業(カルマ)について | 胙豆

胙豆

傲慢さに屠られ、その肉を空虚に捧げられる。

日記を更新する。

 

今回は調べ事をしたので、その調査結果についてになる。

 

皆…業って知ってるかな?

 

業…って言うのはね…?

 

…。

 

何なんですかね…?

 

うんまぁそう、良く分からなかったです。

 

なので、調べることにした。

 

実際、"業が深い"だなんて文脈で業という語を使うことはあるのだけれど、きっかりと意味を把握して業という語を使っているわけではないのであって、今回はその業という概念をきっかり理解するために色々と調べました。

 

業という概念は仏教で良く出てくると言えば出てくるのだけれど、ふんわりとしたそれでしか僕は理解してなかった。

 

なので調べることにした。

 

業はインドが初出の概念で、日本には仏教経由でその概念が訪れている。

 

まず、調べる方法についてなのだけれど、業(カルマ)という概念について調べるにあたって、言葉というものは時代によって変容するという問題が存在する。

 

どういうことかというと、インドにはプルシャという言葉がある。

 

初出は『リグ・ヴェーダ』なのだけれど、『リグ・ヴェーダ』に出てくるプルシャは手がいっぱいあって足がいっぱいあって目がいっぱいある巨人になる。

 

『リグ・ヴェーダ』では、この巨人の口からバラモンという司祭階級が生まれて、手からクシャトリアと呼ばれる王族階級が生まれて、両腿からヴァイシャと呼ばれる平民階級が生まれて、残りの足からシュードラと呼ばれる奴隷階級が生まれたというようなことが書いてある。

 

まぁ厳密には出てきた奴隷階級の名前はシュードラではないのだけれど、細かいことはいいんだよ。

 

この物語はインド人の人口に膾炙していたらしくて、人間はプルシャから出来ているという発想があったらしい。

 

で、時代が下ると、人間の魂をプルシャと呼ぶ場合がある。

 

人間の素=プルシャという話があって、魂=人間の素という話であって、プルシャ=魂ということらしい。

 

何を言っているのか分からないかもしれないけれど、プルシャという巨人と、人間の魂の名前としてのプルシャの二つのパターンがプルシャという言葉にはあるという理解で良い。

 

だから、プルシャという語が出てきた時は、文脈とそのテキストが成立した時代を考えて、妥当な意味を読み取らなければいけないという話になる。

 

同じような話で、その魂のことをプラーナと呼んだりするのだけれど、このプラーナは時代が下ると本の名前になる。

 

つまり、そういう魂=プラーナみたいな話が古い本でなされていて、いつしか、そういう古い神秘的な話をする本のことをプラーナと呼ぶようになったらしい。

 

このことから、同じ単語でも意味が違うということがままあるということが分かると思う。

 

で、業(カルマ)なのだけれど、辞書を引いてみたところで、そのカルマがどの時代のカルマの語義なのかさっぱり分からないわけであって、ここはやはり厳密に、一番古い意味を取った方が良いだろうと僕は考えた。

 

なので、ウパニシャッドと呼ばれる、仏教より前の時代から存在する哲学書みたいなのを当てにすることにした。

 

実際、このウパニシャッドは日本語訳が存在しているのだけれど、今現在の価格が31,282円なので、買うとしたら厳しいものがある。

 

…前見た時は31,717円だったから、ちょっと高くなってるね。

 

とりあえず買えはしないのだけれど、実際問題としてウパニシャッドは英訳ならネット上でタダで読める。

 

なので、それを使ってウパニシャッドにおいて、カルマという概念がどういう文脈で語られているかを検証してみることにした。

 

方法としては簡単で、ウパニシャッドはいくつも種類があるのだけれど、古い方から順番に順番に、英語でググってみて出てきた英訳のウパニシャッドのPDFを開いて、F3キーを押して「karma」という単語で検索してみて、出てきた文章の前後の文脈を確認するというシンプルな方法になる。

 

なんというか、僕が英語さえ得意だったら別に平明な作業だったのだけれど、僕が英語が不得意だから殆ど苦行に等しかった。

 

とりあえず、いくつかのウパニシャッドでカルマという語を発見することが出来た。

 

以前から度々言及している、『ブリハッドアーラニヤカ・ウパニシャッド』にもカルマについての記述は存在していた。

 

他にも『ケーナ・ウパニシャッド』、『イシャ・ウパニシャッド』、『シュヴェーター・シュヴァタラ・ウパニシャッド』でカルマという語の使用を認めることが出来た。

 

ので、実際の部分を読むことにした。

 

…色々翻訳とかしようと思ったのだけれど、もう6時間以上その作業をやってて疲れたので、細かい話は省くことにする。

 

