『寄生獣』と『利己的な遺伝子』について | 胙豆

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傲慢さに屠られ、その肉を空虚に捧げられる。

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表題通りの話を以下には書いていく。

 

本来的には『ヒストリエ』の解説を書いた時についでに書いた内容なのだけれど、その時は文字数がアメブロの規定量をオーバーしたために入りきらなくなって、けれども打ち捨てるのには忍びなかったので取っておいたものになる。

 

それに何らか『寄生獣』に関する事柄を付け加えて公開しようと思っていたけれど、数か月経っても思いつかなかったので、多少の肉付けをしてそのまま公開することにした。

 

まぁとにかく持ってくる。

 

『寄生獣』という作品には生物学者にして進化論者である、リチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』に由来する描写が存在する。

 

ドーキンスは全ての生物は遺伝子を複製することを目的としていて、遺伝子は利己的であるとして『利己的な遺伝子』という本を著した。

 

まぁ、"利己的"というと自分勝手みたいなニュアンスが日本語では強いけれど、自分勝手と言うと語弊があって、別に遺伝子は自己中心的というわけではないのだけれど。

 

ともかく、『寄生獣』にはそれに由来がある描写が存在している。

 

(岩明均『寄生獣 完全版』5巻p.86,pp.88-90)

 

この一連の生物学的な講義の描写なのだけれど、この描写は『利己的な遺伝子』という本に由来している。

 

まぁ本編中で"利己的遺伝子説"という言葉が使われているしね。

 

(同上p.90)

 

この利己的遺伝子説はリチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』という著書に言及があって、まぁ概ね、『寄生獣』の先の描写は『利己的な遺伝子』に由来があると言っていい。

 

この『利己的な遺伝子』なのだけれど、名前は知っていても読んだことがない人が大半だと思う。

 

僕は読んだことがあって、日本語訳されているドーキンスの著書は半分以上読んでいるから、どういう話かは一応理解してる。

 

『寄生獣』の中で、生物が群れや仲間たちのために存在しているわけではないという事柄についての反証として、"子殺し"について話されている。

 

(同上pp.88-89)

 

『寄生獣』だと子殺しがどういうことなのかについての説明はないけれど、このことは生物が自分の種や仲間たちのために存在しているということへの十分な反証として存在している。

 

ライオンとアブの仲間、そしてハヌマンラングールと呼ばれるインドに住んでいる猿の仲間は、子殺しを行う。

 

子殺しと言うのは自分の子供を殺すわけではなくて、乗っ取った群れや、奪い取った雌の子供を殺す振る舞いのことで、ライオンやハヌマンラングールはハーレム型の生態系を持っている。

 

ハーレムと言うのは雄一匹に多数の雌という群れの形態で、その群れの雌の子供は全員一匹の雄の子供になる。

 

ハーレムの王に君臨していないライオンやハヌマンラングールの雄は、ハーレムのボスを蹴落とす形で群れを乗っ取って、ハーレムを奪い取ることでしか生殖を行うことが出来ない。

 

雌はハーレムにしかいないから、雄が生殖をするにはハーレムを奪うしかない。

 

そして、上手い事群れを奪い取った雄がまず行うことが何かというと、既にその群れで生まれていた前のボスの子供たちを皆殺しにすることになる。

 

もし、生物が種の存続のために存在しているとしたならば、その振る舞いは不合理なものになる。

 

種の存続のために生物が生きているというのに、同族の子供たちを虐殺するというのは道理に適っていない。

 

けれども、自己の遺伝子を効率よく後世に伝えるために存在しているなら、子殺しは道理に適った振る舞いになる。

 

前のボスの子を皆殺しにすることで、雌たちは新しいボスの子にリソースを全て割くことが出来る。

 

だから、子殺しというのは種の存続のために生物はあるという学説の反証として成り立つ現象になる。

 

僕は『子殺しの行動学』という、その"子殺し"を世界で初めて学術的に発表した日本人の著書からその話を知ったけれども、彼はハヌマンラングールという猿の研究をしていて、その観察に際して確認されたのが子殺しになる。

 

今はどうか知らないけれど、日本は猿の研究で世界的な権威で、その中でハヌマンラングールについての研究がある。

 

サル学の研究のためにインドの猿を観察していた際に初めて確認されたのが"子殺し"になる。

 

『子殺しの行動学』に詳しく書いてあるけれども、子殺しは別に一方的な雄の暴力的殺戮というわけでもない。

 

ハヌマンラングールはハーレムが乗っ取られた時に妊娠していた雌は流産するし、我が子を殺された雌はそのことがキーとなって発情を始める。

 

