『ヒストリエ』の時代の年表 | 胙豆

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傲慢さに屠られ、その肉を空虚に捧げられる。

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書いていくことにする。

 

まぁ内容はタイトル通りで、『ヒストリエ』の時代の年表を用意して、そこで僕が言及できることを色々書いていくだけの話です。

 

主眼としては『ヒストリエ』の進行具合がどれ程に完結に関して絶望的かを示すことを目的としていて、まぁ実際、その辺りはこの記事を読めば分かるように書いていくつもりではある。

 

内容が内容なために、ネタバレを避けるなんて方法がないから、ネタバレNGの人はブラウザバックしてください。

 

さっそく年表を持ってくる。

 

※は『ヒストリエ』のオリジナル要素で史実ではない話や、史実的にはどうでも良いけれど、『ヒストリエ』では重要なそれにつけるやつで、(1巻)とかはそれが描かれた『ヒストリエ』の巻数の話です。

 

紀元前359年

先王ペルディッカス3世の戦死を受け、フィリッポス2世がマケドニア王国の摂政となる。

前359-344年

フィリッポスは対外戦争を進め、ギリシア世界の覇権を争うまでになる。この間に民衆に推されてマケドニア王に就任する。

※この期間に『ヒストリエ』のエウメネスが再びカルディアに帰るまでの出来事があった。(1巻-4巻)

前343年

アテネと対立したカルディア市がマケドニアに助けを求める形でフィリッポスがケルソネスに出兵。

※『ヒストリエ』では何故かフィリッポスはカルディア市と敵対しており、そこでエウメネスが拾われる。(5巻)

前342年

マケドニアはテッサリアを併合、トラキアを属州とし、脅威を覚えたアテネや諸都市はデモステネスの提唱によりヘラス同盟を結成する。

前340年

フィリッポス、ビザンティオンとペリントスを攻撃する。(7巻)

前339年

フィリッポス、スキタイと干戈を交える。(8巻)

前338年

カイロネイアの戦い。マケドニアが勝利し、アテネとテーバイがマケドニアに屈服し、ヘラス連盟が結成。(10巻)

前337年

ヘラス連盟がペルシアへの宣戦を決議。

前336年

フィリッポス二世が暗殺される。(12巻)

※エウメネスはフィリッポスに7年書記官として仕えたと史料にある。

 

現状はここまで。

 

ここからは『ヒストリエ』が未だ辿り着いていない範疇についてで、これを読めば『ヒストリエ』の完結がどれ程に絶望的か分かると思う。

 

前336年

先王の死を受け、アレクサンドロス大王が20歳で即位する。大王は北方への遠征を開始し、トリバロイ人やイリュリア諸族と戦う。

前335年

大王が北方に遠征に向かった隙に、アテネやテーバイなどのギリシア諸都市が反乱を起こす。大王は急遽南下し、反乱を鎮圧。戦後テーバイは徹底的に破壊され、テーバイの生き残りは全員奴隷となる。

前334年

ペルシア遠征開始。地中海の諸島にある都市国家を次々と陥落させ、小アジア(現在のトルコ)に上陸する。大王は進軍を続け、グラニコス川(トルコとシリアの国境辺り)でペルシア軍と衝突し、勝利する。大王はその後も南に進み、諸都市を落としていく。

※グラニコス川の戦いで、メムノンは焦土戦を提案したが却下されている。

前333年

メムノンが海軍を率い、諸島の都市国家を大王から奪い返すが、同年病死する。彼の率いた艦隊は彼の死後もマケドニアと戦う。大王は南下を続けイッソスでペルシア王ダレイオス三世の率いる大軍と対峙、これに勝利し、ペルシアは大打撃を受け、王の家族がマケドニアに奪われる。(イッソスの戦い)

※大王と謁見したダレイオスの母親は大王とヘファイスティオンを間違える。またこの戦いの後にマケドニア軍はダマスカス(現在のシリアにある都市)を占領、その時にアレクサンドロスは捕虜の中にいたメムノンの寡婦であるバルシネを見初め、彼女は後に大王の子を産む。

