『ぼくらの』作中の世界理解について | 胙豆

胙豆

傲慢さに屠られ、その肉を空虚に捧げられる。

書いていくことにする。

 

この記事は「『ぼくらの』のコモ編の解説(中編)」のおまけみたいなものです。(参考)

 

『ぼくらの』では6巻において、その作中の世界観について言及されている。

 

そのことについて調べたら色々分かったので、そういうことについて書いていく。

 

『ぼくらの』ではコエムシによって、ざっくりとした世界の構成要素について言及されている。

(6巻pp.-178-187)

 

今から、このコエムシが語る世界観についての元ネタについて色々書いていく。

 

コエムシは世界は5つの元素によって成り立っていると言及している。

 

(6巻p.182)

 

この5つの元素なのだけれども、元々は古代ギリシア哲学の情報であって、古代ギリシアでは4つの元素によって世界はなり立っているという議論が存在している。

 

一応、言及の中で最も古いものは、デモクリトスという古代ギリシアの哲学者のそれらしくて、彼の言及は『ソクラテス以前哲学者断片集』という本にまとめられているけれど、僕はそれを読んでいないので、大学の古代哲学の授業で得た程度の知識しか、その事について把握していない。

 

まぁアリストテレスの著作の中でその四つの元素が語られているという場面には出会ったことがあるので、とにかく、古代ギリシア哲学の中にそういう話はあるということで良い。

 

とにかく、そういう風に古代ギリシアには四つの元素についての話があるから、僕は古代ギリシア哲学のテキストを鬼頭先生が読んだと思い込んでいたのだけれども、実際はそんなことは全然ないと、去年の年末の時点で理解している。

 

どうしてそう言えるかと言うと、このシーンにその理由がある。

 

(6巻p.182)

 

ここに書いてあるのがラテン語なんだよな。

 

僕はラテン語ということを理解して、鬼頭先生は古代ギリシアの哲学のことなんて詳しくないということを理解するに至った。

 

僕はそれを理解する前の段階で、鬼頭先生が五大元素という発想を何処で知ったのかを色々検討していた時期があった。

 

例えば、鬼頭先生は『神話・伝承事典』が大好きなのだけれども、その『神話・伝承事典』の中に五大元素についての記述がある。

 

ただ、その五大元素の記述は、コエムシの言及する世界観とは合致していない。

 

…本来的にここには『神話・伝承辞典』の該当の文章があったのだけれど、読み直したときに冗長だと思ったから削除した。

 

まぁ、いつものところでコピペして、出典のところを書き足しただけだったから、読みたい人が居たらそっちで読んでください。(参考)

 

もう一つ"Element 四大"という項もあって、それを書き写すつもりだったのだけれども、四ページに渡っていたし、先のサイトには項目として存在していなかったので、あきらめることにした。

 

読んだ限りだと、何を根拠に言っているか分からないけれども、まぁ四つの元素で世界はなり立っているということは言及されている。

 

いや、冒頭の部分だけ引用するか。

 

Element 四大 

 人間の住んでいる各大陸で、すべての物質を組み立てる要素として、同一の4つの元素がはっきり認められている。すべての物質とは生きているものも死んでいるものも、有機的なものも無機的なものも含んだ、この4つの元素が、すなわち、水、火、地、気の四大であった。(後略)(バーバラ・ウォーカー『神話・伝承事典』山下啓一郎他訳 大修館書店 1988年 p.222)

 

…中国は五行説で、火、水、金、木、土の五つだからこの記述は嘘ですね。

 

それはともかく、四大元素についての記述は『神話・伝承事典』にもあって、『ぼくらの』ではその四つの元素のディテールについての言及はないから、『神話・伝承事典』から来ているという可能性はないではない。

 

けれども、四つの元素までについての話は良いとしても、五つ目の元素については、鬼頭先生の描く世界観と、『神話・伝承事典』の記述は合致しない。

 

僕はこのことから、五大元素については別に『神話・伝承事典』には依っていないのだろうと以前から考えていた。

 

そもそも、蟹座やアマポーラについての情報はこの『神話・伝承事典』の情報だけでは鬼頭先生が描く世界観をカバーしきれていなくて、そこから僕は他にも何等か神話関係の本が材料として使われていると前々から考えている。

 

そして問題は、鬼頭先生はこの五大元素について、何処で知ったのかということになる。

 

僕は仏教でも五大元素があって、特に仏教の五大元素の五つ目は"空"であるということから、仏教についても可能性として考えていた。

 

