太平洋戦争史と心霊世界 -18ページ目

太平洋戦争史と心霊世界

海軍を中心とした15年戦争史、自衛隊、霊界通信『シルバーバーチの霊訓』、
自身の病気(炎症性乳がん)について書いています。


アフリカ系アメリカ人 


 第二次世界大戦当時のアメリカでは、軍隊内でも部隊は一般的に白人と黒人(注1)といった、人種ごとに隔離され運営されていました。

 

 

(注1):現在「黒人」はアフリカ系アメリカ人と呼ばれ、黒人(Black)の名称はあまり望ましいものではないですが、資料が「黒人」となっていますので、黒人に統一します。

 

 

黒人将校も少数存在しましたが差別待遇により昇進は難しく、軍隊内での不満の種の一つとなっていました。

 

太平洋戦争もそんな時代に始まりました。真珠湾攻撃の際、空母「赤城」の飛行隊長であった淵田美津雄・海軍大佐は、終戦後にアメリカ黒人との交流を通じ、彼らが日本軍の真珠湾攻撃をどう捉えていたのかを体験談に残しています。

 

以下より、淵田美津雄の終戦直後に書かれた手記となります。


淵田美津雄 

淵田美津雄、19021976年、享年73


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【淵田美津雄の手記】   
          

 

ところで、そうした(淵田自身のインタビュー)記事が、翌日の占領軍機関紙であるスターズ・アンド・ストライプスに、私の顔写真とともに大きく載った。

 

するとその日の午後であった。黒人兵三人が、私の宿舎にやって来て、部屋の窓ごしに覗きこみながら、スターズ・アンド・ストライプスに載っている私の写真と、私の顔とを見くらべている。気味が悪いったらありゃしない。

 

こうして首実検が済んだと見えて、黒人兵たちは、指で私に出て来いと招く。薄気味悪いけれど、さからっては何を仕出かすか分らないので、私はおとなしく部屋から出ていくと、案の定、彼らのやってきたジープに乗れという。

 

私は誘拐されるのかと思ったが、勝手にしやがれと観念して、ジープに乗ると、やがて三十分ほど走って、丸の内の郵船ビルの裏手に着いた。そこで彼らは私を下車させたのであるが、この前後から私は、彼らの態度を通して、彼らに悪意のないことを覚えつつあった。

 

その郵船ビルは、占領軍進駐の当初、米軍将校たちの宿舎に当てられていたので、この黒人兵たちは、そこのバーで働かされていたのであった。

 

こうして私はビルの裏手から連れ込まれて、エレベーターは用いずに、せまい階段を這うように上がって、彼らの働くバーの楽屋裏に案内された。そして、案に相違の大歓迎であった。

 

この三人の黒人兵のほかに、バーで夕方の準備に忙しく働いている大勢の黒人兵たちも、みんな私に手を差しのべて、飲みねえ、とばかり、ウイスキーのグラスをつきつける。食いねえ食いねえとばかり、クラッカーを差しだす。

 

私には、何のためにこのような歓迎を受けるか見当がつかなかったが、だんだんと分かってきたことは、彼らのジェスチャーで、

 

「真珠湾攻撃を誰が一番喜こんだと思うか」

 

 との問いかけであった。そしてその答えは、「われわれ黒人だよ」と言うのであった。

 

 私はこのとき初めて身をもって、白と黒との人種的ツラブルの深刻さを味わった。黒人は白人に対して、先天的に、蛇に睨まれた蛙みたいに頭が上がらないものとされて来た。しかし彼らは、白と黒との差別待遇には我慢のならない思いを、いつも泣き寝入りさせられて来たのであった。

 

それが真珠湾攻撃で小気味よく白人の横つらをなぐり飛ばして呉れた。われわれ黒人は溜飲を下げた。そのお礼にいまサービスするというのである。

 

しかし占領政策で、占領軍兵士の日本人との交歓は禁止されているので、大ぴらに出来ないから、このような楽屋裏で我慢して呉れとの申出であった。

 

 私は、この皮膚の色が違うというだけの宿命的な人種的偏見の悲劇の一こまをここに見て、胸ふさがる思いであった。真珠湾のお礼などと、とんでもない。人種を超える人類愛こそ、万世の為に太平を開く日本の使命である。

 

 顧みれば日本が、大東亜解放という大義名分をかざしたのはよい。しかし、自分こそ最優秀の天孫民族で、大東亜の盟主であると思い上がったところに、傲慢と人種的優越感とが存在しなかったか。

