本書の続編ともいえる「贅沢の条件」も読了しているので、また記事にしようと思う。