他には古代インドのバラモン教やヒンドゥー教にも五大元素という発想はあるのだけれども、鬼頭先生がそんなことに詳しいのか?という根本的な疑問があるし、古代インド的なエッセンスは鬼頭先生の作品からはみじんも感じられない。

 

だからインドには由来がないとは前々から考えていたのだけれども、鬼頭先生がサンスクリット語でもギリシア語でもなく、ラテン語で五大元素を表記しているということを知り、何処から得た情報で独自の世界観を作っているのかを理解するに至った。

 

そもそも、ラテン語というのは古代ローマの公用語であって、ローマ人とかはラテン語で会話してたし、ラテン語で色々書いていた。

 

その後、ゲルマン民族がやってきたり、東ローマ帝国の首都のコンスタンティノープルがオスマン帝国に堕とされたりして、ローマという国は滅んでいる。

 

なのだけれども、このローマの時代の時に学問が盛んに行われていて、そのローマ帝国が滅んだ後でも、基本的には伝統に則り、ヨーロッパ世界では学問は長いことラテン語で行われていた。

 

聖書の学である中世哲学もラテン語だし、その前の新プラトン主義もラテン語だし、ラテン教父たちの学問もラテン語だし、比較的時代が近くなってもラテン語で基本的に学問は行われていた。

 

有名な哲学者でデカルトっておっさんが居て、彼の著書である『方法序説』は1637年に書かれたものなのだけれども、この本もラテン語で書かれているそれがある。

 

こういう風に、ヨーロッパの学問は基本的にラテン語で行われていた。

 

結局、ルターの宗教改革などがあって、それまでラテン語で書かれていた聖書をドイツ語に翻訳したり色々あって、ラテン語以外でも学問が行われるようになっていったけれども、それまでは基本的にラテン語しか使われていなかった。

 

『ぼくらの』の五大元素の図も、そのラテン語で書かれている。

 

(同上)

 

そもそもこの五大元素という発想自体は、古代ギリシアに存在していた四大元素という発想に、もう一つ任意の元素を加えたものなのだけれども、もしこれが古代ギリシア由来のそれだと鬼頭先生が理解していたならば、ここは古代ギリシア語で書かれているというのが道理になる。

 

けれども、ラテン語で書かれているということは、鬼頭先生が触れた材料は、古代ギリシア語に直接アクセスするような類のテキストではなくて、ラテン語に一度翻訳されたようなものであるという可能性が非常に高い。

 

僕は、五大元素がラテン語で書かれている知った瞬間に、そこまでのことは直ぐに理解したけれども、じゃあどんな資料を読んだのかは分からなかった。

 

鬼頭先生はこのことを古代世界の物理だと理解しているけれども、どんな資料を読めばそう思えるのだろう。

 

(6巻p.182)

 

僕は最初、錬金術の中にこのような五大元素についての話があって、鬼頭先生はそれを読んだのではないかと思った。

 

まぁ鬼頭先生の作品の中にある錬金術の知識の話は以前したからよろしい。(参考)

 

おそらく錬金術の中にそのような話があるのだろうということは良いのだけれども、鬼頭先生がどんな資料にあたったのかは全く分からなかった。

 

けれども、僕はふと思った。

 

鬼頭先生はそういえばユング関連の本も読んでいるみたいだけれども、もしかしたらユングの学説の中に、鬼頭先生が採用したそれがあるのではないか、と。

 

そして、調べてみたのだけれども、果たして存在していた。

 

ユングの用語についてまとめた『ユング錬金術辞典』という本が存在していて、その英語版はどうやら著作権が切れているらしくて、ネット上に存在していた。(参考)

 

そこで、五大元素についての記述を見てみたら、それは鬼頭先生が作中で示した言及とほぼ同一のものだった。

 

五番目の元素は"空"だったり"エーテル"だったり色々な言い方はあるのだけれども、『ユング錬金術辞典』のエーテルの項をとりあえず持ってくる。

 

Aether After air (intellect), water (intuition), fire (feeling) and earth (sensation), aether is the fifth element. The five elements are siblings (quintuplets). While the first four are conscious elements, aether is an unconscious element. In medieval alchemy, aether was invisible, and was considered a "transmission medium". To be productive in the second half of life, the four elements must act through the fifth. Part of the Ego's purpose in journeying into the unconscious, is to reunite the four elements it carries with the one left behind. In dreams, the Ego does not see the fifth element. It's presence is confirmed, by other aspects or characters in the dream.(https://sites.google.com/site/jungalchemy/より)

 

ちょっとアメリカ語で何言ってるか分からないから、この場でパパっと翻訳する。

 

エーテル エーテルとは空気、水、火、そして大地の後に来る五番目の元素である。この五つの元素は兄弟関係にあり、五個一組の形で繋がっている。エーテル以外の四つの元素は把握できるものであるが、エーテルは把握できない元素である。中世の錬金術においてエーテルは、目に見えないものであって、情報を伝達すると考えられていた。........

