キリエ編の解説を続けていく。
前回まででとりあえず、畑飼とキリエのやり取りまでの解説が終わった。(参考)
畑飼とのやり取りの解説は終わった、いいね?
今回は田中さんとキリエとのやり取りについてからで、その田中さんの言葉の中に見出せる鬼頭先生の宗教観をボロクソに言う回です。
一応、畑飼について、今後の展開に関係のある所だけ補足していると、畑飼はチズが行っていた自然学校のメンバーがロボットと関わっていると勘付いており、それに加えてキリエが訪ねてきたことによって、その疑惑は確信に変わってしまった。
軍としてはキリエが刺突したときに畑飼を拘束したことによって、情報の漏洩が防げたと思って思っていたけれども、畑飼はそういうイレギュラーも想定済みで、連絡が取れなくなったら自然学校の情報を流す仕組みを仕込んでいた。
そのことによってコモ編やアンコ編での出来事が生じてくる。
話をキリエに戻すと、キリエは深夜に田中さんのところに行く。
(6巻p.32)
ここでコエムシが「てめーらは人使いが荒いぜ。」と言っているのは、直前にカンジを田中さんのところへ移送したからになる。
実際に基地に着くと、カンジがそこにいる。
(6巻pp.33-34)
カンジがここに来たのは田中さんにキリエのことについて話に来たからであって、そのことはキリエ編の中で回収されている。
(6巻p.76)
カンジはキリエが戦えないかもしれないことに気付いていて、キリエの好きにさせてやってほしいと田中さんに言いに行っているということがこの描写から分かる。
…ガチ鬱期の鬼頭先生だったら、こんなフォローなかっただろうなぁ。
話を戻すと、キリエはカンジが出て行ったので、田中さんと二人で話すことになる。
(6巻p.35-36)
『IKKI』連載当時はここで一区切りであって、引きとして「ぼくを、殺してください。」というようなそれは非常に強いものだと思う。
キリエはこの時点で自分が戦えなくて、そのことで迷惑をかけるくらいなら殺してもらいたいと考えていた様子ではある。
この後、キリエと田中さんは二人で外を歩くけれども、何というか抒情的な挿入であって、何か物語的な情報があるわけでもない。
(6巻pp.39-44)
この会話の中で、キリエが畑飼を刺したのは罰だと言っているし、同じようにカコにあのように言ったことも罰だと言っている。
あのようにって言うのは、「カコくん…足、速いよね。」ってセリフのことです。
なのだから、やはり足元の人間を踏みつぶしているということが問題なのであって、キリエがあのように言った理由は、踏みつぶしているということについてであるという認識がどうも正しいらしい。
キリエと田中さんの会話は続くけれども、キリエの思想というかなんというか、キリエの考え方の話が入ってくる。
(6巻pp.45-51)
…鬼頭先生が子供の心理を描くのが上手いだなんていう人は、僕としては目が曇ってるとしか思えない。
"自己保全の意識"だなんて中学生が言うなんてあり得るんですかねぇ…。
これを初めて読んだとき僕は高校生だったけれども、こんなこと考える中学生は居ねぇよって思ったよ。
中学生とて、そのようなことは考えるかもだけれども、キリエの言葉遣いが大人過ぎる。
単語のチョイスに中学生らしさが微塵も感じられない。
「ぼくにとっては主人公達の死と、画面の端で描かれる群衆の死は一緒なんです。」とキリエは言っているけれども、中学生だったら"群衆の死"だなんて言葉は使わないだろうと思う。
"途中で死んだ一般人"とかそういう表現ならまだ中学生は言いそうだけれども、"群衆の死"とは中学生は言わないと個人的に思う。
キリエの発想そのものについては解説できる何かはない。
まぁそういう発想もあるのだろうとしか僕は思わないし、それ以上の何かは説明できない。
なんというか、キリエはその他勢の人間だと自己認識しているから、その他勢に感情移入しているのかもしれない。
この後、田中さんは軍人としての意見を言い始める。
(6巻p.52-53)
田中さんは仮想敵国の人と会うということもあると言っているけれど、これはアメリカ軍のことですね。
『ぼくらの』の世界では日乃レポート作戦が起きたことにより、アメリカと日本は軍事的な衝突を起こしていて、仮想敵国というくらいなのだから、『ぼくらの』の時代では停戦中で、けれども未だに緊張状態にあるという理解で良いと思う。
…現実世界の日本の仮想敵国ってやっぱり中国かロシアなんですかね?