 

  このたびの敗戦は、それを懲らしめる天譴(てんけん)であったと、私は受けとめていた。

 

 

『真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝』、淵田 美津雄、講談社、2007


ラベンダー 


 最近は自分の病気について書いています。本当は私事など公表したくないのですが、これにより『シルバーバーチの霊訓』に興味を持つ方が増えるかもと思い、恥を忍んで掲載することにしました。

 

 私の病気は進行が速ければ、確実に死に至ります。自分の健康状況を不審に思い、薄々気づいていたのですが、医療機関で幾つかの検査を受けている途中で、やはりあの病気だったのかと突如確信しました。

 

 その途端、頭から一瞬にして血の気が引き、目が眩んで気絶しそうになりました。でもそれが誰もいない医療機関の廊下だったので、よろけた姿、誰にも見られずによかった・・・。

 

普通患者は医者から告知された直後に、「目の前が真っ暗になった」とか「真っ白になった」と言いますが、あの状態ですね。

 

 あれは実は脳貧血状態なんです。しかし気分一つで気絶するほど健康状態が変わるとは・・・自分でもびっくりです。

 

「病は気から」と言いますが、その通りで自分の精神状態がいかに肉体に多大な影響をもたらすか、恐ろしいものですね。


夜明け 

 

 シルバーバーチの霊界通信を信じていても、突然人生の終着駅を見せられたことに、やはり激しく動揺させられました。でも私の場合、「死にたくない」とか、「何が何でも生きていたい」とは思いませんでした。

 

正直に告白しますが、内心「いよいよ霊界が近づいてきた・・・」という諦念が強かったのです。ご存じのように、シルバーバーチは個人の寿命はあらかじめ決められており、それが大幅に延長されることはないと語っていますから。
 
 

世間では「死」というと、重苦しく暗い、恐怖の出来事にしか見えませんよね?でも私自身はこれまで霊界通信を熟読し、霊界の存在を確信しているため、死とは怖いものではありません。

 

シルバーバーチも述べている通り、「死とは新たな誕生」、言い換えれば死というイベントは、地上世界から霊界への次元移動に過ぎません。

 

そんなわけで、私の方では「もういつ死んでもOK。どうせ霊界に行くんだから」という気分に次第に入ってしまい、生きる意義を見出せなくなってしまいました。う~ん、困った、どうしよう・・・。(;^_^A  だってこれでは、自殺者の精神構造と同じじゃないですか。

 

そんな時、身内から「頼むから、できるだけ長く生きてくれ」と言われ、ああそうか、まだ頼りにしてくれる人がいるんだな、と残りは彼らのために生きようという目標が出来た次第です。

 

私の場合は身内と言っても、お気楽な独身なので親兄弟になるのですが、ましてや既婚者の方はお子さんや配偶者がいますから、そのご心痛も私に比べ、遥かに重いものになるのでしょうね。


花 
 
 

考えてみれば「死」とは、人生の中で「誕生」とも比肩する最も重要なイベントです。しかし多くの人は死を忌み嫌い、顧みようともしない。

 

実際に病気が発覚してからいざ「死」について探求しようと思っても、病気になったというショックと、病状の悪化でいとも容易に、精神的余裕は奪われてしまいます。

 

恐らく「死とは何か」を真剣に考えていなかった人は、何もできずにパニックに襲われるのではないでしょうか。

 

ところがこの死についての知識、死ねばどうなるのかを日頃研究し、自分なりの人生哲学を構築しておけば、生命の危急の際も落ち着いて対応できるのです。

 

私自身も元気なうちに『シルバーバーチの霊訓』に出会えたのは、実に天佑による巡り合わせであったと思っています。


【無料・電子書籍】『シルバーバーチの霊訓』

http://www5e.biglobe.ne.jp/~spbook/


 防衛省見学ツアー、最終回です。



防衛省ツアー1  前回は防衛省にある、市ヶ谷記念館の中の展示品のご紹介で終わりましたが、その続きです。


防衛省ツアー2  「明治37年日露戦争中竹田宮王殿下が御使用になられた支那茶碗」

 