人間的な倫理観ではハヌマンラングールの行動は理解し難いけれども、進化論的な戦略としては道理に適ったそれになる。

 

別に、ハーレムが乗っ取られた時点では前のボスに操を誓っても新しいボスを拒絶しても良いし、新しいボスに我が子を殺された際に、それを嘆き悲しんで新しいボスとの生殖を拒否しても良い。

 

けれども、後世に子を残すのは新しいボスと生殖をした雌だけであって、残っていくのは新しいボスに従順である雌が持った遺伝子だけになる。

 

その新しいボスに従順な遺伝子が、ハーレムの乗っ取りに際して流産をする形質や、我が子が死んだ際に発情を始める形質を発現させるようなそれと言うだけになる。

 

そういう所を考えると、生物は種のために生きているわけではないという見解が妥当性を帯びてきて、それが故に『寄生獣』で生物学の先生は子殺しの話をしている。

 

実際、『利己的な遺伝子』の中でも子殺しについての話は存在して、生物が種のために存在しているという議論の反証として用いられている。

 

まぁ『寄生獣』のあの説明でそういう話だと分かった人なんていないとは思うけれども。

 

さて。

 

『寄生獣』には『利己的な遺伝子』というドーキンスの著書に由来する描写があるけれど、果たして岩明先生がクソ真面目に『利己的な遺伝子』を読んでいるのだろうか。

 

僕は『利己的な遺伝子』を読んでいて内容を知っているのだけれど、それを踏まえると、おそらく、岩明先生は原典訳の『利己的な遺伝子』を読んでいないと思う。

 

僕が読んだ『利己的な遺伝子』は、2006年出版の『利己的な遺伝子 <増補新装版>』だけれども、『寄生獣』連載中に読むことが出来るそれは、『生物=生存機械論』になる。

 

とはいえ、両者ともに翻訳者は日髙敏隆なのであって、僕が読んだそれも、『生物=生存機械論』も言い回しや表現に大きな差があるとは思えない。

 

その二つの本は内容は同じで、けれども表題を『利己的な遺伝子』とすると少し問題があったから、翻訳者はあえて『生物=生存機械論』という表題を据えたのだろうけれど、利己的遺伝子という言葉の知名度が高くなったから、後の出版では『利己的な遺伝子』という表題になっている。

 

一応、『寄生獣』の連載前に翻訳は存在するのだから、『寄生獣』のあの描写もリチャード・ドーキンス由来であるという可能性はある。

 

けれども、『寄生獣』で言及される利己的遺伝子説の言い回しを読む限り、岩明先生は『利己的な遺伝子』を読んでいないのではないかと思う。

 

『寄生獣』では生物を"遺伝子のあやつり人形"と表現している。

 

(同上p.90)

 

けれども、実際の『利己的な遺伝子』では"遺伝子のあやつり人形"という表現は用いていないというか、『利己的な遺伝子』の言及の内容に対して"遺伝子のあやつり人形"という表現は違和感のある言葉遣いになる。

 

別に、生物は遺伝子のあやつり人形というわけではない。

 

一応、百歩くらい譲れば「生物は遺伝子のあやつり人形でしかない」と読み取れる内容は書かれているのだけれども、実際の言及は"遺伝子のあやつり人形"ではなくて、"遺伝子の乗り物"になっている。

 

『利己的な遺伝子』では生物を遺伝子のあやつり人形としては捉えていない。

 

『利己的な遺伝子』では遺伝子にとって肉体は仮宿というかなんというか、一時的に身を置いているような場所と想定されていて、遺伝子は乗り物を乗り継いで自己複製をしているというような言及になっている。

 

『利己的な遺伝子』では肉体は乗り物(ヴィークル)と表現されていて、"あやつり人形"では少しニュアンスにズレがある。

 

『寄生獣』では、「自分の遺伝子を受け継ぐ子孫たちこそ大事なのだ」というような言及もされているけれども、これも『利己的な遺伝子』の記述内容と合致していない。

 

その様に読み取れないこともないのだけれども、話としては自分の子孫たちが大事というよりも遥かに、遺伝子の目的は自己複製であるという言及になっていて、子供が大切というよりは、遺伝子の複製が大切というような言及のされ方になっている。

 

子孫を残すことが大切だとは言及されていない。

 

このように、生物の目的が自己複製や子孫を残すことであるという発想はドーキンス寄りの進化論者に割とよく見られるそれであって、進化論者のジョージ・ウィリアムズも似たようなことを著書で言及していた。(ウィリアムズ『生物は何故進化するのか』)

 

彼らの学派では遺伝子を残すことが重要で、そのためには兄弟やいとこでも問題はないという発想を取る場合がある。

 

