霞ヶ浦駐屯地・広報センター【茨城県土浦市・前編】 | 太平洋戦争史と心霊世界

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 5月18日、陸上自衛隊の霞ヶ浦駐屯地を訪問しました。その際に見学した広報センター(資料館)をご紹介します。


広報センター1  霞ヶ浦駐屯地・広報センター入口。


広報センター2  1階に展示されている桜花の模型。

 

ここ霞ヶ浦駐屯地は戦前、霞ヶ浦海軍航空隊が駐在していた地でもありました。そのため海軍関連の展示品が多数あります。


広報センター3  2階の展示室半分。こちらは海軍関連の陳列。

 

 現在は陸上自衛隊の駐屯地ですが、戦後なぜ海軍後継の海上自衛隊の基地などにならなかったのかお訊きしたのですが、内陸部だったからという事でした。

 

 では海軍関連の特徴ある展示品を取り上げます。



広報センター4 

高須四郎・海軍大将の礼装と長剣。

 

茨城県桜川村(現稲垣市)出身なので、ここに展示されているんですね。


広報センター5 

高須四郎大将、18841944年、享年59

 

 兵学校35期、海軍大学校17期。駐英武官、その後5.15事件での軍法会議の判士長を勤める。海軍大学校長、日中戦争では第一航空戦隊司令官を歴任。

 

昭和193月、古賀峯一連合艦隊司令長官が戦死すると、後任の豊田副武大将が着任するまで一時的に連合艦隊司令長官の指揮を代行。



広報センター6 

「大空の女神」と呼ばれた藤田多美子女史胸像(水戸在住)。

 

「多美子さんは、昭和151128日、開戦気運が高まる中、相次ぐ航空機事故で命を落とす軍人たちを目の当たりにして、『何かお国のために、女ながらお役に立ちたい』との切望のもと、陸軍航空通信学校の飛行場の一隅にあった井戸に、身を投じ、わが身、わが心、わが命を飛行機事故が起きませんように、一人も犠牲者が出ませんようにとの祈りを込めて身を没しました。享年22歳のことである。」


広報センター7 

藤田多美子さん

 

 ・・・人柱のつもりだったのでしょうか?



広報センター8  藤田信雄海軍兵曹長(19111997年)

 

 この方は唯一、米国本土を爆撃した帝国海軍飛行士です。19429月に2回、オレゴン州ブルッキングスの森林に水偵で焼夷弾による爆撃を行いました。


広報センター9  藤田信雄海軍兵曹長の母艦、伊25号潜水艦。ここから水偵で飛び立ちました。


広報センター10 

爆撃地であったオレゴン州ルッキングスは、地図上でカリフォルニア州の上、太平洋沿岸にあります。


広報センター 
 左)藤田兵曹長の零式小型水上偵察機
右)藤田氏が投下した焼夷弾の破片とオレゴン森林の木片


広報センター  1985年、レーガン大統領から日米友好に寄与したことを賛辞され、「英雄」藤田氏に贈られた写真入りメッセージ

 

 

 戦後の1962年、アメリカ政府から渡航を求められた藤田氏は、てっきり戦犯として裁かれるのかと思い、自決用の先祖伝来の日本刀を持ち渡米しました。

 

 しかし到着してみると、藤田氏はフェスティバルの主賓、「敵国の英雄」として招かれたのであり、真相を知った藤田氏は日本刀をブルッキングス市に寄贈しました。

 

 藤田氏はその歓待ぶりに感激し、お礼として自費でブルッキングスの女子学生3人を日本に招待しました。自分の衣類は勤務先の作業服のみ、娯楽は最低限の本のみと切り詰めて、節約の末の招待であったということです。