『なるたる』と『ブラフマ・スートラ』について | 胙豆

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傲慢さに屠られ、その肉を空虚に捧げられる。

・追記

2022年現在、どうやら「なるたる 哲学」で検索するとこの記事が1ページ目に表示されているらしいということが分かった。

 

けれども、この記事にはその需要を満たせる内容がないので、この記事の最後で捕捉を入れることにした。

 

なので、その内容が知りたい人は、ページの下部の追記の所までスクロールしてください。

 

追記以上。

 

『なるたる』の大本の元ネタが、インドのヒンドゥー教の聖典である『ブラフマ・スートラ』であるという可能性が生じたので、今回はその話を持ってくることにする。

 

以下では『なるたる』を全部読んでいる人を想定して書くし、僕が以前に書いた『なるたる』の解説(参考)を前提として書くので、読んでない人にはチンプンカンプンかもしれない。

 

実際、僕が書いた『なるたる』の解説を予め読んでもらえれば問題はないとは思うのだけれども、ちょっと量的に全部読むのは現実的ではないし、どの記事を読めば以下の内容が分かりやすくなるのかも僕には分からない。

 

なので、僕が以前書いた解説は読まなくて良いと思うけれども、そうとするとこの記事の内容が良く分からない可能性があって、そのような場合は…はい。

 

しょうがないね…。

 

さて。

 

僕はこの前、中村元の『インド思想史』を読んでいた。

 

 

 

読んでいたら、古代インドのヴェーダーンタ学派の『ブラフマ・スートラ』という聖典についての説明の中で、漫画『なるたる』のような話を見つけた。

 

僕はこれが『なるたる』という物語の竜と地球という概念の大本の元ネタなのではないかと考えた。

 

何故そうと考えたかというと…まぁ読んでもらったらわかるかもしれない。

 

とはいえ、専門的な内容なので、読んでも意味が分からない可能性があって、どうせ引用した後に詳しい話は書くから次の引用は読み飛ばしてもらっても構わない。

 

一応、ブラフマンという用語についてだけ説明しておくと、ブラフマンはこの世界の創造神で、この世界の根本原因で、人間の魂はこのブラフマンの一部ということになっている。

 

宗派やテキストによって異同はあるのだけれども、細かいことはまぁ良い。

 

ともかく引用する。

 

「 ヴェーダーンタ学派の根本経典ブラフマ・スートラ(Brahuma-sūtra 別名 Vedānata-sūtra)は四〇〇―四五〇年頃に原型が編纂されたが、それは従来の諸解釈或いは諸説を要約・整理・批判して一つの体系を組織したものであり、その後のヴェーダンタ学派発展の基礎となった。のちインド教語派の開祖たちは皆それぞれ独自の立場から注釈を著している。 プラフマ・スートラによると、上層三階級の人々のみがブラフマンの明知に与る資格がある。人間の思索或いは理論は確固な基礎を有しないものであり、ブラフマンの知識に関してはヴェーダが聖典が根本なのであるが、理論も聖典と並んで正しい知識の根拠となりうる。絶対者はブラフマンであり、諸聖典の説明の文句は種々異なっているが、それらの趣意は いずれもブラフマンを教えることにある。それは最高者とも呼ばれ、人格的存在・純粋の精神的実体・純粋の有であり、常住・過在・無限・不減である。万有の生起と存続と帰滅との起こるもとのものであり、万有の母体である。ブラフマンは世界の質料因であるとともに、世界創造を思念し実行する人格的な行動主体である。現象世界の多様なる様相を成立せしめるためには、創造者は語を思い浮べて活動を起す。世界創造の目的はブラフマンの単なる遊戯にすぎない。現象世界は世界原因と不異である。世界が開展するときには、ブラフマンから虚空が生じ、虚空から風、風から火、火から水、水ら地が生起する。この五元素が現象世界をつくり出す。五元素がブラフマンのうちに帰入するときには、その逆の順序で行われる。世界の創造・存続・帰滅の過程は無限に繰り返される。個我はブラフマンの「部分」であり、それと別異、且つ不異であるが、終始以来の流転輪廻を続けている。