前332年

エジプト無血開城。メムノンの残したペルシア艦隊は抵抗を続けていたが、この年にマケドニア海軍に制圧される。大王は東に転戦をし、シリア方面へ向かう。

前331年

ガウガメラの戦い。ペルシアは敗北し、ダレイオスは更に東へ逃亡。大王は東征を続け、バビロン、スサ(現在のイラク、イランにあった都市)を占領。

前330年

東征軍はエクタバナ(現在のイランにあった都市)に至る。ダレイオスが部下に裏切られ殺される。同年フィロータス処刑。関連してパルメニオンも殺される。

※フィロータスの死後、重装騎兵隊ヘタイロイの指揮官が空席となり、ヘファイスティオンとクレイトスが後任になる。

前329年

大王は東征を続け、ヤクサルテス川(現在のタジキスタンなどに流れる川)にアレクサンドリア市を建設。

※この年、ヤクサルテス川でマケドニア軍はスキタイ人と戦っている。

前328年

ゾクディアナ(現在のウズベキスタン辺り)の有力者であるスピタメネスを破る。

前327年

バクトリア(現在のアフガニスタン辺り)の豪族であるオクシュアルテスが降伏する。彼の娘がロクサネであり、ロクサネは大王に嫁ぎ、後にアレクサンドロス四世を生む。

※この年にアリストテレスの弟子であるカリステネスが処刑されている。

前326年

インド遠征開始。ヒュダスペス河畔の戦いで大王はポロスを破る。その後、ヒュドラオテス川を渡りマッロイ人と戦う。東征軍はインダス河を船で下り、インドの諸部族との戦いを続ける。しかし、長引く遠征で将兵の士気が低下、東征を断念する。

※インドに至る河下りに参加した人物についての記述にカルディアのエウメネスの名前が見受けられる。また、インドでエウメネスは騎兵隊を率いて作戦行動に従事している。加えて、大王の東征はインドで終着を迎えるが、その東征を断念するに際してコイノスは大王に兵を返すことを上申している。

前325年

大王は軍を返しスサに向かう。

前324年

大王はスサに戻る。この年の春にスサでマケドニア諸将とペルシア人貴族の娘との合同結婚式を執り行う。

※合同結婚式ではエウメネスとバルシネの妹が結婚していて、その姉妹とプトレマイオスが結婚している。また、バルシネの娘とネアルコスが結婚することになっている。そして、この年の冬に、ヘファイスティオンが病死する。大王は大いに嘆き、三日間食事も取らなかった。その後、一万タラントンを使って彼のための祭壇を作る。その死の直前にヘファイスティオンとエウメネスとの間に諍いがあり、エウメネスは勘繰りを避けるために、哀悼の先頭に立った。また、ヘファイスティオンが占めていたヘタイロイの騎兵隊の指揮官の地位にペルディッカスが昇り、ペルディッカスがそれまで務めていた騎兵隊長の地位をエウメネスが引き継いでいる。

前323年

大王はアラビア遠征を企図していたが、何の前触れもなく熱病になり高熱にうなされ、うわ言を口にするようになり、10日後に死ぬ。享年32歳。大王の死を受け、諸将の間で話し合いが行われ、ロクサネの子の後見人としてレオンナトス、ペルディッカス、クラテロス、アンティパトロスが定められ、諸将は彼らに忠誠を誓うことになる。

※大王の死については王の公けの日記に書かれており、『ヒストリエ』ではエウメネスが王宮日誌を担当している。

 

とりあえず、大王の死までの年表は以上になる。

 

…『ヒストリエ』の本番がこの大王の死である前323年から前316年までの間のディアドコイ戦争でのエウメネスの戦いで、アレクサンドロス大王の死後も物語は続くんだから、こんなの終わるわけがない。(参考)

 

『ヒストリエ』の開始が前343年で、予定表的な最終話の年が前316年になって、12巻現在の進行度は全27年中の7年目と言ったところだろうか。

 

フィリッポスに仕えたのが7年で、アレクサンドロスに仕えたのが13年で、最後の7年間が記録に残るエウメネスという人物の活躍についてのほぼ全てになる。

 

最初のフィリッポスの時代の7年はそもそも記述が殆どないし、東征に関してもエウメネスの名前が出てくるのは最後の方で、ディアドコイ戦争に関してはフィリッポスの時代と東征時代のエウメネスの記述を全て合わせてもその何倍も量がある。

 

まだまだ終わりそうになくて先が楽しみですね…。(伏目)

 

年表を自分で作ってみて改めて思ったことがあって、それが何かと言うと、『ヒストリエ』の登場人物って、東征とディアドコイ戦争を意識しまくりだよなというところになる。

 

『ヒストリエ』に出てくる名前ありの将軍の殆どが東征やディアドコイ戦争でのエウメネスの動向と関係あるからなぁ。

 

