起業から、経営者へ、そして・・・ -32ページ目

起業から、経営者へ、そして・・・

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1999年12月某日曜日、・・・耕一の自宅では朝からばたばたとなにやらあわただしかった。実は、耕一はこの年の10月に晴れてマイホームを手に入れたのだった。小さなマンションではあるが、自分でも不思議なくらい金融機関の審査が通り、家族が喜ぶ笑顔も見れた。そこで、知人を集めてお披露目とクリスマスパーティーと忘年会を兼ねてホームパーティーを企画した。

声をかけたのは、下田夫妻と、妻の同級生(デザイナー)、それに松田(耕一、下田も周知の取引先担当営業)、それに中澤家である。丁度、14:00くらいから始まり、にぎやかに飲んで食べていた。耕一もほろ酔いで、上機嫌だった。

ここで、耕一の長男の勝が、手品の出し物をして、皆を大いに笑わせてくれた。」

暫くして、耕一は、下田と松田の2人を書斎に呼んだ。



耕一は、下田と目線を合わせ確認して、口を開いた。「実は・・・」耕一と下田の下には、先の鎌倉で会ったグレッグ氏から新規ビジネスのキーワードとなる情報だけ連絡をもらっていた。既に、インターネット上でアクセスして覗いてもいた。

「松田さん、実は俺たち2人は、近々今の会社を退社しようと思う。というのも、未だ定かではないが、某スポンサー企業のもとで出資を仰ぐ会社で仕事をしようと思う。今のところ、実質的にマネージメントの取りまとめ役として私が動くことになっているが、もしその時期が来たら一緒に仕事してくれるかな?」と伝えた。

松田は、「えっ~、本当ですか?それって、起業すっるってこと?」と驚いた表情で返してきた。「そうだな・・・下田と二人で水面下で動いてみているんだが、どうやらまやかしでもなく、実態として資金付けもある話を確認できたんだ。」と耕一が言うと、下田が「まだ、ビジネスとしての内容が実態としてよくつかめていないのですが、案件の話の方向としては実態があると判断しています。」

しばし沈黙の後、松田が「分かりました。そのタイミングがおっしゃるとおりであれば、是非お世話になります。ただ、簡単には今の会社を辞めるのは立場上難しいので、何かしらのスケジュールが見えれば具体的に動けるのですが・・・」と言った。耕一は、「そうだな・・・それは今の時点では年明けにしか見えないな。」と返した。「出来るだけ早めに具体的な状況を伝えよう。」と3人はうなずき、皆のいる部屋に戻った。



この日の2日前に、耕一は、グレッグ氏と面会していた。この際に、和田という人物も紹介された。年齢は耕一より2つ上であったが、広告製作会社の社長をしているということで、それなりの雰囲気があった。和田が言ううには「今回のスポンサー企業の社長は、大変スピード感のある人だ。気後れしてはだめだぞ!」と・・・。

その後、グレッグ氏、和田氏と3人でと西新橋にある小さな事務所を訪れた。PEJという名の社名であった。そこの代表者である馬場社長をグレッグ氏と和田氏に紹介された。馬場社長は、以前は光通信がIPO(株式公開)当時の常務取締役であり、現在は顧問となり、投資家向けのコンサルティング事業をしている人物であった。顔は穏やかだが、目つきは鋭く、「君は、年はいくつだね?」とたずねられた。「35歳になります。」「そうか、いい年齢だな。わしは、君の年のころには、3日3晩一睡もせずに仕事をしとった。君は、出来るか?」耕一は「はい、今も同じような環境にいます。」と答えた。

「ところで、こういう会社を知っているか?」と一枚のコピーを渡された。それには「APEX Interactive」とトップに記載してあり、その場で見る限りの文面では、インターネットに関する内容であることは分かった。耕一は「いや、知りませんが・・・」馬場は「とにかく調べてみて、どう思うかレポートしてくれ。今日は、これで時間が無いからまたな・・・」とわずか5分ほどの話で終わった。耕一は、唖然とした。いったい、鎌倉での話といい、ここでの話といい、本当に「起業」の話は実態としてあるのか?虚像なのか?・・・