「竹田宮王殿下」とありますが、竹田宮恒久王でしょうね。北白川宮能久親王の第1王子で竹田宮家を創設。近衛騎兵連隊に所属、日露戦争に従軍。


防衛省ツアー3 

竹田宮恒久王(1882191936歳没)。皇族の方に失礼かもしれませんが、眉目秀麗な印象の方ですね。



防衛省ツアー4 

戦時中、大本営陸軍部だった時代の表札。2階の旧陸軍大臣室に置いてありました。


防衛省ツアー5 

市ヶ谷記念館2階の旧陸軍大臣室は、部屋の中が上手く撮れなかったので、この写真で勘弁してください。(汗)

 

戦前の士官学校時代は校長室、昭和16年以降は陸軍大臣室、戦後は陸上自衛隊東方方面総監の執務室でした。 三島由紀夫が自殺した場所としても知られています。 


防衛省ツアー6  2階にもう1室、「旧便殿(きゅうびんでん)の間」という、士官学校時代の天皇陛下のための休憩所が残されています。


防衛省ツアー7  旧便殿(きゅうびんでん)の間。

 

 2階には「旧陸軍大臣室」、「旧便殿(きゅうびんでん)の間」の2室があります。

 

でも実際には当時の広い建物の中に、このような部屋が点在していたわけで、市ヶ谷記念館の移築にあたり、特筆すべき部屋を狭い記念館の中に集約して史跡として残したわけです。


防衛省ツアー8 

市ヶ谷記念館の見学が終了し外へ。自衛隊の通信鉄塔が建っているところが防衛省らしいです。


防衛省ツアー9  「厳正な敬礼は市ヶ谷から」

 

 「隗より始めよ」、敬礼はまずおひざ元の防衛省から?


防衛省ツアー10  「隊舎B棟」、隊舎もあります。

 

 山手線のど真ん中、地価高めの市ヶ谷の隊舎に入れた人はラッキー!?


防衛省ツアー11  隊舎には1,000円ヘアカットの店が。はさみ


防衛省ツアー12  厚生棟にある自衛隊の広報展示室。

 

 午後のツアーだったのでこちらを見学しましたが、午前中のツアーだと広報展示室は見ずに、ヘリ展示場などを回るようです。


防衛省ツアー13  市ヶ谷記念館では戦前の展示物、こちらの広報展示室は自衛隊の展示になっています。


防衛省ツアー14 

 広報展示室は少しの時間をいただき自由見学。平日のツアーなので年輩の方も多かったようです。あと見学者の会話などを聞いて、防衛省に何らかの係わりがある方も参加しているようですね。


防衛省ツアー15  防衛省のゲートを出て見学終了。お疲れ様でした。

 

  ところが防衛省の中が禁煙だったため、我慢できないのか路上で堂々と喫煙を始める人が。あの~新宿区のこの辺一帯は禁煙地帯です。路面にもしっかり「喫煙は罰金1,000円」と書いてあるんですが・・・。

 

 マナー違反は喫煙者自身の首を絞めるだけなのでは・・かくして禁煙地帯はますます広がっていくのであります。

防衛省ツアー16  防衛省ツアー、東京観光にもお勧めです。



防衛省2-1 

 防衛省ツアー、市ヶ谷記念館見学の続きです。上は市ヶ谷記念館。現在防衛省の建物のある場所から移築され、ここに復元されました。


防衛省2-2 

市ヶ谷記念館の1階です。ここで極東国際軍事裁判が開催されました。中央~左にかけて、長椅子がある辺りに裁判長席があって、日本人戦犯の被告席は一番奥の檀上でした。


防衛省2-3 

 天皇陛下の「玉座」でもあった1階一番奥の檀上。軍事裁判では戦犯の被告席でもありました。


防衛省2-4 

 1階の床ですが、床板にも番号を記しそっくりそのまま旧庁舎から移築されました。でも中には破損した板も出てきました。その破損板の代わりに埋められたのが、赤丸の中の木目のない板です。


防衛省2-5 

このあと、15分位自由に展示物を見学できる時間をいただきましたが、短時間なので見るのが大変。

 

写真がないと記事に載せられないので、ガイドさんの解説そっちのけで写真撮っていました。


防衛省2-6 

ちょっと見えにくいですが、阿南惟幾(あなみ・これちか)陸軍大将の軍服(冬用)。

 

 終戦時、陸軍大臣でしたが抗戦を主張。ポツダム宣言受諾が決定すると、815日に割腹自殺を遂げました。

 

 映画では「日本のいちばん長い日」や「日輪の遺産」に、阿南大将の自決場面が出てきます。


防衛省2-7 

阿南惟幾(あなみ・これちか)、18871945年、享年58



防衛省2-8  硫黄島の戦いで総指揮官であった栗林忠道中将のコーナー。

 