とにかく、年表が出来たので、細かい話を色々していくことにする。

 

まず、先の年表は、基本的に『地中海世界史』という本と、岩波文庫の『アレクサンドロス大王東征記 付インド誌』を元に書いている。

 

 

 

 

 

まぁこれらの本は岩明先生が読んでいるらしいと分かっている(参考)し、アレクサンドロス大王のことについて語るに際して、これらの本は外して考える事なんて普通しないからまぁそれは良いと思う。

 

先に書いた年表中の細かい話についても、それぞれ出典はつけたかったのだけれども、そうするとどうしても冗長になるという事情から、全て省いて書いている。

 

ちなみに、どっちの本も僕は読んでません…。(伏目)

 

純粋に…『ヒストリエ』は好きでも古代ギリシアにもアレクサンドロス大王にも興味が無いんだよなぁ…。

 

ただ、所々拾うようには読んでいて、フィリッポスの動向については『地中海世界史』の7巻と8巻に言及があってそこは読んでいるし、アレクサンドロス大王の動向については『アレクサンドロス大王東征記』の目次に、丁寧に何巻は何年から何年の間の出来事だとかそういうことが書かれていたので、それを読んで年表としてまとめつつ、情報が足りない場合は本文を読むという形を取っている。

 

加えて、例えばテーバイが破壊されて滅亡した年次とかは具体的に何年の出来事かとかは手元の本では判然としなかったから、Wikipediaのテーバイの記事を確認して、年代を確定させるというようなことをやっている。

 

実際に全文を読んで書いたわけではないという事情があるから、不正確な情報があるかもしれないけれど、この記事の論旨は、『ヒストリエ』の完結がもう無理だということを示すことにあるので、まぁその目的からは離れることはないとは思う。

 

個人的にこういう年表についての補足説明についての話は、本当は年表の前に置きたかった。

 

それなのにここにあるのはまぁ、年表読みたくてこの記事を開いた人はとっとと年表を読みたいだろうので、そういう話は後回しにすることにしたからになる。

 

ともかく、年表全体の話が終わったので、頭から順々に年表の記述について細かい話をして行くことにする。

 

まず、紀元前359年にフィリッポス2世がマケドニア王国の摂政となったと僕は書いた。

 

本来的にフィリッポスの兄がマケドニア王で、けれども戦場で普通に死んだから、その子供がマケドニア王国を継承している。

 

ただ、まだ幼いから摂政が付けられて、その摂政がフィリッポス二世になる。

 

こういうことは世界中で見られて、古代中国でも周王朝を打ち立てた武王は子がまだ幼いうちに死んでしまって、武王の弟である周公旦が摂政になって武王の子である成王を補佐していて、その話は『史記』や『皇門』にある。

 

『春秋左氏伝』には魯の隠公の話があって、彼は庶子の生まれで正嫡がまだ幼かったから摂政として国を切り盛りしているし、豊臣秀吉だって血の繋がりはないとはいえ、織田家の跡取りに対して元々はそういう立場の人だし、徳川家康にしてもその辺りは豊臣家に対して同じになる。

 

けれども、こういう場合は秀吉がそうであったように、家康がそうであったように、王位や主権は奪われるもののようで、フィリッポスはマケドニアの王位を奪ったらしい。

 

とはいえ、『地中海世界史』ではあくまで国が戦争で逼迫して民衆に推されて王となったと書かれている。(ポンペイウス・トグロス 『地中海世界史』 合阪学訳 京都大学学術出版会 1998年 p.144)

 

ちなみに、本来の王であるアミュンタスはアレクサンドロスの王位継承の時点では生きていて、ただ本来の王位は彼の元にあるはずだから、アレクが王位を継いだ後にクーデターを起こしている。

 

その話がまとまった形で言及されているテキストには未だに出会えていない。

 

ただ、断片的にその話がされていることは知っていて、他の事件の際に少し触れる形でその話があって、『アレクサンドロス大王伝』にアミュンタスの反乱についての言及がある。

 

場面はピロタスに叛意があると聞いた大王が、ピロタスを弾劾しているところで、ここでいうピロタスはフィロータスの事です。

 