その後、和田氏とグレッグ氏と打合せをすることとなった。グレッグが「和田さん、今日の馬場氏の雰囲気だといけそうですね?」すると和田が「そうだな、恐らく問題ないだろう。」耕一は、いまだに理解できない・・・するとグレッグが耕一に「恐らく、これで第二段階の面談は終わった。今日話のあったAPEXについて話があがったのは、関係者を除いて初めてだから、馬場氏は進める腹だと思う。」耕一は「そうですか・・・」「そこで中澤さん、APEXについて調べてレポートしてくれるかな?今年ももう2週間も無いから、正月明け早々にお願いしたい。」とグレッグから言い渡された。「分かりました」耕一はうなずいた。



この翌日、和田氏から耕一の携帯に一報があった。それは、昨日の馬場氏との面談の件で、ほぼOKだから、よろしく頼むとの旨であった。耕一はそれを下田に伝えた。下田は「どうやらスポンサー資金を獲得できそうですね。そのAPEXとやらとにかく調べてみましょう。」耕一は「そうだな。」「下田、もし可能ならこのAPEXの内容を計画書に落とし込む作業を年内にやらないか?」「そうですね。そうしましょう。2~3日あれば何とかなるかもしれませんが、元ネタになる情報を集めましょう。」と下田はにこやかに言った。



それから、1999年は2人にとって不安よりも期待を膨らませて終わる年となった・・・







それから、「今後の話として、貴殿のような人材を求めるスポンサーとの面談の前に数段階の関門がある。その第一関門として、これからある人物を紹介する。」と話があった。数分後・・・・

「いや~、遅れてすみません。」と、小太りで浅黒い中年の男性がその部屋に入ってきた。「グレッグさん、この2人が本日ご紹介する人材だよ」と加藤が、その男に言った。「ほう、はじめまして。グレッグ・アーサーと言います。見た目は日本人だけど、国籍はノルウェーなんですよ。もちろん、生まれも育ちも京都で、生粋の日本人です。たまたま、結婚した相手の国籍に移しただけですから・・・」と中澤と下田に自己紹介をされた。

2人は、(苦笑しつつ)「そうですか、はじめまして。よろしくお願いします。」と応えた。それから、一同の見守る異様な空気の中、グレッグより今の状況の説明が始まった。

「まず、今回の第一条件は強い意志と推進力が要求される。それは、スポンサーである企業文化がある種、特殊だと言うことです。一気に事業拡大を狙うとともに、新規事業の展開により、既存のビジネスの転換を図ろうとしています。また、米国とのコミニケーションが必須であり、それ自体なかなか適任者がいない。そこで、まず着手しようとするビジネスを調査・分析するところからはじまる。」

続けて、「具体的な詳細は、次の段階での面談があり、本日ここではこれ以上の話は出来ないが、一つだけ決まっていることは資金は5億円前後用意されている。この資金をどう動かすか否か含めて、まだ全くと言っていいほど白紙の状態です。もちろん、人選も含めてです。」



耕一と下田は、複雑な心境であった。グレッグ氏の説明の意図する事がこの瞬間では、理解できないでいた。ただ、一ついえることはこの「勧誘」がまやかしか、現実か?その判断だけはこの場で見極める必要があった。と言うのも、次の段階へ進むべきか?進まざるべきか?

