誰にでも好かれ理解される文章について | 胙豆

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傲慢さに屠られ、その肉を空虚に捧げられる。

日記を更新する。

 

今回はなんというか、表題通りの内容でそれ以上でもそれ以下でもない。

 

この記事自体は一応、僕が書いた漫画の解説などについての補足を意図している。

 

どういうことかと言うと、時たま、僕が書いた文章を読んで気分を害したり、僕が書いたものが気に入らないと言って削除を要求してきたり、良く分からない理屈でマウントを取ってきたりということが、特に漫画の解説などの記事で起きるという場合がある。

 

そのことについて、そんなものはどうしようもないという話を以下では書いていく。

 

そもそもとして、この世界に万人に好かれる人間などありはしない。

 

どんな聖人君子だろうと、どんなに偉大な人物であろうと、どんなに素晴らしい人物であろうと、批判者や敵対者は存在していて、そのような優れた人物でさえもそうなのだから、僕のような愚劣な人間の場合はそれ以上に好かれなかったり嫌われたりするのは当たり前なのであって、僕に万人に好かれる文章を書く能力はないし、この世界に誰からも良く思われる人間などは存在した試しがない。

 

原始仏典のとあるテキストにそのことについての示唆がある。

 

「 アトゥラよ。これは昔にも言うことであり、いまに始まることでもない。沈黙している者も非難され、多く語る者も非難され、すこしく語る者も非難される。世に非難されない者はいない。
 ただ誹られるだけの人、またただ褒められるだけの人は、過去にもいなかったし、未来にもいないであろう、現在にもいない。

 もしも心ある人が日に日に考察して、「この人は賢明であり、行ないに欠点がなく、知慧と徳行とを身にそなえている」といって称讃するならば、

 その人を誰が非難し得るだろうか? かれはジャンブーナダ河から得られる黄金でつくった金貨のようなものである。神々もかれを称讃する。梵天でさえもかれを称讃する。(中村元訳『ブッダの真理のことば・感興のことば』岩波文庫 1978年)」

 

これは原始仏典の『ダンマパダ』というテキストの中にある言及になる。

 

このテキスト自体はおそらく、仏教の始祖であるゴータマの直弟子がアトゥラという人物に「ゴータマを悪く言う人がいるのにどうしてお前は彼に従っているのか」と聞かれた時の答えであって、それが伝承されて残った物なのだろうと僕は考えている。

 

別にお釈迦様の有り難い言葉だからとか、仏典に書いてあるからとかそういう理由でこの文章を持ってきたわけではなくて、今から2500年も昔から、どんな人間でも非難されてきたし、ただ賞賛だけされて非難されない人間なんて当時の感覚でもいなかったということのサンプルとして持ってきただけになる。

 

原始仏典のテキストが書かれた遥か古代から誰からも非難されないような人間なんて居なかったし、どんな聖人君子だろうと敵対者や論難者は居たのであって、彼らとて批判されて万人に好かれることなどできなかったということは確かだと思う。

 

原始仏典には度々仏陀の批判者が登場していて、例えば『マハー・パリニッバーナ・スッタ』の仏陀入滅のくだりにも出て来ていたし、『ウドゥンバリカー・シーハナーダ・スッタ』という経典にも仏陀の敵対者が出てくるし、『パーティカ・スッタ』では離反者が登場している。

 

この『パーティカ・スッタ』は仏陀の弟子であるリッチャヴィ族のスナカッタという人物が、仏陀の教えに疑念を投げかけて、それに対して仏陀が答えるという物語なのだけれども、最終的にスナカッタは仏陀の言葉を裏切って、仏教教団から離れて行ってしまっている。

 

聖人君子で真理を見た(という設定)のお釈迦様でさえ弟子の一人を留めておくことが出来なかったし、『イティウッダカ』という経典には、仏陀の死後に教団を分裂させたデーヴァダッタという人物についての言及がある。

 

聖人であろう仏陀でさえもそうであったと原始仏典には書かれている。

 

仏教ではそんな感じだけれども、他の宗教も大体同じで、創始者が存命していた頃から敵対者が存在している。

 

キリスト教などはそもそも、キリストがゴルゴダの丘で十字架に磔にされていて、それは敵対者であるユダヤ教徒や裏切り者であるユダが理由であって、イスラム教にしてもユダヤ教やキリスト教とはムハンマドの存命中から敵対関係にあった。

 