 人生の目的は解脱であるが、それはブラフマンとの合一である。明智を得た個我は死後に神格を進んで、最後にブラフマンに達する。ブラフマンと合一すると、諸の個我は無区別となるが、単に意欲するのみで願望を達する。(中村元 『インド思想史』 岩波書店 1956年 pp.153-155 下線引用者 旧字体は新字体に変更)

 

引用文は以上だけれども、僕がアンダーラインを引いたところが『なるたる』という物語に類似している。

 

ブラフマンは「万物の母体」であるという説明がなされている。

 

一方で『なるたる』ではシイナと涅見子は地球と一体化することによって万物の母となった。

 

そして、そもそも竜という存在は万物の源であって、"万物の始原"という名前の竜の子も存在している。

 

(鬼頭莫宏『なるたる』1巻pp.190-191)

 

そして、「ブラフマンは世界の質料因であるとともに、世界創造を思念し実行する人格的な行動主体」であるという説明がある。

 

『なるたる』において竜という神話的存在は、地球そのものであって、多くの竜は地球の一部だし、地球はその大本であって、その地球は世界創造を実行するし、その世界創造は主人公の意思によって行われる人格的な行動になっている。

 

(同上12巻pp.230-231)

 

世界創造の目的はブラフマンの単なる遊戯にすぎない」とあるけれども、『なるたる』の物語は幸せな家族を得られなかったシイナが、今度は幸せな世界を作るために、地球を使ってお絵描きをする物語になる。

 

(1巻pp18-19)

(12巻pp.231-233)

 

また、『ブラフマ・スートラ』にはそのような万物の根本は、「万有の生起と存続と帰滅との起こるもと」であると言及されている。

 

一方で、『なるたる』の物語では、主人公のシイナは、虚無へと収斂する破壊と混沌へと拡散する想像を目の前に提出されて、破壊の未来を選んだ物語になる。

 

(12巻p.133)

 

そして、『なるたる』という物語は、同じ作者の作品である『ぼくらの』と根底に想定されている世界観というか物理法則が同じなのだけれども、その『ぼくらの』において、世界は火地風水、そして空という要素によって成り立っているとされている。

 

(鬼頭莫宏『ぼくらの』6巻p.182)

 

一方で『ブラフマ・スートラ』では「ブラフマンから虚空が生じ、虚空から風、風から火、火から水、水ら地が生起する」ということになっていて、その五元素が現象世界をつくり出すという話になっている。

 

引用した画像に、自らの尾を飲み込む蛇(ウロボロス)のイラストがあって、そのイラストにラテン語で火だの水だのが書かれているけれども、この意匠は『なるたる』にも登場する。

 

(2巻p.111)

 

そして、この図案はシイナのTシャツにも描かれている。

 

(11巻p.169)

 

簡略化はされているけれども、同じ意匠がシイナの背中に描かれている。

 

次に「個我はブラフマンの「部分」であり、それと別異、且つ不異である」という説明があるけれども、まぁ要するに、個我(魂)はブラフマンの一部で別の概念だけれど、そうと言ってもブラフマンの一部には変わりないから同じものだよと言う説明があって、『なるたる』において、竜は巨大な竜である地球の一部であって、それと根本的な差はない。

 

最後に「明智を得た個我は死後に神格を進んで、最後にブラフマンに達する。ブラフマンと合一すると、諸の個我は無区別となる」とあるけれど、『なるたる』では竜になることによって個がなくなり全体のための一になるという話がある。

 

(5巻p.196)

 

目につく『なるたる』と『ブラフマ・スートラ』の類似性について全て言及したけれども、このように『なるたる』という作品の中には『ブラフマ・スートラ』という、古代インドのヒンドゥー教の聖典の記述と非常に類似している点が多いということが分かる。

