太平洋戦争史と心霊世界 -20ページ目

太平洋戦争史と心霊世界

海軍を中心とした15年戦争史、自衛隊、霊界通信『シルバーバーチの霊訓』、
自身の病気(炎症性乳がん)について書いています。


勿忘草 



 病気になりました。

 

 本当は私事など、自分が衆目の的になると思うと非常に恥ずかしくなるため、ブログに書きたくありません。が、それなりの理由があります。

 

霊界通信にある病気関連の記事については、健康体の人間が指摘すると上から目線の傲慢記事になってしまうと思い、今まで掲載できませんでした。

 

 でも今回、自分が病人の目線を得たことで、以後書けることになりました。また何か関連の有用な情報も出せたらと思います。

 

 今後はいつまでブログも続けられるか分かりませんが、よろしくお願いいたします。

 

 病気になってもなお、死は自分自身の終焉ではないという、確信は変わりません。


 霞ヶ浦駐屯地の記事はこれが最後です。広報センター前にある霞ヶ浦海軍航空隊時代の史跡と、陸上自衛隊の装備品をご紹介します。



霞ヶ浦駐屯地1  第一海軍航空廠時代に本庁舎前に設置されていた消火栓。

 

 ここの海軍航空廠では、桜花など海軍戦闘機の開発が行われていました。


霞ヶ浦駐屯地2 

海軍にも消防隊があって、地方の消防活動に貢献していました。海上自衛隊にも消防車ありますね。


霞ヶ浦駐屯地3 
「総決起の月」記念碑。総決起の月とは何なのか?

 

「昭和十九年十月 総決起の月記念」とあります。第一航空廠時代、航空エンジン試験場の裏に防火水槽を作ったのを記念して、水槽北側の壁に刻んだものです。


霞ヶ浦駐屯地4  広報センター前に、陸自の装備品展示場があります。


霞ヶ浦駐屯地5 61(ろくいち)式戦車の展示は初めて見ました。


霞ヶ浦駐屯地6 

61式は砲塔に特徴があるからすぐわかりますね。左隣は以前掲載した74(ななよん)式戦車。

 

 最高速度を見ると、61式が45km74式が53km90式が70km10式が70kmなので、次世代戦車も70kmどまり?最高速度70kmというのも、何か理由があるのでしょうね。


霞ヶ浦駐屯地7  74式自走105mmりゅう弾砲。

 

1974年に採用された自走榴弾砲(りゅうだんぽう)。榴弾砲は砲身が短く、射程も短距離で低初速の火砲です。

 

これは自走砲(特科)ですが一目見て、砲身の短さなどから戦車(機甲科)じゃないってわかりますね。最近は自衛隊の装備品の区別も何となく分かるようになってきました。


霞ヶ浦駐屯地8  60式自走迫撃砲。(退役済み)

 

 60式というので60年代開発でしょう。自走砲と言っても特科ではなく、普通科に配備されていたそうなので、自走砲だから特科とは限らないのですね。

 

 迫撃砲というのに砲塔がありません。どう攻撃するのかと調べたら、迫撃砲を搭載するらしいです。


霞ヶ浦駐屯地9  73式装甲車。人を乗せる輸送車です。

 

 装甲車も普通科、機甲科など複数の職種へ配備されるようです。他の方のブログで拝見したところ、通信科ではアンテナを立てるなど、職種に特化した使い方をしていますね。


霞ヶ浦駐屯地10  64式対戦車誘導弾(右)、81式短距離地対空誘導弾(左)

 

64式対戦車誘導弾は日本が戦後初めて開発した対戦車ミサイル。誘導弾も標的によって対戦車など細かいですね。


霞ヶ浦駐屯地11 

64式対戦車誘導弾、普通科で上の画像のように使用していました。1960年に制式化、1980年に製造終了。


霞ヶ浦駐屯地12 

 霞ヶ浦駐屯地は補給処ということで、装備品展示にも力を入れているんでしょうね。やはり郊外のスペースがふんだんにある駐屯地は展示物も多いです。


 5月18日、陸上自衛隊の霞ヶ浦駐屯地を訪問しました。その際に見学した広報センター(資料館)をご紹介します。


広報センター1  霞ヶ浦駐屯地・広報センター入口。


広報センター2  1階に展示されている桜花の模型。

 

