「いきなりステーキ」: 改悪連発で常連客を切り捨てて「いきなり倒産」か!!??の記事で書いたが、「いきなりステーキ」はヘビーユーザーと常連客を切り捨てた。会員特典を改悪したが、その内容は「10回くれば「タダ肉」をくれてやるから貪り食え」という内容で、びっくりした(”貪り食う”という表現はサイレント修正されている)。おまけに、この特典の改悪は12/24付で「常連客、お前らへのクリスマスプレゼントはこの改悪だ!さんざん特典くれてやっただろ!思い知れ!」というメッセージだったと思うと悲しい。「いきなり倒産」と私も書いたが、ここまでくると「計画倒産」な気がしてくる。

 

SNS等をみていても、現状プラチナ会員は10回行けばダイヤモンド会員になれると勘違いしている人が結構いるが、現行の会員ランクに関係がなく、プラチナ会員になるには半年で30回、ダイヤモンド会員は40回行かないといけない。つまり、現状ダイヤモンド会員も、これからの半年で40回行かないと問答無用でワンランクダウンの憂き目にあう。よく読まないと書いていないから、半年後に強制的にワンランクダウンさせられて驚く人が続出だと思う。プラチナ会員はワンランクダウンすると、サービスのドリンクでアルコールが頼めなくなるので要注意。

 

プラチナ会員は10回行けば「タダ肉」(この意地汚い語感のネーミングが素敵だよね(もちろん皮肉))がもらえるけど、ワイルドステーキ200g(別にワイルドステーキなんて要らないし、200gは少ない・・・)。20回行けばリブロース250g貰えるけど、コロナ感染者数が増加している中で半年で20回も行けないよ・・・(週1で6か月いってもランクダウンさせられる仕打ちにあうし・・・)。ゴールドランクの人はいいかもしれないけど、プラチナ会員以上はランク維持が難しいから、行かなくなるよ。

 

当方は回数でいうとトータルで100回以上通って、ワインなども頼むので毎回3,000円ぐらい支払っていたので、いままでに30万円以上かけている計算(数年がかりとはいえ結構かかっててビビりますね、、)。旧制度において私はプラチナ会員になるのに、201,000円(20,000gを300gで割ると約67回、3000円×67=201,000円)かけている。しかし、今度からは回数重視なので、30回来店してチキングリル220g (770円)を30回頼んで、最安でトータル23,100円でプラチナ会員になれる人もいる計算だ。私のほうが約9倍も単価が高いのに、当方は半年後、ゴールドにランクダウンさせられるのはなぜ (。´・ω・)? What had I done to deserve this ?

 

・・・と、ネガティブなことを考えても仕方がないので、「いきなりステーキ」に私は前向きに明るくさよならして、代替するステーキハウスを探索中。そうしたら都内だと「やっぱりステーキ」とか「ステーキロッヂ」とか結構気軽に入れるステーキハウスがありました。それぞれ店舗はまだ少ないけど、これからの店舗拡大に期待。

 

というわけで、「ステーキロッヂ」にいってきた(店舗は渋谷と池袋)。雰囲気は山小屋をイメージしていて、カジュアルな感じで入りやすい。初回は池袋の店舗でサーロインをたのんだが(下記写真)、サッパリしていて、柔らかくてとても美味しい。ビールもジョッキで量が多いのが嬉しい(「いきなりステーキ」だとグラスだった)。それに「いきなりステーキ」の「ワイルドステーキ」なんて鉄板を傾けると”油溜り”ができるぐらい油っぽくて胃もたれしたが、ステーキロッヂの肉はとてもサッパリしていて胃もたれしない。二回目は渋谷の店舗で「フレッシュロッヂステーキ」を食べたが(写真は撮り忘れた)、こちらも柔らかくて脂っこさもなくて美味だった(サーロインより安いし美味だと思うレベル)。池袋も渋谷の店舗も、駅から徒歩数分なので機会があれば訪れてみると良いと思う。

image

 

まぁ、コロナ感染者数が増加傾向なのでなるべく外出は控えているが、「やっぱりステーキ」にも出かけてみようと思う(吉祥寺なのでやや遠いけど)。厚切りステーキ文化を広めたのは「いきなりステーキ」の功績だが、傲慢経営はいただけない。誠実で堅実な経営に立ち戻らないと、このまま倒産まっしぐらだ。「いきなりステーキ」の薄利多売路線へのシフトは、素人目に見てもコロナ禍では悪手である。次の決算発表が楽しみですね。さよなら「いきなりステーキ」。いままでありがとう。

 

 

故 山田登世子は、フランス文学者だ。本人も「専門でもないのに」と断りつつ、ファッション論の本をいくつも書いている。過去にいくつか読んだが(LINK1LINK2LINK3)、本書は女史の初期の本である。その後のモード論やシャネル論につながっていく思索的な本となっている。