 

…とりあえず途中まで訳したのだけれども、そこから先は言っていることは何となくわかっても、どう翻訳すれば良いか分からなかったから、これ以上恥を晒さないように、翻訳を切り上げることにする。

 

ていうかユングの専門用語が多すぎて、どう訳したらいいのかが分からない。

 

普通にユングの専門家でなきゃ訳せないと思う。

 

鬼頭先生は、5つの内4つは何をやっているか分かるけれども、残りの一つが何をしているのか分からないとコエムシに説明させている。

 

(6巻p.181)

 

こういう風に言っていて、ユングの方でも5つ目以外は認識できるだの書いてあるのだから、鬼頭先生が触れた資料はやはり、ユングではなくてもユングに近い神話学の資料であるか、そうでなくとも錬金術についての言及があったそれなのだろうという推論がある。

 

実際、古代ギリシアや古代インドにも五大元素があるのだけれども、それを調べた限りどれも『ぼくらの』で説明される形とは差異がある。

 

特に僕はインドの五大元素について、インドの五大元素は最後の一つがエーテルではなくて"空"だから、鬼頭先生はそこから取ったと考えて、けれどもインドの世界理解と『ぼくらの』の説明では食い違いが甚だしいから、何か鬼頭先生は誤解しているのだろうと考えていたこともある。

 

アリストテレスの火や大地の元素の言及の仕方を鑑みても、『ぼくらの』の言及とはもはや一切関係がない。

 

おそらく、鬼頭先生が読んだのはユング系統の神話学の本で、その本には五番目の元素であるエーテルは他の元素と違って良く分からないという説明があって、けれどもエーテルという語はなじみがないから、日本人にも馴染みのある"空"という元素が採用されたのだと思う。

 

宮本武蔵の『五輪書』では、地、水、火、風、空というように巻分けされているし、仏教の中にも五大元素についての話があって、宮本武蔵にしても仏教経由でそういうことを言っているのだから、鬼頭先生も人生の中で五番目の元素は"空"であると知る機会があったのだと思う。

 

鬼頭先生的に火地風水ときたら次は"空"なのだから、鬼頭先生の中ではある程度常識なのだと思う。

 

(同上)

 

そーすると中心の一つは「空」なのだから、鬼頭先生の中ではある程度常識的な判断として、最後の一つは"空"なのだと思う。

 

総括すると、五大元素などという発想は古代ギリシア、古代インド、そして『神話・伝承事典』に存在しているけれども、そのどれも鬼頭先生が作中で言及する世界観と合致していなくて、けれども、ユング系統の神話の説明にはある程度合致するし、そもそもラテン語で書かれた情報源に鬼頭先生の理解はある様子であるから、五番目がエーテルではなく空であるとはいえ、鬼頭先生が触れたのはそういったユングや神話学、さもなければ錬金術に関係する資料なのだろうという話になる。

 

僕としてはユングおじさんがどんな妄想を本に書き散らかしたかだなんて心底どうでも良いから、これ以上調べようとも思えない。

 

神話学という方法が非科学的過ぎて、彼らと共有する時間が惜しい。

 

哲学や精神分析学という妄想に付き合っている時間の余裕はない。

 

他に鬼頭先生はエーテル宇宙論についても言及している。

 

(6巻pp.180-181)

 

コエムシの言い様だと、世界には昔、宇宙は寒天状の何かに満たされているという議論があったと読み取れる。

 

確かに、古代ギリシアのアリストテレスの天体論の中に、そういう風に宇宙はエーテルに満ちているという議論がある。

 

あるのだけれども、コエムシの言及とは全然違う。

 

結局、鬼頭先生はそこの辺りについて詳しく調べたわけではなくて、神話学や錬金術の本に書いてある情報をそのまま用いただけで、古代世界にあった宇宙論のことを詳しく知っているわけではないらしいということが分かっている。

 

アリストテレスは確かに、宇宙は何らかの物質に満たされていると主張している。(『天体論』)

 

ただ、寒天状の何かがあるとかそういった話ではない。

 