 

このことは偶然という可能性もあると言えばあるのだけれども、このことが偶然であると判断するのは道理に適っていないと僕は考える。

 

早い話、『なるたる』のいくらかの描写の大本は、古代インドのヒンドゥー教の聖典である『ブラフマ・スートラ』なのだと思う。

 

じゃあどうして『なるたる』にそのような描写があるのかなのだけれども、それは結局、鬼頭先生が『ブラフマ・スートラ』の情報を本か何かで得て、そのことが『なるたる』に反映されているのだと思う。

 

ここで問題は、果たして鬼頭先生が『ブラフマ・スートラ』を読んだかどうかになる。

 

結論から書くと、読んでいない可能性が非常に高い。

 

何故というと、『ブラフマ・スートラ』はインド哲学の専門家以外には重要ではない本のようで、日本においてその翻訳や解説書は一般人が読むようなものではないからになる。

 

実際、『ブラフマ・スートラ』の日本語訳や解説書は日本に存在しているのだけれども、ちょっと頭のおかしい値段設定になっている。

 

『ブラフマ・スートラ』は日本に二つ翻訳があって、『なるたる』の執筆より前に存在する1980年出版の金倉円照の『シャンカラの哲学 : ブラフマ・スートラ釈論の全訳』は、上下巻で上巻が定価8000円、下巻が定価15000円で発売されたらしい。

 

そんなもの、一般人が買うわけがないし、専門家か図書館以外が買うことはあまり想定できない。

 

一応、1955年に出た中村元による解説書、『ブラフマ・スートラの哲学』は存在していて、出た当時の値段は分からなかったけれど、その新装版は定価15000円で、旧装版の値段を推し量ることが出来る。

 

このようなものを買うという状況が想定しがたいし、この手の本は公立図書館にはそうそう置いてあるものではないし、鬼頭先生の出身大学である名古屋工業大学の図書館を調べても、『ブラフマ・スートラ』の翻訳は置いてなかった。

 

中村の解説書である『ブラフマ・スートラの哲学』は置いてあったけれども、鬼頭先生がそれを読んでいるとは中々に想定しづらい。

 

何故と言えば、鬼頭先生の作品の中に僕が知るインド的なエッセンスは存在していないからになる。

 

最低限インドについて知っていたらそうはならないだろうということを『ぼくらの』などで鬼頭先生はしていて、諸々の描写から鬼頭先生は古代インドに造詣がないと僕は判断している。

 

いやまぁ、知ってたらあんな適当な仏教の話はしないと思う。(参考)

 

じゃあどういうルートで鬼頭先生が『ブラフマ・スートラ』の情報に触れたのかなのだけれども、僕は最初、なんかそういう映画作品とか小説があるのだろうと適当に考えていた。

 

どういうことかと言うと、1800年代くらいのヨーロッパ世界では、インドの本が大量に流入したようで、その頃のドイツの哲学者の主張は基本的に古代インドのバラモン教の聖典とか、原始仏典とか、大乗仏典にその論旨が言及されている。

 

例えばキルケゴールの『死に至る病』の冒頭とか、まんま仏教の"縁起説"の議論が用いられている。

 

だから、その哲学者たちの言説を読んだ作家が、自分の作品の中にそのような要素を混入させて、そういったものが含まれている何らかの作品があって、鬼頭先生はそれに触れた結果、巡り巡って『なるたる』に『ブラフマ・スートラ』の情報が見られるのだろうと思っていた。

 

まぁ実際、例えばゴダールの映画の特に後期の作品には、フランス現代思想の良く分からない言葉遊びのようなものが垣間見られて、そういう風に映画作品に哲学的な要素が使われるということはある。

 

