『ヒストリエ』の王宮日誌および「エウメネス私書録」について | 胙豆

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表題通りのことを書いていくことにする。

 

今回は『ヒストリエ』に登場する王宮日誌と「エウメネス私書録」について。

 

前回の『ヒストリエ』の解説の最後に、ペルシア人貴族ゾピュロスの話を紙幅の問題で出来なかった話は書いたけれど、今回は『ヒストリエ』作中の王宮日誌とエウメネス私書録の話をメインでやって行ってその余ったスペースでゾピュロスさんについての話をする脳内予定表が出来上がっている。

 

だから、王宮日誌とかの話で紙幅が埋まるかもしれなくて、果たしてゾピュロスさんの話に移れるかは未知数で、出来上がった文字数と相談して省いたり省かなかったりしていく方針でやって行くことにする。

 

それと当然の権利のように以下では『ヒストリエ』の今後の展開のネタバレがあるので、よろしくお願いします。

 

さて。

 

『ヒストリエ』の作中では主人公であるエウメネスは、王宮日誌を担当して、そこにエウメネス自身が書いた何らかの文章が存在しているという設定で描写されている。

 

(岩明均『ヒストリエ』6巻p.54 以下は簡略な表記とする)

 

このようにエウメネスはマケドニアの王宮日誌に携わる仕事を命じられている様子があるし、それに加えて、エウメネスの個人的な文章として、「エウメネス私書録」という文章が作中に登場する。

 

(同上pp.55-56)

 

このように『ヒストリエ』という物語は、エウメネス本人が書いた何らかの書物を材料にしているという設定で物語が編まれていて、この「エウメネス私書録」はエウメネスの回顧録として、物語のかなり序盤から登場している。

 

(1巻p.119)

 

(2巻p.154-156)

 

基本的にエウメネスの独白はこの「エウメネス私書録」という本に載っている文章という体裁になっていて、奴隷になった過去も、ボアの村での日々も、マケドニアでの暮らしも、この本に書いているという想定になっていると判断して良いと思う。

 

今回は、この「エウメネス私書録」と、王宮日誌についてで、『ヒストリエ』においてどうしてそのようなものが登場するのかという話ですね。

 

まず、「エウメネス私書録」についてなのだけれども、このような名前の文章はこの世界に存在していなくて、この本は『ヒストリエ』の創作になる。

 

そもそも、『ヒストリエ』の原作であるプルタルコスの『英雄伝』では、エウメネスの前半生について殆ど情報がなくて、著者のプルタルコスは把握していないし、この世界にエウメネスという人物が東方遠征の最後の方の時期に至るまで、彼がどのようなに生きて、何をしていたかを記しているテキストは存在していない。

 

実際、その辺りはプルタルコスの「エウメネス伝」の冒頭を読めば分かる内容で、さらっと若い頃に触れた後に、もうすぐに『ヒストリエ』の物語のずっと後の時代にまで言及が飛んでいる。

 

「 カルディアーの人エウメネースは、ドューリスによると、ケルソネーソスにいて貧乏のために馬車の馭者をしていた人の子であったが、読書きや体育於いては自由人として教育された。まだ子供だった頃、フィリッポスがその町に滞在して暇なときに、カルディアーの少年の拳闘や相撲の競技を見たが、中でもエウメネースがうまくやって知恵と勇気を示したのがフィリッポスに気に入られて召し抱えられた。しかしそれよりももっともらしいと思われるのは、エウメネースが父の代からフィリッポスと親しい友人の関係にあったために取り上げられたという説である。フィリッポスの死後、アレクサンドロスの側近の間で知恵に於いても信義に於いても仲間に負けないものと見られて書記官長に任ぜられたが、王の非常に親しい友人たちと同じような尊敬を受けていたので、将軍として、自分の軍隊を率いてインドに派遣され、ペルディッカースがヘーファイスティオーンの死後その後任に昇進した時、ペルディッカースの占めていた騎兵隊長の位置を授けられた。そのために盾兵の隊長ネオプトレモスがアレクサンドロスの死後、自分は盾と槍を持って、エウメーネスは筆と書きもの板を持って大王に従って行ったと述べた時に、マケドニアの人々が嘲笑したのは、エウメーネスがいろいろの名誉を持っていた他に親戚関係からも大王に引立てられたのを知っていたからである。それにはアレクサンドロスがアジアで最初に知った女、アルタバゾスの娘バルシネーに息子のヘーラクレースを生ませたが、この女の姉妹のうちアパメーをプトレマイオスに与え、バルシネーをエウメーネスに与えたのである。この時には尚他のペルシャの女たちを分けて自分の友人に娶らせた。(プルタルコス 『プルターク英雄伝 8巻』 河野 与一訳 岩波文庫 1955年 pp.40-41 注釈省略 旧字体は新字体へ)」