純粋に、アリストテレスは「何もないがある」というのが論理的に間違っていると考えていて、それが故に地球上の何も見えない所に空気がある様に、宇宙空間も何らか空気のようなものに満たされているのだろうと言及したに過ぎない。

 

アリストテレスは地球が宇宙の中心にあって、重いものはその地球の中心に向かって落ちていくと考えていて、大地は重いから足元にあって、空気は大地より軽いから人間の周りにあると考えていた。

 

だから、それより高い天空の領域は、また違う物質で満たされていると考えていたに過ぎなくて、天体を満たす物質のことをエーテルとしていて、全然コエムシの話とは違う話になる。

 

とはいえ、一方で鬼頭先生が想定した宇宙論も存在している。

 

ただそれはそんなに昔ではなくて、1600年代のデカルトという哲学のおっさんの著書の中での言及になる。

 

鬼頭先生が『ぼくらの』で企図した宇宙観はしっかりWikipediaの"エーテル"の項に言及がある。(参考)

 

本当は…『岩波・哲学思想事典』の文章を書き写そうと思ったけれども、4時間これをやっているので本気で疲れてきたから明日の僕に丸投げすることにする。

 

コエムシは「むかーし」って言って、遥か古代にそういうことがあったような言いぶりをしているけれども、コエムシの言っているエーテル宇宙論はそんなに昔のものではなくて、17世紀のデカルトのものになる。

 

(6巻p.180)

 

この言及の仕方から考えると、鬼頭先生はデカルト的なエーテル宇宙論が古代から存在するものであると誤解しているのだと思う。

 

実際の古代のエーテル宇宙論は先に言及したように、天の領域は地球上にある物質とはまた違うそれに満ちているという話であって、全然コエムシの話とは違う。

 

古代のエーテルは空の向こう側の領域にしかないのだけれども、コエムシは地球上もエーテルに満ちているという様な言い方で、一方でデカルトのエーテル論は宇宙だけではなくて地球上でも光を伝達する媒体として存在しているので、コエムシの言っているエーテル宇宙論はデカルトのものと理解したほうが妥当だと思う。

 

まぁぶっちゃけ、アリストテレスのエーテル論とデカルトのエーテル論の違いなんて、哲学科の教授が10人いたら9人把握してないような問題でしかないと僕は思うから、大した問題でもない。

 

哲学科の教授はあんまり自分の分野以外の哲学の知識について詳しくなくて、デカルトが専門か、アリストテレスが専門でもない限り、こんな話は哲学科の教授でも知らないと思う。

 

ていうか、僕が在籍してた頃の哲学科長はカントが専門だったのだけれども、授業でカントの『判断力批判』の話に入る時に、「私はカントが専門ですが、『判断力批判』のことは良く分かっていません」って言っていたから、専門分野でもそうなのであって、エーテルなんてどうでも良い話について知っている人も多くないと思う。

 

次に、鬼頭先生がエーテル宇宙論と近いと言っていた情報だけが移動するという世界理解なのだけれども、これについては元ネタは分かっている。

 

なんつーか、コンピューターのメモリの理解と全く同じですね。

 

実際、どの媒体からこの文章を読んでいるのかは僕には分からないけれど、これを今読んでいるであろうコンピューターの情報は、鬼頭先生が世界の理解として提出した、情報だけが移動しているというあり方と全く同じあり方で情報を保存している。

 

画面上の文字列も0と1の情報だけが本来的にあって、最小単位ではそれがon,offする形で表現されていて、それを人間の目に見える形であらわしたのが、今見ているこの画面になる。

 

そのオンとオフはbit単位で行われるのだけれど…bitってどう説明すれば良いんですかね?

 

とにかく、見え方が変わるだけ、情報が移動しているだけ、というのは全く以てコンピューターの情報処理と全く同じ話になる。

 

例えば、パソコンやスマホのデータを削除したとしても、処理としてはその領域にあるデータを読み込まなくするだけであって、そこに情報はまだ残っていて、その領域が他のデータによって書き換えられていない限り、処理を行えば復元することが出来る。

 

そういうデータは見ることは出来ないけれどそこに変わらずあって、けれどもオンとオフが切り替わることで出てきたり消えたりしている。

 

『ぼくらの』のこの話はコンピューターのメモリに関する知識が元だと考えて特に不備は見つけられない。

 

そもそもコエムシ自身が4ビットのメモリーという表現を使っている。

 

(6巻p.182)

 

