ドゥ・ヴァ―ルの猿 | 胙豆

胙豆

傲慢さに屠られ、その肉を空虚に捧げられる。

日記を更新する。

 

今回は人間の善性について。

 

僕は古代世界のテキストを読んでいて、時たま言及のある奴隷やそのような地位にある人物、そしてそのようなものを作り出す社会について、思う所があった。

 

僕は、奴隷に関して人権に関する思想が敷衍する前の段階で、それが存在していない社会の事を未だ確認出来ていない。

 

おそらく、縄文時代とて奴隷が居ただろうというのは以前言及した通りであって(参考)、あの記事では奴隷とそれを作り上げる階級社会はある程度プリミティブというかなんというか、生まれついての形質の部分もあるだろうという話をした。

 

あの記事を書いてから、今この瞬間までその考えを変えるような何かは僕に起きていなくて、未だに、奴隷や階級社会というものは人間がある程度、それを構築する脳の構造を持って生まれてくると僕は考えている。

 

人間の振る舞いにはそれをそうと思わせるようなそれがある。

 

僕はその事について、ある程度は生来的な形質としてそれを行っていると考えている。

 

それに関しては、人類学者のフランス・ドゥ・ヴァ―ルの著作を読んでいて、それをそうだと思う所があった。

 

彼は人間の倫理観の起源についての著作をいくつか書いていて、その中で僕は『道徳性の起源』という本を読んだことがある。

 

その中で、人間の公平性の起源に関する記述があって、それは類人猿の頃からきっとあっただろうという話がされている。

 

それに際して、サルさえ不平等には強い怒りを抱くという記述がある。

 

「 この(自身の不平等を不快に思うような)傾向がどれほど古いものかは、サラ・ブロスナンと行なった実験でオマキザルにもそれを見出したときにはっきりした。この実験はたいへんな人気を博することになった。実験では、同じ課題に対して、一頭のサルにはキュウリをひと切れ与え、別のサルにはブドウをひと粒与えた。サルたちは、どれほどの価値の報酬であっても、同じものを受け取っているうちは問題なく課題を行なったが、報酬に差がつくと断固拒んだので、サルたちがどう感じているかには疑いの余地がなかった。私は講演するときよく、サルたちの反応を収めたビデオクリップを見せる。すると聴衆は抱腹絶倒する。これは意外なことを認識した証だと私は解釈している。彼らはそれを見て初めて、自分の情動とサルの情動とがこれほど似ていることを悟るのだ。キュウリをもらったサルはひと切れ目を満足そうにムシャムシャ食べるが、相棒がブドウをもらっているのに気づくと、癇癪を起こす。それからは、味気ないキュウリを投げ捨て、ひどく興奮して実験用の檻を揺すり始めるので、檻が今にも壊れてしまいそうなほどだった。この行動の根底にある動機は、人間が高い失業率や低い賃金に抗議して路上でデモを行なう場合とあまり変わらない。ウォール街占拠運動はけっきょく、ブドウが転がり込んでくる人たちもいるのに、そうでない人たちはキュウリばかりで生活しなくてはならないから起こったのだ。(フランス・ドゥ・ヴァ―ル 『道徳性の起源』 柴田祐之訳 紀尾井書店 2014年 p.292 冒頭()は引用者補足)」

 

 

人間の不平等への怒りの起源を考えるに際して、不平等に晒されたなら人間と同じようにサルさえに怒りを覚える以上、そのような道徳的な判断に関しては起源が古いという記述になる。

 

確か哲学のおっさんのバートランド・ラッセルも、不幸は他者との比較にあると『幸福論』辺りで語っていた気もするし、まぁ人間もサルも、理不尽な不平等には怒りの情念を抱くらしい。

 

そして、サルが怒り暴れる有様について、先の引用では抱腹絶倒するような内容であると書かれている。

 

そこの辺りに関しては、キュウリを貰ったサルが隣でブドウ貰ってるサルを見てふざけんじゃねぇぞって感じで普通にキレ始めて、その情景を想像するだけで普通に面白いけれども、実際の動画を見れば本当に面白い映像になっている。