必ずしも我が子や自分の子孫が大切なのではなくて、血縁関係が近い個体が残っていけばそれでいい。(血縁淘汰説)

 

個人的にその発想は間違っているとは思うけれど、今回の話には関係ないのでまぁ良い。

 

岩明先生が『利己的な遺伝子』を読んでいたら、遺伝子にとっての肉体のことを"遺伝子のあやつり人形"とは言わないで、例えば"一時的な乗り物"などという表現を取るし、子孫が大切だとは言わせずに、遺伝子の複製が大切だと言わせると思う。

 

『寄生獣』の物語では田村玲子が我が子について思うところが問題なのであって、その話のための説話でしかないのだから、細かいところを言っても仕方がないのだけれども、ともかく、岩明先生は『利己的な遺伝子』を読んでいないと思う。

 

じゃあ何処で利己的遺伝子説を知ったかなのだけれども、ドーキンスの原典訳ではない本の中で紹介される内容とか、雑誌の特集とか、ドーキンスの著書を読んだ人の生物学の本、さもなければテレビの科学系の番組とかそういったもので得た情報だと思う。

 

クソ真面目に『利己的な遺伝子』の原典訳を考えるとニュアンスにズレが出るけれども、『利己的な遺伝子』の内容を分かりやすく紹介したような媒体だったならば、例えば"遺伝子のあやつり人形"という表現もあり得てくるかなと思う。

 

加えて、岩明先生は"利己的"という言葉を少し誤解している。

 

(同上p.91)

 

『利己的な遺伝子』で言う"利己的"というのは自己中心的であるという意味ではない。

 

このことは2006年に出た『利己的な遺伝子 <増補新装版>』に載ったドーキンス本人の補注に言及があることで、利己的だなんて表題を据えてしまったために、生物は自己中心的だという主張をしていると誤解をされて非常に困ったという話が言及されている。

 

『利己的な遺伝子』でいう"利己的"は、従来の種のため生物はあるという学説を否定する程度の意味しかなくて、別に自分勝手という意味ではないとドーキンス本人が確か言っていた。(うろ覚え)

 

とはいえ、『寄生獣』が描かれた時にその補注のテキストは翻訳されてなかったのだから仕方がない。

 

初めに『利己的な遺伝子』が『生物=生存機械論』という表題で翻訳されたのは、そこの誤解が発生しないようにするための配慮なのだろうけれど、新しい翻訳ではドーキンス本人の前書きが追加されていて、そこに利己的ってそういう意味じゃないよという話がされているから、『生物=生存機械論』という表題ではなくて、『利己的な遺伝子』という表題に直したのだと思う。

 

元々、遺伝学では利己的という専門用語があって、おそらくドーキンスはその文脈で利己的という表現を用いたのだろうけれど、一般語で利己的と言えば自分勝手という意味だから色々仕方ないね。

 

総括するとまぁ、岩明先生は『利己的な遺伝子』は読んでないんじゃないかな…?という話です。

 

ドーキンスは高校生向けに書いたと本文で言及しているけれども、ぜってー嘘だろと思うような小難しい本だし、そんな本は実際読まれないんじゃないかなと思う。

 

僕が読んだ『利己的な遺伝子』はハードカバーで592ページあったし、内容も高校生向けとはとても思えなかったんだよなぁ。

 

一応、大学生なら読んで理解できるような内容にはなっていて、専門的な知識や生物学の知識がなくても読めるようにはなっているから、ドーキンスはそういうことを言って、高校生向けとしているのだろうとは思うけれども。

 

最後に『利己的な遺伝子』のリンクを用意して終わりにする。

 

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2,916円

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わざわざ古い訳を読む必要性がないから、一番新しい翻訳のリンクを用意することにした。(未読)

 

ついでに『子殺しの行動学』も用意しましょうね。

 

 

こっちの方は日本人が書いたもので難しいところはないし、何より『利己的な遺伝子』と違って安く入手出来て実際面白いからおすすめです。

 

岩明先生は『子殺しの行動学』も読んでないだろうけれども。

 

読んでいたら子殺しの話をするに際して真っ先にハヌマンラングールの名前を出すのが人情だろうから、それを出していない所を見ると、伝え聞いた話で厳密に理解したということでもなしに、"子殺し"の話をしているのだと思う。

 

…『寄生獣』についての記事で、岩明先生が読んでない本のリンクを用意するってこれもう分かんないな。

 

とはいえ、僕は岩明先生が『寄生獣』を描くに際して材料にした本は『火の鳥』と『マーズ』しか知らないからどうしようもない

 

『ヒストリエ』ならねっとりとした調査で原作から何からかなり絞り込んだのだけれど。

 

そんな感じです。

 

では。

 

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