書いていくことにする。
今まで書いてきた色々なことを前提にしてこの記事は書いていくから、この記事から読んでいる人は目次のページに行って最初から読んできてください。
特に僕はカコ編を解説したときに、コモ編に展開の変更があっただろうという話をしていて、その説明を読んでいないと何言ってるか分からないと思う。(参考)
前回まででキリエ編までの解説が終わった。
コモ編は最初、コモがピアノ教室でピアノを弾いているシーンから始まる。
(6巻pp.100-102)
僕は音楽的な素養がないから良く分からないのだけれども、小学生が聞いても音のつまらなさとかが分かったりするのだろうか。(コモは中学一年生で、そのコモを先輩と呼んでいるので彼女たちは小学生)
良く分からない。
ソナチネって言うのはまぁ、ピアノの曲とかのことです。(参考)
よう知らんけど。
ここで名前が出てきている、ラベルのソナチネはWikipediaに説明がある。(参考)
あと、YouTubeにも動画があった。(参考)
Wikipediaのソナチネの記事に、ラヴェルのソナチネは優れた技巧や洗練された音楽性が必要と書いてあるから、コモがこの曲を弾くというのはおそらく、コモのピアノの技量が高いということを示しているのだと思う。
…読者の中にそれを理解できた人がどれだけいたのかは分からないけれども。
クーラウって人やクレメンティーって人のソナチネもググれば聞けるのだろうけれど、そんなもののURLを用意したって誰も見やしないので、特に用意しないし調べもしない。
コモのピアノについての挿話がされた後に、コモの回想が始まる。
(6巻pp.103-104)
コモは本は傷付けないし、裏切らないって言っているけれども、言うほどそんなことあるのか?と思う。
少なくとも僕は鬼頭先生の『なるたる』で傷付けられたんだよなぁ…。
それと以前に、コモの頬のコケについて書いたけれども、このシーンがコモの頬のコケについて確認できる最後のコマになる。
まぁ普通に鬼頭先生がコモの悲壮な情動を描ききれなくなって、コモの描写の中で、精神的な苦しみのようなものが以後登場しないのだと思う。
本来的に精神的に追い詰められたであろうコモのなのだけれども、続く回想の中でコモが苦しんでいると判断できる描写が存在していない。
全体的に何か清々しい気持ちで、自分が死ぬということに若干の寂しさは存在している様子ではあるけれども、精神的に追い詰められているという風には読み取れない。
(6巻pp.107-112)
『なるたる』期で見たような、『ぼくらの』のカコ編で見たような、陰鬱な情動はここには見い出せなくて、物凄く晴れやかな気持ちをコモは述懐している。
病んでいる人は世界は美しいとか言わないからなぁ。
創作物に作者の精神状態が反映されるということはままあって、『シグルイ』の山口先生なんかは主人公が腕を失うシーンを描いたときに、あまりに主人公の喪失に共感してしまったが故に、続きが描けなくなったと述懐している。
そういうことは多少なりともあるから、なんかよう分からんけど、鬼頭先生の体調はこの頃には既に良くなっていたんだろうなと個人的に思う。
いつ頃から鬼頭先生の体調は良くなったのだろうかと僕は考えて、『ぼくらの』で鬼頭先生が描く迫真の表情を検証したのだけれども、大体、カコくんの表情までは迫真と言えて、それ以降は若干迫真さが薄れてくるということが分かった。
(3巻p.125)
このような迫真の表情は、カコくんの時が一番多くて、いくらかチズ編でも見れなくはないけれども、それより後は存在していないと言えると思う。
チズ編で大体良くなり始めたという理解で良いと思う。
チズの時は、迫真の表情を描いても良いシーンで、けれども、そこまで迫真ではないような場合が多い。
(3巻p.162)
この場面でこの状況なのだから、もっとチズは迫真の表情をしても良いと思う。
カコは男の子で鬼頭先生は男性だから、女性の情動を上手く表現できなかったという可能性もあるけれども、『なるたる』の時は男女問わずチリチリとした焦燥感をこちらまで抱いてしまう表情だったので、そういうことではないのだと思う。
…ここで僕は鬱的な症状は良くなったり悪くなったりの波があるから、チズ編でも迫真の表情はあって、この時は気分の波が下の方だったのだろうという話をしようと思って、チズの迫真の表情を探したのだけれども、改めてチズの表情を見てみて、特に迫る情動を抱いてしまうような表情をしているシーンを見つけることが出来なかった。
若干こことか迫真かな?とは思うけれども、目が生きてるんだよなぁ。
(4巻p.33)
『なるたる』の時とかヤバいくらい目が死んでいたので、そういう所を考えると、チズ編の時には既に若干良くなり始めていたのだと思う。