 

 

このようにプルタルコスの『英雄伝』ではエウメネスの前半生は不明瞭で、その事は他の史料でも同じで、ネポスの『英雄伝』でも同じになる。

 

「 エウメネスはごく若いころ、アミュンタスの息子ピリップスに気に入られ、やがてこの王〔ピリップス二世〕になにかと目をかけてもらうようになった。青春時代からすでにその卓抜な才能は輝いていたのである。それゆえピリップスは彼を書記官としてそばに置くことにしたが、これはギリシアではローマにおけるよりはるかに栄誉ある地位である。すなわち、わが国で書記官は雇われ人と考えられているし事実そのとおりであるが、ギリシアでは逆に、家柄がよく忠誠心と熱意が認められなければこの職に就くことは必然的に国家の重要機密のすべてを知ることになるからである。エウメネスは七年間ピリップスの下で側近の地位を占めたが、ピリップスが暗殺されると、同じ職をアレクサンデルのもとで十三年勤めた。この期間の後半には、ヘタエリケ〔親衛隊〕と呼ばれる二つの騎兵隊の一方を指揮した。エウメネスはたえずこれらの二人の王に献策し、国政全般に参与していた。(ネポス『叢書アレクサンドリア図書館 三巻 英雄伝』 国文社 1995年 pp.117-118)」

 

 

ネポスの方の『英雄伝』でピリップスとかアレクサンデルとかになっているのは、著者のネポスがローマ人で、ラテン語で書いたからそれを元に翻訳した結果として表記の揺れがあるみたいです。

 

エウメネスの前半生について触れている史料は大体この二つだけで、岩明先生がこの二つを読んでいるだろうという話は、「『ヒストリエ』の原作について」の記事(参考)と、「『ヒストリエ』の参考文献について」の記事(参考)で、ねっとりと何故これらの本を岩明先生が読んでいると言及できるのかを説明しているので、今回はその話には触れない。

 

『ヒストリエ』のエウメネスは非常に裕福な家庭で幼少期を過ごしていて、プルタルコスでは貧乏な御者か、フィリッポスの友人の子か、程度の言及しかないし、他の史料での言及になると、『ギリシア奇談集』でアイリアノスはエウメネスは貧しい笛吹きの息子であると言及している。

 

「エウメネスの父は弔いの折に笛を吹くのを業とする貧しい男であったと信じられている。(アイリアノス 『ギリシア奇談集』 松平千秋他訳 岩波書店 1986年 p.340)」

 

一方でネポスではきわめて高貴な家に生まれたと言及がある。

 

「カルディアの人エウメネス。かりにその武勇にふさわしい幸運が授けられていれば、いっそう偉大になったとはいわないまでも――偉大な人物を評価するのはその武勇によってであり、幸運によってではないからである――いっそう多くの名声を博し、尊敬を集めたことだろう。というのも、エウメネスの生きた時代はたまたまマケドニア人が勢力をふるった時代であり、この国民のあいだで暮すには、外国人であることが非常に不利に働いたのであった。エウメネスにとり、〔マケドニアの〕高貴な血統だけはどうしても手に入れることのできないものであった。エウメネスは母国ではきわめて高貴な家柄の出身であったのに、マケドニア人はたまに彼が自分たち以上に評価されることがあると不愉快に思ったのである。しかしながらエウメネスの心配りや注意力、忍耐心や器用さ、頭の回転の速さは他の追随を許さなかったため、マケドニア人は事態を甘受するしかなかった。(同上ネポスp.117 下線部引用者)」

 

