起業から、経営者へ、そして・・・ -31ページ目

起業から、経営者へ、そして・・・

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これまで以上に電話での問い合わせや、突然の来客に忙殺された。多くの連絡のある中で、和田氏からの電話が無視できない内容であった。併せて、山木常務からも同じ内容に関する連絡が入っていたのである。

その内は、和田氏がPEJの馬場氏を通じ、下田と中澤を紹介したわけだが同時に、新会社設立に当たり創業者メンバー4名の紹介もしたこととなっており、人材紹介料が発生するとの事であった。耕一は、愕然とした。いったいどういうことなのか?和田氏の説明では4名の人材と一緒に、大手クライアントも一緒に渡したので、これは営業権の譲渡でもあると言うのである。更には、この紹介料については「白木社長と約束してあることだ!」と言うことであった。山木常務も異口同音であった。耕一は、納得がいかない。幾度と無く、山木常務に食い下がった。しかしながら抵抗も虚しく、設立から2ヵ月後の5月末には現金で支払うこととなったのである。しかしてその金額は・・・¥4,000万円であった。資本金1億円でスタートし、オフィスの立ち上げや諸々を含め、既に1,000万円以上の出費の上にこの金額である。まるで、アキレス腱の切断のような事態である。

予想も計画もしていない現金が吐出したのである。新規設立企業である。信用も無い上に借り入れなど出来るはずも無く、キャッシュフローには気を遣っていた。しかし、不可抗力とも言うべき事態である。耕一は焦った。



耕一は、本間に相談した。彼は「えっ?何ですかそれ?そんな話は一切聞いていない。ましてや、我々4名は会社都合で移籍したはずです。仮に、クライアントを持ってきたとしていても、それはその実務が継続不可能であることと、クライアントの意向(指名)によるもので営業権譲渡とは違うじゃないですか?」さらに「私は、和田氏の会社で役員をしていた関係上、昨年までの債権の一部を役員責任として、今も毎月返済しているんですよ!話の筋がおかしいじゃないですか!」と憤慨し始めた。本間の言うことは最もである。



一般的に人材紹介料と言えども、本人年収の35%程度が上限の通例であった。ましてや、本間の言事が本当であれば、4名は和田の会社から移籍する際に一旦、何らかの退職金を渡されていてもいいはずである。



この問題は、後々尾を引くこととなるが、今にして思えば資本と経営の分離と言う視点からすると当然と言えば当然であった。その訳は、設立当初の資本金1億円は、親会社であるネクサスが100%出資したのである。1株5万円で2,000株の発行である。その後、耕一は自己資金として100万円で20株譲渡してもらい、代表取締役に就いた。しかし、企業のルールとして意思決定は取締役会の承認がありその上に、株主総会の決議がある。つまり、根幹である経営の意思決定における保有株式における議決権のパワーバランスは覆せない。これは、周知のことではあるが経営の現場において、株主の意思がこうも直接的に響くのは致命的であった。

耕一は、自身がクラブの雇われママに過ぎないことを痛感した。一体、これから本当にこの事業を遂行することが出来るのであろうか?と自身に幾度と無く問い詰めた。



本来、中澤と下田は純粋に新規ビジネスとしてこの起業し、遂行するために心血を注いでいた。しかしながら「金」という魔物にも近い媚薬に群がる人間は、どこからとも無く現れてくるのである。本当の「起業とは・・・」未だ結論付けはしないが、企業社会なかんずく資本の原理に基づく社会はこれが当たり前なのか?甚だ疑問は消えない。



更に驚愕的事態は続いた。5月にネクサスの親会社である光通信の携帯電話販売における「飛ばし」と言われるスキャンダルが発覚した。エイペックスジャパンにとっては、全く関係ないことであったがネクサスが光通信の筆頭子会社であるゆえに、耕一の会社も光通信の孫会社としての偏見的見方が始まったのである。前述の和田氏への一件とは別で、4月頃から山木常務より指示がり、第三者割り当て増資による資金調達を指示されていた。耕一は、営業活動と平行して、資金調達活動もしていた。自らが、「エイペックスジャパン」のPRに奔走し、多いときには数十分のプレゼンを1日に10回以上もこなし、とにかく喋り捲っていた。



ある日、多忙を極める合間にオフィスに立寄った際に、須藤が話しかけてきた。

「中澤さん、無茶苦茶いそがしそうやね?大丈夫?でも、今の対外的プレゼンの内容は完成度50%以下ぐらいだから、充実させなければならない。何かリクエストない?」と聞かれた。耕一は「そうか、ありがとう。でも、私が未だ市場やその他学習する時間が無いから・・・」と言うと、須藤は話を遮り「あんたは、我々の社長として外面が大事なんだから、そんなこと言っちゃいけない。」

