アメリカ黒人、日本軍の真珠湾攻撃に溜飲を下げる | 太平洋戦争史と心霊世界

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アフリカ系アメリカ人 


 第二次世界大戦当時のアメリカでは、軍隊内でも部隊は一般的に白人と黒人(注1)といった、人種ごとに隔離され運営されていました。

 

 

(注1):現在「黒人」はアフリカ系アメリカ人と呼ばれ、黒人(Black)の名称はあまり望ましいものではないですが、資料が「黒人」となっていますので、黒人に統一します。

 

 

黒人将校も少数存在しましたが差別待遇により昇進は難しく、軍隊内での不満の種の一つとなっていました。

 

太平洋戦争もそんな時代に始まりました。真珠湾攻撃の際、空母「赤城」の飛行隊長であった淵田美津雄・海軍大佐は、終戦後にアメリカ黒人との交流を通じ、彼らが日本軍の真珠湾攻撃をどう捉えていたのかを体験談に残しています。

 

以下より、淵田美津雄の終戦直後に書かれた手記となります。


淵田美津雄 

淵田美津雄、19021976年、享年73


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【淵田美津雄の手記】   
          

 

ところで、そうした(淵田自身のインタビュー)記事が、翌日の占領軍機関紙であるスターズ・アンド・ストライプスに、私の顔写真とともに大きく載った。

 

するとその日の午後であった。黒人兵三人が、私の宿舎にやって来て、部屋の窓ごしに覗きこみながら、スターズ・アンド・ストライプスに載っている私の写真と、私の顔とを見くらべている。気味が悪いったらありゃしない。

 

こうして首実検が済んだと見えて、黒人兵たちは、指で私に出て来いと招く。薄気味悪いけれど、さからっては何を仕出かすか分らないので、私はおとなしく部屋から出ていくと、案の定、彼らのやってきたジープに乗れという。

 

私は誘拐されるのかと思ったが、勝手にしやがれと観念して、ジープに乗ると、やがて三十分ほど走って、丸の内の郵船ビルの裏手に着いた。そこで彼らは私を下車させたのであるが、この前後から私は、彼らの態度を通して、彼らに悪意のないことを覚えつつあった。

 

その郵船ビルは、占領軍進駐の当初、米軍将校たちの宿舎に当てられていたので、この黒人兵たちは、そこのバーで働かされていたのであった。

 

こうして私はビルの裏手から連れ込まれて、エレベーターは用いずに、せまい階段を這うように上がって、彼らの働くバーの楽屋裏に案内された。そして、案に相違の大歓迎であった。

 

この三人の黒人兵のほかに、バーで夕方の準備に忙しく働いている大勢の黒人兵たちも、みんな私に手を差しのべて、飲みねえ、とばかり、ウイスキーのグラスをつきつける。食いねえ食いねえとばかり、クラッカーを差しだす。

 

私には、何のためにこのような歓迎を受けるか見当がつかなかったが、だんだんと分かってきたことは、彼らのジェスチャーで、

 

「真珠湾攻撃を誰が一番喜こんだと思うか」

 

 との問いかけであった。そしてその答えは、「われわれ黒人だよ」と言うのであった。

 

 私はこのとき初めて身をもって、白と黒との人種的ツラブルの深刻さを味わった。黒人は白人に対して、先天的に、蛇に睨まれた蛙みたいに頭が上がらないものとされて来た。しかし彼らは、白と黒との差別待遇には我慢のならない思いを、いつも泣き寝入りさせられて来たのであった。

 

それが真珠湾攻撃で小気味よく白人の横つらをなぐり飛ばして呉れた。われわれ黒人は溜飲を下げた。そのお礼にいまサービスするというのである。

 

しかし占領政策で、占領軍兵士の日本人との交歓は禁止されているので、大ぴらに出来ないから、このような楽屋裏で我慢して呉れとの申出であった。

 

 私は、この皮膚の色が違うというだけの宿命的な人種的偏見の悲劇の一こまをここに見て、胸ふさがる思いであった。真珠湾のお礼などと、とんでもない。人種を超える人類愛こそ、万世の為に太平を開く日本の使命である。

 

 顧みれば日本が、大東亜解放という大義名分をかざしたのはよい。しかし、自分こそ最優秀の天孫民族で、大東亜の盟主であると思い上がったところに、傲慢と人種的優越感とが存在しなかったか。

 

  このたびの敗戦は、それを懲らしめる天譴(てんけん)であったと、私は受けとめていた。

 

 

『真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝』、淵田 美津雄、講談社、2007