 

ファッション論といっても、着合わせ等を考察するスタイリングの話なのか、ファッションのマーケティング戦略の話なのか、ファッションを消費する社会を考察する消費社会論なのか、ファッションと歴史の関係性の話なのか、スタイリング論・経営学・社会学・歴史学と切り口は様々である。女史の本は専門のフランス文学なども引用しつつ、ボードリヤールの消費社会論やロラン・バルトのモード論、ジンメルの流行論を踏まえている。ちなみに、ボードリヤールの記号消費論に触発されて堤清二が考案したのが「無印良品」である。

 

かくいう女史は別にシャネルもヴィトンも生涯持つことはないだろうといっている。特にヴィトンについては「教養が邪魔する」から買いにくいらしい。ヴィトンはもともとお手伝いに持たせる鞄だったので自分で持ち歩く鞄として考えると違和感だそうだ。ヴィトンはもともと旅行の木箱メーカーであり、当然、それを購入するのは旅行できる余裕がある上流階級であるが、その木箱を持ち運ぶのは当然、召使やらポーターである。そんなヴィトンの出自を知ってしまうと買いにくいというのは分からないでもない。女性が鞄を持ち始めるのは貴族社会が終焉し女性の社会進出が進んでからである。ちなみに、ショルダーバッグを初めて考案したのはシャネルだ。

 

やはり本書でもシャネルの話は面白い。当時、男性下着に使われていたジャージ生地を女性の服に採用し、偽物のジュエリーを身に着け、黒色をまとった。オートクチュールを否定し、ファッションは技術であり複製可能なポルタポルテを尊重した。そこにはブランドネームによって個性が埋没することの危険性を見出していたという - ブランドが強過ぎると個性が負けてしまう。こうしたファッションの制服化が、大衆消費社会がいち早く到来したアメリカで受け入れられたのは偶然ではあるまい。ポール・モランはシャネルを「皆殺しの天使」と呼んだが、それはシャネルが19世紀的な贅沢を埋葬したからだ。

 

そう、孤児として修道院で育ったシャネルは貴族の贅沢なファッションを根本から否定したのだ。こんなラディカルな西洋の美感を覆した人物として、本書はシャネルに続いてコムデギャルソンの川久保玲を上げる。破れたような真っ黒な生地(いわゆる「黒の衝撃」)や、体のシェイプをわざと崩すコブドレスなど西洋的な美的感覚を否定し、欧米のファッション感を震撼させ一世を風靡した。モードといえば「黒」というイメージがあるが、これは川久保玲が創り上げたものだ。

 

それにしても興味深いのがモード〈流行〉とは何かということだ。ボードリヤール曰く「起源のない出現と消滅」だという。たしかにファッション産業やら広告業界が派手に宣伝することは可能だが、それが消費者に受け入れられるかは未知数であり、トレンドを創り出すのは大衆といっていい。しかし、そこに合理的論拠などはないし、出現と消滅を予見することもできない。なぜ流行しているのかといえば、流行っているからというトートロジーに陥りざるを得ない。しかし、モードとは夭折し刹那的だからこそ価値がある。明日には失われてゆくかもしれないからこそ、今しか存在しえないゆえに価値があるのである。

 

すっかり女史の本から「ファッション論」にはまってしまって最近はデザイナーのドキュメンタリーなどを観ている。といっても、当方自身は経済合理性優先で、別にそこまでこだわりはない。斬新なモードについていく気はサラサラない。ブランド品も買うがリセールバリューを踏まえてである。それにしてもファッションというと個人的にはスティーブ・ジョブズが脳裏をよぎる。黒のタートルネック(正しくはモックネック)に、ジーパン、ニューバランスのスニーカーが彼のユニフォームだった。逆に常に同じファッションだからこそ洋服の存在は消え去り、スティーブ・ジョブズの個性が強調されたともいえる。彼がヴィトンだのグッチだのゴテゴテのブランドで出てきたら彼自身の存在感は薄れてしまう。そういうとまるでファッションとは無縁な存在にみえるだろうが、彼のモックネックはイッセイミヤケのスペシャルオーダー品であり、彼のこだわりが息づいている。彼のモックネックを、ユニクロのタートルネックを思っている輩がいるのは嘆かわしい。別に誰しもお洒落する必要はないが、教養がないというのは非文化的で物悲しいものだ。

 

 

年末年始であるが、東京はコロナ感染者数が増加傾向で会社の忘年会は今年は自粛。数人の友達との忘年会やらZOOM飲み会だけやっただけで、大半の時間は自宅で自由時間である。仕事も在宅勤務ゆえ外出頻度は本当に低い。せっかく自由時間が多いので、自己投資の機会と思い資格試験の勉強しつつ、気になった本や映画をとりあえず手当たり次第に消費している。年末年始は読書と映画三昧になりそうだ(あと英検1級などの勉強も少々)。