「俺が、あんたの代わりに新聞も読どくし、欲しい情報や調査は全て任せてくれればいい!俺は、あんたに質問されたらなんでも答えられる様にしておくから。」

耕一は、感無量であった。自分の傍にこんな人材がいてくれているのかと、胸が熱くなった。
立て続けに、電話でのアポイントの依頼や突然の来客に忙殺された。

「社長」とはそんなに人々が頭を下げる相手なのか?耕一は、昼食を摂るまもなく、あっという間に昼間の時間が過ぎた。夕方6時を超えると、とてもまともに物事を考えることも出来ない。元々好きなビールを煽りたくなる。数人のスタッフを連れて、近くの居酒屋に行く日々が始まった。たまに、下田とも議論を交わすのはその場所であった。いつもの議題は「何をどう営業するか?」である。とどのつまり、早急に米国に飛んでライセンス元のレクチャーを生で習得することが急務だと言う結論に達した。下田は、2人のソフトウェアのスタッフを連れて、2週間、日本を空けることとなった。ゴールデンウェークを挟んでいたが、そんなことは問題ではなかった。



一方、耕一は4月中旬、ネクサスからの指示で親会社である大阪に出張した。目的は、ネクサスと関係のある金融機関へ子会社として事業内容のプレゼンをしてほしいとの依頼であった。この際に、先に信頼していた須藤を同行させた。

その理由は、今後彼にこの会社の事業計画そのものの根幹を考えてもらうべく、期待していた。プレゼンの30分前に会場に通されたとき、緊張が高まり口の中が砂漠のようであった。子会社5社のうち3番目にアレンジされていた。それは、一番の目玉として事前に出席者に耳打ちされていたらしい。会場に出席者が入ったのを見た瞬間、耕一は更に緊張が増した。ざっと見て50名以上である。両膝が小さく震えるのを覚えた・・・

次の瞬間、耕一は一か八かのハッタリに出た。まず第一声が最前列の中年男性に向かって「あなたは、インターネットの通信販売で何かご購入されたことはありますか?」その男性は、焦った。「いいや、無いですけど・・・」そこで耕一は「これからは、インターネット通販つまりイーコマースの利用が当たり前になります。」と言い切った。一同は、静まり返った。

「あと3年後、普通にインターネット通販は当たり前になります。なぜならば・・・」と切り出したのである。会場は、襲っていた眠気が一瞬にして消えていくのが判った。耕一の起業した新規ビジネスは、このイーコマースをもっと使いやすくするための技術であった。この調子で、約30分間のプレゼンを終えた。

その後、2社のプレゼンの後、この説明会は終了した。終わったとたん、耕一のところには名刺交換をしようと、20名以上が並んで一言ずつ言葉を交わすのに耕一は追われた。その後、ネクサスの役員たちからも肩を叩かれ「いや~、よう分からんかったけど、中澤社長のプレゼンは凄いな!やっぱ、筆頭子会社の呼び声も伊達やないんやな。よろしくたのむで!」と・・・



耕一は、肩の力が抜けた。その後ろから、須藤が「中澤さん、あんたいけるね。ネクサスの連中は別として、あんたがこの会社で何かしようとしているその気持ちがよく分かった。」その後、須藤は夕方の新幹線で先に東京に戻った。耕一は、白木社長と会食に連れ立った。この席でも緊張が解けない。いい加減、疲れが出てきたが、食事が終わったところで、白木社長が「せっかくや、明日は朝一の新幹線なら大丈夫やろ?ちょっと、行こうか?」と言われるがままに、ミナミのとあるクラブらしき店に連れて行かれた。「宿泊は、予約しといたからゆっくりしてや」と山木常務に挟まれた。耕一は、くたくたになってホテルにもどり翌朝一番の新幹線で東京に戻った。



山木常務と真新しいオフィスの会議室に入った。そこには、2名の男性と1名の女性が待っていた。「はじめまして」とお互いに名刺交換をした。

日興證券の企業担当であった。「ネクサス様からのご紹介で、お邪魔しました。今後是非、お付き合いをお願いいたします。本日は、社長にご挨拶に参りました。」

と挨拶をされた。耕一は、全く持って頭の中が真っ白である。というのも、証券会社の人間と面会することなど、これまでなかったからである。「いや、あの何も分かりませんので、今後ともご指導・ご鞭撻のほどよろしくお願い申し上げます。」と耕一は答えた。