 

アメブロの仕様上、TEDの動画はページ内に表示させることが出来なくて、ただ「フランス・ドゥ・ヴァ―ル」で動画をググれば日本語字幕付きのその動画が検出されて、12:30辺りからその映像が見られるから、気になる人は見ても良いかもしれない。

 

…いや、動画全部が普通に面白いから、頭から見た方が良いと思うけれども。(参考)

 

ドゥ・ヴァ―ルは道徳性の起源について、サルの振る舞いから何某かの判断を導き出したわけだけれども、僕はあの怒り出したサルを見て、他の多くの人と同じようにあのサルを笑いながら、もっと違う事柄について気付くところがあった。

 

僕は不平等を目の前にして激怒して、滑稽に怒り狂うサルを見てふと思った。

 

どうして僕はこれが面白いのだろう、と。

 

あの場面を人間の芸人が同じように演じたところで、きっと面白いだろうというようなそれで、僕はそれを何故面白いと思えるのかについて疑問に思った。

 

あれはサルが憤っているから面白いのではなくて、きっと人間がコントで同じようなシチュエーションを作っても面白いような場面で、どうしてそこに笑いが生じるのだろうかと僕は考えた。

 

人間のありとあらゆる形質は、基本的にその事がある程度生存に有利だから存在している。

 

もちろん、全ての形質がそうであるということはないし、ただ単に、人間に備わっている形質は致死的ではないからあるだけというか、生物というのは合理性とはかけ離れていて、何か目的のために生物の形質があるわけではないということは分かっている。

 

けれども、人間の手が何かを掴むことを得意とするように、人間の声帯が言語によるコミュニケーションを可能としているように、発汗という作用が体温調節に何らか寄与しているように、人間の形質というものはある程度、進化論的な観点で有利性があるという場合が多い。

 

当然、僕があのサルたちの滑稽な姿を見て笑ったことにもある程度の有利性があるだろうと僕は考えて、この場面で笑うことで、どうして生存に何か与えるものがあるのだろうかと考えた。

 

そう考える中で、僕はいじめや虐待という人間の振る舞いについて、やはりそれは原初的なものなのだろうと改めて思って、ついさっきまで笑っていたというのに、それに気付いた時には口角がただ引き攣るだけだった。

 

結局、僕やあのサルを見て笑った全ての人たちは、サルが意地悪をされて、それについて憤っている姿を笑っているわけであって、僕はそのような場面が、原初的な人間社会で発生していたのだろうと考える。

 

つまり、群れの中で一等低い階級に居る個体を馬鹿にして虐めて辱めて、その事によって快を得るということを人間は形質として持っていて、その形質があるからこそサルを虐めている場面を見て僕はあの日笑ったし、あの動画を見た多くの人は、それを理由に笑ったのだろうと僕は思う。

 

じゃあ、どうしてその時に笑うのだろう。

 

結局、ある形質がある種の生物に獲得されるような場合は、そのような形質を持った個体が、持っていない個体を駆逐した場合以外ではありえない。

 

つまりは、意地悪をされて憤慨するような個体を笑うという形質が人間にあるとしたら、その形質を持った個体が、その形質を持たない個体に対して、生存競争で何らか有利であって、その形質を持たない個体は駆逐されたと考えるしかない。

 

要するに、あのような場面で笑うような人間は、その事で何らか有利性を獲得しているはずになる。

 

そして、人間がそのような形質を得たその初めに、迫害されて笑われたのは、どのような人だろう。

 

嘲りの中で笑われるのは、ただ虐められて群れで迫害されているだけの人もいるだろうと思う。

 

ただ、それだけではなくて、集団同士の闘争で、戦争捕虜として獲得されて、命を奪わなかったような個体もきっとあっただろうと僕はと思う。

 

人間はこのような個体を前にした時に、彼らに与せずに彼らをいたぶる立場に立って、それを笑ったような個体が進化論的に成功して、今の僕らがあって、それが故に僕らはあのサルを笑えるのだろうと僕は思った。

 