「国の為 重き努を 果し得で 矢弾尽き果て 散るぞ悲しき」

 

 ガイドさんが栗林中将の、この辞世の句を披露していました。


防衛省2-9  「栗林中将からの画手紙」

 

 北米での駐在武官時代に家族、特に幼かった長男へ書き送ったイラスト入りの手紙。子煩悩ぶりが垣間見えます。


防衛省2-10 

 イラストが不鮮明にしか写らなくて残念。それにしても欧米人の体格は今も昔も変わりませんね。



防衛省2-11  「荒木貞夫大将愛用の軍刀」


防衛省2-12 

荒木貞夫、18771966年、享年89歳。

 

 荒木大将は皇道派として知られていたため、戦後の極東軍事裁判でもA級戦犯として終身刑を言い渡されました。1955年に病気のため仮出所し釈放。



防衛省2-13  「士官学校優勝記念メダル」「所沢陸軍学校記念メダル」「幼年学校卒業記念メダル」

 

 昭和12年~16年まで市ヶ谷台は陸軍士官学校本部だったため、陸士関連の展示品もあります。


防衛省2-14  「軍艦比叡進水記念品」(1912年)

 

 海軍関連の展示品もあるにはありますが、少ないです。戦艦比叡は1942年、第三次ソロモン海戦で沈没。

 防衛省ツアー、次回が最後です。


防衛省ツアー1 

 前から行こうと思っていたのですが、市ヶ谷台の防衛省ツアーに参加してきました。


防衛省ツアー2 

 「市ヶ谷台」の地名通り、庁舎は左手の屋根付きエスカレーターを上った高台にあります。

 

 防衛省見学には午前中と午後のツアーがあり、私は午後の方へ参加しました。

 午前中は屋上ヘリポートとメモリアルゾーン見学、午後は広報展示室と東儀仗広場と言うように、ツアーは午前・午後で見学内容が一部違っています。


防衛省ツアー3 

 ツアー担当の陸自のガイドさん。ユーモアもあって非常に楽しいガイドをしていただきました。ベテランならではの素晴らしい解説です。

 

 この日の午後のツアーは参加者70人!前日は100人だったということなので、今日の方がまだ余裕でしたね。


防衛省ツアー4  広場で陸自隊員の方々が何か行っています。


防衛省ツアー5  庁舎A棟へ向かいます。

 

ここは戦時中に大本営陸軍部、陸軍省、参謀本部が置かれていた場所であり、昭和215月には極東国際軍事裁判の法廷として使用されました。防衛省がここ市ヶ谷に移転したのは平成12年、まだ防衛庁の頃でした。


防衛省ツアー6  ここは庁舎A棟。女性ガイドさんが解説しています。

 

 A棟は防衛大臣を補佐する内部部局や陸海空幕僚幹部など、防衛の中枢機関に勤める職員で占められています。

 

 しかし都心のど真ん中ですが、画像通り余裕のスペース!ガイドさんは確か防衛省は東京ドーム4個分の広さと言っていたような・・・。戦後の官公庁では最大規模だそうです。


防衛省ツアー7 

 ガイドさんが「小野寺防衛大臣が乗っています!」と言うので見ると、ちょうど公用車が通りかかりました。多分前方の車だと思いますが。


防衛省ツアー8 

市ヶ谷記念館にやってきました。この建物は陸軍参謀本部、極東国際軍事裁判に使われ、作家の三島由紀夫が自殺した場所でもあります。

 

が、建物自体は実は庁舎A棟にあった1号館を取り壊して、ここに移築・復元したものです。


防衛省ツアー9  市ヶ谷記念館の1階。

 

 左に展示品があって、中央にはビデオを見るための教会みたいな椅子が並んでいます。画像は見やすいよう明るく調節してありますが、実際はカーテンが閉められかなり暗い。


防衛省ツアー10 

 天井のライトは極東軍事裁判の際に、GHQ側から「どこへ立っても影が落ちないようにしろ」との命令で設置されたもの。

 

裁判当時はこれにプラスして色々なライトが持ち込まれ、「殺人光線」と言われたそうです。

 

 欧米人は光が強いと目が眩みやすいようです。日本の室内光は明る過ぎて苦痛だと聞いたこともあります。確かに向こうの住宅の室内では、灯りを日本以上に相当暗くしてありますからね。

 

 市ヶ谷記念館、次回に続きます。