「何となれば、デュムノスは陰謀の他の参加者の名前を挙げながら、ピロタスだけは名指しさせなかった。それは彼が無実の証拠というわけではなく、彼の権勢の証拠なのだ。密告人当人でさえ、自分たちの陰謀を暴いておきながら、奴の名前だけは隠そうとするほどに奴を恐れているのだ。しかしピロタスがどんな男か奴の人生が証明している。アミュンタスはわたしのいとこで、マケドニアで私の命を狙う忌まわしい陰謀をたくらんだが、こやつはその相棒、共謀者に加わった。アッタロスほど危険な敵はいなかったが、そのアッタロスにこいつは姉妹を嫁がせた。(クルティウス・ルフス 『アレクサンドロス大王伝』 谷栄一郎他訳 京都大学学術出版会 2003年 p.226)」

 

 

ここにいとこのアミュンタスが命を狙う陰謀を企てたとある。

 

アミュンタスの反乱について詳しく書かれたテキストが存在しているかは分からないとはいえ、どうやら、アレクはその反乱の後に、彼を殺しているらしい。

 

その話は『地中海世界史』にある。

 

「(酔った勢いで自分の乳母の兄弟であるクレイトスを殺したアレクサンドロスであったが)そこで彼は、彼の軍隊の中で、また打ち負かした諸民族の許で、自分にどれだけ多くの悪評と嫉みを、そして他の友人たちの許でどれだけ多くの恐れと憎しみを作ったかを反省し、さらに、彼の宴会をいかに苦々しく悲しいものにしたか、武装して戦列にいる時より以上に、宴会において自分がいかに恐れられたかを反省した。ある時はパルメニオンとピロタスが、 ある時は従兄弟のアミュンタスが、ある時は継母や殺された兄弟たちが、またある時はアッタロス、エウリュロコス、パウサニアス、そして他のマケドニアの殺された貴族たちが彼の眼前に現われた。このことの故に、彼は、全軍隊の懇願で決心を覆すまで四日間の断食した。(ポンエイウス・ トログス 『地中海世界史』 合阪学訳 京都大学学術出版会 1998年 p.198)」」

 

ここに従兄弟のアミュンタスをアレクが殺した話がある。

 

まぁ殺したんでしょうね…。

 

ついでにパルメニオンとピロタス(フィロータス)を殺した話もあって、まぁ年表にもそれは書いたし、予定としては以下でその話もするつもりです。

 

ちなみに、先の年表でアミュンタスの話が無いのは、歴史的に割とどうでも良いし、『ヒストリエ』でそれを描くとも思えないから省いたという理由からになる。

 

流石にその辺りは端折られると思う。

 

次に、『ヒストリエ』ではエウメネスが拾われたフィリッポスのカルディア遠征の話なのだけれども、どうやらこれは、史料を読む限り『ヒストリエ』とは真逆に、マケドニアはカルディアの援軍として出兵したらしい。

 

その辺りの経緯は、デモステネスの『弁論集』に収録されている、「ケルソネス情勢ついて」という弁論で言及されている。

 

 

この本…僕が住んでいる自治体の図書館にはなかったから、この記事を書くために近所の図書館に行って手続して取り寄せてもらってまでして読んでるんだよなぁ…。

 

この本に収録された「ケルソネス情勢について」には、フィリッポスがカルディアのあるケルソネスに出兵した時の話がされている。

 

色々…細かい話はあるのだけれど、ケルソネスにアテネ人が入植して、その入植に際し援助を現地民に頼んだところ、慣例では援助はしてもらえるところが、マケドニア寄りのカルディアはアテネ人の要求を拒絶して、それにキレた入植グループのリーダーが現地で傭兵を雇って暴れまわって、それを受けて、カルディア市がマケドニアに助けを求めた、というのがフィリッポスのカルディア遠征の経緯になる。

 

デモステネスは暴れまわる入植者のリーダーを別人に変えれば問題は解決するかもしれないけれど、それよりもケルソネスという重要な地域がマケドニアのものになるという事態が恐ろしいと訴えて、入植者たちを支援すべきだと弁論を繰り広げていた。

 

『ヒストリエ』の場合は、フィリッポスは普通にカルディア市に攻め込んでいて、その辺りは史実と差異がある。

 

(岩明均『ヒストリエ』1巻 pp.52-53 以下は簡略な表記とする)

 

フィリッポスのカルディア遠征の経緯を知ってから、僕は『ヒストリエ』の描写との差異の理由を色々と考えたのだけれど、その中で二つ、何故そうなったかについての可能性を思いついた。

 

まずは、エウメネスをスキタイ人にしたように、ヘファイスティオンを大王の第二の人格としたように、大胆な歴史アレンジとして、フィリッポスのカルディア遠征の目的が変更されたという可能性がある。