『ブリハッドアーラヤニカ・ウパニシャッド』については、3章と4章については翻訳を手元に持っていた。

 

『世界の名著』シリーズで「バラモン教典 原始仏典」というものがあって、そこに3書と4章の翻訳があって、僕はそれを持っていたからになる。

 

その翻訳と、出てきた英訳とを比較検討して、更に英訳も信用できないから、三つの英訳を用意して、それぞれどんなことを言及しているかを確かめた。

 

4つの翻訳は大体において同じことを言っていたので、その書いてあったことの要約を平易な表現で説明することにする。

 

話としては、ヤージュニャバルキヤという哲学のおっさんが居て、それに問いかけをして素晴らしい知恵を授かるという内容なのだけれど、カルマというのは以下の文脈で出てくる。

 

色々な質問をした後、最後になって、「肉体が滅んだ後は人間は一体どうなるんですか」、とヤージュニャバルキアにある男が問いかける。

 

すると彼は、「その話はこんな大衆の居るところで話せることではない。」と言って、男の手を取って人にその話を聞かれない所に移動する。

 

移動した後、2人は話し始める。

 

内容は、カルマについてであって、彼らはカルマを称えて言った。

 

「良きカルマによって彼は良いものへと生まれ変わり、悪いカルマによって悪いものへと生まれ変わる」と。

 

…いや、こう書いてあるの。

 

日本語訳を見てみても、

「彼らふたりはその場を去って、論じ合った。彼らが語ったことは、――まさしく「業(善悪の行為とその因果の間の必然的関係)」について彼らは語り合ったのであった。彼らがたたえたことは、――まさしく「業」を彼らはたたえたのであった。実に、善行によって人は善くなり、悪行によって悪くなるのである。(『世界の名著1』「バラモン経典 原始仏典」中央公論社 1969年 p.65)」

と書いてある。

 

何言ってるか分かる?

 

僕には分からないよ?

 

PDFで「karma」で検索して、該当箇所が分かったはいいのだけれど、邦訳を見ても意味不明だから、英語訳のそれとずっとにらめっこしていた。

 

にらめっこしている内に、今見ている英語訳が正しいのかすら分からなくなって、他の英訳を探して読んだりもしていた。

 

結局、一番最初に出会った英訳を利用した。

 

実際、英語ではこう書いてある。

「Then they went out and deliberated and what they talked about was karma (work) and what they praised was karma: one becomes good through good karma and evil through evil karma. Thereupon Artabhaga, of the line of Jaratkaru, held his peace.」

 

一応、更に一つ前の文章や、他のウパニシャッドのカルマの言及についても用意したから、興味がある人は読んでみると良いかもしれない。(参考)

 

そんな人、想定できないけれど。

 

まぁそれは置いておいて、どうも、古いインドのテキストに出てくるカルマという概念は、死んだ後に良いことしてたら良く生まれて、悪いことしてたら悪く生まれて、その良かったり悪かったりする行いのことらしい。

 

肉体が滅んだ後、いったい彼はどうなるのか?と聞いて、良いカルマを通して良くなって、悪いカルマを通して悪くなると言及がある以上、カルマという行いの良し悪しによって、死んだ後に良くなったり悪くなったりするらしい。

 

ただ、この時点で輪廻転生を想定していたかは分からない。

 

次の人生として、ではなくて、死んだ後に天国に生まれたり地獄に生まれたり、死後の安息の有無についての話という可能性もある。

 

カルマというのは"行い"程度の意味らしくて、色々な行動の結果、色々な報いが出てくるとインド人は考えたらしい。

 

だから、良い行いをしたら良い結果が返ってきて、悪い行いをしたら悪い結果が返ってくる。

 

後世的な意味では、輪廻転生と直接的に関係するみたいで、前世に悪い行いを、悪いカルマを精算できずに死んだ人は、次の人生でもその負債を、カルマを背負った状態で生まれてくるらしい。

 

とりあえず、カルマは前世からの負債ということで良いと思う。

 

当然、時代が変われば意味も変わるのであって、カルマというものが僕が理解したそれで必ずしもいつでもあるわけではないのだけれど、基本的に一生どころか次の人生や、前の人生で付き纏う借金みたいなものと考えていいみたい。

 

借金とは言っても、背負っているのは自分がした悪いことなのだけれど。

 

だから、あくまでカルマというのは輪廻転生が前提に存在する概念になる。

 

ちなみに、生きている間にも悪いカルマは蓄積するし、良いことをしたら悪いカルマは減るらしい。

 

なので、業(カルマ)は宿命とかいう意味ではなくて、来世にも引き継がれるし、前世からも引き継いでいる負債という認識で良いと思う。

 