少なくともフランス・ドゥ・ヴァ―ルはあのサルの振る舞いを抱腹絶倒と形容したし、ドゥ・ヴァ―ルに紹介される形であのサルを見た会場の人々は笑っていたし、僕としてもあのサルを見て普通に笑っている。

 

けれども、どうしてあれが面白いのかを考えたときには、その根には加害的な、嗜虐的な喜びしか見出せない。

 

あの場面に道徳的な清廉さなどありはしなくて、ただ理不尽に晒されて、強い怒りを表わすサルがあっただけになる。

 

僕はそのような人間の形質を邪悪だとかそういう風に指弾したいがためにそういう話をしているわけではない。

 

ただ単に、そういう形質を持っていると言っているだけで、僕は善悪の価値判断はそこに置いていないし、僕らの先祖はそのように振舞って、逆にそのように振舞わなかった個体は、生存競争で敗北したのだろうとただ思う。

 

多くの人は認めたがらないところだろうけれども、いじめというのは楽しいから行われているのであって、相手が殴り返してこないような場合は、あのサルがそうであったように、意地悪をして相手に不平等を強いて、その事で憤る姿を見るということは笑えるようなことになる。

 

結局、あのサルを見て笑うということは、いじめをして快の情念を得る事と全く事情は同じであって、僕は遠く離れた異国の人たちと同じようにあのサルについて笑えたということは、本当に古い段階でそのようないじめを快とする形質は獲得されたのだろうと思う。

 

実際の所、どれ程前に彼らと僕らは祖先を同じにしていたのかは分からないけれども、聞いたところによると、アジア人と西欧人は七万年前にイラク辺りを出発して、それぞれの地域で生殖を続けて、今に至っているという話らしい。

 

つまりは、その時には既にいじめはあったし、おそらく、他の集団と戦闘して、その際に得られた捕虜を殺さずに置いておくということもしていたのだと思う。

 

捕虜は使い道が沢山あって、人質交換にも使えるし、一人相手陣営の人員を確保出来れば、その生命が些細なことで危機に晒される以上、その人物が大切なような場合は、無茶をすることは普通しない。

 

人間の身体的特徴や、特異な喋り方を真似して、それによって笑いを取るということは人間に良く見られる振る舞いで、変な喋り方の人の真似をして、仲間内でそれを笑うということは、普通に生きていたら誰しもが出くわす場面だと僕は思う。

 

鼻が低いことや目が細い事、肌の色が黒い事、出っ歯である事。

 

それらの事はただそれだけでは何らマイナスではないことも多くて、けれども、人は時にそのような人種的な特徴をあげつらって誇張して、馬鹿にしてそれを笑うということを実際する。

 

僕はこの場面でも、どうしてその事が笑えるのだろうかと考える。

 

どうしてこの場面では、笑った方が笑わないより良いのだろうかと考える。

 

きっと、それは出自が戦争捕虜にあるような個体を虐めるに際して、少数派の彼らに対して、それを虐める大きな集団側に与する時に有利な振る舞いで、それが故にその事を面白く思えるのだろうと僕は思う。

 

自分たちの集団はおそらく大体均等な容姿をしていて、一方で戦争捕虜たる彼らは、身体的な特徴を異にしていることもあったと思う。

 

僕は、日本人を真似て目を細めるように指で目尻を引っ張ることや、西洋人の鼻を誇張してつけてみる事、黒人のように肌を黒く塗りたくること、そのようなことについての笑いの起源は、元は集団に居なかった誰かの加虐にあるのではないかと思う。

 

全ての場合がそういう理由で笑っているわけではないのかもしれない。

 

ただ、そういう理由で、悪意を以って相手を真似するということは相手を侮蔑する一つのあり方だということは確かだと思う。

 

時に人間は少し変な喋り方の人の真似をして笑いを取るということもあるけれど、集団の中で、一般的な人と言葉遣いが違う人はどういう人だろう。

 

それはきっと、知能に問題があるような個体や、元は違う集団に居たから、言語が違って、それが故に言葉遣いが変である個体になると思う。

 

田舎から出て来た人物がその訛りを揶揄されるというのは聞くことのある話題であって、少なくともその事について笑っている人は居るということは確かだと思う。

 

