起業から、経営者へ、そして・・・ -30ページ目

起業から、経営者へ、そして・・・

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耕一の心中は熱い情熱と共に、焦燥感に追われ始めていた。新会社設立から半年・・・果たして、ビジネスは立ち上がりの兆しが掴めるのだろうか?落ち着かない時間が流れる中、耕一は寝てもさめても、五感のセンサーが何も感じなくなるように、しびれる感覚が続いた。毎日、PL(損益計算表)としCF(資金繰表)を眺め、後3ヶ月も資金が持たない現実に目眩がし、頭の中が真っ白になった。「これは、いったいどうすればいいのだろうか?」生まれて初めて、経営責任者となり資金の扱いもわからないまま、頭の中が混乱する毎日である。ここへきて、事業における資金の重要性が骨身にしみる感覚であった。親会社であるネクサスは、この状況を当然承知していた。しかしながら、冒頭の4月に40億円という資金を銀行から融資を受けていた。その時のネクサスの第三者割り当て増資の株価は、600万円という破格な価格で、時価総額にするととてつもない金額であった。それを担保にしていた。しかし、「光ショック」の煽りで株の評価額は150万円近くまで下落し、融資の返済がとてつもなくその経営を圧迫していた。併せて、携帯電話販売を縮小せざる終えない方針に基づき、新規事業の立ち上げは必須であったが、なかなかその光明が見えてこない。ネクサスの財務責任者であった山木常務は、耕一の想像をはるかに超えた重圧の中で、資金繰りに奔走していた。併せて、光通信の持つネクサスの株の資本を政策的に再構築することもしたたかに進めていた。よって、エイペックスジャパンの窮地など二の次であることは言うまでも無い。



耕一は、資金調達に併せて米国エイペックスとの基本契約の見直しをしつつ、米国側にも追加増資に加えるように、米国に渡った。米国エイペックスのCEOであるマーク・スペンサーと2日間にわたりミーティングを持った。しかし、一向にこちらの事情を理解しない。驚いたことに米国人はインターネット技術は、米国が世界一と驕りが感じられた。彼らとの話の中で、日本の携帯電話の説明をする機会があった。耕一の持つ携帯電話を見たとたん、彼らは驚嘆した。それは、256色のカラー液晶1.5インチの画面を見てである。さらに、それがインターネットと繋がり、メールもサイトもアクセスできると知ると、驚きを隠せなかった。モバイルなる言葉も今では死語である。つい最近まで、ユビキタスなる言葉も横行していたが・・・たった6年前の話が、恐ろしく昔話のようである。この状況の中、一瞬不安が耕一をよぎった。「彼らは、日本のモバイル市場を理解できるのだろうか???」言うまでも無く、現在では日本・ヨーロッパを中心としたアジア勢は今日の結果を生み出した。



2日間にわたる交渉は、再度2000年末の再開まで持ち越しとなった。この際に、ナンバー2のジョン・スペンサーが「いや、今週注文したベンツが届くんだ。妻も楽しみにしているんだよ。」と話した。耕一は「今の話には関係ないな・・・」と思いつつその場を流した。しかし1ヵ月後、米国エイペックスから資金援助の相談が逆にされたのである。なんということであろうか?後々わかったのだが、ネクサスからエイペックスジャパンのライセンス使用料を現金で獲得した彼らは、いわゆる一夜成金となっていたのである。

既に、金銭感覚も鈍っていたのであった。要は、3億円は経営陣で山分けしていたのである。本来、法人として獲得した収益であるはずなのだが、ボードメンバー(役員会)で分配されていた事実は、暫く経ってからわかった。その後、経営的に維持できなくなったので資金援助を求めてきたのであった。耕一と下田は、愕然とした。まだ、自分たちのビジネスが立ち上がっていないのに、他人のことなど構っていられるわけが無い。耕一は、憤慨した。しかし、今彼らとの関係が白紙に戻ったら本来始めたこのビジネスは、架空のものになってしまう。よって、どうすれば維持できるかを考えることとなった。