もう一つは、『ヒストリエ』の物語の構想をしている段階で、岩明先生がフィリッポスの出兵の理由を知らなくて、カルディア遠征を攻撃のための遠征と誤解したという可能性になる。

 

これは僕の推論なのだけれど、カイロネイアの戦いの前にフィリッポスがカルディアに遠征に向かって、そこを影響下に置くことで、アテネの穀物輸入路を遮断することに成功して、それが故にアテネは弱まったとかそういった記述がされた本があって、それを岩明先生が読んで、『ヒストリエ』の1巻から5巻の物語をその情報を元に作り上げたのではないかと思う。

 

僕がカルディア遠征の目的を明確に知れたのはデモステネスの「ケルソネス情勢ついて」をクソ真面目に解説まで含めて読んで始めて出来たことで、マケドニアの歴史をさらっと説明するにはフィリッポスのカルディア出兵の理由はさほど重要ではない。

 

だから、そこの辺りをさらっと説明した本があって、そのような本に『ヒストリエ』の描写の理由があるのではないかと思う。

 

エウメネスがスキタイ人なのは原作との兼ね合いで必然性があると思うし、ヘファイスティオンについても、現在では不明でも、やはり何らかあのような設定にした理由はあると思う。

 

ただ、カルディア遠征を『ヒストリエ』のようにした必然性はあまりない。

 

本来的に援軍に行った都市を攻囲するという話に変更する意味が良く分からないというか、そのような変更を行う際の動機がイマイチ良く分からない。

 

普通にフィリッポスがカルディアに援軍として出兵したと知っていたら、その状況に沿って物語を構築するはずになる。

 

けれども『ヒストリエ』ではカルディアは攻撃対象になっていて、どういう事情があったら『ヒストリエ』のようになるのかを考えた時に、やはりフィリッポスがカルディアに兵を出して、ケルソネスを制圧したと簡単に説明をした本があって、その言及にあの描写の元があるのかなと個人的に思っている。

 

実際の所どういう理由でああなっているのかは分からないとはいえ、僕が『ヒストリエ』でカルディアが攻められているのは今挙げたどちらかの理由、大胆な史実変更か、出兵の理由を作者が知らなかったからのどちらかが理由にはなると思う。

 

さて。

 

ここまででフィリッポス存命中の時代で僕が書きたい話が終わった。

 

以降はアレクの東征についてになる。

 

まず、即位後に大王はトリバロイ人と戦っていて、その話は『アレクサンドロス大王東征記』に言及がある。(フラウィオス・アッリアノス『アレクサンドロス東征記 付インド誌 上』 大牟田章訳 岩波文庫 2001年 pp.36-54)

 

この箇所に彼らの装備は裸同然だったという記述があるから、『ヒストリエ』のトリバロイ人があんな感じなのはこの本の記述からなのかもしれない。

 

(7巻p.153)

 

この戦役自体はペルシア侵攻に向けて、後顧の憂いを断つためのものであったらしい。

 

ただ、それを好機と見たアテネなどの諸都市はマケドニアに反乱を起こすということをしていて、アレクサンドロスは踵を返してそれの鎮圧に向かって、特にテーバイに関しては、鎮圧に際して徹底的に破壊されたと書かれている。(同上p.64)

 

このような話に関してはまぁ、ナレーションで済ませられる内容だからそうやって済ましてしまえばどうにかなる一方で、この話よりもっとどうでも良いフィリッポス対スキタイの話が描かれているので、この話がパスされるかは分からない。

 

次の前334年には遠征が始まるけれど、僕は『アレクサンドロス大王東征記』を読んでいないので、詳しい推移は把握していない。

 

ただ、その後にあるグラニコス川の戦いは流石に飛ばせないと思っていて、何故かと言うと、ペルシアとの最初の大規模な合戦になるし、あれ程に存在感を出して登場したメムノンの数少ない活躍シーンで、飛ばすとあの人何だったの、となってしまう可能性もあって、東方遠征を描く限り、飛ばすことは出来ないと思う。

 

メムノンの率いた艦隊との戦いも活躍の場面としてはあるとはいえ、アレクサンドロスは陸路で侵攻を続けているので、その中にある僅かな陸戦と、アレク本隊と交戦のない海戦での活躍だけだとすると、やっぱりあの人何だったの、となってしまう以上、グラニコス川の戦いは描く以外ないと思う。

 