自衛隊員も中国軍の人々と会ったりするのだろうか。
会った時は何語で会話するのだろう。
英語くらいしか思いつかないけれども。
田中さんの話は続いて、何だかホロンだとか言い始める。
(6巻p.54-56)
ここで田中さんは"ホロン"とか言い始めている。
ホロンの意味するところは全体とかそんなの。
ホロンという語自体は哲学者のアリストテレスが言った言葉で、アリストテレスの『形而上学』に言及があるらしい。
僕はそのことに加えて、インタビューで哲学者であるパスカルの『パンセ』に鬼頭先生が言及していたことと、『ぼくらの』で古代ギリシア哲学及びアリストテレスに存在している火、水、空気、土、という四つの元素についての言及があるから、鬼頭先生は『形而上学』を読んだんじゃないかと思っていた。
思っていたのだけれど、この前、アリストテレスの『天体論』を読み始めて、こんなの読んでるわけないと理解するに至りましたね。(憤怒)
あんなの読んでるわけないじゃん。(激怒)
あんなの、哲学やってなきゃ理解できるわけがないからね、仕方ないね。
哲学事典で語句を調べながら読むという方法を取らなければ読めない本だったんだよなぁ…。
鬼頭先生がそのような本を読んでないとして、じゃあホロンという語を何処で学んだのかなのだけれど、普通に大学の授業とか哲学的な何かの概説書とかで出会ったのだと思う。
結局、鬼頭先生は四大元素についても深い造詣があるわけではないと今の僕は理解していて、何となく概説書で得た知識を使っているだけであって、原典訳のテキストは読んでないと思う。
細かい話はコモ編の時に書くよ。
話を戻すと、田中さんは、「生物は所詮ホロンとして全体として存在しているわけでしょう。」と言っている。
今の僕はこの文章を読んで、田中さんが言っている言葉の意味がまるで理解出来ない。
生物は全体として存在しているわけではない。
生物学というか進化論は段階的に理解が深まっていて、時代が進むにつれて情報が刷新され続けている。
このように総体として生態系があって、生物は存在しているという発想は確かに進化論の中にあって、"群選択説"と専門用語で言う。
生物は種の存続のために生命活動を行っているというような議論を"群淘汰"といって、もしそうだったならば、種が存続すれば誰が生き残っても良いわけであって、田中さんの意見と近いものがある。
他には更に大きな枠組みとして全ての生態系を一つのものと理解するという発想もあって、その様な発想を"ガイア仮説"と呼んだりしている。
むしろ田中さんはそのようなことを想定していて、生態系全てが存続していくために、細かい構成員の誰が生き残ろうとも関係ないという話をしている。
ただし、それらは古い進化論的な議論になる。
時代遅れの愚論であって、1960年代まではそのような意見が主流だったけれども、1970年代には既に十分に否定されている類のそれになる。
生物は生態系の一部として存在しているわけでも、種という括りで存在しているわけでもなくて、生物の基本単位は遺伝子になる。
全ての生物は遺伝子を複製することを目的としていて、そのような群淘汰は間違った議論であると示した著作が存在していて、それはリチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』になる。
実際に『利己的な遺伝子』を読めば、生物は全体として、総体として存在しているわけではないということが良く分かる。
もっとも、あくまで1970年代の本でしかないのだから、少し古い理解も多くて、ドーキンスの主張の中にも時代遅れのものもある。
生物は自己複製を目的としているとドーキンスはしたけれども、厳密にはそうではなかったりするし、所々で「ん?」と思う所も多いけれども、それでも鬼頭先生が田中さんに喋らせた内容がただ間違っているということは示している。
どういうことなのかを説明したほうが良いのかもだけれども、ドーキンスの『利己的な遺伝子』は592ページあるのであって、そんなの、この場で簡単に説明できるわけもない。
詳しく知りたければ実際に読んだ方が良いと思うし、僕は哲学書を100冊読むよりも、ドーキンスの著作を一冊読んだ方がよっぽどタメになると本気で考えている。
…まぁ哲学がクソみたいな学問だからね、仕方ないね。
田中さんの話についてだけれども、そもそも生物はホロンとして全体として存在していないのであって、既にそこから破綻していて、よって、その後の言葉もあまり意味を持っていない。
『ぼくらの』の物語としては意味はあるかもだけれども、科学的な話としては1960年代で止まっている時代錯誤のナンセンスな意見でしかない。
生物の単位は全体じゃなくて遺伝子です。
この言及も正確ではないけれども。
とにかく、理解としては田中さんの意見は時代錯誤であって、今の考え方は全く違うというそれでいいと思う。
だから、田中さんの発想である、自分ではなくて隣の人が生き残っても結果は同じだというそれについても、(現在の)進化論的にはまるで間違っているとしか言いようがない。