下田は「あまりの胡散臭さに、思考回路が凍結しそうになった。」

暫く、個人的な趣味や雑談を交えた会話の後、グレッグ氏から最後の言葉があった。「中澤さん、下田さん、どうですか?今回の話、興味だけではなく正面から取り組む気持ちはありますか?もし少しでも意思が揺らぐようであれば、この話はここで終わりにしたい。」と・・・・2人は、またもや困惑した。一体、この話の展開はあまりにも重く、そして幽閉されたような空気の中で、何を判断すると言うのか?・・・・耕一は一瞬、下田の顔を覗いた。次の瞬間、「是非、やらせてください。当然、我々二人が適任者かどうか、ご判断いただく時間があっても構いませんが、我々はお話が決まり次第、背水の陣で事に望む覚悟です。そのつもりで本日、ここへ来ました。」と力強く語った。

加藤とグレッグは、にこやかに「そうか。分かりました。2~3日中に再度連絡します。今日は、これで終わりにしよう。」耕一と下田は「有難うございました。」とその場を出た。



帰途の電車の中で、下田が「やっぱり、押しましたね。」とニヤリと声をかけてきた。「ああ」「どの道いまの状況では、後路はないしこのまま今の仕事を継続するつもりはさらさら無いだろ?もし、個人的にリスクを伴う話であれば、見極めるタイミングだけだと直感したんで・・・」「どうだ?強引で悪いがもう一回ギャンブルに一緒に乗ってくれるか?」すると下田は「はい。その考えには賛成です。とりあえず行くとこまで行ってみましょう。」と微笑んだ。

「そうだな。やってみるか!恐らく、こんな機会を感じるのは人生早々ないからな。」耕一は決意を新たにした。

耕一と下田は、鎌倉について指定された住所を頼りにそこを訪れた。鎌倉の繁華街?から離れた、一軒家の立並ぶ一角に入り、玄関に立ち止まった。

築数十年はたっているかのような古めかしい大きな家であったが、入り口から玄関先まで、30メートルほどあった。

「すみません」っと耕一が声をかけると、奥から30代前半と思える女性が「こちらへ」と部屋に通された。そこは、8畳ほどの部屋で、座机が3つほどあり、それぞれにパソコンが置かれていた。まるで、合宿所の勉強部屋のような雰囲気である。

「いったい、何が始まるのか?」と耕一と下田は顔を見合わせた。案内した女性が「暫くお待ちください・・・」と言い残し、10分ほど経って「こちらへどうぞ」と別の部屋に通された。そこは、20畳もあろうかという大部屋で、大きな座卓があり、7名ほど男女が取り囲んでいた。「なんかや辛気臭い雰囲気だな?」と耕一は心の中で呟き、緊張した面持ちでその場に座った。



「やあ、ようこそいらしてくれました。はじめまして。私がここの家主の加藤です。」その初老の男は貫禄ありげに口を開いた。「ここは、私が長年多くの人々、特に若い企業家を目指す人たちと共同生活をしている場所です。」「いわば、企業家を目指す草庵っとでも言うべきか・・・」「ここでは、ご覧いただいたメールマガジンの発行や、新しいビジネスの種の情報を収集する場所であり、はたまた大物企業家といわれる方々も此処へいらっしゃるところです。」

下田と耕一は、ポカンとその言葉を聞いた。まるで、映画かドラマの演出のようだった。続けて加藤は、「私は以前、共同通信で働いていて世界中を飛び回っていた。そのうちに、自信が本当にやるべきは何か?考えて、インキュベーションにたどり着いた。日本では、未だ一般的ではないが、ビジネスの種と人材を発掘し、マッチングさせることにより、その成果を眺め、報酬をいただくと言うことなんだが・・・」ただ黙って聞いていたが、2人は初めて味わう経験で、返す言葉が無かった。

「あの、私たち2人が来るべきだったのでしょうか?」耕一はたどたどしく質問した。

加藤は「あはははは、そうだよな。実感として分からないよな?いや、君のメールの返信と、送られてきた職務経歴書を見る限り、かなりユニークな人物と感じたんだよ。ここにいる書生たちの誰も持っていない熱気が伝わったんだよ。」といいながら、お茶を口にしたが、「こりゃいかん、ビールくれ!」と脇の女性に言った。