グラニコス川の戦いは立場的に力を思う存分発揮することが出来なかったとしても、何らか有能さとか頭がキレるところは表現できるはずで、実際メムノンが提唱した焦土作戦を行っていたらマケドニアは史実のように進軍を続けられなかったはずになる。

 

グラニコス川の戦いで何らかメムノンの有能さを示したその後に、海で死ぬまで無双をするという描写をしなければ、メムノンとは一体何だったのかという話になってしまうのであって、グラニコス川の戦いは飛ばせないと思う。

 

続くイッソスの戦いに関してはおそらくこれは飛ばせない戦いで、アレクサンドロス大王とペルシア王ダレイオスの直接対決であって、メインイベントになる。

 

更にはヘファイスティオンがアレクサンドロスと間違えられたのもこの戦いの後で、わざわざヘファイスティオンをあのように描いた以上、ここについては何かしらの想定はあると思う。

 

またこの戦いの後にダマスカスで捕虜になったバルシネがアレクサンドロスに見初められていて、彼女は『ヒストリエ』で重要な立ち位置にあるから、そこにも尺を取らなければならない。

 

前332年のエジプト無血開城とかその間に間にある…いや、グラニコス川の戦いとイッソスの戦いの間にも沢山戦闘はあるのだけれど、まぁそういった話は飛ばしようがあるので、飛ばしてしまうことは出来ると思う。

 

ただ、ペルシア滅亡の決定的な要因となったガウガメラの戦いは飛ばせないと思う。

 

この三つの戦いは世界史の教科書に載っていることもあるようなレベルで、ペルシアとの戦争を描くに際して、最初の大規模の戦いのグラニコス川の戦い、ペルシア王との直接対決であるイッソスの戦い、ダレイオスとの最後の大規模な会戦であるガウガメラの戦いは、東征を描く以上、避けられないのではないかと僕は思う。

 

そして、ペルシアを滅ぼしつつインドに至るまでの諸事についてはまぁ、やっぱり飛ばそうと思えばガンガン飛ばせるけれども、前330年のフィロータス粛清はおそらく飛ばせない。

 

そもそも、フィロータスの役割的に作品に登場させないことも可能な人物で、けれども彼が登場しているのは、原作である『英雄伝』のアレクサンドロス伝で割としっかり彼について書かれているからという理由と、そもそも彼の動向はエウメネスと関係があるからと僕は考えている。

 

フィロータスの務めていたヘタイロイの騎兵隊の地位は彼の死後にヘファイスティオンに渡されている。

 

そして、ペルディッカスはヘファイスティオンの死後にその地位に上っていて、空席になったペルディッカスが率いていた騎兵隊の指揮官の地位は、人事異動でエウメネスのものになっている。

 

フィロータスが出てきているのはその辺りの描写をするためと考えて不備は個人的に見つけられない。

 

そうでもなければ出す必然性もない人物で、アレクサンドロスの部下には例えばエリギュイオスとかラオメドンとか、ペイトンとかフィロクセノス、クレイトスやリュシマコスと言った、『ヒストリエ』に登場しないけれど活躍した人物は沢山いる。

 

その中でフィロータスが登場する理由を考えたなら、まぁそういうことという理解が一番分かりやすいかなと思う。

 

そして、フィロータスが率いていた軍をヘファイスティオンが率いるわけで、『ヒストリエ』のヘファイスティオンが軍を率いるなんて、どうすれば良いのか僕には分からない。

 

そのような歴史上の記述と『ヒストリエ』では状況が違う箇所があって、この辺りについての構想もある筈になる。

 

ちなみに、『ヒストリエ』でちょいちょい登場したり名前が出てきたりするポリュダマスは、フィロータスの悶着の時にその存在が確認出来る。

 

(5巻p.162)

 

逆にここにしか言及がないような人物で、彼が『ヒストリエ』で度々言及されているのは、フィロータスの件のためなのではないかと僕は考えていて、フィロータスが登場しているのは『ヒストリエ』でその辺りを描くつもりがあったからそうなっているのだろうと僕は思っている。


ポリュダマス…他の言及だとパルメニオンの使者としてアレクサンドロスに指示を仰ぎに行ったってくらいしか記述ないんだよなぁ。(同上『アレクサンドロス大王伝』p.125)

 

むしろフィロータスの件をやるつもりがないとすると、何故出てきているのか分からないレベルの人物になる。

 