日本の『ザ・ワールド・イズ・マイン』という漫画には、近代哲学の実存主義と呼ばれる思想の影響が見て取れて、実際作中で実存主義という言葉は使われている。

 

(新井英樹『ザ・ワールド・イズ・マイン』14巻p.170)

 

とは言っても、そのような作品は適当にそれっぽい雰囲気を演出しているだけで、それぞれのテキストの論旨をちゃんと理解しているわけではないのだけれど。

 

ともかく、映画作品などに哲学の要素があって、そのような作品を鬼頭先生は見たり読んだりしたのだろうと漠然に考えていた。

 

けれども、しばらくしてそういうルートではなくてもっとそれらしいルートの存在に気が付いた。

 

鬼頭先生が漫画を描くに際して、『神話・伝承事典』という神話の事典を読んでいて、その内容が作品に色濃く反映されているという話は何度もしていて、一方で、『神話・伝承事典』の記述内容だけでは鬼頭先生の漫画の神話的モチーフを全部説明できないから、何らかの概説書が他に材料として使われているのだろうという話をした。

 

おそらく、その何らかの概説書のなかに、『ブラフマ・スートラ』の情報が含まれていたのだと思う。

 

神話学というのはまぁクソみたいな学問で、僕が触れた神話学と銘打った類の本は基本的に、精神分析家のカール・グスタフ・ユングの系譜にあるようなものしかなかった。

 

このユングというおっさんは精神分析の開祖であるフロイトという妄想家の弟子にあたる。

 

フロイトは夢の全ては性的な願望の反映だという妄想を正しいものだと主張していて、夢の中で棒状のものが出て来たら全部男根だし、穴が出て来たら全部、女性器だと主張していた。

 

彼の主張には特に根拠はなくて、フロイトの思い付きと決めつけなのだけれども、その弟子にユングという人物がいる。

 

そのユングは精神分析として人間を分析するに際して、神話という材料を用いることを思いついた人物になる。

 

日本の神話学というのはこのユングという人物の系譜であることが多くて、日本の神話学の本はこのユングの妄想の系譜にある。

 

僕は神話学の本を2~3冊読んだのだけれども、その言説について、このことが妄想と何がどう違うのかがイマイチ分からなかった。

 

そのユングなのだけれども、神話学をするにあたって、強く古代インドのテキストの影響を受けている。

 

例えば、ユングは前世で自分がどの家に生まれて、どのように育って、どのように死んだかを全部知っていたと嘯いていた人物であると僕は大学の哲学の授業で聞いたことがある。

 

僕は個人的な用事のために原始仏典をそれなりに読んでいるのだけれども、原始仏典で仏陀は前世でどのような家に生まれて、どのように育って、どのように死んだかを知っていたという話が割と多く見ることが出来る。

 

5~6回僕は同じ文章に原始仏典を読んでて出会った。

 

…お手元の原始仏典の日本語訳を開いて、その文章を引用しようとしたけれど、割と頻出のエピソードだから、以前の僕は敢えてその箇所をメモするということをしなかったようで、見つけられなかったので今回は持ってこないけれども、今後、原始仏典を読み進めて出会ったらその文章を追記で持ってくる。

 

割とよくその話は出てくるから、そのうちまた出会うと思う。

 

・追記

原始仏典の最初の方の経典である『スッタ・ヴィバンガ』の中で件の仏陀の熱い自分語りを見つけた。(参考)

 

本来的には違うテキストで同じ文章を見つけたからそっちでも良かったのだけれど、ネット上で誰かが用意してくれたものを見つけたからそれをコピペすることにする。

 

追記以上。

 

ともかく、ユングはそのように古代インドの本に影響を受けていて、彼が前世で~とか言っていたのは、仏典を読んで自分もなんか凄い力を持っていると勘違いしちゃったからになる。

 

おっさんがヤクザ映画を映画館で見た帰りに、外で威張って肩を揺らして歩いてしまうのと大体同じだと理解して貰っていいと思う。

 