ここ霞ヶ浦駐屯地は戦前、霞ヶ浦海軍航空隊が駐在していた地でもありました。そのため海軍関連の展示品が多数あります。


広報センター3  2階の展示室半分。こちらは海軍関連の陳列。

 

 現在は陸上自衛隊の駐屯地ですが、戦後なぜ海軍後継の海上自衛隊の基地などにならなかったのかお訊きしたのですが、内陸部だったからという事でした。

 

 では海軍関連の特徴ある展示品を取り上げます。



広報センター4 

高須四郎・海軍大将の礼装と長剣。

 

茨城県桜川村(現稲垣市)出身なので、ここに展示されているんですね。


広報センター5 

高須四郎大将、18841944年、享年59

 

 兵学校35期、海軍大学校17期。駐英武官、その後5.15事件での軍法会議の判士長を勤める。海軍大学校長、日中戦争では第一航空戦隊司令官を歴任。

 

昭和193月、古賀峯一連合艦隊司令長官が戦死すると、後任の豊田副武大将が着任するまで一時的に連合艦隊司令長官の指揮を代行。



広報センター6 

「大空の女神」と呼ばれた藤田多美子女史胸像(水戸在住)。

 

「多美子さんは、昭和151128日、開戦気運が高まる中、相次ぐ航空機事故で命を落とす軍人たちを目の当たりにして、『何かお国のために、女ながらお役に立ちたい』との切望のもと、陸軍航空通信学校の飛行場の一隅にあった井戸に、身を投じ、わが身、わが心、わが命を飛行機事故が起きませんように、一人も犠牲者が出ませんようにとの祈りを込めて身を没しました。享年22歳のことである。」


広報センター7 

藤田多美子さん

 

 ・・・人柱のつもりだったのでしょうか?



広報センター8  藤田信雄海軍兵曹長(19111997年)

 

 この方は唯一、米国本土を爆撃した帝国海軍飛行士です。19429月に2回、オレゴン州ブルッキングスの森林に水偵で焼夷弾による爆撃を行いました。


広報センター9  藤田信雄海軍兵曹長の母艦、伊25号潜水艦。ここから水偵で飛び立ちました。


広報センター10 

爆撃地であったオレゴン州ルッキングスは、地図上でカリフォルニア州の上、太平洋沿岸にあります。


広報センター 
 左)藤田兵曹長の零式小型水上偵察機
右)藤田氏が投下した焼夷弾の破片とオレゴン森林の木片


広報センター  1985年、レーガン大統領から日米友好に寄与したことを賛辞され、「英雄」藤田氏に贈られた写真入りメッセージ

 

 

 戦後の1962年、アメリカ政府から渡航を求められた藤田氏は、てっきり戦犯として裁かれるのかと思い、自決用の先祖伝来の日本刀を持ち渡米しました。

 

 しかし到着してみると、藤田氏はフェスティバルの主賓、「敵国の英雄」として招かれたのであり、真相を知った藤田氏は日本刀をブルッキングス市に寄贈しました。

 

 藤田氏はその歓待ぶりに感激し、お礼として自費でブルッキングスの女子学生3人を日本に招待しました。自分の衣類は勤務先の作業服のみ、娯楽は最低限の本のみと切り詰めて、節約の末の招待であったということです。


米軍 


 終戦直後、ソ連軍から邦人居留民4万人を救った駐蒙軍司令官、根本博がまだ中国に滞在していた時の出来事です。

 

昭和208月の終戦後、中国にも米軍が上陸してきましたが、根本に中国人の友人が次のような話を語っていました。

 

「アメリカの憲兵将校が、酔っ払ったアメリカ兵に説教しているのを、その中国人が聞いたそうだ。

 

『お前らは勝利に奢(おご)り、そんな醜態を演じているが、あの日本人を見ろ。あの人たちは北京に来て数十年、短くても数年は苦労して財産を築いたんだ。

 