そして、何故その時に笑いが起きるかを考えた時に、僕はかつて、今から数万、数十万、数百万年も前の時点で起きた、そのような集団内でのやり取り、言葉が少し違うような個体を集団で虐めるに際して、集団側に回るという結果に至るような、その特異な個体を虐げる側にまわるための振る舞いに、そのような笑いの起源があると考えている。

 

全ての場合がそうではないのかもしれないけれど、そうであるという場合もきっとあると思う。

 

人間の本性が道徳の教科書にあるように洗練潔白であったならば、そもそも戦争も虐待も虐めも犯罪も起きないのであって、人間は形質として嗜虐性や暴力性を元から持っていると考えた方が良い。

 

それが良いとか悪いとかではなくて、ただそういう形質を持って生まれていると判断した方が妥当だからそうと言っているだけで、世界中で争いや戦争がなかった地域は、どんなに古代の時点で書かれたテキストを読んでいても見つけられない。

 

有徳であろう仏教徒でも争いは多くあって、原始仏典でもジャイナ教などの全裸の集団を罵倒する記述はあるし、異教徒であるサンジャヤ・ベーラッティプッタの教説を嘲るように語ったり、それだけでなく原始仏教教団内でも対立はあって、デーヴァダッタという人物が教団を分裂させたという話は、原始仏典の『イティヴッタカ』にも言及があるし、大乗の宗派の人々が、小乗の人々を糾弾する経典もある。

 

人々の御者にして欲望の勝者たる釈尊の弟子たちでさえそうであるのだから、それ以外の人々も争うだろうし、諍いのない集団などというものはこの世界の何処にもきっとない。

 

古代中国の文王や武王は有徳の人物で、聖人君子という言葉は本来彼らのためにあるそれで、天は彼らに命を与えて天下を統治させたという話だけれども、彼らは武力によって他国を征服したと『史記』には言及がある。

 

「かくて西伯(周の文王)はひそかに善行を施したので、諸侯は争い事があると、みな西伯に訴えて曲直を決した。虞・芮二国の国人に訴訟があり、是非が決しなかった。西伯に訴えるために周にいったところ、周の国境に入ると、田を耕す者はみな畔を譲り合い、民の風習はみな長者に譲り合っていた。虞・芮の人は、まだ西伯に会わないのに自ら恥じ、たがいに、「われわれのあらそうところは、周人の恥とするところである。どうして訴えにゆくことができよう。ゆけば、ただ恥をかくだけである」と言い、ついに帰って共に譲り合った。

 諸侯はこれを聞いて、「西伯こそ受命の君である」と言った。翌年、西伯は犬戎を伐ち、その翌年密須を伐ち、そのまた翌年、耆国を破った。(司馬遷 『世界文学大系 5A 史記』小竹文夫他訳 筑摩書房 1962年 p.22 冒頭()は引用者補足)

 

あくまでこういう逸話があるだけで、実際にここに書かれている出来事が古代中国であったと判断することは出来ない。

 

これを書いた司馬遷は紀元前二世紀から紀元前一世紀を生きた人で、先の出来事は紀元前十世紀くらいの話で、司馬遷の時代から1000年も前の話になる。

 

ただ、この『史記』には諸国での戦争の様子が大量に記述されていて、古代中国で人が争ったというのは確かな話だし、古代中国のまさしく聖人君子であった文王は武力で他国を侵略しているという設定になっていて、聖人君子と言えども人間であるということには変わりはない。

 

インドに目を戻しても、仏陀も寝ている弟子をビンタで起こそうとした出来事がテキストに残されている。

 

「カッパタよ。わたしがそなたの耳朶を打つことのないように、そなたはうとうと眠りなさるな。カッタパよ。そなたは集い(サンガ)の人々のなかでうとうと眠っていたので、けじめを知らなかった。(中村元訳『仏弟子の告白 (テーラガーター)』岩波文庫 1982年 p.61)」

 

 

他には聖人君子たる仏陀が弟子を口汚く罵る経典もある。

 