ユングは集合的無意識という、全ての人間は根底では繋がっているという発想を提出したけれども、最近、これはインドの本に由来する発想だということを僕は理解した。

 

宗派によるとはいえ、ブラフマーという創造神は、この世界ではない別世界に存在するのだけれども、魂を通じて人間は全員ブラフマーと繋がっていて、魂の中のブラフマーを念じてヨーガをすれば、ブラフマーの世界に行けるというような教義を持っている。

 

その話は『バガヴァッド・ギーター』という紀元前後に成立したヒンドゥー教の聖典にも書いてあるし、比較的最近のヒンドゥー教のヨーガ行の師範が書いたヒンドゥー教の本にもその話は載っていた。

 

まぁ『バガヴァッド・ギーター』ではブラフマーではなくてクリシュナではあるのだけれども、細かいことはどーでもいい。

 

集合的無意識は結局、インドの本に書いてある内容をヨーロッパ風に変換したものに過ぎなくて、ユングの思想などというのは"その程度"になる。

 

他には、夢の世界で皆繋がっていて、夢には人間の神秘の源泉があるというような話もユングにはあるのだけれども、同じ話が古代インドのテキストに存在している。

 

『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャド』というバラモン教の聖典には、寝ている間に魂は肉体から離れて、ブラフマーの世界に行くという話がしっかりと書かれているし、原始仏典の『パーヤーシ・スッタ』にもその話はある。

 

結局、ユングなどはその程度の話であって、やはりというかなんというか、人間は自分の言葉で物事は考えることが出来ないんだなと思ってしまう。

 

その夢についての描写も『なるたる』で採用されていて、夢の中で世界の根本原因と接触するというモチーフは、古代インドに由来するものだと思う。

 

(1巻pp.32-34)

 

このような夢で世界の根本原因と出会うという話は『ヌリシンハ・プールヴァ・ターパニーヤ・ウパニシャッド』の四章にも言及があって、やはり元はインドなのだろうという推論はある。

 

とはいえ、鬼頭先生の作品見られる『ブラフマ・スートラ』の要素については、そのように神話学の文脈で紹介された世界の深層についての記述が元なのではないかと思う。

 

何故と言うと、『ブラフマ・スートラ』などの古代インドのテキストが元だと判断した方がよい描写がある一方で、その他のインド的なものが『なるたる』、『ぼくらの』では欠落していて、鬼頭先生がインドに詳しい様子はないというのに、『ブラフマ・スートラ』の要素が見て取れるところを考えると、断片的な形で紹介されたものを材料にやっているのだろうと想定出来て、そうとすると、神話学の本の中で断片的に紹介される『ブラフマ・スートラ』が元なのだと思う。

 

実際、他の描写も神話学の本を元にやっている様子があって、それは「『ぼくらの』作中の世界理解について」の記事で説明した。(参考)

 

鬼頭先生はそのような神話学の本を材料に色々やっていて、当人も『ブラフマ・スートラ』が出典だとは理解していないと思う。

 

そのように元は古代インドだけれども、その情報が伝達されて伝達されて、インドが由来だということが忘れられるということはままあって、そういう情報を含んでいる作品は結構ある。

 

世界樹というものがあって、その世界樹と人間は根本で繋がっているというような描写がいくらかの作品であるのだけれども、元々は古代インドの『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』というバラモン教の聖典の情報になる。

 

その情報は後にユダヤ教に受容されてユダヤ教のセフィロトの樹というモチーフになっている。

 

そこからどういうルートでそこに至ったのかは分からないのだけれども、そういう風に根本のところで繋がっているし、それが木のモチーフで描かれるということは時たまあって、『Rozen Maiden』や『かんなぎ』でその描写を確認できる。

 

(PEACH-PET『Rozen Maiden』3巻 幻冬舎 pp.18-21)

 