幾度と無く、ネクサスの大村氏を交えその方法論を話し合った。大村氏「元々、この商売の始まりが普通じゃないからな・・・中澤さんいっそ、止めてしもうたらどう?」「今やったら、誰の責任でもなく、白木社長が責任持つしかないやろな・・・」と無責任にも聞こえる発言を繰り返していた。一方では、基本契約を見直しする際に依頼していた竹原弁護士は「強気で、契約の見直しと同時に、米国エイペックスを買収すると言うのはどうでしょう?」と前向きな意見であった。いづれにしても必要なのは「資金」である。それ以上に、エイペックスジャパンの経営に必要な資金も足りない・・・「どうすればいいのか???」



11月に入り、山木常務が突然耕一の元にやってきた。「中澤さん、どうしょうか?あんた、資金調達、銀行融資の借り入れでも、公的資金を受けたり、何でもいいけど、金どないしますの?」耕一は、凍りついた。「いつまでもネクサスがこの会社に資金援助してもらえると思ったら、あきまへんで!」「あんた、社長なんやから・・・」時間が止まった。山木常務の言葉は、耕一も言われるまでも無く常に肝に銘じていた。その言葉を決して言われないように、何とかしなければ・・・毎日そればかりを考えていたと言っても過言ではない。しかし、今ずばりそのままダイレクトに叩きつけられた。次の瞬間、山木常務は「ここが正念場やで!もう一回、VCからの資金援助を取りにいくぞ!」と気合を入れられた。それは、NIFベンチャーをリード(主幹事的)として「5億円集めまっせ!」と言うのである。耕一は「もう、これ以上何をすればいいのか・・・」と心の中でつぶやいた。





最近、株価の回復とともに事業活動が活発化し各業界での求人率が上がっているようである。しかしながら、その実態はどういうものか?



求人をしている企業は、およそわがままような気がする。



1.若くて能力の高い人材を求めつつも、経験不足は不要。

2.語学が堪能であることが条件付。

3.経験は重視するが、転職回数が多すぎてはダメ!

4.年齢は25~35歳まで。



よくよく考えていただきたい。上記の条件を満たす人材が果たして、どのくらいの確立で獲得できるのであろうか?よしんば、獲得したとしても、日本の企業体質では、ギャラが折り合わない。かといって外資系では、不安定であり社会的信用も薄い。果たして、まじめに人事・組織を考えているのであろうか?

また、現在の組織はそれほど立派なのだろうか?



私は、日本企業の人事戦略において根本的に考え直さなければ、日本的文化を持ついい企業が存続しにくくなってきている気がする。例えば、上記の条件で、1,000万円以下の年収で人材を獲得したとしても、おそらくは5年を境に折り合いがつかなくなる場合が多いと考える。つまり、そんな優秀な人材はとっとと、起業して社長になるであろうと思う。



中には、日本企業も米国的感覚で、5年サイクルで定期的に人員の入れ替えを当たり前のようにして、人件費そのものが底上げしないように考えているとも聞く。いづれにしても、長く歴史を作りつつ、日本的企業文化のよい部分は著しく消滅していくように感じる。



人材ビジネス側も、単純に人身売買的に事務的に交渉を進めているのが現場である。



私が企業組織を作るなら・・・・とととと、また次回にしましょう・・・



このブログの、左側のブックマークは、私の知人等のリンクでもあります。一度、除いてみてくださいね!



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第一回目の第三者割当増資は、8月末までに何とか実現できた。集まった資金は9,600万円。株価は30万円であった。新たに株主となったのは、NIFベンチャーと三井住友中央アセットマネージメントが主だったところだった。これに、エイペックスジャパンの関係者数人がエンゼルとして入った。耕一にとっては、初めての経験である。ほっと息をつきたかった。しかし、ネクサスからは先の米国エイペックスへ支払っている3億円のライセンス料は、貸付として切り替えられ、これを返済するように通達された。いきなり、負債である。これに加えて、1999年12月末と2000年3月末にその金額が2回に分けて支払われた際に、税法上の不手際で、新たに6,000万円が上乗せされたのである。このうちの1,500万円は還付請求で戻ることになっていたが、期末の2001年3月まで戻ってこない。これら全て、親会社が立て替えた。この多額の金額が動いているうちに、ネクサス本体も窮地に追い込まれ始めていた。というのも、「光ショック」の余波がまともに襲い始めた。金融機関からの圧力もあり、状況は更に悪化していた。ただ、詳細は耕一にもわからなかった。毎日のように、大阪から電話が入った。加えて、他の役員が連絡も無く頻繁に来ては、嫌味の一つも言って帰るのである。じわじわと、いたぶられている気分である。(もっともな話ではあるが・・・)