彼らは、ネットバブルの時流に乗っていち早くアーリーステージの企業を押さえ、早い段階で主幹事契約を結び、株式上場の際には取り扱い手数料と上場益をはじめから狙ってきていた。これは、一般の就労者であった人間には、全く持って理解できない内容の話であった。この打ち合わせでは、山木常務が話をリードし、和やかに終わった。打ち合わせの後、山木常務から「中澤さん、これからは金融・証券の人間と付き合っていかなあかん。まあ、最初が肝心や。よう相手を観察してや。但し、簡単に、信用したらあかんで。お願いしまっせ!」それから15分後・・・



次に、紹介されたのが「上場コンサルタント」である。かなり年配の方で、山木常務が「先生」と深々と頭を下げた。この人物、野村氏は、皆様よくご存知のセブンイレブン、武富士、光通信の株式上場の際に、社外からの相談役、支援役としてかなりの経験値があるらしいことを聞かされた。耕一はただ「はあ」とうなずくだけで、いきなり様相もしない内容の打合せに、戸惑うばかりであった。



2つのミーティングを終え、自分のデスクに座った時に「これからいったい何がどうなるんだろうと?」グルグルと頭をめぐらせていた。



しかし、この入り口が大変重要であったことは幾つかあった。野村氏の話で「まず、第一に起業した際にこの会社は?と聞かれたら、社長は必ずいつも同じ答えであり、誰もが理解できる答えをしなければならない。」と残る言葉があった。

企業とは、



1.反社会的な行為をしてはいけない。

2.事業(商売)の内容が分かりやすいこと。

3.継続性があること。

4.事業内容が、終始一環していること。金儲けのために何でもしていいとは限らない。



と、説明された。よって、次回からの打合せはこれらに明快に答えられるように、少しずつ事業内容を見直し、骨格を作っていこうと約束をした。



ここまでは、大義名分もしっかりしているし、反論する気はない。しかし、これらをきっかけに、この会社への訪問者、耕一に群がる人々の本意はそんなにきれい事ではなった。ようは、全てに「フィー(対価)」が発生し始めていたのである。

まだ何も、具体的な計画を進め行動を起こす前から、小さくは見えるが、足かせが徐々に膨らみ、あるとき気づいたらとてつもない重たい物になっていたのである。



翌日、一本の電話が入った。それは、和田からであった。電話口で「いや~、何とか新会社スタートできたかい?皆、期待しているよ。あっつ、そうそう今の資本金は全て、ネクサスが100%だけど、株式の譲渡の際には是非何とか分けてもらえるように頼むね!うまくいけば、君も2、3億の資産が手にできるからうらやましいよ!がんばってな、来週、グレッグとお邪魔するからよろしく!」・・・

耕一は、周囲の変わりように唖然としたと同時に、このような会話が普通になるのかと思うと・・・・本来は、新規ビジネスを実現することが全てだったはずが、なんとも理解しがたい人種と付き合うのか?っと、肩を落とした・・・
耕一は、日課である朝風呂の中でつぶやき始めた・・・「社長かァ・・・考えても見なかったな・・・出来るのかな・・・いつかは、自分で商売したいと考えていたけど・・・」「まず、何から創めればいいのだろうか?・・・」



後々思い返せば、なんとも稚拙な思考回路だったのであろう・・・



耕一は、まずこれまでに作成した事業計画書らしきものを改めて見返した。

そして、本当にこれから創める事業が、机上の計算の通りに遂行することが出来かどうか、自身の中でイメージすることから始めた。

和田氏から半ば押し付けられた4名の人材はどうすべきか?

それ以上に、ビジネスを進める上で営業活動はどうするのか?

他に必要な実務に併せたスタッフはどれくらい必要なのか?

資金使途に関して、どのように管理すべきか?

営業品目は何か?そしてそれは、本当に売れるのか?



和田氏からあった、インターネットを媒体として捉えた場合の広告宣伝との新しい融合とはいったい何なのか?

いま、この2006年においては、このインターネットの媒体としての考え方、広告宣伝の考え方は、ごく当たり前のように認知されているが、当時は未だインターネットそのものが今のように、認知されていない状況である。イメージするのは出来るものの、全てが机上の絵空事のように言われていた。それは、現実の仕組みとして何も実現していなかったのが事実である。

唯一、周知の「楽天市場」だけは、通信販売の窓口として存在していた。但し、今で言う「ポータルサイト」と言う言葉も含めてインターネットビジネスは、既存事業からすると全く持って軽視されていた感は否めない。

あくまでも、「IT(アイティー)」と言う言葉を認知している場面ではかろうじて、認知され始めていた。



耕一は、昔から事業を起こした場合の最初の目標を常に「年商100億円」と決めていた。よって、この新事業においても同じである。「どうやったら、達成できるのか?」を思案し始めていた。掲げた目標に到達するには、段階的に何を進めるのか?その最初の一歩がなかなかイメージがぼんやりしたままで、すっきりしなかったのである。