「飲むかね?」と勧められたが、耕一は断った。



「さて、中澤さん本題だが、本日の話はあるところから、君のような人材を探しているスポンサー、要は資金がある人間があるところを通じて、依頼されたのです。言い換えれば、人材斡旋かな?但し、通常の職業斡旋ではない。あくまでも、起業できる人材としての要求なんだ。」と加藤からの言葉だった。
1999年11月29日、耕一と下田は東京駅で10:00過ぎに待ち合わせして、鎌倉に向かう電車の中だった。

「なあ、今回の話どう思う?」と耕一は下田に問いかけた。下田は「そうですね、なんとなく面白そうで付いて来ちゃいましたけど、正直今の仕事に広がりが無い気がして何か他の可能性があるのならと少し期待してきました。ただ、どの程度のものか興味本位ですが・・・・」と返してきた。

「そうか」と耕一は一言呟き、「そうだな、そんなに天から降って沸いてくるような話は無いよな!」と言って黙ってしまった。



彼ら2人は、これまで一緒に仕事をしてきてある程度の能力と自信とバランス感覚は備えていたが、現在の状況では難破船に乗っているようなものだった。そこへ、実態のつかめない蜃気楼か?どうかも分からない機会を感じ、ただ進むのみだった。後にして思えば、この時点での分岐路が果たして正しかったのか?否か?誰も知る由も無かった。
私の知人が、このほど8月16日に集英社より本を出版します。







タイトル:「警視庁少年課 事件ファイル」 



価 格: ¥1,500







です。



著者本人は、8月14日 フジテレビ毎朝8:00~「とくダネ」にコメンテーターとして出演します。



お時間のある方は、見てくださいね!



米国CB社との一件から、3週間後、長谷社長の指示で携わっていた業務から外された。大義名分の指示は、「新規事業の開発」と言うことであった。後で分かったことだが、この移動は山田経理部長からの長谷への裏打ちによるもので、先のビジネスの将来性を否定する意見であった。



耕一は、クライアントへの挨拶回りも終え、ひたすら「新規」となるビジネスの模索を強いられていた。彼は、可能な限りの情報を集め読み漁り、PCでインターネットを除いては、思案する事の連続であった。都内の色んな店舗も回り、何かしらのビジネスの種になるものは無いかと探し回った。

実際に、実験的にビジネス構想の実施にも取り組んだ。併せて、試算し利益率の判断も重ね・・・しかし、これと言う確固たるビジネスの計画は立つはずも無かった。このころから市場では「IT(アイ・ティー:情報技術)」なる言葉が一般化しつつあった。

彼は、現在に至るまでに通算で7年以上半導体業界での経験があった。ゆえに、少々畏まった硬い思考性であることは否めなかった。よって、「IT」なる言葉も彼には受け入れにくく、抵抗感のあったことは言うまでもない。



毎朝09:00に出社し18:00まで着座し、なんとも冴えないサラリーマンを演じざる終えなかった。この日も、定刻どおり出社した。PCを立上ると、新着の電子メールが何通かあった。順番に目を通していたその時、一瞬視線が止まった。



[来たれ!企業家志望者!熱き情熱を求む!]



「何だこれは?」耕一は呟いた・・・[新規事業に興味のある者、連絡されたし!君の可能性を開花させて見ないか?]と短い本文であった。

この電子メールは、登録してある100名前後のML(メーリングリスト)の不定期配信であった。耕一は早速、

[大いに興味あり、是非その可能性に賭けたし!]と返信した。それから、1時間ほどして返信があった。

[貴殿の略歴をお送りください・・・]耕一は、「しめた!」と思った。この時のために、常に準備していた。外資系企業での経験から日本文、英文両方電子ファイルで即座に送った。



・・・2日後・・・

[今度の土曜日に鎌倉まで出向いていただきたい。住所は以下の通り・・・]と回答があった。「やったー!」耕一は心の中で叫んだ。「ついに待ちに待った好機(チャンス)が巡って来たのだ!絶対にモノにしてやる!」そう実感した。

この段階では、その内容が全く知らされておらず、どういうものかも分からない話なのだが、彼の動物的嗅覚が120%興奮していた。

「さて、どうしたものか?」耕一は思案した、ただ一人で指定された場所に行ったとしても、何がどうだか未知の話。やはり、パートナーを連れて行こうと決めた。それは、先のビジネスで前職から引き連れていた後輩の下田に事の経緯を伝えた。