これはネポスの『英雄伝』のエウメネス伝の冒頭で、他の史料では特に優れた家柄の出であったとは言及されていないエウメネスが、ネポスでは確かに高貴な出自であったと言及されていて、岩明先生はこの本を読んでいるらしいという事情を鑑みると、エウメネスが『ヒストリエ』でカルディア一番の名士の家で育てられたというのは、このネポスの『英雄伝』由来であるという理解で良いのではないかと思う。

 

そういう風にエウメネスの前半生について書かれた史料はあるにはあるけれども、フィリッポスとアレクサンドロスの下で働いて、当時から辣腕を揮っていたところ以外は基本的に不明瞭で、「エウメネス私書録」の言及のように、しっかり彼について分かっているということはない。

 

だから、「エウメネス私書録」というのは『ヒストリエ』のオリジナルだろうし、「エウメネス私書録」のように彼の幼少期の詳細な話が書かれた文章があったならば、プルタルコスもネポスもそれを用いる筈で、けれども、二人の文章には僅かながらの情報しかないところを見ると、そのような史料は当時から存在していなかったという理解で良いと思う。

 

そうといえども、それはそれとして、エウメネスが書いた記録というものはかつて実際に存在していたということは分かっている。

 

おそらく、『ヒストリエ』の「エウメネス私書録」というのは、その文章に書かれていた内容という設定なのだと思う。

 

その話は、アイリアノスの『ギリシア奇談集』にある。

 

二十三 アレクサンドロス大王のこと 

 アレクサンドロスがグラニコス河畔やイッソスで収めた勝利、またアルベラ付近の戦いダレイオス三世の打倒、ペルシア人のマケドニアへの隷属化など、これらはいずれも見事な功業であった。残る全アジアを征服し、インド人を従わしめたこと、さらにテュロスの攻略やオクシュドラカイ族の国での奮戦およびその他の活躍も見事な偉業であった。 彼のかくも赫々たる武勇談の数々を今さら短い言葉に要約する必要があろうか。その大部分はアレクサンドロスを愛した「幸運の女神」の手柄だ、と反論するつむじ曲りがいればそう言わせておけばよい。「幸運の女神」に負けもせず、女神の好意を無にすることもなかったアレクサンドロスは、やはり偉人であったのである。

 しかし、アレクサンドロスの次のようなこととなると、もはや立派とは言えない。伝えられるところでは、彼はディオス月の五日にメディア人の邸で痛飲し、六日は二日酔い寝たきりで、翌日の行軍について指揮官たちに問われ、体を起こして「朝早くだ」と指図した以外は、まるで死んだら同然であった。七日にはペルディッカスの饗応を受けてまた呑み、八日は寝こんでいた。同じ月の一五日にも呑んで、翌日は大酒の後のお定まりの仕儀であった。二七日にはバゴアスのあとで食事をして(バゴアスの私宅は王の館から一○スタディオン離れていた)、二人目は酔い臥していた。

こうなると、一ヵ月の中のこれほどの日数を、実際アレクサンドロスが酒でわが身を害していたか、あるいはこの話を記録した者たちが嘘をついているか、そのどちらかである。これから推して考えられるのは、記録者たちは――カルデアのエウメネスもその一人であるが――別の時期についても同様の虚偽を語っている、ということである。(アイリアノス 『ギリシア奇談集』 松平千秋他訳 岩波書店 1986年 pp.125-126)

 

 

この文章自体は、アレクは偉大な軍人ではあったけれど、いくらなんでも酒癖が悪すぎるから、立派と言い切って良い人物ではなかったよというだけの話になる。

 

なんつーかアレクとか、『地中海世界史』だと酔っぱらって自分の乳母の兄弟であるクレイトスが「お父様も立派でしたよ」と言った程度の理由でブチ切れて、酒の勢いのままに殺して、酔いが覚めた後に死ぬほど後悔して自殺未遂するほどの酒乱だからな。

 

多分、クレイトスを殺害した時とかまだ20代とかなんだよなぁ。(追記:27歳前後の時の話みたいです)

 

まぁ、『アレクサンドロス大王伝』って本だと、普通にクレイトスとは諍いがあったからって話になってるらしいけど。

 