軍隊が戦争に負けたというだけで、民間人のあの人たちの汗と涙の結晶である財産を奪われ、リュック一つで本国に追い帰されるんだ。

  それにもかかわらず、彼らは泣きわめくこともせず、整然と隊列を組んで住みなれた北京の地を去って行くではないか。

 

恐ろしいのはこの人たちだ。お前たちのように毎日毎晩、酒をくらって酔っ払っていると、そのうちこの人たちに征服されてしまうぞ。

 

なるほど日本人は戦争には負けたが、女性や子供までが黙々と日本に引き揚げていく姿は、さすがに大国民だ。敬服する。

 

その人たちがじっと怨念をこらえて日本を再建してみろ。そのときこそ世界の脅威となろう。いいか、お前たちも勝利に奢ることなく、この人たちを直視するんだ。悲しみにじっと耐えている。それがつもりつもって爆発したときが恐ろしい』

 

と涙を浮かべ、日本人をほめたたえていたという」

 

 アメリカ人が語る引き揚げ日本人の姿は、東日本大震災でも表された通り、現代日本人とも共通する気質を持っています。

 

民族的特徴は数十年を経ても容易に変わらないようで、興味深い見聞です。

 

 

『戦略将軍 根本博』-ある軍司令官の深謀、小松茂朗、光人社、1987


チューリップ 


シルバーバーチなど高級霊の語った霊界通信をもとに、死んだらどうなるのかを解説しています。

 

現在は、人間が死んで霊界入りしてから行く最終目的地、「霊界」での生活について掲載しています。

 

今回は霊界での生活です。霊界でも地上に似た生活が営まれていますが、内容的にはさらにレベルアップしたものとなります。


霊界一覧図
 

 クローバー 

 

■霊界の博物館

 

 

赤字はシルバーバーチの言葉)

 

「コンサートとか演劇とか博物館のようなものもありますか」

 

 

「博物館は大きな建物――学問の殿堂(ホール)の中に設けてあり、そこにありとあらゆる種類のコレクション――地上の全歴史にわたる資料から霊界の興味ぶかい、生活形態を示すものまでが展示されております。

 

例えば地上に存在しない花の種類があります。そのほか人間の知らない自然の様相(すがた)がたくさんあります。そのサンプルがホールに陳列してあるのです」

 

 

 

【解説】上記は『シルバーバーチの霊訓』からの抜粋ですが、推察すると霊界にも地上にあるような、自然科学や人文科学分野の博物館が存在するようです。霊界の施設は地上とは違い、もちろん無料です。

 

 霊界通信『ベールの彼方の生活』でも、地上人類の歴史が見られる博物館が登場する場面があります。


雲 
 
 

 

■霊界の書物

 

 

 

「書物なら実にたくさんあります。地上にある本の全ての複製もあります。地上にない本もたくさんあります。

 

こちらには芸術の全分野の資料を集めてある巨大な建造物(ホール)がいくつもあり、その中に印刷物も含まれております。あなた方が興味を抱くものならどんなものでも用意してあります」

 

「誰れが用意するのですか」

 

「著述の専門家、書物を用意することを専門にしている人たちです」

 

「霊が手に取って読めるようにエーテル質で出来ているのですか」

 

「もちろんそうですとも!」

 

 

 

【解説】霊界にも本はあります。しかも地上で出版された全ての本のコピーもそっくり存在します。また霊界独自のあらゆる本が保存されています。

 

 霊界にも図書館司書のような役割を受け持つ霊がいて、書籍類の管理を専門に担当しているようです。

 

 霊界の本は空気のような実体のない物ではなく、手に取ればもちろん固く実感があります。一旦地上から霊界に移行してしまえば、今度は地上時代が過ぎ去った夢であるように見えると言います。

 

 要するに今存在する世界が現実なのであり、霊界入りした霊も、身の回りの物や携行品に質感を伴った現実感を持ちながら生活することになります。ただ地上と霊界では次元空間が違うだけである、という話です。

 

 

『シルバーバーチの霊訓』(2)、第九章 この世、そしてあの世

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