まぁ僕の主観的な判断だから、違う人が見たら違うように理解するようなものでしかないとは思うけれども。
とにかく、コモは元々精神的に追い詰められる想定だったということが推測出来て、けれども、実際に描かれたコモ編はそういう描写がなかったということは、鬼頭先生の健康状態の改善に理由があると個人的に思う。
コモ編に話を戻すと、コモはマキが世界を守って戦ったということを受けて、気持ちが前向きになったらしい。
(6巻pp.107-108)
コモはこう言っているけれども、別にマキ編が終わってもコモの頬はこけたままだったんだよな。
(6巻pp.81)
最初からコモがマキの戦闘で気持ちが前向きになったという話を作ろうと考えていたならば、キリエ編の時にコモの頬がこけているのは変な話だから、いざコモ編を描き始めて展開を変えるに際して、マキの戦闘が理由で気持ちが前向きになったという話を思いついて、その思い付きが採用されたのだと思う。
他には、世界の一部のことしか本には書かれていないとコモは言っている。
(6巻p.119)
これについてはおそらく、岩明均先生の『ヒストリエ』に由来する言及だと思う。
鬼頭先生は岩明先生の漫画のファンなのだろうという話はしたけれども、『ヒストリエ』の中に似たような言及がある。
(岩明均『ヒストリエ』2巻p.190)
クソ真面目に『ヒストリエ』のこのシーンと、『ぼくらの』のコモの述懐と、どちらの方が時系列的に先行しているか調べたのだけれども、しっかりと『ヒストリエ』の方が先行していた。
他にも若干見て取れる岩明先生の漫画にもある描写を考えると、コモのあの言葉は『ヒストリエ』のこのシーンが由来なのではないかと思う。
…どうでも良いけれど、『なるたる』で小森がシイナの顔を作って、パイロットに知っているか聞くシーンがあるのだけれど、あれは岩明先生の『寄生獣』で探偵の顔を実際作って情報伝達をしたあのシーンが元なんだろうなと思う。
『なるたる』の竜の子が自由自在の不定形なのも、もしかしたら『寄生獣』のパラサイトの性質に若干の由来があったりするかもしれない。
このあと、コモの述懐に挿入される形で、ジアース関連についての報道の話がある。
(6巻pp.114-115)
この挿入はコモ編で敵をおびき寄せるために情報を報道するに際しての伏線で、ついでに読者にも政府はそういうことを伏せてますよと言うことを伝達するアナウンスでもある。
加えて、カンジ編で負けたら地球が滅亡というところ以外は全て報道するのであって、そういうことも想定していると思う。
この後はまたコモはマキの親に電話をする。
(6巻pp.116-117)
時間帯的に出たのはマキの母親だと思う。
話としては、マキの両親はまだマキを探していているということを読者に伝達したり、彼らがコモについての報道を見た時のあのシーンを描くのための伏線としてのやり取りになる。
(6巻p.171)
ただ、コモの方がマキの両親にコンサートを見に来てほしいと電話をする動機が良く分からない。
普通の神経を持ってたらそんな電話はしないと思う。
日本だと特に喪に伏したり謹慎したりという文化があるから、行方不明の我が子を探している夫婦に、自分のコンサートに来てほしいと自分から電話して伝えるだなんて事を日本人はあんまりしない。
鬼頭先生の漫画の登場キャラクターは、こういう風に鬼頭先生が設定したイベントをこなすけれども、一方で情動の方は鬼頭先生が想定していないという場合が結構ある。
キリエにチズがナイフを渡すイベントはあれども、チズがキリエにそうする動機はないし、マキがナカマが作ったユニフォームの残りを作るけれども、マキが一人でそういうことをする動機がない。
頭の中でイベントを想定して、漫画を作るに際してそのイベントをキャラクターにこなさせるけれども、動機の方は設定し忘れるということが鬼頭先生の漫画では多い。
『なるたる』でも何か所かある。
話を戻すと、この後コモは父親について考える。
(6巻pp.118-120)
ここでコモは自分は父に良く思われていないのではないかと考えている。
なのだけれども、このことについては特に本編中で拾われていないし、そもそも数ページ後で、コモの父親が家族団欒の中でピアノを弾いてみたというシーンがある。
(6巻p.128)
こういう日常があるのに、コモは父親に嫌われているのではないかと思っているのはチグハグした話だよなと思う。
おそらく、本来的にコモの物語は、精神的に追い詰められまくってそれでも戦って、ハムバグに一回敗北して、そのせいで多くの人に迷惑をかけて、そのことで更に追い詰められて、父親により嫌われたと思ったり、死ぬというのにコンサートに行かなければならないということに対して精神的に追い詰められたりしたけれども、最後の演奏に際して父親に自分が愛されていると知って、そのことでピアノに向かう気力が沸いてピアノを弾いて、その演奏を敵のパイロットが聞いてウシロたちの地球に勝利を譲るとかそういう話だったのだと思う。