実際問題として、コンピューターのメモリは鬼頭先生が世界の理解として示したそれと全く以て同じように作動していて、鬼頭先生の中でもやはりイメージとしてはコンピューターのビット単位の処理であって、このことはコンピューターの知識によって構築されていると理解して良いと思う。

 

鬼頭先生は名古屋工業大学出身で、そういう風に工学的な知識も持っていて、その知識を応用した形で世界観を想定しているのだと思う。

 

だから、鬼頭先生が作る世界観というのは、鬼頭先生がこの世界観を作り上げる前に出会ってきた種々の情報、例えば神話学の本、例えば大学の授業で得たコンピューターについての知識があって、それらによって構築されたものであるのだろうというのが妥当な理解だと思う。

 

けれども、神話学の理解については、所々で曖昧なそれが見いだせるところを見ると、詰めてやったというよりも、神話学や錬金術の本で曖昧な形で紹介された知識をそのまま使ったという言及がより妥当かなと思う。

 

その様な本で紹介されるエーテルの議論、すなわち光を伝達するという性質を持つ媒体であるという知識をコンピューターの知識と組み合わせたものが、鬼頭先生の描く宇宙論であると言えると思う。

 

そして、エーテルは伝達物質であるという理解は先の『ユング錬金術辞典』の中にも書いてあって、何らかそういう事柄が言及された資料があって、鬼頭先生はそれを読んだという理解で良いと思う。

 

最後に、コエムシは魂についてあれこれ言う。

 

(6巻pp.184-187)

 

この魂についてなのだけれども、前作の『なるたる』の中でも意味深な形で言及されている。

 

(『なるたる』8巻p.197)

 

聞いたところによると、鬼頭先生の『なにかもちがってますか』という作品の中で魂についての説明はあるらしいのだけれども、僕は読んでないので詳しくない。

 

ただ、聞いたところと『ぼくらの』で言及される範囲では、アリストテレスの"プネウマ"の理解に近いのかなと思う。

 

これも以前書いたからどうでもよろしい。(参考)

 

鬼頭先生が示す世界観について、全体的なイメージとしてなのだけれど、古代ギリシアの哲学を良く理解しているというよりも、何らか神話学などの概説書で紹介された情報を元にやっているという印象が強い。

 

それぞれを突き詰めると何処か初出と食い違いがあるし、ただそのことを教科書的に説明しようとしたら鬼頭先生が示したそれのようになるのだろうというようなイメージを僕は持つ。

 

それが正しいのかは分からないけれども、僕は鬼頭先生はそういう媒体から情報を得たと考えているし、僕が調べることが出来る範囲はこれくらいになる。

 

まぁ一応、予定としてはアリストテレスの『霊魂論』は読む予定だし、手元に翻訳された本はあるのだけれども、訳がクソ過ぎるか、アリストテレスの文章がクソ過ぎるせいで、読んでて辛くってたまらないから多分読まないと思う。

 

そんな感じ。

 

やる前からしんどいって分かっていたけれども、あまりにしんどすぎるから、誤字脱字の修正は、明日の僕に任せることにする。

 

疲れた…。

 

では。

 

・追記

僕が調べたときに出て来た五大元素のスペルはQuinta essentiaというものだったのだけれど、鬼頭先生はQvinta essentiaというスペルを使っている。

 

(同上)

 

そのことについて、鬼頭先生は何らかのミスをしたのではないかという内容について追記で色々書いてあったのだけれど、そうではなくて、Qvintaという表記は正しいということをコメントで教えて頂いた。

 

どういうことかと言うと、どうも古代のラテン語ではuというアルファベットが存在しておらず、uの発音でもvと表記していて、当時のラテン語表記で元はギリシア語の単語を表記しようとすると、Qvintataというそれになるらしい。

 

まぁ、その話は提示していただいたWikpediaの「V」の記事を読めばどういうことか分かる。

 

 

ともかく、Qvintaという表記は正しいらしく、鬼頭先生が参考にした資料にそう書いてあったものをそのまま用いたというのが実際らしい。

 

つまり追記した内容は僕の知識不足に起因する誤理解ということになって、その文章を削除して、今この追記を改めて書いている。

 

本来的には全てをなかったことにして、しれっと追記部分を削除してそもそも追記なんて存在しなかったことにしたかったのだけれど、そうするとコメント欄でのやり取りが行方不明になるので、こういう形にすることにした。

 

ラテン語のvというアルファベットの歴史なんて知ってるわけないのだから、色々仕方ないね…。

 

大学で外国語学部とかで学べば知る機会があるんですかね…?