そのイスラム教の話は井筒の『マホメット』って本に書いてあったことだから半信半疑だけれども、仏教もキリスト教もともかく、その聖人君子たる創始者は万人に好かれるような人物ではなかったということは確かだと思う。

 

そのことについては古代中国でも同じであって、儒教の名目上の創始者である孔子は『論語』の中に仲の悪い同僚についての話が確かあったと思う。

 

古代中国だと仏教やキリスト教などと違って、孔子はあくまで学者というか先生でしかなくて、宗教的指導者でもシンボルでもなく、あくまで重要なのは天の神様と、その天の神様の徳を受けた先王たちなのだけれども、その偉大なる伝説上の王の一人である、舜という王様は万人に好かれるような人物ではなかったとされている。

 

その話は『史記』にもあるし、『書経』にもあるし、確か『韓非子』にも書いてあったと思う。

 

舜は親兄弟から嫌われていて、屋根の上から落とされそうになったり、井戸に突き落とされそうになったり酷い目にあった人物とされている。

 

それでも舜は親兄弟に頭を下げて尽くしたということになっていて、儒教的には親に尽くすのは道徳的な正義だから、どんなに酷い目を見ても親に尽くした舜は褒めたたえられている。

 

この寓話自体が事実であるとは僕も思わないけれども、正しく聖人君子である舜が親兄弟から嫌われていたわけであって、古今東西、誰からも好かれる人物なんて存在し得ないということは確かだと思う。

 

道教の場合は老子についての批判の文章は読んだことはないけれども、荘子についての批判は『荘子』という本自体に収録されていて、外篇にその話がある。

 

墨家も宗教団体みたいなものだけれど、『荘子』に音楽や金のかかった葬式を否定する墨家の思想についての批判が書かれている。

 

この世界に非難を受けない人間はいないという仏陀の弟子の観察は、きっと正しいのだろうなと僕は思う。

 

僕は色々な漫画の解説を書いてきて、そりゃあ酷いコメントを貰ったことが多々ある。

 

それを読む度に、アトゥラへ答えた仏弟子の言葉が何度も脳裏をよぎった。

 

「アトゥラよ。これは昔にも言うことであり、いまに始まることでもない。沈黙している者も非難され、多く語る者も非難され、すこしく語る者も非難される。世に非難されない者はいない。
 ただ誹られるだけの人、またただ褒められるだけの人は、過去にもいなかったし、未来にもいないであろう、現在にもいない。(同上)」

 

まぁ結局、万人に好かれるなんてことは過去にも未来にも現在にも起きえないことだろうし、万人に好かれるなんてどんな聖人君子にも出来ないのだから、僕が如き存在に多くの人に良く思って貰える文章を書くことは出来ないし、万人に理解して貰えるそれも書けないのだろうと思う。

 

甚だしい場合は「私が不快だから文章を消せ」とかいう意見が出てくる場合もあって、お前は一体なんなんだと思ってしまうこともある。

 

テレビや広告じゃないんだから…僕が書いたのをただ読まなきゃ良いだけじゃないですかね…?

 

ある場合なんて「全部読んだけど不快だから消してほしい」というような事もあって、なんで読むのを途中でやめなかったんだ…としか思えなかった。

 

僕からしたら家畜小屋に自分からずかずかと入り込んで家畜を散々に眺めた上で、ここは臭いからどうにかしろと言っている場合と区別がつかない。

 

何故、ちょっとでも臭いと思った時に離れようと思わなかったのか、何故、臭いと分かっているのに入ってきたのか、何故、全部臭いを嗅いだ上で喚ているのか、意味不明だった。

 

不快だと思った瞬間に読むのをやめればよかったんじゃないですかね…?

 

この世界に万人から好かれる人はいないし、この世界に万人に良く思われる文章なんて存在していないと思う。

 

そして、万人から理解される文章もおそらく不可能で、どんなに心を砕いて分かりやすくと心掛けて書いても、万人に理解されることはないのだろうと思う。

 

真面目な話として、この世界にいる人間の二人に一人はIQが100以下なのであって、IQが100の人を対象に文章を書いた時点で、半分の人が理解できない可能性があるということになる。

 

現実はそんなに分かりやすい話でもないのだけれど、IQは100が平均で、それより高いか低いかでしかないのだから、二人に一人はIQ100以下という現実は確かに存在している。

 