ともかく、アイリアノスはアレクが酒乱だったという話をしていて、その話の最後に、エウメネスが書いた何らかの記録についての話がされている。

 

話の流れとしては、アレクは酒の飲み過ぎでダウンして、行軍もままならなかった日もあったと書いている記録者が居る一方で、そのような二日酔いの話を書いていない記録者もいて、そのどちらかが嘘の情報を記載しているのだろうという話になっていて、アイリアノスはエウメネスを後者の"真面目な"記録を書いた人物として認識していた様子がある。

 

この文章から分かることは、エウメネスが書いた文章というものがアイリアノスの生きた時代に存在していて、それはアレクサンドロス大王に関する何らかの記録で、おそらくアイリアノスはそのエウメネスの文章を読んでいて、それ故にそのような話をしているのだろうということになる。

 

アイリアノスが生きたのは175年頃から235年頃だそうで、少なくともエウメネスの死から500年くらいはエウメネスの書いた文章は複写され続けていたということになると思う。

 

だから、「エウメネス私書録」の内容は『ヒストリエ』の創作に過ぎないけれど、「エウメネス私書録」"のようなもの"はかつて世界に実在していて、『ヒストリエ』では既に失われたその本に、作中で見られるエウメネスの独白が書かれているという想定なのだと思う。

 

エウメネスが書いたものがどんな表題で、どのような内容のものであったかは、今僕が持っている史料からだと分からないところが多いけれども、アイリアノスの言及を考えると、おそらくは東方遠征についてなどの大王の動向について書かれていたようなもので、『アレクサンドロス大王東征記』の一次資料版のようなものも含まれていたのではないかと思う。

 

 

この『アレクサンドロス大王東征記』という本はアレクサンドロス大王の東征について書かれた本で、東征の開始の少し前からアレクサンドロスの死までが書かれている。

 

ただ、アイリアノスの言及だと、もしかしたらエウメネスが書いた記録は、東方遠征より前の時期についての記録もあったのかもしれない。

 

アイリアノスは、

「これから推して考えられるのは、記録者たちは――カルデアのエウメネスもその一人であるが――別の時期についても同様の虚偽を語っている、ということである。(同上)」

と語っている。

 

先の飲み過ぎの例はメディア人の邸宅とかパゴアスさん家で飲んだとか書いてあるけれど、メディアは中東の都市の名前で、パゴアスはアケメネス朝ペルシャの大臣の名前になる。

 

だから、アイリアノスの話はペルシアをある程度占領した後のそれで、エウメネスを含めた他の記録者は、「別の時期についても同様の虚偽を語っている(同上)」と言っている以上、エウメネスの文章には他の時期の話があったはずになる。

 

その時期という話がどれ程の範囲の話かは分からないけれども、東方遠征全体の話をしているのかもしれないし、アイリアノスが言っている「他の時期」というのが東方遠征より前の話で、東方遠征以前の記録も、エウメネスの著作にはあったのかもしれない。

 

ただ、岩明先生が先のアイリアノスの『ギリシア奇談集』を読んでいるかは定かではないし、この記事で言及しているところの、マケドニアの書記官であったディアドコイ、エウメネスが書いたアレクに関する史料についての情報を得ていたかは分からない。

 

普通に書記官という立場なのだから、先のアイリアノスの話の一切を無視しても、エウメネスが記録を書いていたという事柄は確実なのであって、そこから、「エウメネス私書録」というものも残していたという設定を思いついただけの可能性はある。(追記あり)

 

そうと言えども、エウメネスが王の書記官として何かを書いたということを作品の中で生かそうと岩明先生が考えているらしいということは前々から分かっている。

 

『ヒストリエ』でエウメネスが王宮日誌を担当することになっているけれど、その理由については、僕の中で大体の見当がついている。

 

『ヒストリエ』の原作がプルタルコスの『英雄伝』で、この本のエウメネス伝が『ヒストリエ』の骨子骨格であるということは良いのだけれど、そのエウメネス伝以外にも『英雄伝』ではエウメネスくらいの時代についての言及がある列伝がいくつかあって、普通にアレクサンドロス大王の列伝もあって、そのアレクサンドロス伝の方も『ヒストリエ』の材料に使われている様子がある。

 