いつものように、和田のオフィスの一角を借りて、新会社設立準備を進めていた。

あわせて、先の4名とも出来るだけ話をして、彼らを理解しようと努力したのである。その中の須藤は、ここではなぜか厄介者扱いをされていた。確かに、耕一の経験してきた法人営業におけるビジネス感覚やマナーといったことは欠けていたかもしれない。和田からは「須藤は、一旦引き取ってもらうが、中澤さんがNGと思った段階で、うまく切ってもいいから」とまで言われていた。しかし、耕一は、他の3名とは異なる何かを感じ始めた。

それは、事業計画の見直しの中でインターネット上での売上の増加は、広告収入だけではなくて無店舗による物品販売であることが明確になってきたとともに、併せて物流に注目した。ここで、須藤氏にこの話をした数時間後に、期待以上のデータと見解を持ってきた。これには、耕一も驚いた。

本人は「まだ、データ精度はあまりよくないけど、あんたの着眼点は当たってると思うよ。」とコメントしてきた。耕一は、こんな人材がいるのかと強く感じた。(今では、彼にはスポンサーが付いて一国一条の主となった。)それ以来、事業計画の数字以外の部分では、この須藤氏に対する信頼が増していくこととなる。



一方、オフィスの不動産手続きの完了と同時に内装・備品・什器の手配である。最低でも、電話とPCが使えなければ何も出来ない。焦りつつも、順調に進んだ。傍ら、下田と一緒にスタートアップのスタッフについてどうするかの議論を重ね、引き抜き、勧誘に追われていた。



週末返上の2月が過ぎ、何とか3月3日にはオフィスの半分は稼動し始めた。



社名:エイペックスジャパン株式会社

事業:インターネットにおけるE-コマース(電子商取引)サイトの構築と

これに関わるマーケティング、及び広告宣伝の製作

設立:2000年3月1日

資本金:1億円

従業員:8名



その当日、早速親会社となったネクサスの白木社長、山木常務、大村課長がやってきた。

「いや~いいオフィスやね。おめでとう。でも、たのみまっせ、この事業には私個人としても大変期待している。」と山木常務から声を掛けられた。

と言うのも、この事業の最大の経営資源である「APEX Interractive」の技術及び日本での独占的使用権に関する交渉で、昨年の12月に白木社長とともに、米国に10日間行っていたのである。これには、先のPEJの馬場社長が、米国にあるコンサルタントとの中継ぎ役の大利根氏を紹介し、本事業の日本での展開を図るように促していたのである。なんとも、複雑なようだが、要は米国側はこの技術を特許使用料としてのライセンスビジネスとして、ネクサスに売りたかったのである。このライセンス費は、なんと3億円もかかっていたのである。



耕一は、ネクサスの面々とランチミーティングを持った。その際に、白木社長より「中澤君、本日より新会社を任せるが併せて、重要なミッションがある。それは、IPO(株式公開)である。当然、我が社(ネクサス)も今期決算をもって、上場するが、2年後にはこの会社も公開させるのが、最大のミッションである。」と言い渡された。

その日の午後、早速山木常務が「紹介したい人間がいるから・・・」と立て続けに2つのミーティングに同席することとなった。



耕一は、2月に入りこれまで勤めたいた会社の退社日を2月末日とし、その間の1ヶ月間は、朝出社してからすぐに和田のオフィスに向かい、新会社設立準備をする生活に変わっていた。親会社のネクサスからは、3月1日に登記、設立、創業という命題を渡され、わずか3週間の間に物件を決め契約し、オフィスを稼動させるにはあまりにも時間が無かった。

幸い、10件ほど回った結果、和田のオフィスの隣のビルの7階が空いていて、オフィスとしても申し分なかった。大手食品会社、紀文の創業の地であり縁起もよかった。

60坪弱の広いオフィスである。家賃は、管理費含めて敷金10ヶ月、¥13,000/坪であった。当然、新規法人の場合何の信用も無いため、全て親会社ネクサスの保証付である。加えて準備資金も無いため、前払い金としてネクサスより500万円の現金を耕一の口座に預かることとなった。



耕一と下田は、毎日のように夕方になると打合せをして、事細かいことまで全て手配して準備を進めた。ただ2人が顔を見合わせて考えたのは、「社長を誰にするか?」という大きな問題が残っていた。2人でかつての外資系企業にいたときに信頼の置ける上司にも相談し、色々と人探しもした。しかしながら、ネクサスの要求は「40歳以下」であった。ネクサス自身も若いベンチャー企業であったためその文化、スピード感にはこだわりがあった。連日のように、人に会い話を持ちかけたが断られ、なかなか社長に該当する人物がいない・・・あっという間に時間は過ぎた。

