『ヴィンランド・サガ』の元ネタの考察 | 胙豆

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傲慢さに屠られ、その肉を空虚に捧げられる。

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書いていくことにする。

 

僕は『ヴィンランド・サガ』という漫画が好きで結構読んでいるのだけれども、読んでいる中であぁこの描写はあそこから来ているんだなと分かるようなそれがいくらかある。

 

その中で他の漫画に由来するだろう描写がいくらかあって、一方で『ヴィンランド・サガ』は北欧が舞台の漫画なのだけれども、何故だか古代中国の『荘子』で見られた発想が、特に前半で少しだけ見ることが出来る。

 

なので、そのような事柄についてとかのちょっとした記事です。

 

僕は『ヴィンランド・サガ』が好きで、それが高じて『ヴィンランド・サガ』の主人公である、トルフィン・カルルセヴニの事績について書かれた、『グリーンランド人のサガ』を図書館で借りて読んでいる。

 

そのことはもう数年前の出来事で、大学の図書館で借りて読んだから手元になくて色々なところが曖昧なのだけれど、割と洒落にならないほどにつまらなかったことを強く記憶している。

 

よく、あんなつまらない原作からあんなに面白い漫画を描けるものだと思ったし、当時の苦痛を思い出して、原始仏典を読んでいた方がまだ楽しいし、バラモン教の聖典やアリストテレスの『天体論』を読んだ時と大体等しい苦痛が読んでいてあった。

 

だから内容についてもあんまり覚えていないのだけれども、正直、『グリーンランド人のサガ』はあんまり漫画の『ヴィンランド・サガ』に影響を与えていないということは分かっている。

 

『ヴィンランド・サガ』の作中に赤毛のエイリークの息子、レイフ・エリクソンが登場するけれども、原作の『グリーンランド人のサガ』に登場する彼とはだいぶ性格に違いがある。

 

(幸村誠『ヴィンランド・サガ』1巻p.135)

 

『ヴィンランド・サガ』に登場するレイフさんは非常に優しいおじさん(お爺さん)だけれども、『グリーンランド人のサガ』に出てくる彼は暴力的な人物になる。

 

そもそも、彼の父親である赤毛のエイリークが現在の価値観だとドン引きレベルの経歴を持っていて、強盗殺人をして逃亡している。(参考)

 

そして、赤毛のエイリークはグリーンランドに逃げてきたけれども、グリーンランドという名称も彼が考えたとされていて、入植者を集めるために氷の大地であるグリーンランドを緑に溢れた土地だと偽るために、わざわざ"グリーン"という名前を付けたという説もある。(ジャレド・ダイヤモンド『文明崩壊』)

 

その息子である彼も相応の人物だったらしくて、彼はトルフィンの後にアメリカ大陸に入植を試みたりするのだけれど、それに際して、どういう経緯でそういうことをしたのかは忘れたけれども、一緒に入植するためにアメリカにやってきた仲間を拷問にかけている。

 

トルフィンの後にまたアメリカに入植を試みるということが出来たということは、その頃のレイフはそれ相応にまだ若かったということだから、『ヴィンランド・サガ』で描かれている彼よりも実際はもう少し若かったのではないかと思う。

 

それにレイフの弟については『ヴィンランド・サガ』の中でも粗暴だったとあって、彼の一族は作中で描かれるような朴訥な人格を持っていなかっただろうという推測はある。

 

(同上15巻p.104)

 

まぁ、数年前に読んだきりだから、記憶違いかもしれないけれども、どの道、レイフ・エリクソンについての描写を見る限り、あんまり『グリーンランド人のサガ』というトルフィンについて書かれたテキストは『ヴィンランド・サガ』では重要な位置を占めていないということは確かだと思う。

 

…というか、Wikipediaのトルフィンの記事に、ちゃんとトルフィンの後のレイフの入植で酷いことが起きたって書いてあるんだな。(参考)

 

ここに言及のある腹違いの妹のフレイディースとレイフは、マジお前らなんなの、ってことをアメリカの入植地でやってたし、この時にレイフは仲間に拷問もしている。

 

そういったところを考えると、あんまり『グリーンランド人のサガ』は『ヴィンランド・サガ』の製作には影響を与えていないのかもしれない。

 

トルフィンについての事績は『赤毛のエイリークのサガ』にも言及があって、幸村先生はそっちの方を参考にしたという可能性はあるし、何らかの概説書しか読んでいないという可能性もある。

 

サガの翻訳、買うと高いからね、仕方ないね。

 

僕自身、幸村先生の作品は『ヴィンランド・サガ』はかなり読んだけれども、『プラテネス』は一回しか読んでないから、幸村先生についてはあまり良く分からない。

 

分からないのだけれども、『ヴィンランド・サガ』を読んでいて、少し「ん?」と思うところがある。

 