まぁ、そのアレクサンドロス伝にはアレクがアリストテレスの医学に感銘を受けた話とか、ブーケファラスを13タラントンで買った話とか書いてありますし。

 

そして、そのアレクサンドロス伝の最後の方に、アレクが熱を出して死ぬくだりがある。

 

その大王の最後の話について、著者のプルタルコスはどうやらマケドニアの公式な日記を参考にしていた様子が彼の言及から汲み取れる。

 

要するに、現存はしていないけれど、マケドニアの"王宮日誌"は存在していたらしい。

 

以下ではアレクサンドロス大王の死の場面をプルタルコスの『英雄伝』から引用するので、そういうのはお呼びじゃないという方はブラウザバックしてください。

 

七五 さてアレクサンドロスはこの頃、神々の示す前兆には敏感になっていたので直ぐに興奮し非常な恐怖を懐き、少しでも見慣れない不思議な事があるとそれを神の示した前兆と考え、王宮では絶えず犠牲を献げ浄めを行い予言を聴き、それがアレクサンドロスの心を莫迦げた恐怖で充たしていた。こういうわけであるから、神々の示しを信ぜずそれらを無視するのは恐ろしい事であるが、しかしまた迷信も恐ろしい事で、ちょうど水が常に低い所へ流れるように…(引用者注:原文に混乱があり、訳出されていない)。それにも拘わらずヘーファイスティオーンについて神から託宣を受けたので、アレクサンドロスは悲しみを棄てて再び犠牲を献げ飲酒に耽った。ネアルコスたちを花々しく饗応してから、いつも通り寝る前に沐浴したが、メーディオスが懇願したので、その家にある宴会に出掛けた。ところがその晩と次の日ずつと飲んでいるうちに熱が出始めた。ヘーラクレースの盃を飲み乾したわけでもなく背中を槍で刺されたような痛みを突然感じたわけでもない。(引用者注:何か特別な事件があったという話ではなく、何処にでもいる凡夫と同じように熱を出し始めたということ) こういう話は偉大な事業の後に悲劇的な感動させる結末として書く人が捏造したものに相違ないと考えられていた。アリストブーロスは、アレクサンドロスが気違いじみた熱を出して激しく咽頭が乾き葡萄酒を飲みそれから謔言(引用者注:うわごと)が始まってダイシオスの月の三十日に命を終えたと云っている。

七六 しかし公の日記にはこの病気についてこう書いてある。ダイシオスの月の一八日には発熱のため浴室で眠った。次の日入浴してから寝室に移されて、メーディオスを相手に賽の遊びで日を暮らした。それから晩(おそ)くなって入浴を済ませ、神々にも犠牲を献げ、浴室に横はってネアルコスたちと過ごし、航海や大海の話を聴いた。二十日も同じように犠牲を献げて、旨そうに物を食べたが、夜通し熱があった。二十一日も同じようにしていたが、体が一層燃えてその晩は寝苦しく、次の日は一日中、熱が高かった。そこで寝室を移して大きな浴槽の傍に横はり、諸将軍と欠員になっている地位について話し、適任と認めるものをそこに置くようにさせた。二十四日にも熱がひどかったが、運ばれて行って犠牲の式を行った。高位の諸将軍には広間で時を過ごさせ、百人隊長たちと五百人隊長たちには外で徹夜させた。二十五日には川の向こうの王宮に運ばれて少しまどろんだが、熱は下がらなかった。諸将軍が来たときは言葉も出さず二十六日も同様であった。そこでマケドニア兵は大王が死んだのだと思い、戸口まで来て叫びたて、側近の人々を威嚇して無理に入り込むと云った。そこで戸を開いて一人づつ下衣だけで入れたので、列を作って寝床の傍を通った。この日ピュートーンとセレウコスとがセラーペイオン(引用者注:エジプトの神が祀られた神殿)に遣されていたが、アレクサンドロスをそこへ連れてこようかと伺い立てると、神は今いるところにそのまま置けと答えた。二十八日の夕方死んだ。