下田は「なんか、よくわかんないですね?でも行くだけならいいですよ。」と快く応じてくれた。耕一は、これまで現場で仕事をしている際に、下田に教えてきた事もあったが、それ以上に彼のセンス、特に判断する際の感覚を大変信頼していた。

今回も同じく、下田の感覚を信頼していたのだ。



そう、インターネットが広く世間に認知されつつあるまさにその時期に、中澤耕一は、一通の電子メールで大きな岐路を迎えようとしていた。それが天国への階段か若しくは、地獄の入り口かどうか、知る由も無かった。

再度、長谷社長、杉田常務、青木監査役、鈴木部長に加えて山田経理部長がテーブルを囲んでいた。山田は、2ヶ月前に三和銀行からの天下り転職組である。(この会社は、三和銀行から約2億円の融資を受けていた。)



冒頭、中澤耕一は現在の状況を説明した。

売上金額 ¥9,000万円

販売単価 ¥750,000円

出荷済み  120台

受注残台数 250台

受注残金額 ¥187,500,000-

故障率   12.3%

であった。初年度のビジネス状況からすれば、決して悪い実績ではないが、現場で問題視されてるのは故障率とその対応についてであった。この状況では、1年間の無償保障期間として、新品交換が通例とされるということは、故障率の歩合の分、多く台数が必要となる。これは、製品原価にそのまま反映されるとなると、そっくり売上粗利が削られることとなる。

先に耕一は、競合会社にいた。よって、ビジネスを奪還するために人柱になりつつも、最終的には価格で下げざる終えない最終合意があった。よって、決して採算面ではよくない事は誰もが承知していた。



山田は、「中澤さん、現在の商品は来期も売れていくのかね?実際ビジネスユースといっても、まだまだこの商品のランニングコストも高いし、先に提出されてる予算どおりに推移するのかね?」



耕一は、眉間が歪んだ。さらに山田は、「君が揃えた人材8名の組織だが、社内のバランスを見ると損益分岐点的には一番コストがかかっているんだよ。いつになったら収益還元できるのかね?」



耕一は、更に自身の血が逆流するのを覚えたが、必死で抑えた。

「お言葉ですが山田部長、現在の立ち上げつつあるこのビジネスは確実に市場に定着します。既に前社のEAL社の実績をご覧いただければ明白です。しかしながら市場での普及率は未だ30%台です。よって、市場は十分に見込めます!」と言い放った。

会議室の一同は、耕一を凝視した。数十秒の間の後、長谷が、「分かった、ならば米国CB本社が無くなっても、当社としてこのビジネスは継続可能ということだな?中澤君!」「仮に、米国CB本社の技術的協力が仰げなくても、当社独自で商品を開発し販売していくことは可能だな?」「鈴木君、どうかね?」



鈴木は、「はあ、いきなり言われましても、完全な独自商品となるとOEM先が受け入れてくれるかどうか?また、アーキテクチャーの元であるEdobeとの関係がスムーズに作れるか否かで、開発の動向も左右されます。現時点でイエスかノーかと問われれば、ノーです。」いかにも技術屋らしい回答である。

しかし、耕一は「そんなことを言っていては、我々が付き合っているクライアントと同じじゃないですか?だから、彼らも外部からこの製品を調達している。そこに、商売があるのではないですか?Edobeとの関係なら、また新たに作ればいい!