『ヴィンランド・サガ』は中世の北欧が舞台の話で、結構キリスト教的な話題が多い。

 

ただ、僕はキリスト教についてあんまり詳しくなくて、哲学のお勉強をしている中で出会った聖書由来の判断についていくらか知っているだけで、『ヴィンランド・サガ』作中にあるキリスト教的な話についてはあまり分からない。

 

けれども、『ヴィンランド・サガ』の作中でキリスト教的な文脈で語られる話や、トルフィンの父であるトールズの話の中で、古代中国の宗教に由来するだろう描写を認めていて、今回はそのことについてです。

 

『ヴィンランド・サガ』の中には古代中国の思想書である『老子』や『荘子』に類似の発想がある描写が存在している。

 

ただ、このことは幸村先生が『老子』や『荘子』を知っていたというよりも、幸村先生が生きていた中で様々な創作物や情報に出会って、その情報を元に『ヴィンランド・サガ』を描いているのだから、その人生の中で出会った何かの中に、そういう『老子』や『荘子』、すなわち老荘の教えに由来する情報を持ったものがあったが故に、『ヴィンランド・サガ』という北欧の物語に老荘思想が見られるのだと思う。

 

日本人の文化の中には、古代中国由来の物が沢山あって、例えばお寺とかで座禅を組んで肩をペチペチやったりして、僕らはそれを仏教だと思い込んでいるけれども、あれは『荘子』という本の教えになる。

 

原始仏典や大乗仏典の原典訳のテキストを僕はそれなりに読んできたのだけれども、心を無にする目的で瞑想しているテキストには出会えたことがない。

 

仏教は中国を経由したのだけれども、その中国には『荘子』という本があって、その本の中に、心を無にするという事が優れたことであるという発想が存在している。

 

僕は実際『荘子』を読むまでそれが古代中国由来の文化だとは知らなかったけれども、もし僕がそれを知らないままに、心を無にする発想を漫画で描いたならば、それでもやはり、その漫画には『荘子』の発想が存在しているということになる。

 

今回は、おそらく幸村先生が無自覚に混入させた『ヴィンランド・サガ』に存在する『老子』、『荘子』の思想についてとかです。

 

まず、トルフィンの父であるトールズは、本当の戦士に剣は要らないと言っている。

 

(2巻p.192)

 

このことについてなのだけれども、こういう発想は『荘子』に存在している。

 

『荘子』は無為自然を最上としていて、何か人為的なものや、不自然なものを介在させるということは、その素晴らしさを害するというような発想を持っている。

 

例えば『荘子』の「天地篇」では、農作業をしている老人に「機械を使ったらもっと効率が良くなるのに」と言ったら「機械を用いることは不純であって、そんな不純なものを用いたら全てのことが駄目になる」と言い返されるくだりがある。

 

他には人為を悪として、美しい音楽を奏でる琴があって、その名人がいたとしても、その名人が奏でた時点で自然を損なっていて、琴を奏でないという状態が最もよいという話がある。(金谷 治訳『荘子』第一冊「内篇」 岩波文庫 1971年 p.64)

 

…わざわざ出典を書いたのは、僕の手元には3種類の『荘子』の訳があるのだけれど、これを書くに際して最初に手に取った『中国古典文学大系』の『荘子』の訳文が、以前僕が読んだ岩波文庫版の訳と全然違う訳になってたからで、僕は金谷訳のテキストに従いますよという話です。

 

ともかく、『荘子』の中には自然であることを上として、道具を使うということを下とする発想が存在している。

 

『名人伝』という古い小説の中で、弓の達人が厳しい修行の果てに弓の存在そのものを忘却してしまうという話がある。(参考)

 

この『名人伝』は老荘の思想の元に書かれた『列子』という本を下敷きにして書かれていて(参考)、まぁとにかく、古代中国の老荘思想の中で、道具を使わない達人こそが真の達人だという発想がある。

 

『ヴィンランド・サガ』でも真の戦士には武器は要らないという旨の言及があって、個人的にこのことは、老荘の思想に由来する描写だと考えている。

 

ただ、幸村先生が『老子』や『荘子』に詳しかったのかと言えばおそらくそうではなくて、これまでの人生の中で、そういう事柄についての情報が含まれた創作物に出会っていて、その情報が『ヴィンランド・サガ』に含まれているだけだと思う。

 

実際、『バガボンド』という宮本武蔵が主人公の漫画は、そういう老荘思想が沢山用いられている。(参考)

 

例えば『バガボンド』があるけれども、そういう作品が思いの外沢山あって、幸村先生がそういったものを見たり読んだりした経験があるのだと思う。

 

その『バガボンド』には実際、真の達人には剣は必ずしも必要ないという話も存在している。

 

(井上和彦『バカボンド』7巻p.182)

 