ただ、良いカルマもあるみたいなので、意味的には"行い"程度だと思う。

 

カルマは"行い"程度の意味でしかなくて、それとは別に輪廻転生の概念がインドにはあるから、その"行い"の因果応報は来世にも影響するし、何も悪いことしてないのに酷い目にあったならば、それは前世の"行い"のせいですよ、という話になる。

 

実際、『アーユル・ヴェーダ』では薬を使ったときの薬効のことをカルマと呼んだりするみたいだから、行いとか効果とか振る舞いとか、そういう意味なのだと思う。

 

カルマという語それ自体に、善悪の概念は想定されているとは限らないし、『ブリハド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』の用法を見る限り、紀元前数百年前の時点では想定されていなかった様子ではある。

 

だから、何か酷く良くないことをした人の振る舞いについて、"業が深い"言ったりするけれど、その言葉は本来的には間違った業という語の使い方になる。

 

良い業というものも存在するからね。

 

ただ、言葉なんて本によって使い方は違うし、時代によって使い方は違うし、人によって使い方は違うし、同じ人でもタイミングによって使い方は違うのであって、そこを厳密にやる必要はない。

 

とは言っても、業(カルマ)だなんて輪廻転生が想定されている場面でしか使わないような語なんだから、基本的に輪廻転生がなければ成り立たない概念だと思う。

 

ただ…どうも大乗仏典だと、輪廻転生が存在しないのに、悪いことをしたらその罰として働く前世の業は存在していて、それが故に阿頼耶識とか良く分からないものが出てきたという話だったような気がする。

 

僕は阿頼耶識は業を保存する機関だと記憶しているのだけれど、阿頼耶識をググって調べても良く分かんなかった。

 

僕自身、大乗仏教の哲学という妄想に興味が寸分も抱けなかったので、そこのところは詰めてやってないので、厳密に理解しているわけではない。

 

ただ、原始仏典の比較的初期に書かれたとされている『如是語経』の時点では輪廻転生はあったし、天国も地獄も想定されていた。

 

良いことをした人は天国に行くとまで書いてある。

 

何処かの段階で誰かが、仏陀は輪廻転生や魂の存在を否定したと言い出したのだけれど、どんなテキストに書いてあるんですかね?(無知)

 

阿頼耶識をググって出てきたサイトを読みつつ、本当に仏教って出典を大事にしない学問だなと思った。

 

とにかく、業というのは本来的には"行い"のことであって、その如何によって良い報いを受けたり、悪い報いを受けたりするという話が原初なのだと思う。

 

という話。

 

記事のカテゴリーとして、僕が設定しているのだと一番近しいのは仏教なのだろうけれど、これは仏教の話ではないし、他には歴史の話っぽいものってカテゴリーもあるけれど、別に歴史の話じゃないよなぁと思う。

 

だから、カテゴリーは未分類の日記になるのだけれど、これは果たして日記なのだろうか。

 

まぁ、それでなくても日記というカテゴリーで何でもかんでも書いている以上、別に今更ではあるのだけれど。

 

…ただ、付随して存在するウパニシャッドの英訳の記事は、日記では絶対ないけれど、妥当なカテゴリーなんてないんだよなぁ。

 

まぁいいや。

 

では。

 

・追記

輪廻転生の概念が生まれる前のインドの宗教では、死後の世界のことを指して来世と言って、その来世に天国に行くか地獄に行くかは生前の行いよって決まるというものだったらしい。

 

『パーヤーシ・スッタ』という原始仏典の記述とウパニシャッドの記述を勘案するに、つまりは、『ブリハッドアーラニヤカ・ウパニシャッド』の時点では、そもそも生前の行いで死後の何かが決定するという発想自体が新しいもので、だからヤージュニャバルキアはこそこそと隠れるようにその極意を告げたという描写である様子ではある。

 

『パーヤーシ・スッタ』は原始仏典ではあるのだけれど、教えとしては生前の行いで死後、神の領域である天国に行くという教義について、それを異教徒に勧めるという内容になる。

 

僕はこの『パーヤーシ・スッタ』はおそらく、元々は仏教のテキストはなくて、バラモン教の特に、死後の禍福が生前の行いによると考える宗派の教えだったのではないかと思う。

 

テキスト全体がかなり古くて、原始仏教の時代だと鉄器時代なのだけれど、このテキストはどうも青銅器時代と鉄器時代の過渡期に作られたものである様子がある。

 

後から良い教えを知ったらそれに乗り換えるのは何も悪くないという話の例え話の中で、鉄を拾った男がその後に、銅を拾って鉄を捨てて、更に歩いた後に錫を見つけて銅を捨てるという話がある。

 