ただ鬼頭先生は『なるたる』の頃に、代替がうんたらと言っていたので、基本的に総体として生命はあって、個人の死には重要な意味はないと考えている様子ではある。
(『なるたる』12巻p.232)
(『なるたる』12巻より)
同様の発想はチズ編でも見ることが出来る。
(4巻pp.194-196)
物語にどのようなものを配置して問題はないのだけれども、鬼頭先生の場合本当に世界はそのようになってると思っている節があるんだよな。
実際は全然そんなことはなくて、生物は全体のことなんて考えていないし、種という単位も考えていないし、総体なんてホロンなんて、人間が勝手に考えている都合でしかありはしない。
そのことを鬼頭先生が知らなかったのは仕方ないね。
田中さんはそんな間違った意見に言及した後に、更にまた僕が個人的に良く分かんないとしか思えないことを言い始める。
(6巻p.58-62)
なんか急に仏教みたいなことを田中さんは言い始める。
業ってなんだろう。
今回はこの田中さんの意見について僕はボロクソに言うためにこの解説を書いている。
田中さんが言っている宗教チックな事柄について僕は良く分からない。
初めてこれを読んだ時の僕は、これを仏教だと理解していた。
けれども、今の僕は、原典訳の原始仏典や大乗仏典を人よりは読んできた僕は、これを仏教だとはちっとも理解出来ない。
僕はかなり仏教のことを個人的にやってきたけれども、田中さんが何を言っているのかさっぱり分からない。
業ってなんだろう。
なんというか、僕は原典訳の仏典をそれなりに読んできて、僕らがなんとなく漠然と知っている仏教の知識はほぼ嘘か間違いであって、僕らが日常で使う"因果応報"とか、"縁起が悪い"とかは別に仏教にそれ程関係がないと分かっていて、田中さんの言う"業"にしても、インドの仏教で言う"業"とはかけ離れている。
…ここで田中さんの言う業について色々書いたけれども、専門的な内容になってしまったから、別に記事を作って読み飛ばせるようにした。(参考)
まぁ仕方ないね。
一応、リンク先を読まなかった人のために軽く説明を入れると、田中さんは業だなんて言っているけれど、田中さんが言っている文脈での業はインドの仏教には存在していないし、仏陀の教えではないけれども、もしかしたら中国仏教では田中さんの言う文脈での業が存在しているかもしれないから、鬼頭先生はどっかでそういう話を聞いたことがあるのかもしれない。
この後、田中さんは自分の若い頃の話をキリエにする。
(6巻p.63)
この挿入自体はカナ編のための伏線になる。
まぁ田中さんはウシロを産んでおいて、世話になった先生の家に何も言わずに置き去りにした割と酷い奴ですし。
そういう償いについて言うのなら、自分の家庭を作る前に、いや、作った後であっても宇代先生の家に行って、ウシロを引き取りに行くのが筋だよなとは思うけれど、そんなことをしたら『ぼくらの』という物語が破綻してしまうからそこら辺は仕方がない。
続いて、田中さんはベストを目指すなという話をする。
(6巻pp.64-65)
分からない所だけれども、もしかしたらこの言葉は宇代先生の言葉なのかもしれない。
話としては、キリエが望むように全員が助かってハッピーエンドというベストは求められないから、次善であるベターを目指したほうが良いという話で、少なくともキリエにとって大切な家族などを守るために戦ってほしいという話になる。
まぁキリエにとって最も大切なものはカズちゃんなのだから、カズちゃんがこれ以上苦しまないということがキリエにとってベストであるということを考えると、むしろベターは多くの人が死んだとしても、カズちゃんが苦しみから解放されることなのだから、田中さんが期待しているように戦うという選択肢は出てこないのだけれど。
その後、田中さんはキリエが命を無駄にするようなら考えるという。
(6巻pp.66-67)
田中さんが言う考えるってのは、キリエを殺すことになると思う。
田中さんが考えて、キリエに干渉出来ることと言ったらもうそれくらいしか残っていない。
さもなければ具体的な行動は想定していなくて、考えるというだけなのかもしれない。
そして、来る日がやってくる。
(6巻p.68)
ここまででキリエ編の3話が終わりで、4話はロボット同士の戦いになる。
…のだけれど、僕の体力の限界が訪れたために、これくらいにする。
いや、体調が良くない時にこういうものはやるもんじゃないね。
文字の分量的にこの記事に収まりそうな気もするから、もしかしたら追記でこの記事に収めるかもしれないし、この記事のタイトルを(中編)に変えて、もう一つ後編を設けるかもしれない。
どの道、業についての記事も含めれば三つの記事があるのだから、色々今更な気がしないでもない。
ちょっとシャレにならないくらい疲れているので、誤字脱字等々の修正は後日にすることにする。
チカレタ…。
では。
・追記
記事は分けることにした。
続きはここ。(参考)