『ぼくらの』作中の業について | 胙豆

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傲慢さに屠られ、その肉を空虚に捧げられる。

『ぼくらの』に出てくる"業"という言葉について色々書いていく。

 

『ぼくらの』作中で登場人物である田中さんが"業"という言葉を使っているのだけれど、僕は仏教にそれなりに詳しいはずなのに、田中さんの言っていることの意味がちっとも分からない。

 

だから、色々調べてみることにした。

 

僕は以前、そもそも古代インドでこの"業(カルマ)"という言葉はどんな用法で使われていたのかを調べている。(参考)

 

あの記事は今回のキリエ編の解説のためにやったものだったんですね。

 

僕は田中さんの言う所の業が全く理解できなかったから、そもそも古代インドで業(カルマ)という言葉がどのようなニュアンスで使われていたかを知るために、古代インドのウパニシャッドという仏教より前からあるバラモン教の聖典を、日本語訳のテキストだけだと何とも言えないから、英語訳のテキストも検証して確かめている、

 

日本語で書いてあっても何言ってるか分かんない文章を英語で読んで、karmaという単語の用法を調べ上げる作業なんて苦痛でしかなかったんだよなぁ…。

 

しかも見返りは存在しないんだよ?

 

仏教でさえ、苦行したら来世で良いことあったりするのに。

 

…。

 

まぁいい。

 

それはともかく、"業"というのは意味合い的にただの"行為"という意味であって、本来的にただ"行為"や"効果"という意味しか持っていなかったということが分かった。

 

最初はただ行為のことを"業(カルマ)"と呼んでいて、それ以上でもそれ以下でもなかったらしいというのが実際になる。

 

少なくも原始仏典に出てくる"業"の概念は良い業も悪い業もあって、日本語みたいに業は一緒くたに悪いものであるという発想はない。

 

ただ、後々インドでも業≒悪というような発想が生まれたみたいで、日本にある"業"という発想はそのインドの発想が元であるらしい。

 

そもそも、業を削ぎ落して来世で幸福になるという思想自体はジャイナ教という古代インドの宗教に見られる発想になる。

 

元々は仏教の知識ではなくて、ジャイナ教の知識になる。

 

けれども、原始仏典のテキストにはジャイナ教のテキストもチラホラと混じっていて、ジャイナ教の最高指導者の呼び名で仏教の最高指導者(仏陀)を呼んでいるようなテキストもある。

 

ジャイナ教だと一番偉い人を"ジナ(勝者)"って呼ぶのだけれど、ちょいちょい仏教の聖典の中で一番偉い人をジナって呼んでいるそれがある。

 

その様なテキストは元はジャイナ教の説話であって、仏典を編纂したときに混ざってしまったのだろうと個人的に考えている。

 

それだけではなくて、インドの宗教は混沌としていて、仏教、ジャイナ教、ヒンドゥー教などなどの宗教が存在しているけれども、それぞれがそれぞれに共通している教義を持っている。

 

当時のインド人もわけわかんなくなっていたらしくて、仏教のテキストなのにジャイナ教みたいなことを言い出したり(小部経典の一部)、ヒンドゥー教の聖典なのに仏教みたいなことを言っていたりする(『ナーダ・ビンドゥ・ウパニシャッド』、『バガヴァッド・ギーター』など)。

 

そのヒンドゥー教の中で、業をほぼイコールで悪とするような思想がヨーガ学派やヴェーダーンタ学派で現れてくる。

 

ここで言う業はただの行為のことではなくて、前世に行った悪行及び、来世に向けて今世で行った悪行のことであって、その精算をして、来世で幸せになりましょうみたいな話になってくる。

 

仏教にもこの発想は流入したらしくて、原始仏教教団からしばらく経った後に成立した、部派仏教の教えの中にもそのような業を悪とするような考え方出てきている。

 

…って、『岩波哲学・思想辞典』に書いてあった。

 