七七 以上の事の大部分は文字通りこういう風に日記に書いてある。毒殺の疑はその時直ぐには誰も抱かなかったが、六年後密告があって、オリュンピアスが大勢の人を殺した時、その前に死んでいたイオラースの遺骸を暴いて、このものが毒を盛ったと云ったそうである。又、アリストテレースはこの企ててアンティパトロスの相談役になり、孰れにしてもアリストテレースの取計らいで毒薬が運ばれたという人々は、ハグノテミスというものが王のアンティゴノスから聴いたと話していたのを伝えている。(プルタルコス 『プルターク英雄伝 9巻』 河野与一訳 岩波文庫 1956年 pp.140-141 注釈省略 旧字体は新字体へ 下線部引用者)」

 

 

長々と引用したけれど、細かい話はさておき、アレクサンドロスの最後に関してはマケドニアの公の日記に書いてあるということが分かる。

 

『ヒストリエ』ではエウメネスが"王宮日誌"を書いているわけだけれども、ここで言う王宮日誌はどう考えても先のプルタルコスが言及している"公の日記"の事で、おそらく、物語の想定としてはエウメネスが大王の最後を記録するし、その最後の瞬間を看取るという予定なのだと思う。

 

…これに関しては、他の可能性がないんじゃないかな、って。(追記あり)

 

岩明先生の脳内予定表的にはディアドコイ戦争までやるつもりであって、そうであるならばアレクの死は必然的に描かれるはずで、そのアレクの死について、エウメネスが書記官として、王宮日誌に記録するという形でその最後を描く予定なのだと思う。

 

現段階の『ヒストリエ』だと、エウメネスが王宮日誌を担当している話は浮いていて、なんでそんな仕事をしているのか、そんなことをわざわざ作中で描く必要があるのかというレベルの話だけれども、プルタルコスの言及するところのアレクサンドロス大王の最後の話を読む限り、その情報源はマケドニアの公の日記であるところを考えると、そういう話なのではないかと思う。

 

まぁ…個人的にそこまで『ヒストリエ』が至るとは思えないけれども。

 

前回の『ヒストリエ』、隔月連載で二ヵ月に一回しか載らないのに、その掲載分で物語が多く見積もっても十数秒しか進んでいなかった。

 

まだアレクサンドロスが王位を継承したわけでもないのにそのペースで、もう色々無理なんだろうなぁ…と思う。

 

一応、当初の予定だとおそらく、エウメネスが王の死を日誌に書くという話が想定としてあっただろうとは僕も思うけれども、エウメネスが王宮日誌の担当になった回がアフタヌーンに載ったのは2009年の話であって、2022年現在、岩明先生が未だにそこまで描くつもりでいるのかは定かではない。

 

という、『ヒストリエ』の王宮日誌と「エウメネス私書録」について。

 

…。

 

やっぱりペルシア人貴族ゾピュロスの話には至らなかったよ…。

 

多分なぁ、ボアの村でのエウメネスの策略の半分くらいは彼が元ネタだと思うんだよなぁ。

 

まぁいいや。

 

では。

 

・追記

後に知ったのだけれども、件のアレクサンドロス大王の王宮日誌はそもそもとして、エウメネスが管理したものである知見が存在しているらしい。

 

エフェメリデス Ephēmerides

マケドニア王アレクサンドロス3世 (大王)の『日誌』。大王個人の日誌の形をとったが,書記長エウメネス (カルディアの人) が管理した公的記録で,政治・軍事面も記録され,アレクサンドロス史家も利用した。(参考)」

 

ただ、現存はしていないのはそうだし、日本語でエフェメリデスで検索してもロクに情報を得られなかったし、英語で「The Ephemerides of Alexander the Great」と入れて検索しても、英語の論文なら複数検出されたとはいえ、何かの会員にならなければダウンロード出来ない仕様で、一ページ目しか見れなかったから良く分からなかった。

 

ただ、その論文の一ページ目に、エウメネスとディオドトスがこの日誌を書いたと言及があって、何かそういう説明をしている史料があるのだと思う。

 

というか、ディオドトスさん、実在の人物だったのか…。

 

(同上)

 

Wikipediaの『ヒストリエ』の記事だと彼の名前のところに*マークがなくて非実在の人物扱いだったのにねー。

 

岩明先生はエウメネスと共に王宮日誌を書いたディオドトスという人物を知っているのだから、完全に王宮日誌に関する知識を持っていて、その辺りについては資料に基づいて書かれているという話になってくると思う。

 

僕は先に言及した経緯でエウメネスとディオドトスが王宮日誌に本当に携わっていたらしいと知ったけれど、そういうのってどういう情報源に書いてあるんですかね…?