2000年2月14日、いつものように和田のオフィスで仕事をしていると、和田に呼ばれた。2人きりの個室で和田が「中澤さん、ネクサスより先ほど連絡があって白木社長より、このたびの新会社の社長をやってほしいということだ。」耕一は、固まった。「えっ?本当ですか?でも、私では正直、経験も無いしとても勤まらないと思いますが・・・・」いったところで遮られ「いや、先日のプレゼンで白木社長は以下役員もかなり高い評価をしている。ここは一つ、勝負してみたらいいじゃないか!」と言われた。耕一は「何をどう考えるべきなのか?」全く持って頭の中は真っ白で何も言葉が出なかった。

暫くして、下田が来た。下田に事の内容を伝えると「やっぱり、そうでしょう。ここまでの経緯、推進力は中澤さんだから進められている。私は反対しません。むしろ、よろしくお願いします。」と下田から頭を下げられた。またもや、耕一は動転寸前で「そっそ、そうか?やるべきかな?下田が一緒に組んでくれるなら・・・」と返した。

その日、耕一は足早に帰宅した。帰るなり、妻の桂子は「今日は、パーティーだからちょっと待ってて」と言って、耕一に風呂を入るように勧めた。風呂から上がり、食事を始めようとしたら桂子が「今日は、パパのお葬式だからみんなで乾杯するのよ!」と2人の子供にジュースをついで、「パパ、おめでとう!これから、家にはパパがいなくなります。でも仕事をがっばってもらいたいと思います!」と乾杯の音頭があがった。2人の子供は「どうして、お葬式なの?」とぽかんと桂子の顔を見つめた。すると、桂子は「パパは、これからもっとすごい人になるのよ。パパはパパだけど、このお家だけじゃない大きなものを背負うの。だから、もうあんまりパパにお願いや、わがままを言えなくなるのよ。」すると2人の子供は「ふ~ん」とよくわからない様子であった。結婚して10年以上になるが、これまでの生活は決して楽ではなく、幾度と無く耕一と桂子は話し合いをしてきた。別居したこともある。しかしながら、昨年の秋に念願のマイホームも手に入れた。やっと、落ち着いた生活が出来るかなと桂子は期待していた。しかしながら、夫の耕一から帰宅する前に社長になる事を電話で知らされた。素直に「よかったね」と桂子は答えた。



ネクサスでの、不思議なプレゼンの空気の翌日、和田氏から電話が入った。

「もしよければ、今日の夕方うちの会社に顔出さないか?場所は築地だから、箱崎から近いだろ?」

耕一は、夕方5時過ぎに、和田氏の所へ訪問した。そこには、グレッグほか、4名ほどが在籍し仕事をしていた。和田が「うちは、広告の製作会社で、紙媒体ほかCFの作成もやっているんだ。」と説明された。その後、「こちらへ、」社長室に通された。そして、今後の進め方の説明を受けた。和田は「実は、新会社を設立するに当たり、一つだけ条件がある。それは、この会社の4名を引き取ってほしい。」「4人のメンバーは、デザイナー、コピーライター、プランナー(自称)、CFプロデューサーだ。私が考えるに、これからのインターネット業界は、媒体として他の媒体等の融合が不可欠だと思う。つまりそれは、広告宣伝が必ず必要となる。」との話だった。耕一は、「ハア」と生返事をしつつも、よくわからなかった。「とりあえず、4名の方とお会いしてお話させていただけますか?」と切り出した。「わかった。じゃ、これから食事に行こう」と和田、耕一、その4名を連立って、近くの焼き鳥屋に向かった。

耕一は、柄にもなく緊張した。普段、営業で様々な人間と酒席は経験していたが、今回はクライアントでもなく、これからの何かがよくわからないまま、この新事業のスタッフとなるであろう人間といきなり話すのである。正直、戸惑った。



これは、後々わかったことだが、和田の会社は経営危機に瀕していた。そこへあるときグレッグと知り合うきっかけとなったのが先の馬場社長のオフィスであった。彼らは、かつては懸命に仕事をしていたであろう。しかし、何らかのきっかけで、資本の原理ともいうべき株式の仕組みに出会う。そして、和田自身の会社が経営難に陥った際に考えたのが吸収合併(M&A)である。そう、実質的には、新会社設立に乗じて吸収させる腹だったのである。また、耕一と下田の人材紹介料として、先の鎌倉の人物に、報酬を渡していた。その見返りとして、和田とグレッグは、ネクサスの白木社長との間で、とんでもない密約を交わしていたのである。これは、後々新会社にとって大きな足かせとなったのは言うまでもない。