まぁ何を言っていたのか分からないだろうけれども、田中さんみたいに業=悪とする考え方は仏教にもありますよということで良い。

 

元々はジャイナ教の教えだろうとは思うけれども、とにかく"いわゆる仏教"の中に、そのように業≒悪と想定しているテキストも存在している。

 

ただ問題は、田中さんは先祖の業を背負って生まれてくると言っているところになる。

 

(6巻p.59)

 

ニュアンス的に、先祖の摘み取った命の責任を業として背負って我々は生まれてきているという話と考えていいと思う。

 

問題は何かというと、その発想はインドの仏教にはないということ。

 

少なくとも、僕が読んできた仏典の中でそのような発想は存在していなかった。

 

基本的にインドは個人主義であって、インドで言う業というものは、親から子へと受け継がれるものではない。

 

更に言えば業の報いを受けるのは来世以降であって、今の人生はあくまで前回の人生の業の結果であって、今生きている人生で悪いことをしても、それは来世に問題が発生するのであって、今回の人生には関係がない。

 

だから、僕らは悪いことをやってた人が痛い目を見た時に"因果応報だ"というけれども、その"因果応報"は仏教の意味合いでは必ずしもない。

 

何故なら、仏教で因果が応報するのは来世以降なのだから、今回の人生で悪いことが起きたとしても、それは前世の悪事の結果なのだから、僕らが普通言うような因果応報は仏教で言う因果応報ではない。

 

まぁ『アングリマーラ・スッタ』という経典で、若い頃悪さをした人が出家した後に石を投げられて血を流していたことについて、仏陀がそれはかつての罪が返ってきたに過ぎないのだから耐えなさいと言うエピソードもあって、因果応報が生きている間に成されることもあると言えばあるのだけれど、基本的に因果応報は来世以降の話になる。

 

あくまで来世以降に応報は起きるから、そのことを防ぐために徳を積んでいるのが仏教になる。

 

単位は個人であって、個人が前世に何をしたかによって業というものは溜まっていったり減っていったりしていて、親から子へと引き継がれるような概念ではないというのが僕の理解になる。

 

だから田中さんが何言ってるのか分からない。

 

クソ真面目に仏教的に考えたならば、田中さんが言っている業は業ではない何かでしかない。

 

業は親から子へとは引き継がれないから、祖先からの業なんてものはインドにはない。

 

けれども、もしかしたら日本にある仏教には、そのように親から子へと受け継がれる類の業の概念が存在している可能性がある。

 

何故と言うと、日本の仏教は中国を経由して訪れているけれど、その中国に親から子へと引き継がれる悪いことという発想があるからになる。

 

中国には余殃という言葉がある。

 

まぁ鬼頭先生も使っていたよね。

 

(『ヴァンデミエールの翼』2巻p.36)

 

この余殃の出典は『易経』で、元の文章は、「積善の家には必ず余慶あり。積悪の家には必ず余殃あり。」というそれになる。

 

鬼頭先生自身は「親の因果が子に報う」という理解で使っただけで、儒教に詳しいということはないだろうけれど、ともかく、中国では当人の行為は子孫や家族にも影響を与えるという発想が存在しているらしい。

 

他には『史記』という古代中国の歴史書では、越という国の王様が若い頃に軍事的成功を収めて、その若い頃の成功の理由を著者の司馬遷は、先祖の遺烈(功績の残り)があったからだろうと説明している。

 

要するに、古代中国にはそのように親から子へと引き継がれる善事や悪事の概念があるということになる。

 

仏教は中国を経由したのだから、この時点で中国の情報が混じったという可能性があって…というか、確実に日本の仏教には中国の宗教の情報が混じっているのだけれど、鬼頭先生が『ぼくらの』で言及せしめた親から子へと引き継がれる"業"という概念は中国仏教では存在している可能性がある。

 