個人的にIQという指標に重要な価値はないとは思うけれども、例え話としてIQ100の文章を書いたとしても、かなりの量の人がその文章を理解出来ないということになる。

 

僕はどんなに努力をしても万人に好かれる文章を書くことは出来ないし、万人に理解して貰えるということもないと理解している。

 

ある人にとって分かりやすい文章はある人にとって分かりにくいという場合もあるし、ある人にとっていい文章がある人には不快に思われるということも十分ある。

 

村上春樹なども確か万人に喜ばれる文章ではなくて、10人いたら数人にとって良いものを作っていきたいとなんかの本で言っていたと思う。

 

僕は村上春樹の本が嫌いで、そのことについて僕は、彼の文章と僕とでは相性が悪かったのだろうと考えている。

 

読んでてムカつくからね、しょうがないね。

 

村上春樹の文章について、ここが好まれているんだなと分かる所はあるのだけれど、僕はそこを良くは思わないどころか鼻につくし、彼の描くストーリーにはヤマもオチもないわけであって、彼の文飾が好みではないような場合、ただつまらない話が綴られている以上の感想は生じえない。

 

一方で村上春樹を好む人は沢山居て、きっと、彼らは"感覚"が好きなんだろうなと僕は思う。

 

村上の文章の感覚や、彼の文章を愛好しているという感覚が心地いいのだろうなと僕は思う。

 

一方で僕はそれを良くは思えないわけであって、個人差は絶対的に存在しているし、どうしようもない事柄になる。

 

この一連の話は、万人に好かれる文章なんて僕には書けないし、僕以外にも書けないだろうという話で、その中で特に劣った僕が書く何かなどは、人を多く不快にさせてしまうということもあると思う。

 

だからって、削除を要求してきたり、罵声を飛ばしたり、小学生並みの感想を残していく理由がイマイチ分からないけれども。

 

お前マジ何なの、と思うことが多い。

 

まぁそもそも、僕が書いたものの中で一番多く読まれているのは『なるたる』や『ぼくらの』と言った鬼頭先生の病んだ漫画の解説であって、そのようなものを愛好している人は病んでいる人も多くて、そんな人だったら良く分かんない理由で批判してきたり、対外的に攻撃的であるということは仕方ないのかなと思う部分がある。

 

実際問題として、twitterで『なるたる』関係で僕のことをフォローしている人の大体三分の一くらいが何らかメンタルを病んでいる様子があって、そういう人たちの中で特に性格が悪い人がいたならば、クソみたいなコメントも残していくかなと思う。

 

僕としてはメンタルを病んでいる人とは関わり合いになりたくないですね…。

 

精神的な症状は伝染するし、僕自身メンタル弱いというのに、そんな人たちと関わったら僕の方がひとたまりもない。

 

良く思っている人ならばそれ程に共感の情念は働くわけであって、その人の気持ちを自分のものとして感じる以上、そのような人と関われば僕の方もくたばるし、読んでいる人は僕のことを知っているつもりなのかもしれないけれど、僕は読んでいる人のことは一切分からない。

 

適当なアドバイスを与えて寄りかかられても迷惑だし、適当なアドバイスをしてそのことによってその人が死ぬかもしれないわけであって、僕はそのような事柄に関わりたくない。

 

詳しいことは書かないし、結局どうなったかは分からないのだけれど、下手したら一人殺してるんだよなぁ…。

 

色々仕方ないね…。

 

この記事で言いたいことは、僕の書いた何かを不快に思う人がいたとして、貴方に良く思われる文章なんて書けないし、書くつもりもないし、不快だと思ったところでこちらとしてはどうしようもないから、早めに読むのをやめて、自分が好きな何かに移ってほしいという話です。


漫画の解説書いているだけで罵声を飛ばされる人間の気持ちになってもらいたいという部分もあるけれど、共感の情念が働くような人間だったらそもそもそんなクソみたいなコメントは飛ばしてこないわけであって、このことについては自然災害と根本的に差はないなと思っている。

 

この記事自体は日記というカテゴライズだけれども、『ぼくらの』のサイトマップページにリンクを用意するつもりで書いていて、僕が書いた何かが不愉快なのは分かるけれども、そんなこと言われてもどうすりゃいいのさ、ということが鬼頭先生関係の記事で多いので作った。

 

こっちとしては「知wらwなwいwよw」としか思えないけれども、そうと言うと角が立つので…うん…。

 

そんな感じです。

 

では。