耕一と下田は、まんまと嵌められたと気づいたのは、時すでに遅い頃であった。



さて、紹介された4名は硬い面持ちで耕一を見つめた。彼らには、耕一が何者か?まったく知らされていなかったのである。和田は「彼、中澤さんがこの度新事業の計画をまとめ、先のネクサスから事業資金を確保した人間だ。」と紹介された。

一番年長と思われる本間が「それって、どういうことですか?私は、アナログ人間なんで、インターネットのことなんてまったくわかりませんよ。また、これまでやってきた仕事は、信頼関係の上に成り立っているものでいきなりまったく新しい事に取り組むのは難しくないですか?」とCFプロデューサーらしい発言である。続いて小柄な福井が「本間さんの言うことも一理あるけど、本当に可能性、将来性があるのであれば、何か創めなければ前に進めないんじゃないですか?」といきなり、白熱の議論の前兆である。続いて伏せ目がちな須藤が「一度、何をどう考えて何をするのか、きちんと説明してもらったほうがいいじゃねえの?」と・・・

耕一は「いや、皆さんのお話は大変参考になります。まずは、私の自己紹介を先にさせていただきたいと思います。私自身、今の状況は未だよく理解できておりませんが、新規事業の立ち上げに関して大変興味を抱いています。しかしながら、皆さんとはまったく異なる業界で仕事を経験してきました。一つ言えるのは、新しいもの生む際には異なるものが寄り集まって何か生まれ出る気がします。今のこの空気においても、大変わくわくする反面不安もあります。どうでしょう?まずは、皆さん自身をご紹介していただいて、腹割ってお話するというのは?それぞれ、現在異なる状況の中で、各個人が考えていることは当然バラバラですよね。だからこそ、難しく考えないでまずは、お知り合いになれたこの機会に乾杯しましょう!」と皆に問いかけた。一同は、ようやく眉間の緊張がほぐれつつあった。

それから、2時間ほど他人行儀ではあったが、和気藹々といろんな話題に話が弾んだ。



耕一は、そのときから一抹の不安を消し去ることはできなかった。・・・
横浜地方裁判所で、別件の話し合いがあったために時間がありませんでした。本件については、改めて「回想」のPart3あたりで、記したいと思います。

唯一つ言える事は、事業活動における法人格とは、所詮個人という人間が複雑に絡み合っており、法律や商習慣といったルールの解釈・理解も人間であるということです。私は、基本的な考え方=価値観として、何事にも清廉潔白であることを念頭に、自身の思考回路を組み立てる努力をしていますが、いやはや、人間は都合のいいように解釈するという事がこんなにも厄介になるとは思いませんでした。改めて痛感します。

いづれにしても、本件も「経営と資本の分離」という観点から、非常に興味深い展開をしております。結果が出た段階で、ご覧ください。

明日は、本編の「回想」に戻ります。次章に移るわけですが、ここからはかなり書きにくい内容もございます。もし、ごらん頂いている方で、ご意見等あれば是非いただければ幸いです。それでは・・・
スムースジャズを中心に活動を進めてきた「かわ島 嵩文」のファーストアルバムが8月18日にリリースされました。

「'80 Dramatic Smooth Jazz Selection feat. TakA」3,150-

ジャケットには「わたせせいぞう」のジャケットで、全国のレコード店で発売しております。是非、お聴きの逃しなく!

http://home.t00.itscom.net/smooth/contents.html



彼は、サックスを極めるために渡米しボストンで3年半修業の後、日本ではスタジオ及びバックミュージシャンとして、幅広い活動を続けてきたようです。若干28歳と若いのですが、その音楽センスはお勧めです。是非一度聴いてみてください。



なお、不定期ですが渋谷の「kuro」と言う店(営業時間19:00~23:45)に生演奏で出演しています。ご興味のある方は、03-5784-1633にお電話の上足を運んでみてはいかがでしょうか?