…ただ、仏陀の教えとしてはそんなものはないし、僕はそれは仏教なのかと問われたら疑問符が付くと思う。

 

更に言えば、鬼頭先生はやたらに神のことを否定しているのだけれど、仏教のことは一方で肯定していているというか、少なくともある程度の道理は持っていると考えていると僕には読み取れて、僕はその中途半端なスタンスが本当にどうしようもないと思ってしまう。

 

(『ヴァンデミエールの翼』2巻p.181)

 

(『ぼくらの』6巻p.199)

 

神概念のことは否定する癖に、結局同じ宗教の情報である仏教の事柄は捨てきれていなくて、僕はそのダブルスタンダードを見て、何とも言えない気持ちになる。

 

まぁ鬼頭先生の場合、手前で考えて判断して神という概念が不要であったり間違いであるという結論に至ったというわけではなくて、ただ単純に『神話・伝承事典』に影響されてそんな情報が漫画に見られるというだけなのだから、色々あれではある。

 

ロジカルに考えて神概念がナンセンスだと言っているわけではなくて、『神話・伝承事典』で悪し様に語られるキリスト教の神の否定を鵜呑みにして色々やっているだけだから、そういう風に宗教的なものに対するダブルスタンダードは仕方がないのかなと思う。

 

鬼頭先生の作品には『神話・伝承事典』の情報がチラホラと見て取れて、『ぼくらの』に出てくるロボットも全て『神話・伝承事典』が出典なのだけれども、この本はやたらにキリスト教の神様のことを否定している。

 

おそらく、その記述に鬼頭先生の神の批判の元がある。

 

まぁ読んでみれば分かるよ。

 

図書館とかに置いてあったりするし、読んでみたらいいかもしれない。

 

…個人的にこの本はフェミニストの妄想文であって、鬼頭先生が読んでいて、漫画の材料に使っているという点以外はまるで価値のない紙の束だとは思うけれども。

 

結論としては、田中さんが語る"業"という概念は"仏教ではない何かの用語"であって、その用語を元に続けられる主張は、特殊な宗教に基づいている一般化できない意見であるだろうというのが僕の理解になる。

 

そもそも前提として、生物はホロンとして全体としてあるという話から続いての説話なのだけれど、そもそもその生物が全体としてあるという主張自体が間違いでしかないのだから、その議論の続きとしてのこの田中さんの業の話も、結局はホロンの話が間違っているから成り立ってないんだよな。

 

科学は日々刷新されていく性質のものだから、情報はなるべく刷新するようにしたほうが良いと思う。

 

『ぼくらの』の業については以上です。

 

・追記

古代インドのバラモン教の聖典である、『ムンダカ・ウパニシャッド』と『マーンドゥーキヤ・ウパニシャッド』で、英知を得た人物の家族に、その真理を知らないで生まれるものはいないという記述が存在するということが分かった。

 

実際の文章は、

「夢を見ている状態にあるタイジャサ〔=光に満ちているもの、輝いているもの〕は、第二の音楽である"ウ"(u)の音声である。それはウトカルシャ〔utkrșa,高揚〕あるいはウバヤトヴァ〔ubhayatva,双方の中間にある状態〕から〔派生されている〕。彼は、知識の継続を高揚し、そして等しくなる。このように知っている彼の家族には、ブラフマンを知らないものは生まれない。(湯田豊 『ウパニシャッド―翻訳と解説』 『マーンドゥーキヤ・ウパニシャッド』大東出版 2000年 p.621)」

 

というそれになる。

 

まぁ何言ってんのか分からないだろうけれども、安心してもらいたい。

 

僕も何言ってるか分からない。

 

それはさておき、最後のブラフマンというのは有り体に言えばこの世の真理のことであって、この文章の意味はそのようなことを理解した人間の家族はその後、その真理(ブラフマン)を知った状態で生まれてくる意味の文章になる。

 