そういう話だったら、コモが嫌われていると思い込んでいたりする話や、精神的に追い詰められていたという話も機能するから、元々はそんな感じだったんじゃないかなとおぼろげに思う。
『ぼくらの』序盤のコモの父親の表情だと、コモが嫌われていると思っても仕方がないと思うけれども、娘が習っているピアノに挑戦して上手く弾けなくてしょぼくれている父親を見ておいて、自分は嫌われていると思っているのは変な話になる。
(3巻p.35)
このシーンもコモ編のための伏線だったのだろうし、続くアンコ編も父親との関係性の話だから、おそらくそういうことも最初は想定してのコモ編からのアンコ編だったのだと思う。
けれども、僕が展開を変更したのではないかと勝手に言っているだけで、本当のところは分からない。
ちなみに、コモの父親は『子供のバイエル』を弾いたって言っているけれども、これはピアノ教室で初学者の子供に渡されるテキストで、『赤のバイエル』とか色で区別されている。と思う。
やってて一切楽しくなかったから、ピアノのこと全然覚えてないんだよなぁ。
何より向いてなかったからね、仕方ないね。
まぁいい。
この後、コモがこれから死ぬという話を聞いてコモの母親が倒れたことや、ピアノについてとか色々考えている時に、コエムシが現れて戦闘が始まる。
敵の名前はハムバグ。
(6巻p.132)
ハムバグについては6巻の巻末に鬼頭先生の言及がある。
(6巻p.197)
ジアースのデザインの流用ではないそうだけれども、ジアースと同じで子宮をモチーフにしたロボットということで良いと思う。
右下のイラストとか、骨盤と子宮と判断して問題は感じられない。
ハムバグvsジアース戦については特に解説できることはない。
あんまり強くないハムバグをボコってたら、それは敵の策略で、砕けたパーツから触手が出てきて、コクピットを抜かれてチェックメイトしたという以上の説明はない。
なんとなく、こういうパーツが散乱してそのことで敗北するという話は、『寄生獣』の田村玲子と草野さんとの戦いを思い出す。
…ばら撒かれた破片が実は罠で、それが故に負けるのであって、ハムバグ(Humbug)は騙すって意味の動詞だから、『寄生獣』が着想元ってことはあり得るのかもしれない。
他にはハムバグの光点が残り二つで、鬼頭先生もハムバグは強い機体だと考えているとか、それなのに打たれ弱くて、カンジや田中さんたちが訝しむというシーンがあるけれども、読んでいたら分かるような問題だと思う。
ちなみに、ハムバグはあんまり強くない。
地上タイプには強いけれども、飛行能力を持つタイプの敵にはめっぽう弱い。
特にバヨネットとか、勝ち目ないんじゃないかなと思う。
この後、敵のコエムシがやってきて、パイロットが逃亡したということを伝えて、残りの47時間以内に敵のパイロットを見つけ出さなければならないという話が続くけれど、特に言えることは何もない。
しいて言うとするならば、この場面でマチがコエムシの表情について言っているのは、普通に二人が兄妹だからだと思う。
(6巻p.157)
あと、敵のコエムシがコモの顔をじっと見ているけれども、おそらくこれは、敵のパイロットが自分の娘を殺されたことに関係がある。
敵のパイロットは戦闘を放棄したのだけれども、もしかしたらコモを殺せなかったからなのではないか、と僕は今ふと思った。
(6巻pp.148-149)
ロボットの視界がどのような感じで表示されているのかは良く分からないけれども、触手の向かう先が見えていなければ、パイロットの頭部に触手を向かわせることは出来ないわけであって、けれどもしているところを見ると、敵のパイロットにコモの顔は見えているのだと思う。
そして、殺そうとしたけれども、自分の殺された娘と同じくらい年齢の女の子だと分かって、殺せなかったが故に戦闘放棄をしたと考えればまぁ話は通る。
そうだとしたならば、先の敵のコエムシの意味深な視線も文脈が通るので、もしかしたらそういう意味なのかもしれない。
(同上)
そうして、敵のパイロットが逃走したというところで、コモ編の第二話が終わる。
コモ編の第三話には、鬼頭先生の作る世界観についての話があって、その解説をするに際して、精神分析家のユングの話や、錬金術の話、ラテン語の話、哲学者アリストテレスの話をしなければならなくて、その作業が辛かったので、三か月も更新が遅れた。
しかも結局、アリストテレスについては詰め切れなかったんだよなぁ…。
まぁ12月末の時点で、アリストテレスはやらなくていいとは分かっていたのだけれども。
とにかく一区切り。
今日中に続きを書くかも知れないし、明日以降の僕に託すかもしれないけれども、いったん休憩です。
では。