結局、パルメニオンは『ヒストリエ』において非常に存在感がある存在で、史料では基本的にアレクサンドロスにフィロータスと一緒に粛清されていて、あの存在感があるパルメニオンの処理として、音沙汰もなくフェードアウトさせたらあの爺さんどうなったのって話になってよろしくないし、尺を取らないで退場させるには史料の記述を改変して引退とか病死とかにしなければならない。

 

そういう描写を行うとすると、その地位をフィロータスが引き継ぐ話も必要で、そんな描写で尺を取るより、フィロータスが大王に粛清されたと描けばいいだけの話で、まぁなんつーか、諸々の事から当初の予定ではフィロータスとパルメニオンの最後は描く予定だったのだろうと思う。

 

時系列的にはフィロータスの死の後にインド遠征があるわけだけれども、エウメネスは地球の裏側を見たいと『ヒストリエ』作中で描いた以上、インド遠征をやらない理由はない。

 

(5巻p.104)

 

このインド遠征でエウメネスは騎兵隊を率いていて、これは僕が把握している限り、エウメネスが初めて兵を率いた場面になる。

 

「アレクサンドロスは仕来りどおりに戦死者埋葬の礼をとり行うと、書記官のエウメネスに騎兵およそ三百騎をゆだね、サンガラ人とあい呼応して蜂起した。(アッリアノス 『アレクサンドロス大王東征記 付インド誌 下』 大牟田章訳 岩波文庫 2001年 p.72)」

 

『ヒストリエ』の1巻の袖には、エウメネスが書記官から武官になったことについての記述がある。

 

(1巻袖より)

 

こんな言及をしておいて、インドでのエウメネスの初陣を描かない理由がないわけで、どうやってもインド遠征は飛ばせない話だと思う。

 

こんなことを書いておいて、文官から武官になったインド遠征はやる予定はありませんじゃ詐欺でしかない。

 

だから、インドでの一連の話は予定表的には描くつもりであったと思う。

 

そして、インド遠征は結局、アレクサンドロス以外のみんなが終わらない戦いに嫌気がさして、士気がだだ下がりで継戦不能になってスサに帰るという流れになっている。

 

その帰るか帰らないかの話の中で、コイノスが出てくる。

 

(8巻p.179)

 

コイノスは将兵の気持ちを代弁するような内容をアレクに言って、歯に布着せぬ内容だったからアレクは激怒したけれども、それを聞いた周りはざわめいて、その内容に涙する者もあったと書かれている。

 

軽く読んだ限り、コイノスの陳情は遠征中止の決定打となった感じになっていて、まぁ『ヒストリエ』でコイノスが出てくるのは、将来的にこの場面でコイノスを出すつもりがあったからで、出すときに「誰?」とならないための顔出しだと思う。

 

そして軍を返したアレクサンドロスは、スサで合同結婚式を行っている。

 

アレクサンドロスはどうやら、ギリシアとペルシアの融和を企図していたらしく、マケドニアの将軍とペルシア人貴族の娘との婚姻させることを選んでいる。

 

ここでエウメネスがバルシネの妹を娶ることによって、エウメネスはアレクと親戚になるし、『ヒストリエ』12巻収録分でよろしくやっていたネアルコスとも親戚関係になる。

 

また、プトレマイオスもバルシネの姉妹を娶っていて、『ヒストリエ』で彼が登場しているのは、まぁ将来的にエウメネスと親戚になるからだと思う。

 

(5巻p.117)

 

「 アレクサンドロスはまたこのスサで、自分自身と側近のヘタイロイたちのために結婚の式を挙げた。

(中略)

 側近護衛官のプトレマイオスと王の書記官エウメネスにはアルタバゾスの娘たち、アルタカマとアルトニスがそれぞれあたえられ、そしてネアルコスにはバルシネとメントルの〔あいだに生まれた〕娘、またセレウコスにはバクトリア人スピタメネスの娘があたえられることになった。(アッリアノス 『アレクサンドロス大王東征記 付インド誌 下』 大牟田章訳 岩波文庫 2001年 p.165)」

 

この結婚式ではヘファイスティオンもダレイオスの娘を娶っているのだけれども、彼はこの年の冬に死んでいる。

 

『ヒストリエ』ベースで考えるとヘファイスティオンがアレクサンドロスを残して死ぬことはあり得ないわけで、更に死の直前にエウメネスとヘファイスティオンは諍いを起こしている。

 