耕一は、何とか新規の受注を獲得すべく奔走した。ネクサス、金融機関から色々紹介された企業にいち早く赴き、営業活動を続けた。しかし、時期早々だったのであろうか?エイペックスジャパンの提供するものに興味は持ってくれるものの、導入に至るには敷居が高かった。その反面、活動資金までも逼迫し始めた。ネクサスの大阪本社で毎月開かれる子会社と役員会との合同会議では、耕一は剱山上での正座であった。月次決算の指示であったため、数字のチェックも大変である。経理担当はヒステリックを起こし、時には期限どおりに書類があがらない事もあった。このころから、社内の空気も少しよどみ始めた。



そんなある日、ソフトエンジニアの矢沢(女性)が耕一のところにやってきて「社長、上手くいきました。ありがとうございました。」と明るく報告に来た。耕一は、「んっ?そうか!上手く言ったか!よかたな!」と笑顔で返した。それは、1ヶ月ほど前に矢沢が耕一に相談を持ちかけてきた。「私、若気の至りでろくでもない相手と一度は結婚しました。でも、今はシングルマザーなんです。一人娘は来年中学なんです。母と3人で暮らしているのですが、何とか家がほしいんです。どうしたらいいですか?自分の家を持つのってどうしたらいいんですか教えて下さい!」と真剣なまなざしで見つめられた。耕一は、半年前にマンションを購入したことを思い出して「分かった、じゃ一般的な知識だけなら教えてあげるから・・・」と物件のことデベロッパーと不動産会社の違いや金融機関との関係などなどを経験を元に話をした。矢沢は耕一の話を聞いて「自分でも家を持てる気がしてきました。がんばります!」と言い残してから・・・今の報告である。

耕一は、心からほっとした。何かひとつでもいい。この会社で頑張る気持ちや夢を実現させることができるのであれば、それは会社にとっても大きな進歩だ。むしろその前向きなエネルギーを会社の原動力としたい・・・と考えていた。
中国系の日本の企業に関わったのですが、あれよあれよと言う間にその凋落振りは絵に描いたようである。



ベンチャー企業経営が不振になる理由に一番多いのが資金不足が一番多いと思われる。本来、IPO(株式公開)は、金のためではなくそのほかの大義名分が重要なはずなのに、結局は、資本の増大による「金集め」の目的感が強い。



さて、資金不足の発生理由は、色々考えられるが、能力の無い経営者の場合は、

全ての金を全て自分で動かせると勘違いしている。と言うのは、組織的計画に基づいた事業活動などは、全く無視して、社長自身の思うがままに行動し、それが絶対的意思決定と断言するのと裏腹に、トラブル、損失が発生すると自分以外に責任を押し付ける。



その次に、すぐ人員整理を始める。(給与支払いを減らさなければ、自身の実入りが減るため)

この経営者の場合、基本的に経営知識はゼロで、法律に関する知識も全く皆無である。



そして、自身の組織(法人)はガタガタで、内部の信頼関係が失われ、肝心な事業活動そのものが機能しなくなるのである。



こういう企業には、外部からの資金調達は全く無理に等しく、まさに「塩漬け」となり、動けなくなるのを待つか、身売りするかのいづれかである。



ここ最近、このような企業に出くわした。いくら話をしても、全く持ってこの事を理解しようとしないのである。勝手に、自滅するでしょうね・・・

山木常務のアレンジで、ソフトバンクインベストメント(SBI)にアプローチを始めていた。3段階の審査が通例とされていて、2段階までは順調に進んだ。最終段階において、更なる衝撃が耕一を襲った。それは、最終面談はSBIのトップである北尾氏との面談であった。彼は、野村證券出身で親会社であるソフトバンクの孫氏とそのグループ内で雌雄を分けるほどの大物であった。面談当日、SBIの担当からは「ほぼ大丈夫」のようなニュアンスで、平常心で望んで欲しいと促された。しかしそれは、全く違ったのである。