 

ビジネス書は内容がピンキリだが、やはりたまに読むとモチベーションアップになるのは事実だ。本書は著者のマイクロソフトの元業務執行役員の越川氏の興した会社のクライアント25社に協力してもらって、各企業トップ5%の社員に共通することをAI分析した内容をベースにしている。

 

とりあえず、目立った特徴をまとめると次の通りだ。

・結果重視

・弱みをあえて見せて信頼関係による人的ネットワークを拡大

・意識改革の前にとにかく行動

・目標とのギャップを把握

・有酸素運動を好む

・読書を良くする

・完璧を目指さない

・仕事の振り返りをする

・笑顔が多い

・同僚との距離感をとるのが上手

・周囲のモチベーションをもあげる口癖

・レスポンスが早い

・新しい経験・刺激を好む

・アウトプットを好む

 

日本だと座学の勉強が重視されるが、実際のところビジネスで活躍する人材は当たり前だが勉強一辺倒型ではなく社交性や人間性も優れている場合が多い。だから、卒業後に活躍できる人材に入学してもらう趣旨で、AO推薦などの方式で学力以外の側面も斟酌することは私は間違っていないと思う。私がおかしいと思うのは、AO推薦となると学力をほとんど問わないことだ。それに入口の間口を広げるなら進級・卒業を相当に厳格化するなり、卒業時に学位を等級化すべきだ。

 

私の勤務先は外資系コンサルだが、たしかに本書を読んで共感するところは多い。基本的に私がやり取りするのはManager 以上であるが、やはり仕事ができる人はコミュニケーション能力が高いし、フットワークが軽い。そして、それぞれ独自の世界観というか芯がある人が多い。スポーツでも音楽でも趣味がありプライベートも充実している人が多い。頭も良くて仕事ができても、協調性がないとか人間関係構築能力がないと、マネージメント能力面の不安で上の役職に上がれないことも多い。組織とは人間で構成されているのだから当たり前であるが、その点がなぜか抜け落ちている人が多い。最近は人物評価重視だが、昔は筆記試験の順位だけで採用していたので公務員はかなり変わり者が多かったと聞く。

 

この前、ちょっと上司のパートナー(役職名で役員クラス)と鮨屋で話していたのだが(パートナーご馳走様でした笑)、「パートナーっていつも何考えていると思う?」というので「経営に関することととか、事業戦略とかですか?」というと、「大半は人事なんだよね」とのこと。その点で、人材を採用する場合は、仕事ができるか否かの視点も重要だが、組織にフィットするのかと、候補者のキャリアとの適合性や、すぐ潰れないか(休職したり早期退職しないか)なども重視するという。その際に、経験値として趣味が豊富で、行動力がある人材はそれらの面に強いという(つまり本書で指摘する仕事ができる上位5%の人材)。もちろん、部署やポジションによって求められる個性やスキルは違うので一概にはいえないが、本書のような内容は大いに参考になると思う。

 

ただ個人的に思うに、結局、上記のような素質を身に着けている人の大半は、親の影響が大きい。子供のスポーツ活動・芸術活動などもお金がかかるし、大学受験も課金ゲーム状態である。つまり、それらを支払えるかどうかの資金力がものをいう。また、親の交友関係(社会関係資本)や、話し方や立ち振る舞い(文化関係資本)も一緒に相続するので、アッパーの家庭の子女が有利である。「そういう人ばかりじゃない」という稚拙な反論もあろうが、これは「確率論」の問題で、アッパーが同じ地位を維持する確率と、下層から這い上がる確率でみれば、前者が圧倒的に確率は高いという話だ。生まれ落ちた時点で人生ゲームの難易度設定はイージーからハードに区分けされている。

 

読書の意義は、自分の経験のみでは知りえない領域を知ることができる点にある。本書みたいなビジネス書は結構サラリと読めるが、自分のビジネスライフにひきつけて考えてみると得るところも多いと思う。

アーティゾン美術館で開催中の「琳派と印象派 -東西都市文化が生んだ美術-」展にいってきた。アーティゾン美術館はもともとブリジストン美術館だったが、新装して生まれ変わった。建築では国立新美術館のほうがよいが、チケットが時間制になっておりゆったり鑑賞できるという点ではアーティゾン美術館のほうが好きだ。対応も美術館の動線も素晴らしく、素晴らしい美術体験を提供してくれる。

 