「愚か者め、それは不適当なことで、誠に不愉快なことだ。僧として相応わしらしからぬことであり、沙門(仏弟子)としてありうべかざることであり、非合法なことであり、してはならぬことである。どうして、そなたは、愚か者め、このような素晴らしい教えと掟とに従って出家しておきながら、完全無欠で清浄無垢な修行を一生涯のあいだ行うことができなかったのか。(岩本裕訳 『仏教聖典選〈第一巻〉初期経典』 読売新聞社 1974年 pp.126-127 ()は引用者補足)」

 

 

まぁカッパタクラ長老をビンタしようとした話は、実際、本当に仏教の始祖ゴータマがそういうことをした話だと個人的に思っている一方で、後者の口汚く罵る方は、普通に仏陀に仮託して後世の仏弟子が勝手に書いたものだと思う。

 

ともかく、聖人で、欲望から離れて正しく見て、正しく思考する仏陀やその弟子たちは、ビンタしたり、人の事を口汚く罵ることもある人々であるというのは確かだと思う。

 

聖人君子たる彼らがそうなのだから、多くの人間もきっとそうであるだろうと僕は考えている。

 

そのような形質を持った生物が人間であって、その根底は清廉潔白ということはありえなくて、身内にない個体に加害を行ったり、仲間内であっても諍いを起こす存在であると僕は認識している。

 

そのような生得的な形質を持った人間の内で、不平等を強いて、その事によって強く憤る個体に笑いの情念を抱くという形質を多くの場合の人間が持っているということがあるのだから、その嘲りの笑いは、道徳的な正しさに基づいているものではないだろうと僕は思う。

 

きっと、何万年、何十万年前の"僕ら"は、集団内に居る"劣った誰か"を笑っていたのだろうと思う。

 

現状だと、僕はそうではないという答えを導き出せそうにない。

 

そんな感じの日記。

 

…本来的には古代世界の奴隷についての話を書くつもりで書きだして、その冒頭にする、人間の本性というか、生来的な形質としての他虐性の話が非常に長くなってしまったので、その事についてで一つの記事にすることにした。

 

このドゥ・ヴァ―ルのサルに見る人間の他虐性については、数年前から書く予定にあったことで、ただめんどくさいから色々後回しにしていた話になる。

 

そうと言えどもその話は脳内にはあったので、奴隷についての話の導入としてその話をするつもりが、存外に分量があったために、このザマになっている。

 

ただ、結局の所、全ての生物の形質には目的があるわけではない。

 

ただ単に、そのような形質を持った個体が生殖に成功したという出来事の繰り返しであって、生物の持つ形質には、人間が想定するような、〇〇のためにあるといった使い道などというものがあるわけではない。

 

そうと言えども、ドゥ・ヴァ―ルのサルについてあの日の僕が笑ったのはおそらく先に書いた理由だろうし、僕以外の人が笑うのもそのようなことが理由だろうので、そうと書いた。

 

性悪説としてそう書いているつもりはなくて、そもそも僕は古代世界の様々なテキストを読んでいて、普遍的な善の概念を見つけられなかったから、人間が生来善であると語ろうにも、善であるという状態が定義できない以上、人間の本性が善であるとは語れない。

 

善の判断は集団ごとに大きく異なっていて、聡明なる君主が行った徳のある振る舞いとして、異国の楽器を奏でた人物を処刑するというそれを記述している古代中国の出土文献を僕は以前読んだことがある。

 

ただ一方で、悪にしたところで、普遍的な悪も見つけられなかったから、善悪は今を生きる僕らが杓子定規で勝手に決めつけているだけに過ぎないと考えていて、僕はこの記事に書いた内容に関して、性悪説とも性善説とも判断していない。

 

ライオンがシマウマを食べるという出来事に善悪が無いように、人間の生まれついての形質に関しても、そのような形質を持って生まれてくる以上の何かは想定していない。

 

ただそうであるだろうから、そうであるだろうと書いているだけになる。

 

…。

 

どう…なんですかね…。

 

まぁとにかく、記事を上げて、その後に色々考えましょうね。

 

では。