だから、インドとて、親から子へと引き継がれる何か素晴らしいものという発想があるということになる。

 

この『マーンドゥーキヤ・ウパニシャッド』は翻訳者の湯田曰く、紀元前六世紀頃のテキストであるらしいから、仏教より若干前か、原始仏教の黎明期の頃のテキストということになる。

 

そうとすると、仏教とてこのような情報を受け継いだ可能性はあるのだけれども、僕はそれでも、仏教にそのような発想はあまり存在していないと考えている。

 

何故と言うと、仏陀には有名な弟子が十人いて、その中の一人に仏陀の息子であるラーフラがいるからになる。

 

仏陀は悟ったというのに、息子の方はそれだけでは悟れなかったからこそ、ラーフラは出家しているわけであって、先のなんたらウパニシャッドとは違って、仏教では家族が一人でも悟ったからと言って、残りの人も何もなしに悟れるということはないという理解で良いと思う。

 

まぁラーフラは仏陀が出家する前に生まれた人物だから、先のウパニシャッドのように真理を理解してから生まれた家族ではなくて、話は少し違うのかもだけれども、とにかく、ラーフラは仏陀の威光だけで解脱したのではなくて、仏教修行をしっかりしていて、その旨が原始仏典の『テーラガーター』に言及されている。

 

ただ、仏教にはちょっと洒落にならないくらいのテキストがあって、その量は全てをそれに費やさない限り一生かかっても読み切れるとは思えない量だし、そもそも日本語訳されてない経典が沢山あって、その中に親から子へと引き継がれる業について語っているテキストがないとは言えない。

 

もしそのようなテキストが今後見つかったら考えは刷新するのだけれど、そうと言えども仏教では基本的に親から子へと罪や善行は引き継がれない。

 

まぁ、引き継がれるなら、仏陀の息子であるラーフラは出家する必要はなかったわけですし。

 

そんな感じです。

 

・追記2

誰も読まないだろうけれど一応、先の『マーンドゥーキヤ・ウパニシャッド』の引用文について補足すると、バラモン教は呪文を唱えて火などを用いて宗教的な儀礼を行うのだけれども、どうも早々にどうしてそんなことをするのかという情報は失われてしまったらしい。

 

だから、ウパニシャッドやそれに若干先行するブラーフマナ文献では、これこれという儀礼はこのような目的のために行っていて、何々という呪文はこのような意味があるという説明がされている。

 

先の『マーンドゥーキヤ・ウパニシャッド』も呪文についての意味づけの説明であって、『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』の1~2章などで行われている呪文の説明の焼き直しになる。

 

ブラーフマナ文献はもはや日本語訳なんて甘えたものはほぼほぼ存在していなくて、僕は英訳の『シャタパタ・ブラーフマナ』の冒頭部分を舌打ちしながら読んだのだけれども、やはり儀礼の説明がなされていた。

 

ちなみに、そのウパニシャッドやブラーフマナの儀式についての説明にどれ程の重要性があるのかだけれど、言語学的にその意味付けは意味を成していなくて、"histry"の語源を"his story"に求める民間語源と同程度の価値しかない。(辻 直四郎『ヴェーダ学論集』「Etymologia upanishadica」岩波書店 1977年 p.19)

 

当時のバラモン教の神官が思い付きで適当に「こういう意味だ」と主張したのがウパニシャッドに見られる呪文の意味の説明になる。

 

まぁ、何処でもそういうことはやるものであって、日本の民俗学とかも質的な意味で大きな差はないから、居酒屋でおっさんが適当に喋ってる内容と大差ないとかそんな感じのものだと理解すれば良いと思う。

 

先に僕が意味が分からないと言ったのは、そういう風に呪文の説明だということは理解しているのだけれども、「つまりどういうことなのか」が全く分からないし、その根拠とかも良く分からないので、意味が分からないと言っただけであって、一応、どういう文脈かは分かっています。