『バカボンド』は途中から畑耕し始めるし、『ヴィンランド・サガ』もヴィンランド開拓のために必要とはいえ畑を耕し始めるということを考えると、幸村先生は『バカボンド』の読者で、そういうルートから達人に剣は要らないという情報が入ってきたのかもしれない。

 

他には『ヴィンランド・サガ』の中には、死を最上とする話がある。

 

(6巻pp.57-67)

 

キリスト教について、僕は聖書を全然読んでいないからあんまり詳しくないのだけれど、この発想はあんまりキリスト教的ではない。

 

キリスト教の中に平等と愛についての思想はあるけれども、死を是とするような発想があったような記憶がない。

 

キリスト教は産めや増やせやということを是としていて、殺しや自殺について強い禁忌を持っている傾向性がある。

 

実際、キリスト教のカトリックという宗派では、精子を殺すからという理由で自慰行為が禁止されているし、子供を作る目的以外の性行為を認めていないからコンドームの使用も許されていない。

 

ヨーロッパでカトリック系の大学の宿舎に入ると、学生たちが自慰行為をしていないか見るために、夜に見回りがあると僕は聞いたことがある。

 

そういう教義を持つ宗教だから、このように死を是とするような発想はおそらくない。

 

一応、異端とされたカタリ派などのグノーシス主義の宗派は死を是とするけれど、『ヴィンランド・サガ』ではグノーシス主義の文脈で死を是と語っているわけではないのだから、細かい話はまぁいい。

 

加えて、自然を素晴らしいものとして描いているのだけれども、西洋世界においては自然は征服される対象になる。

 

この時代はどうかは分からないけれども、17世紀のイギリスの哲学者はフランシス・ベーコンは自然を征服し支配する対象だと言及している。(参考)

 

ヴァイキングの話だから、少し事情が変わってくるのかもしれないけれども、基本的に西洋では自然は支配する対象であって、個人的にこの『ヴィンランド・サガ』の描写はあまり西洋的な発想ではないと感じている。

 

一方で、『荘子』の「至楽編」中には死を是とするような発想がある。

 

荘子が骸骨と夢の中で会話して、死んでしまえば煩うものは何もないと言う。

 

…ここでカタカタ書き写そうと思ったけれども、ウェブ上に翻訳があったのでそれを参考にしてください。(参考)

 

若干ニュアンスに差異はあるけれども、骸骨は死んでしまえば上も下も区別がなくなってしまうと言って、『ヴィンランド・サガ』では死ねば人に対する差別はなくなると言及している。

 

その差別についてなのだけれども、キリスト教では神が平等に人を愛しているし、神の前では人は平等であるという話ならあるけれども、あくまで語られる平等は神からの平等であって、『ヴィンランド・サガ』で語られる愛は若干ニュアンスがズレているように思える。

 

一方で、『荘子』にも差別についての話はあって、虫も人間も木々も"道"というあり方の前には差別はないという発想を持っている。

 

人為を悪として、自然を善とする発想は非常に『荘子』的な挿話になる。

 

キリスト教の平等はあくまで人間の話で、自然物すら平等だという発想はあまりないと思う。

 

『ヴィンランド・サガ』ではそのようなものこそが愛を持っていると語っているけれど、これはあまりキリスト教的ではない。

 

キリスト教は人間中心主義的で、あまり自然を称揚する発想はないのだけれども、中国の思想の中ではそういうことはままある。

 

特に『荘子』では自然であることが最上なのだから、おそらく、そういう風に『荘子』の文脈で自然を褒めたたえた何らかの作品を幸村先生が読んだことがあるのだと思う。

 

実際に幸村先生が『荘子』を読んだとは思えないけれども、そういう情報を含んだ創作物に出会ったことがあるのだと思う。

 

・追記

アリストテレスが"自然法"についてどのように言及していたかが気になって調べるという意味不明な行為の最中に、『岩波哲学・思想事典』を開いていたら、中国仏教では鉱物や植物にも仏の心である仏性が宿るという発想があるという記述を見つけた。(『岩波哲学・思想事典』「万物一体説」)

 

こういう発想はあまり西洋世界では見られない。

 

一応、西洋だと確か哲学者であるディドロの著書の中にそのような言及があったと思うけれども、ディドロの言及は中国由来のそれだと思う。

 

僕が知っている限り古代中国では2~3世紀に書かれた『抱朴子』で既にそのような無機物に生命が宿るという話は存在していたから、まぁ古くから中国にある発想なのだと思う。

 

追記以上。

 

加えて、この老荘の思想は仏教が中国を経るに際して、禅宗などにその教えが吸収されたのだけれども、『ヴィンランド・サガ』の中で仏教的な話がある。

 

 

(17巻pp.76-77)

 

赦しというのはキリスト教的な話なのだけれども、怒りを抑えろというのはあまりキリスト教的な発想ではない。

 