 

エウメネスが何らかそういう資料の監督をしていたという話は『プルターク英雄伝』にもあって、その話は第二節でされている。

 

「アレクサンドロスは外の海(インド洋)に船を出してネアルコスを派遣しようとしていたが、王の庫に金がないので友人から金を求めた。エウメネースは三百タラントン求められていたのに、百タラントン出しただけで、しかもそれは苦心してやっと執事の手で集めさせたのだと云ったが、アレクサンドロスは非難もせずその金も受け取らず、密かに奴隷に命じてエウメネースのテントに火をつけさせ、財産を運び出すところでエウメネースの嘘を突き止めようとした。しかしテントが焼けてしまわないうちにアレクサンドロスは記録が亡びるのを後悔した。それでも火事のために熔けた金銀は一千タラントンあることがわかった。しかしアレクサンドロスはそれを受け取らず、亡びた記録の写しを送るように到る処の太守や将軍たちに手紙で言い附け、それを全部を保管するようにエウメネースに命じた。(同上 『プルターク英雄伝 8巻』 pp.42-43 ネアルコスに関する注釈は省略)」

 

この文章自体はこの記事を作る前の段階だと引用するつもりだったのだけれども、話の流れ的に引用する場面がなかったというか、別にエウメネスが書いた文章の話も日誌の話もここにはないから、この記事では引用しなかった。

 

結局、この記述ではエウメネスが王宮日誌に関わっていたかどうかは不明で、一方で岩明先生はエウメネスが王宮日誌に携わっていたと完全に知っていたわけであって、なんらか、そういう事柄についての言及がある資料が存在していて、岩明先生は読んでいるのだと思う。

 

・追記2

先に追記で言及した内容が判明してから色々調べたのだけれど、岩波文庫の『アレクサンドロス大王東征記』には、エウメネスとディオドトスが王宮日誌に携わったという話が注釈でされているということが分かった。

 

「 (王宮日誌について)従来の通説はこれを、王の官房で逐日記録された公用の日誌、書記官エウメネスが下僚ディオドトスとともに整理保管した宮廷文書とする。「原本」のまとまった断片として伝存するのは、王の没前十一日間の病床日誌の部分だけで、アッリアノスの本文箇所とプルタルコスの『アレクサンドロス伝』(七六・一ー九)」とが、文体措辞を異にしながらいずれも、原本ないしその真正なコピーに依拠したことを付言する。しかしその信憑性は伝承経路の問題また記事内容の検討に即して、これを疑問視する見方も少なくない。王宮内で作成された何らかの記録に、意図的に改竄が加えられて伝わった、たぶん一種の「変造文書」ともいうべきものであろう。(アッリアノス 『アレクサンドロス大王東征記 下』 大牟田章訳 岩波文庫 2001年 pp.383-384 冒頭()は引用者補足)」

 

岩明先生はおそらく、この『アレクサンドロス大王東征記』を読んでいるから、この文章も『ヒストリエ』の描写に繋がっているだろうということはそれでいいのだけれど、ここではディオドトスがエリュトライ出身だとまでは書いていない。

 

一方で、『ヒストリエ』ではしっかりエリュトライ出身だと言及がある。

 

(同上)

 

実際、王宮日誌に携わったのはエリュトライのディオドトスという人物らしくて、僕は「diodotus of Erythrae(エリュトライのディオドトス)」でググって、彼が王宮日誌を書いたって何に書いてあるのだろうと思って調べたら、英訳の『アレクサンドロス大王東征記』の注釈にエウメネスとディオドトスが王宮日誌を書いたという話がされている箇所を見つけて、もしかしてと思ってお手元の『アレクサンドロス大王東征記』を確かめた結果、先の引用文を見つけたというのが今回の経緯になる。

 