1月4日、長谷社長は社員24名の前で、年初の訓辞を話し始めていた。

「皆さん、昨年までは本当に有難うございました。おかげさまで何とか年を越えて、今日ここで新たな年のスタートが迎えることが出来ました。幾つか、お話したいことがあるのですが、一番最初に会社としての方針をお伝えします。それは、この会社を立ち上げてから5年目を迎えます。これまで事業の中心であるEasyCDCreatorの商品も円熟期を過ぎ、次世代のDVDへの対応を迫られています。併せて、昨年から着手しているプリントソリューション事業も何とか見通しが立っています。これらを考えた時に更なる事業拡大なのか、事業転換なのか、未だ未知の部分もありますが、本年は当社としてIPOを目指すこととします。」



一同は、ポカンとした。「IPO」って・・・そう、株式公開である。

耕一と下田は、顔を見合わせ焦燥の色を隠せなかった。と言うのも、彼ら2人が現在すすめている新規の案件は、事業を立ち上げることともに、IPOする事が最大のミッション(役割)であることを間接的に和田氏から伝えられていた。2人は、一瞬見透かされていたかのかと焦ったのである。耕一は、この瞬間に自分へ一つの決断を下した。「やはり、退社して新規の事業に賭けよう・・・」と。元旦からいつ最終決断するか考えていたのである。一聞、長谷社長の話は良い話にも聞こえるが、耕一は全く逆に理解していた。と言うのは、長谷社長がIPOに見合うほどの経営者かどうかを見切っていた。



長谷社長はその後、ありきたり話を続け朝礼が終わった。



ちなみに、この会社は2人が抜けた後、多額(総額9億円以上)の第三者割当増資により資金調達をしたが、豊満経営(長谷は、人材を集めるのが好きでかなりの増員をした。)結果、6年後に上場企業にM&Aと言う形で吸収され、長谷はその会社で取締役となることは、誰も知る由も無かった。経営者と企業の規模、文化、金銭感覚は見事に反映されるものである。また、経営者本人の持つ若年時代の経験と記憶が、たまに見え隠れし、それが方針の一つの根底に流れる何かがある。

例えば、長谷の場合、学生時代、友人が多くその輪の中にいた経験が無いのである。ただ、勤勉に自分の決めたことにはまっすぐに突き進んできたのである。よって、自分にカリスマ性を醸し出したいために、ひたすら「いい人材」を集めるのは好きだったようだが、人材を生かすことは極端に下手であった。

社内で、実績を上げた者と上げられなかった者に対する差別的言動は、稚拙であった。これに伴い、その責任の押付け方は目に余るものがあった。

耕一は、現実にその様子を隣の同僚で目の当たりにしていた。

企業は、やはり経営者の器、人格で大きく変わるとよく言われるが、過去に改めて尊敬できる経営者は、落着きがあり、物静かであることに変わりはない。



朝礼の後、耕一は社長室を訪ねた。長谷に辞表の意向を伝えるためである。長谷は、引きとめはしたものの、即座に無駄だと判断したのか、了解した。



それから、耕一は新規事業の調査検討を続けていた。出社はするものの、これまでの一切の業務を止め、ひたすら「APEX」に関するビジネスの可能性を考えていた。ある、一つの光明を見出し始めていた。

それは、先の市場データにおいてPCの普及率とインターネット接続率などとは別に、ストレージ、サーバ関連のデータに目を見張っていた。ネットワーク(WAN/LAN)が拡大するにつれて、表面上には全く見てない部分である。とかくITと言う言葉の代名詞にはPC(パソコン)が上げられるが、インターネット上でビジネスを考えた場合、PCより「サーバ」が大変重要な事に気づいたのである。

例えば、PCの出荷台数予測の向こう3年の伸び率20%前後、インターネット接続加入者数の伸び率30%前後、よりも高い伸び率を示していたのが、「サーバ」の出荷台数予測であった。これは、60%以上の高い伸び率を示していた。これは何を意味するのか?

提示された「APEX」の事業内容としては、



1.インターネット上におけるHP等のホスティング

2.HP・ECサイト等とそれにまつわるシステムの構築

3.ライセンスビジネス



が主なものであった。特に、一部であはあるが米国での特許を申請しているものもあった。それは、特別なソフトウェアを使わず、ブラウザーのみでECサイトにおけるユニークなインターフェイスがあった。

これは、市場で認知されればかなりのインパクトがあると考えられたが、果たしてビジネスとして拡大できるか否かが分からなかった。耕一は、先の「サーバ」とこのインターフェイスを一緒に考えてみた・・・「そうか!」一つだけ気づいたのである。インターネットの接続率が上がり、PC若しくはそれ以外からのアクセスが増えた場合、最初に通過するのは「サーバ」である。このサーバがどのような役割を果たすか否かによって、インターネットビジネスの様々なスキームが構築される。今、目の前にある「APEX」のビジネスのネタは、まさしくサーバに仕掛けをしておいて、構築するものである。すなわち、PCだけでなくインフラだけでなく、サーバとその内部に置くシステムそのものであれば、今後まだまだビジネスの広がりを見せるあずである。要は、「APEX」はミドルウェアとインターフェイスの組み合わせのシステムである。サーバの増設は、このAPEXのビジネスチャンスの拡大に直結すると考えたのである。