「琳派」は、17世紀初めの俵屋宗達、18世紀初めの尾形光琳らによって、京都の町人文化として生まれた華麗な造形芸術の流派である。19世紀初めに酒井抱一や鈴木其一らによって、将軍お膝元の江戸に引き継がれた、流麗で装飾的な美感を核として発展した都市美術である。琳派の代表作といえば、「風神雷神図屏風」であるが(本展示会だと後期に展示される)、まず目を見張るのは金箔であろう。金箔のような瀟洒な背景に、遠近法を無視してデザイン的にモチーフが配置される。西洋絵画にはない日本特有の美感である。この美しい金箔の装飾は西洋絵画にも影響を与え、クリムトの美術に影響を見て取れる。

 

一方で「印象派」は、19世紀後半のフランス・パリを中心に、マネ、モネ、ドガ、ルノワールやセザンヌらによって、モチーフの日常性、斬新なアングル、光の変化などを特徴とする近代西洋芸術の一派である。これは絵具の開発によって戸外製作が可能になったことで、街の何気ない風景や時間によって変化する光の描写が可能になったことに加えて、日本美術が西洋で評判を博し「ジャポニスム」が流行したことも影響している。ゴッホなどは日本の浮世絵の模写などを残しているし、ドビュッシーの交響詩「海」の楽譜の表紙も歌川広重の浮世絵だった。パリ万博では日本の家紋にインスピレーションを受けて、ルイ・ヴィトンのモノグラムやダミエが生まれた。フェルメールの絵にも「キモノ」を着た男性が描かれ、またポール・ポワレは「キモノ・コート」で話題を集めた。「ジャポニスム」は日本人が思う以上に大きな影響を西洋に与えたのだった。

 

こうした日本の琳派と欧州の印象派の対比による東洋と西洋の美の対比は興味深い。本展示会は貴重な展示品も多く、またアーティゾン美術館の常設展示品も素晴らしい名画が多くて見ごたえがある。特にオーストラリアの「アボリジニ・アート」の収集は素晴らしいと思う。特にアーティゾン美術館で観て、東洋的世界観を西洋技法によって描いたアンフォルメルなザオ・ウーキーがお気に入りの画家になった。こうした予期せぬ出会いというのが実際に美術館を訪れる楽しさ。「良い美術との出会いは、良い美術館で。」ということだ。

 

 

グッゲンハイム家は大富豪のユダヤ系ドイツ人で、鉱山と精錬で財を成した大富豪の一族である。ニューヨークにある「グッゲンハイム美術館」でその名を知る人も多いだろう。そんな裕福な家系に生まれた自由奔放で風変わりなペギーが本ドキュメンタリーの主人公である。ヴェネツィアにある美術館「ペギー・グッゲンハイム・コレクション」はペギーが収集したコレクションを展示する人気名所である。

 

大富豪の家系に生まれてアート収集していたというと、貴族的なイメージであるが、ペギーは「一族は金持ちだか私は僅かなお金しかなかった」という。親族が馬鹿げたレベルのお金持ちに比べるとペギーが相続した資産はたったうん十億円に過ぎないという - 金持ちはスケールが違う。ちなみに、ペギーのお父さんは、お父さんはタイタニックで亡くなっている - 映画タイタニックでも出てくるが、沈むゆくシーンで「紳士らしく正装で船と運命を共にする。ブランデーをくれ。」といった人がその人である。

彼女は名門校に通うが大学には行かずに単身渡欧し、モダンアーティストと交流し、ロンドン初のモダンアートの画廊をオープン。若きアーティスト達のパトロンとなる。かなり破天荒でいまでは信じられないような著名な芸術家達と浮名を流したという。ベッドで寝たついでに絵画を買い取ったという破天荒さには驚かされるが、彼女の口から出てくる20世紀を代表するモダンアーティストの名前の数々には腰を抜かされる。 

しかし、当時は彼らの作品などゴミ扱いで、戦争の際にルーブルに保護を求めたが、却下され、グッゲンハイム美術館を所有する叔父に買取を求めたら、学芸員からご丁寧に「ゴミ」だといわれて買取拒否されたというから笑ってしまう。それゆえコレクションのピカソ、ポロック、ダリ、モンドリアン、ダリ、クレー、デュシャン(いま聞くと卒倒するレベルの画家たちだ)などは極めて少額で集められたという。いまではその全コレクションを集めた費用を足しても1作品も購入できないほど価値が暴騰しているというか、アートというのは価値が分からないものだ。オークションシステムが価格を暴騰させていると思う。結局、ペギーはコレクションをグッゲンハイム美術館に遺贈したそうだから皮肉な話だ。

ペギーは名伯楽だったといえるが(審美眼があったのかただ男女関係で買い取ったものが偶然値上がりしたのか難しいところだが)、もし値上がりしなければただの変わり者に終わっただろう。そんなペギーはついの住処にヴェネツィアを選び美術館をオープンし、名所になっている。大富豪の名家に生まれながら、その奇行から一族からのけ者にされたが、結果的に偉大なモダンアートコレクターになったペギーの生き様はとても興味深かった。

 

3.9 / 5.0