今ここで、この製品を辞めてしまったら我々チームの存在意義もなくなるし、第一に信用が無くなる。この先、新しい商売も広がらないのではないですか?」



長谷は「分かった。このビジネスは継続する事を前提に進めよう。但し、少々厄介なことが増えるかもしれん。いいですか?」耕一はうなずいた。



この会議の後、ニューヨークの法律事務所を通じて米国CB社に対し訴訟を起こすこととなる。
耕一は、出社するといきなり会議室に呼ばれた。会議室に入ると、社長、常務、技術部長、監査役、とこの会社の経営陣が座って、神妙な面持ちで視線が集まった。



「まあ、座りたまえ。」長谷社長が言った。

「はい」と答えつつ、耕一はこの部屋の空気が一種異様な温度と湿度と混ざり合った複雑さを感じた。



青木監査役が、「実は、現在進めている事業部の米国本社がChapter11となった。」と冷たい言葉を発した。

杉田常務が、「この事業、継続するか止めるか、経営判断をしなくてはならん。ここでは、中澤君から現状報告と今後の見通し、個人的意見を聞きたい。」

耕一は、一瞬凍て付いた。というのもこの日も朝からその米国本社と電話会議で1時間以上も熱いディスカッションをしていたばかりだからだ。一体、今のこの話はどうなっているのか?・・・



耕一の勤め先は、純日本企業だが2年前から長谷社長の方針で新規事業立上のために、米国のITベンチャー企業と日本に合弁会社を設立して、この事業を勧めてきた。このジョイントベンチャーは、以前耕一が勤めていた外資系企業の競合であり、耕一はその当時の自分のクライアントの紹介で、ここへ引き抜かれた経緯があった。この事業は、技術的には最先端ではないものの、ビジネスユースにおける需要と国内での市場は見通しが明るいビジネスであった。



その提携先の米国本社が、事実上倒産したのである。

耕一は、この1年2ヶ月の間、まったくといっていいゼロからOEM製品の提供におけるクライアントとの交渉、日本国内での製品のオペレーション、技術者の確保、ローカライズ(言語の翻訳だけではなくて、製品そのものの日本語化も含む)、チーム(組織)形成、等々、実質的に総責任者的に不眠不休に近いぐらい仕事に打ち込んできた。



耕一は、今のこの会議室の状況が受け入れられない心境であることは、言うまでも無い。ましてや、この会議で意見を求められても、何も言葉が出てこない・・・・



「いきなり、この会議で発言を求められても、頭の中の整理が付きません。30分ほど時間いただけますか?」と耕一は返した。

すると、「青木監査役は、夕方の便でLAに飛ぶ、時間的猶予はあまり無い。それまでには、何らかの方向性を決める必要がある」と杉田常務が言った。

「しかしながら、そうは言われても実務者レベルで判断材料を短時間でそろえるのは無理がある。現在の仕掛りやクライアントとの関係も含め、もっと情報収集する必要があるのでは・・・」と鈴木技術部長の話を途中で遮るかのように、長谷社長は右手を振りながら・・・

「事態はそういう問題の捉え方ではない。当社として、米国CB社と国際争議に持ち込むか否か、またその場合想定される問題点は何かということだ!」長谷の声のトーンが上がった。

一同は静まり返り、「とりあえず、30分時間空けましょう?」と青木監査役が促した。

全員、寡黙に席を立ち目線をそらせたまま、各自のデスクへ戻った。





私自身がふと回想する事の一つに、勤め人を辞めた時からの数年間の時間の流れと過去の事実がある。それは、幸運とも不幸とも解釈出来るが、自身の中のある矛盾と葛藤からいつまでも抜け切ることが出来ない。

それは、決断を迫られた分岐点において己の意思でどちらかを選ぶ難しさなのか?判断材料の不足だったのか?未だにハッキリとしない頭中のモヤモヤは、一生消えないのか?



不祥でははあるが、ここにその過去の経験を出来るだけ忠実に事実として伝えたく記すことにした。



【Part 1】

1.インターネットと電子メール

2.勧誘

3.退職から起業へ

4.社長就任

5.事業

6.金(資金)

7.投資家と資本経済

8.環境と組織

9.まさか・・・

10.崖っぷち

11.社長退任



いつか、誰かがこの記録を読んで頂いた時、私がどうなっているか?それがこの記述の終演であろう。

最後まで、お付き合いいただいた方には、この場を借りて先に御礼を申し上げたい。