「 それから叉何か贈物の事でエウメネースはヘーファイスティオーンと争になり、ひどい言葉をやりとりしたが、その時は無事に済んだ。しかしその後間もなくヘーファイスティオーンが死ぬと、大王は非常に悲しんで、この人が生きている間この人に対して嫉妬を懐き死んでから大喜びをした思われるすべての人々を峻厳に扱って仮借しなかったが、特にエウメネースには嫌疑を掛けて、その時の口論と誹謗を度々持出した。しかしエウメネースは狡猾で口の上手な人であったから、身を滅ぼす種をうまく使って無事に通した。つまりヘーファイスティオーンに対するアレクサンドロスの体面と好意につけこんで、故人を最も立派に見せさうな名誉を算え立て、その墳墓の造営に惜気もなく進んで金を差し出した。(プルタルコス 『プルターク英雄伝』 8巻 河野 与一訳 岩波文庫 1955年 p.42 旧字体は新字体へ)」

 

ヘファイスティオンの設定を王の第二の人格とした以上、その死についても何らか想定があるはずだし、このエウメネスとのやり取りにも仕込みがある筈で、それを描かないという選択肢はないと思う。

 

ただ、僕は岩明先生ではないので、どういう予定なのかは全く分からないし、『ヒストリエ』は現状、どうやってもこの場面に辿り着かないので、もう岩明先生から話を聞いた人以外の地球上の全ての人にとって、このことは謎として終わることになると思う。

 

そしてその次の年に大王が、脳炎と思しき熱病に侵されて急死して、その後会議して土地の分配が決まって初めて、エウメネスというディアドコイの活躍の始まりになる。

 

…どうやっても無理なんだよなぁ。

 

一応、『ヒストリエ』は20年くらい連載していて、月刊誌で20年連載するとなると、大体一年に2冊くらい出るのだから、本来的な刊行巻数は40冊くらいになる。

 

40冊も出てたら結構進めたわけで、この記事に書いた分くらいは行けたのではないかと思う。

 

描き始めた頃の岩明先生は、色々行けると思っていたのだろうとおぼろげに思う。

 

現実は岩明先生が体を壊して、休載が目立つようになって、更には加齢で執筆速度はどんどん落ちて行っていて、『ヒストリエ』は現状11巻しか出ていないし、現在の作者の年齢は62歳。

 

更には一人で描いていてアシスタントも居ないわけで、これから先は作業能率がどんどん落ちることが見込まれて、色々と、ただひたすら無理なんだろうと僕は思う。

 

…。

 

8巻の内容を描いていた頃の話で、その時点で大体4割進んでいたというそれがあるのだけれど、あれは何なんですかね…?

 

「 代表作「寄生獣」で強烈なインパクトを与えた持ち味の残酷描写は、今作でも顔を出す。最新7巻の、生首を大蛇がのみこむシーンは圧巻だ。少年時代のアレクサンドロス大王も二重人格という大胆な設定で登場し、物語は「だいたい4割ぐらい進んだ」という段階だ。(参考)」

 

記事にはこういう言及があって、これが新聞に載ったのは2012年4月23日の話で、この年は8巻の内容を描いていた頃になる。

 

他のインタビューでアレクの死後も描くつもりだと明言している以上、8巻の時点で4割ということはないと僕は思っていて、良く分からないとしか言いようがない。

 

…先の引用文はあくまで記者が書いた部分で、記者が勝手に言っているだけとか、インタビューの中の言葉の綾を記者が誤って汲み取ったとか…そんな感じなんですかね?

 

それとも岩明先生の中で4割くらいなのは事実で、この記事に書いた内容をとんでもなく飛ばして描いて、ディアドコイ戦争に移るつもりだったのだろうか。

 

記事で書いた通り、飛ばせない話が多すぎるから、ビザンティオン攻囲戦の辺りで4割というのは何かの間違いではないかと思うのだけれど。

 

そんな感じの『ヒストリエ』の年表とその補足について。

 

…書く前の段階から、今回も5時間はかかるだろうなと思っていて、書き終えてみて、果たして5時間半は作業に時間を取られている。

 

最終的に修正や点検をした時間を含めれば、7時間くらいこの記事とイチャイチャしてるんだよなぁ…。

 

ここ数年、漫画の解説記事を書くのが辛くて堪らないので、少し、一つの記事に使う労力については考えないといけないかもしれない。

 

でも某鬱漫画の解説をやり始めたあの当初から、こういった作業がおびただしい苦痛であることは別に何も変ってないんだよなぁ。

 

しかも漫画の解説書いても見返りは一切ないし…。

 

まぁ色々仕方ないね。

 

では。

 

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