面談の部屋(北尾氏の社長室)に通され、手短に自社の説明を耕一が終えた。しばしの間の後「株価を原価であれば、5億円出そう。でなきゃ、この会社は駄目だな。」耕一は、動転した。それは、既に他のVC(ベンチャーキャピタル)との交渉では、株価30万円で成立していた。次の瞬間、耕一は北尾氏を睨んで黙り込んだ。「わかりました。株価に関しては、ここではお答えしかねます。ネクサスの白木社長と相談の上、お返事させていただきます。」と言うのが精一杯だった。



耕一は、帰社の途中考えた。自分の会社をここまではっきりとNGの評価をされたのである。提供するサービス、ライセンスの独自性、自身の思いは、誰にも負けないつもりだった。しかしながら、ビジネスは精神論ではない。全ては「数字」である。ある知人が「数字は嘘をつかない。そこから読み取れるものはたくさんある。」と言った。その通りかもしれない。よく、この「技術」「製品」は、「絶対にいい!」と言い切る経営者は多い。しかし、その大多数は自身の本当の足元が見えていない場合が多い。



耕一も、例外に漏れていなかったのである。しかし、耕一はこの憤りを抑えることが出来なかった。オフィスに戻ると、白木社長が待っていた。「どうや、中澤君、首尾はうまくいったかな?」と声を掛けられた。耕一は力なく「いえ・・・」と個室に入って、事の報告をした。これには白木社長も、「いい加減にしてほしいな。なめられてるな。」と吐き捨てた。ここで、今だから冷静に分析できるので以下にまとめてみよう。北尾氏の真意は一体何なのか?



1.エイペックスジャパンが取得したライセンス料は3億円以上という高額なものの減価償却は可能なのか?

2.資本政策における、株主構成が歪である。なぜなら、代表取締役社長である中澤の持ち株比率は0.1%と異常に低い。(これでは、起業家としてかなり評価が低い。)

3.提供する「商品」の完成度が低い。

4.「光ショック」の余波で、営業が困難であった。



等々の点である。今にして思えばもっともかもしれない。むしろ、それらを全て見抜いてこの新会社を買収にも似た投資で、全てを手にかければIPOも可能か?というのが北尾氏の真意だったかもしれない。ならば、彼の手でIPOさせてやるといった気持ちだったのか?



それから1ヵ月後、株式の新興市場であるナスダックジャパンの登録メンバーになり、再度、企業プレゼンをする機会があった。定期的に月1度開催されており、ベンチャー企業のIPOへの敷居を低くすることが目的であったが、実際は金融業界の担当者が「喰える商材」を見定める場でもあった。その日は、耕一が3番目で全部で8社ほどだった。ここでも、この順位に意味があった。かつてと同じである。その日の注目企業として位置づけられていた。しかし、この席上に北尾氏が居たのである。耕一はプレゼンの間際にそれを知って、いやな気分になった。「どうしよう?」かなり、どう進めるかかなり迷った・・・



一通り全社の紹介が終わり、ゲストとしての北尾氏がコメントを述べた。「今日ここにお集まりの方々に申し上げる。投資にまつわる事業連携をもう一度考え直していただきたい。単純に、いい技術とか良い商品と言うだけでは、ビジネスは継続しない。多角的な視点で組み合わせることによって、企業は強くなる。SBIは、もっと広い視野をもって、投資先の判断をしていきたいと考えます。」と・・・

もっともな意見である。当時はいわゆる「ネットバブル」の空気があった。それは、楽天市場が店頭市場で公開し大成功を収めた。これに続けとばかり、金融業界は一斉に「ネットベンチャー」に照準を定めていたのである。

しかしご周知の通り、長続きはしないものである。つい最近でも某大手ネット企業が崩壊寸前の状況である。かくも脆いのは企業という組織なのか?金融の冷徹さなのか?はたまた、資本の原理なのか?

しかし、この程度では日本の金融の闇は全くもって見えていないのであった。
2000年7月、中旬に入り暑さは益々その勢いを感じる日々だった。

その後、耕一は親会社のネクサスから預かった派遣の営業マン4名に対して、自らトレーニングを始めた。耕一がかつて自分自身が、「目から魯湖」の思いをした経験を元に、コンサルティングセールスを基本としたその手順とノウハウを伝えようとした。なぜならば、エイペックスジャパンの提供する商品は、無形のものであり「提案」を基本とする営業スタイルをイメージしていた。