(武梨えり『かんなぎ』4巻pp.41-44)

 

…『かんなぎ』、このシーンだけ持ってきたら何の漫画か分かんねぇな。

 

『かんなぎ』は12巻で完結したらしいのだけれど、どんなオチだったんですかね?(無知)

 

最後の方に出てきたざんげちゃん(ナギ)の実体が可愛くなかったから色々読む気失って読んでないんだよなぁ…。

 

まぁともかく、こういう風に世界の根本原因と木の根のようなもので繋がっているというモチーフは散見出来て、確か『ベルセルク』にもあったから、日本の創作物の中には『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』の情報が見られるということが分かる。

 

とは言っても、それぞれの作者が大本の元ネタを知っているとは想定し難くて、それぞれの作品にインド的な雰囲気は存在しないので、やはり、神話学の本で紹介される形で日本には入ってきているのだと思う。

 

僕は『ブラフマ・スートラ』を読んではいないのだけれども、解説によればそれまでのインドの思想を体系的にまとめたものであるそうで、おそらく、ウパニシャッドで断片的な形で言及されている、根本原因と誰しもが繋がっているという話や、夢の中でそれと出会うという話が『ブラフマ・スートラ』では纏められる形で言及されているのだと思う。

 

それをヨーロッパの哲学のおっさん連中が読んで、適当に良さげな部分を拾い上げて自身の本の中で用いて、その本の翻訳やその本を材料にした神話学の本が日本にあって、それを読んだり、それを材料にした創作物を経由して、それぞれの日本の創作物にインドのモチーフが存在しているのだと思う。

 

とはいえ、僕は『ブラフマ・スートラ』を読んでいないので厳密なところは良く分からないのだけれども。

 

鬼頭先生が参考にした具体的な神話学の本についても、皆目見当はつかない。

 

一応、以前にちょっとだけ読んだユングの『神話学入門』には『なるたる』の描写に繋がるような記述はあったけれども、期待と願望で醜く濁った僕の目が、正しい判断を行えている保証はない。

 

『ブラフマ・スートラ』についても事情は同じで、この記事の内容がどれ程正しいのか、僕には全く分からない。

 

読んでみたら分かるかもだけれど…買うのはいやー、きついっす。(素)

 

だからって言って近所の図書館には置いてないし、ねぇ。

 

一応、手元には安かったから買った『ブラフマ・スートラ』の冒頭部分を訳した本があるのだけれど、安かったから買っただけで、レファレンスとして用意しただけで、読む予定がある訳ではない。

 

僕が買った時は送料込みで1346円で、今この値段の時に買わなきゃもう買えないと思って買ったけれども、今見たら送料抜きで6000円だもんなぁ。

 

部分訳なのに。

 

 

買って正解だったみたいですね…。

 

この記事自体はまぁ、冒頭に引用した『インド思想史』って本を読んではぇ^~と思ったから作った。

 

…それ以上でもそれ以下でもないですね。

 

結局、『ブラフマ・スートラ』を実際に読んでみなければ分からないけれども、買えないし図書館にも置いてないからどうしようもない。

 

欲しい物リスト公開したら誰か買ってくれませんかね?(ほしいものリスト)

 

…リストの名前とラインナップ見たら分かると思うけれど、ネタでやってるから真に受けないでください。

 

とはいえ、流石にこの値段の本を買って貰ったら読むし、その内容を反映した記事は書くけれど。

 

そんな感じ。

 

この記事を作るのに三時間半くらいかかって疲れているので、誤字脱字の修正は明日以後にする。

 

仕方ないね。

 

では。

 

・追記

冒頭に追記で書いた内容を言及していく。

 

僕も高校生くらいの時にそうだったのだけれど、『なるたる』という作品を非常に哲学的な作品だと思っていた。

 

結局、僕は大学で文学部哲学科を選んでいて、『なるたる』を含めた"そのような"哲学的な作品を読んだことは、高校生の時分に哲学科を選んだ理由として、十分に強い動機の一つになっていたと思う。