2000年1月22日・・・

耕一は、グレッグ、和田氏とともに大阪農人町に向かった。そこは、光通信の中で筆頭子会社「ネクサス」であった。光通信と言えば、その営業力が評判で、IDOの携帯電話販売や、ビジネス向け電話機器の販売で売上・収益ともに好調の追い風に乗っていた。当時、未公開株にもかかわらず1株価格が600万円まで高騰していた。この追い風に併せて第三者割当増資とは別に、金融機関から約40億円もの資金融資を取り付けていた。この資金は、更なる事業拡大、新規事業展開の資金として用意されたものであった。

オフィスに入る前に、1階のカフェで1時間ほど待たされた。それからネクサスの役員会議室に通された。そこには、15人ほどのが待ち構えていた。耕一は、息を呑んだ。珍しく緊張したのである。奥から「じゃ、早速はじめてくれ」と声がかかった。耕一は、用意していたノートPCをプロジェクターに繋げ、説明を始めた。インターネット業界の現状や、媒体の視点から見たインターネットの位置づけ、そして今回のAPEXのビジネス展開における可能性をプレゼンした。15分ほどで話し終え、照明がつけられた後、一番奥に座っていた物腰の柔らかい男が「で、事業資金はいくら要るかな?」と耕一に質問した。「一応、PL試算だけではありますが、当初5000万円からスタートで計画を立ててみました。」と耕一は、別の紙を渡した。

すると、「わかった。じゃ、1億円用意する。新会社を作ってくれるか?」と訊かれた。耕一は、耳を疑ったが「はい。そのつもりでお話をさせていただきました。」「他に、ご質問等はございませんでしょうか?」と応えた。「いや、別に無い。(左右を見渡しながら)なあ、問題ないよね?APEXは進めるで。」と一同を制止するかのように話をまとめた。この人物こそ、ネクサスの社長、白木氏であった。その横には、山木常務、高山常務、ほかネクサスの経営陣がいたのである。

耕一は、一種にして両足が浮かび始める感覚を覚えた。「いったい、どういうことだろう?こんな話の運びで、1億円もの金が動くのか?これは、現実か?夢か?」何度も、心の中で繰り返していた。横にいた和田氏が「有難うございます。」「ご紹介してよかったと感謝しております。」と白木社長に満面の笑顔で答えた。

「それでは、今日のところはこれで終わりにしよう。後日、追々連絡を取りながら進めるということにしよう。」この場を離れ、3人は東京に戻った。

1999年12月28日・29日・30日と、耕一と下田は、3日間缶詰になりながらインターネットに関わるデータの整理と今後の予測を見出すべく、作業を続けた。当時、インターネット関連にまつわる市場情報は、非常に希薄で、メディア革命と言うような言葉は先行していたものの、現実的な実態や予測を数値化されたものは殆ど無かった。唯一、大手広告代理店D社が発刊していた、インターネットメディア白書を頼りに、精度の低い予測を思案するしかなかった。

しかしながら、耕一の経験から、D社がまとめた広告宣伝を中心とした市場データと言うよりは、もっと違う切り口の視点があるのではないかと考えていた。その理由は、「現在のインターネット環境がどうなるかと考えた場合、諸外国(特に)に遅れている通信環境は、今後の市場を予測するに当たりかなりの障害になるのではないか?」「すなわち、通信環境、若しくは大規模なシステムの充実と比例して、インターネット上でのビジネスは拡大するのではないか?」と思案していた。



下田と耕一は元々、いわゆるIT機器を扱う仕事をしていた。そこで、原点に立ち返りIT機器の基本である「ソフト」と「ハード」に切り分けてみた。これを大規模なインフラのレベルまで広げて、ブレインストーミングを手始めに、数多くのキーワードを列挙し、それらについて2人で議論した。

およそ、丸一日をかけて議論したが、確固たるロジック(ストーリー)がなかなか固まらなかった。むしろ、混沌としてもやもやが募った。

結局、この3日間の作業における現状把握の整理についてだけとして終わった。



1.日本国内におけるPC(パソコン)の出荷台数の推移データ

2.日本国内における法人(株式会社)のデータ

3.日本国内における4大媒体を中心とした広告宣伝費のデータとインターネット広告に関する予測データ

4.日本国民総人口に対するITリテラシー(PC保有率)のデータと推移予測データ



耕一は、考え続けた・・・この一週間毎晩、自宅で遅くまでビールを口にしながら、テレビを眺め、独り言を呟くことしばしば・・・

傍で見ていた長男の勝は「パパ、変だよ。目を開けて寝てるの?」っと声をかけた。耕一は、ハッと我に帰り「いや、そんなことはないよ。」と勝に微笑んだ。