けれども、岩波文庫のその注釈にはエリュトライ出身だという話はないので、『ヒストリエ』の先の描写は違うソースに基づいているという話になって、そうであるならば違う情報源が存在しているとしか判断できないわけで、岩明先生がどのような資料で彼がエリュトライ出身だと知ったのかは判然としない。

 

そして、エリュトライのディオドトスとカルディアのエウメネスが王宮日誌に携わったという情報の初出もまた、調べても良く分からなかった。

 

論文とか注釈とか、序文とか解説とかそういうところで、専門家が王宮日誌をその二人が書いたという説明をしている文章なら検出されるのだけれども、なんという史料にその話があるのかは判然としない。

 

エウメネスは書記官というところからの連想で誰かが適当言っている可能性はあるけれど、エリュトライのディオドトスなんて王宮日誌の話題でしか出てこないので、そういう説明をしている史料はあるとは思うのだけれども。

 

・追記3

王宮日誌をカルディアのエウメネスとエリュトライのディオドトスが書いたと言及がある史料がアテナイオスの『食卓の賢人たち』だということが分かった。

 

 

英語で色々調べてたら、この本の十巻にカルディアのエウメネスとエリュトライのディオドトスが王宮日誌を書いたという言及を見つけることに成功した。

 

ちなみに、該当箇所をグーグル翻訳に適当に突っ込んだら、その言及はテーベ攻略の後に大王がしこたま酒を飲んで二日間寝込んだという話がカルディアのエウメネスとエリュトライのディオドトスが書いた日誌に書いてあるという話らしくて、この記事で引用したアイリアノスの言及と食い違っていて、もうなにがなんだか分からない。

 

ただ、岩明先生がこの『食卓の賢人たち』を読んでいるとは思えないというのは以前言及した通りで、僕としてもハードカバーで全五巻のこの本をまた検証しようとも思えない。

 

カレスの時にこの本を検証したけれど、マジに苦痛だったからね、仕方ないね。

 

勘案するに、何らかアレクサンドロス大王の事績について書かれた解説書の類に王宮日誌の話題があって、それをカルディアのエウメネスとエリュトライのディオドロスが書いたと言及があるものがあるのだと思う。

 

日本にあるアレクサンドロス大王についての書籍を虱潰しで見ていけば、もしかしたら岩明先生が読んだ資料がまた一つ分かるかもしれないけれども、その記述を見つけたところで、岩明先生がその本を読んでいるという結論は下せないのであって、なんかもう色々どうしようもない。

 

個人的な予想として、『王妃オリュンピアス』を書いた森谷公俊氏のアレクサンドロスに関する書籍にその話があって、岩明先生はそういうルートから情報を得たのではないかと考えている。

 

けれども、森谷教授が書いたアレクサンドロス大王関連の本は7冊くらいあるし、古代ギリシアに関する専門書だし、他の人物の本に由来がある可能性もあって、とても調べる気にはなれなかった。

 

古代ギリシアに関心があればやれるんだろうけど、ねぇ?

 

この記事の論旨は、エウメネスが王の最後を記録するために王宮日誌を書いているのではないかという話だったけれども、事実かどうかはさておいて、エウメネスが王宮日誌を書いていたという話が存在することが分かった以上、作中で彼が王宮日誌に携わることは史実再現として普通な描写になる。

 

だから、エウメネスがアレクの最後を看取るという展望が必ずしも想定できないという話になってきて、けれども、そうと言えども先に書いたそれは打ち捨てるほどに突飛な内容でもないと思うので、記事内容はそのままに留めることにした。

 

というより、頭から読んでいけば普通に問題のない内容だとは思うけれど、この記事の追記で判明した情報に基づいて記事内容を修正して、更に追記の言及にも整合性を持たせる文章の修正案が一切思いつきませんでした…。

 

記事を書き始める前の段階で追記の内容の情報を既に持っていたら、それに合わせて内容を変えられたのだけれど、今回の場合、書き直す以外方法が思いつかなかったし、書き直す体力もない。

 

まぁ『ヒストリエ』の王宮日誌の解説としては、他にこれほど詳しいサイトはないだろうというくらい情報を詰め込んでるから多少はね…。(伏目)

 

とはいえ、そもそも『ヒストリエ』の王宮日誌の解説をまともにしてるページ自体がここ以外にないんだけど。

 

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