2人歩いていて、一人はそのように乗り換えを行うのだけれど、一人は頑なに最初に持った荷物を手放そうとせずに、目的地に着いた時点で、一人は大儲けして、もう一人はその頑なさ故に大損をこくという寓話が書かれている。

 

訓示としては、そのように良いものがあったら持ち帰る方が良い、すんわち、私たちの教えである生前の行いで死後の禍福が決定するという宗派に乗り換えることは何ら悪くないし、乗り換えないと最後に馬鹿を見る、という話なのだけれど、この話が作られた時点では鉄よりも銅や青銅の材料である錫の方が価値があったということが示唆されている。

 

そうでなければ、鉄を持っているのに銅や錫に乗り換えたりはしない。

 

元々は仏教の教えではなくて、けれども、そのように宗派替えを勧めるには便利な教えだったために、仏教に取り込まれたのだと思う。

 

青銅器時代ということは、仏教よりも成立が早いということを意味している。

 

仏教は鉄器時代に成立した以上、この『パーヤーシ・スッタ』のその箇所はそれより遥か前に成立したと考えたほうが妥当だと思う。

 

バラモン教の新興宗派、それは青銅器時代くらいに出来たのだろうけれども、その宗派の教えは生前の行いが素晴らしければ神の領域たる天国へ行けるというそれであって、その生前の行いのことを"カルマ"と呼ぶという理解で良いと思う。

 

だから、カルマというものはバラモン教の一派の教義の中の、死後の幸福を得るための"行為"のことで良いと思う。

 

…一方で、『パーヤーシ・スッタ』はそのころのテキストだったのだろうけれども、それが仏典として存在しているということをどう考えるかが問題で、三通りのパターンがある。

 

一つは、初期仏教ではそのように生前の行いで死後の禍福が定まるという教えだったという可能性。

 

一つは、仏教の教義とは矛盾するけれども、精査に欠いた編纂の結果紛れて収録されてしまったという可能性。

 

一つは、鉄器時代のインドでは鉄よりも銅や錫の方が高価だったという可能性。

 

どれなのかは分からないけれども、比較的初期に成立したとされている『イティヴッタカ』でも死後の行き先は生前の振る舞いによって決まっていて、良く振る舞えば天国に行って、悪く振る舞えば地獄に行くとあるから、やはり最初期の仏教は『パーヤーシ・スッタ』の教えのように、死後の禍福のために生前良く振る舞いなさいという教えだったのだと思う。

 

『イティヴッタカ』の言及だと、それに加えて更に優れた仏教修行者は、死後、天国にも地獄にも生まれないという教えになっている。

 

『パーヤーシ・スッタ』から少し発展がみられる。

 

仏教の創始者のゴータマさんの教えがどんなものだったかは分からないけれど、仏教というのはそのように生前の行為の如何によって死後どのような"羽目"を見るかという教義を持つ宗教から派生したものであるという理解で良いと思う。

 

どの道、この記事の主題である"カルマ"については、その概念は死後の禍福のための"行い"のことという理解が最も妥当だと僕は考えている。

 

あと、『パーヤーシ・スッタ』について言及のある記事があるから、それも参考にすると良いかもしれない。(参考)

 

・追記2

原始仏典の『テーラガーター』の中で、死後に天国に生まれることを目的として戒律を守るという趣旨の言及を見つける。(岩波文庫『テーラガーター』p.133)

 

やはり、初期の仏教では天国へ行くために修行していたらしい。

 

更に同じ個所で、財産を所有することも、名誉を得ることも肯定している。

 

けれども、後のテキストではそういうことは一切駄目だし、天国に行くのではなくて輪廻の輪から外れることが目的となっているのであって、仏教って本当に色々あれだよなと思う。

 

・追記3

戦国期から江戸期の日本において、鉄よりも銅の方が高価であったということを知ることになった。

 

僕は武器としてしか鉄器と青銅器を想定してなかったけれども、考えてみたら日用品としては青銅器の方が加工しやすくて利便性が高かったのかもしれなくて、日用品ならばそれ程の頑強さや必要ない以上、鉱山が鉄に比べて少なくて、入手が鉄に比べて難しい銅や錫は鉄器時代に入ったとしてもやはり高価だったという可能性がある。

 

銅や錫の方が鉄より高価である場合は十分にあるという事実によって、『パーヤーシ・スッタ』が青銅器時代に書かれたとは言えなくなった。

 

僕は考えを刷新することに抵抗はなくて、むしろそのことは素晴らしいことだと考えているけれども、『パーヤーシ・スッタ』が仏教のテキストだとしたら、最初期の仏教は天国に行くために修行をするような宗教だったらしい。

 

バラモン教の聖典とそこら辺は大差なくて、初期の仏教教団が持っていた特殊性は何なのだろうと日々考えている。