 

ただ、普通に生きていて出くわすような所謂"哲学的"と言う言葉と、実際の哲学は内容が全く違う。

 

実際の哲学というのは、西洋文明の文化的伝統の上にある、人間の真理や道徳、正義などの抽象的な概念に対しての歴史のある時点のある人物の答えをあれこれ言うような学問になる。

 

一方で物語の中で見るような"哲学的"という言葉は、何か深遠で、言葉に出来ないけれど深く心に響くような、きざすような、けれどもそれを説明できないような何かがあるような創作物や表現と出くわした時に使うようなそれだと思う。

 

日常語としての"哲学的"と言う言葉と、学問としての"哲学"とでは意味内容が全く違っていて、クソ真面目に学問的な意味で"哲学"として『なるたる』があるかと言うと、殆ど哲学の要素はない。

 

僕らが普通言う"哲学的"という言葉はふわふわとしていて、そもそも個人個人が何を哲学的かと判断するかは個人の問題であって、何か深くて言葉に出来なくて非常に面白い作品の事を哲学的と呼んでいるのが普通だと思う。

 

学問として哲学が扱う内容はそのようなものではなくて、哲学という学問は、プラトンが善をどのように定義したかとか、プロティノスが言うところの"一者"は中世教会でどのように受容されたかとか、カントが人間の認識における悟性をどのように理解していたかとか、サルトルが実存主義のためにどうしてアンガージュマンが必要であったと言ったのかとか、そういう内容の探究が哲学になる。

 

そういう"営み"と僕らが普通思う"哲学的"という言葉は全く関係がない。

 

じゃあ、『なるたる』で感じる哲学的な所が何なのかといえば、それはエヴァとか神話学とかそういった情報であると僕は思っていて、僕はそれらについて事細かに検証した結果、どういう経緯で『なるたる』の描写があるのかが大体分かってきて、そうなってくるとかつて感じていた『なるたる』にある"哲学的な"感じが最早感じられなくなってきている。

 

結局、そのように神秘的で魅力的に映る"何か"は知識不足によるところのもので、自分でどういえば分からないけれども魅力的な何かに出くわしたようなときに"哲学的"という言葉を使うこともあるだろう一方で、その"何か"を自分で言葉に出来るようになった時には、僕はもう哲学的な印象を懐かなくなっていた。

 

要するに、そこにあるのは自分の心に抱いた何かを言葉にするにあたっての知識不足であって、『なるたる』に関しては、結局、神話学とかエヴァとかそういったものがそれをそうさせていた部分もあると思う。

 

だからその辺りを理解出来れば「なるたる 哲学」で検索した時に抱いた何かを解消できるかもしれない。

 

一応、このサイトでは『ぼくらの』に関してはねっとりと色々解説を書いている(参考)し、『なるたる』に関しては、あのサイトで人からキチガイ扱いされるレベルで色々やっていて、多分、それを全部読めばもう、『なるたる』が哲学的であるとかそういう心象は抱かないのではないかなと思う。

 

というか、哲学という学問は普通にクソだから、あんなの勉強しても西洋的な伝統に関する知識以外で何も得ることはないのではと個人的に思っていて、あんなのやるだけ時間の無駄だと思うから、やらない方が良いまであると思う。

 

…哲学に根拠が必要とか思っている人は居るかもしれないけれど、哲学には必ずしも根拠は必要なくて、私が強くそう思ったからで論理がまかり通る世界だからなぁ。

 

まぁ総括すると、『なるたる』読んで哲学的と思ったところで、その心象と哲学という学問は関係性がないし、哲学はクソだからそれに関わるなんて時間の無駄と僕は思っていて、『なるたる』を読んで抱いたそのモヤモヤとしたものは、以前僕が書いた何かを読めば解決するかもしれないという話です。