そもそもキリスト教の神は怒れる神で、人々に災厄や天罰を与えるような概念だから、怒りそのものは別に禁忌であることもない。

 

一方で仏教では怒りは原始仏教時代からの歴史の古い禁忌になる。

 

原始仏典だと中部経典の『カカチューパマ・スッタ』に怒りについての言及がある。

 

個人的に激情を禁忌とするような発想はそういう仏教文化由来なのではないかと思うけれども、キリスト教的な文脈で相手を赦しなさいと言うとしたら、別に怒りについての禁忌がなくてもフラヴンケルのような言い方に十分なり得るから、その言及が日本にある仏教文化由来だとは言い切れない。

 

とはいえ、ローマ教皇のボニファティウス8世は最後怒り狂って"憤死"したということを考えると、あんまりキリスト教に怒ってはいけないという発想はないと思う。

 

もし、怒りが悪だったら、教皇が怒って死んだというエピソードは恥なのであって、そのようなエピソードが残っているとは想定しづらい。

 

幸村先生の中で宗教の話ということで、仏教についての情報と、キリスト教についての情報とかが若干ごちゃ混ぜになっているのかもしれない。

 

他には、こんなことをわざわざ言及する必要があるのか分からないくらいあからさまな描写について一つある。

 

このシーンについて。

 

(16巻pp.83-86)

 

なんつーかこう、ナウシカですよね…。

 

(宮崎駿『風の谷のナウシカ』1巻pp.24-25)

 

ここまで来るとパロディとして意図的にやっていると判断したほうが良いのかもしれない。

 

最後にガルムの槍術は『シグルイ』の"流れ"が元ネタだと思う。

 

(19巻p.131)

 

全く同じ発想が、時系列的に先行している『シグルイ』という漫画の中に存在している。

 

(山口貴由『シグルイ』2巻pp.30-31)

 

これは普通に『シグルイ』が元ネタということで良いと思う。

 

偶然同じ発想に至ったと考えるより、『シグルイ』を読んだことがあると判断したほうが自然だと僕は思う。

 

ちなみに、『シグルイ』の中には『老子』からの引用もあって、知らず知らずのうちにそういう老荘思想的な発想を見聞きするということはあり得ることだと思う。

 

(山口貴由『シグルイ』6巻pp.136-137)

 

ここで書かれているモノローグは『老子』の第36章が出典になる。(参考)

 

もし、ガルムの槍術が『シグルイ』由来だとするならば、幸村先生は『シグルイ』を読んでいる以上、この『老子』の思想に触れているわけであって、こういう風に無自覚的に古代中国の情報に触れているということはあり得ることだと思う。

 

幸村先生が出会ってきた創作物の中に、なんかそういう老荘思想的な情報を伴っているようなものがあったんでしょうね。

 

これくらいかな。

 

どうなんですかね。

 

どうなんでしょうね…。

 

とりあえず、記事の表題は解説にするか考察にするか迷ったけれども、記事の中盤辺りが少し微妙なので、考察という表現を選ぶことにしました。

 

そんな感じです。

 

では。

 

・追記

Wikipeidaにある、『グリーンランド人のサガ』の記述(参考)と、『赤毛のエイリークのサガ』の記述(参考)を読み比べると、『ヴィンランド・サガ』の記述は、『赤毛のエイリークのサガ』に近い内容なのだろうという推測が出来る。

 

多分、幸村先生は『赤毛のエイリークのサガ』を下敷きにして、『ヴィンランド・サガ』を描いているのだと思う。

 

僕は『赤毛のエイリークのサガ』を読んでいなかったし、どっちか読めば良いだろうと思って『グリーンランド人のサガ』しか読まなかったから、まぁ色々仕方ない。

 

というか、『グリーンランド人のサガ』がつまらな過ぎて、もう一つ同じクオリティの作品を読むことを考えると、読み終える前に禿げあがると思える程のものだったから、『赤毛のエイリークのサガ』を読まなかったのはしょうがないね。

 

幸村先生が『グリーンランド人のサガ』を読んだかどうかは定かではないけれども、基本的に『赤毛のエイリークのサガ』が『ヴィンランド・サガ』の骨格であるということで良いと思う。

 

けれども、Wikipediaの記事を読む限り、レイフの弟は『赤毛のエイリークのサガ』ではヴィンランドに辿り着けていないので、『ヴィンランド・サガ』は完全に『赤毛のエイリークのサガ』に則っているということもない様子ではある。

 

良く分からないけれども、基本は『赤毛のエイリークのサガ』が元で、ちょくちょくオリジナル要素や『グリーンランド人のサガ』の情報があったりとかそんな感じなのかもしれない。

 

・追記2

この記事の内容は趣味に走りすぎてどうかと思っていたので、新しく元ネタの解説記事を書きました。(参考)

 

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