親会社ネクサスの営業スタイルは「説得商材」を不得手とし、数字至上主義で勢いはあった。しかし、エイペックスジャパンの商材は、親会社であるネクサスにとっては全く文化の異なるものであったが、白木社長としては今後の事業展開を考えた場合、是が非でも新しいものを事業に組み入れたかったのである。預かった4名は、今西・菅・小林・村山であった。大柄な今西は、耕一が見上げるほど大きな印象があった。菅は、同じ年であったが、営業成績はネクサス社内で評価が高かった。小林、村山は社会人3年生の第2新卒である。

先ずは、彼らに耕一自身を知ってもらうために、多くの経験を語るとともに、出来るだけ彼らの感性を引き出そうと、公私問わず、大事にした。これは、親会社のネクサスに対する牽制ではなくて、本心からこの新会社で「使える」営業マンを育てたかったからである。最初の1週間は、みっちりとロールプレイまでのプロセスの組み立て方、基本的知識、面談における細かなところまで、終日トレーニングを行った。

しかし、その後の結果は期待通りには現れなかった。(後々2年ほど過ぎて、その効果があることに気づく。)今にして思えば、耕一が一番判断を誤ったのはこの時期かもしれない。それは、市場における顧客の「変化」が始まったのはこの時期からかもしれないからだった。耕一は、連日の多忙の中この「変化」を見逃したのかもしれない。反省を込めてあえて言ううならば、自身が経験してきた営業現場は、常に最先端の技術の裏打ちがあって成り立つ営業であった。よって、過信か?奢りか?が無かったとは言い切れない。むしろ、「社長業」に振り回されていた。
金(資金)の出所(出資元)によって、様々なパワーバランスが生まれると言うことがあります。よって、金(資金)とが一番自由に使えるのは、自分の懐から出たものが一番問題ないということです。第三者から資金の出資を仰ぐのは、ある意味「信用」の象徴でもあります。しかしながら、その信用と引き換えに何があるのか?それは、仰いだ側に責任が生じると同時に、自身の意思決定だけでは身動きが取れなく事があります。よく、若い世代で「谷町」「スポンサー」からの資金援助を望む起業家志望の人々が気づかないのは、出資する側が「喰う側」で出資を仰ぐ側が「喰われる側」と言う意識がないのが通常です。

当然、調達した資金は、自由に使えるわけですが「タダより怖いものはない」と言われるとおり、借金として返済義務がない代わりに、利益還元(株主還元)が必須になります。この足かせが、起業家のやる気を削ぐ場合もありますし重圧ともなる。ましてや、全くの他人である場合は、人間としての信頼関係は、全くないに等しい。このことがどれだけ大変なことか・・・後々、金融機関の人種をいやと言うほど思い知らされる。



話は、前述の現場の話に戻るが、李社長から受注した件に関してこれも複雑なお金が絡んでいた。PEJ馬場社長の紹介だったわけだが、当然、PEJは李氏に投資していた。また、エイペックスジャパンの株式の一部譲渡の祭に、白木社長から株を譲渡されていた。これは和田社長も同じくエイペックスジャパンの株を譲渡されていた。

そして、更に和田氏は旧法人を清算すると同時に、新会社をグレッグ氏と設立し、更にPEJの馬場氏から出資を仰いでいた。なんとも狭い領域の話であるが、馬場氏は、出資した全てをIPOさせ、上場益を狙う腹つもりだった。そんな中で、李社長からの受注は、見えない糸で繋がれた資金を単に回しているだけになっていることに耕一は、気づいた。さらには、この話は和田氏やグレッグに回っており、下請け発注を半ば強制された。新規DB構築に約2ヶ月の納期に対し、3ヵ月半かかり、更に最終テストの段階で、使い物にならないと判断されて再度作り直しとなった。

全て、エイペックスジャパン社内でのまかなうこととなり、結果、約1,000万円のロスが発生した。

「いったい、なんということだろう・・・・」純粋に、ビジネスを遂行すると言うのはなんと難しい事だろう。耕一は、徐々に他人への信頼感に悩みはじめることとなった。

先の経済紙等の媒体でスキャンダルとなった「光通信」の問題が徐々に、耕一たちの営業活動に響き始めていた。先ずは、耕一資金調達としてベンチャーキャピタルの他に大手企業の投資部門へ訪問した際に「光物はちょっと、社内的に嫌悪感が強いんですが・・・」と言われた。耕一は何のことか理解できなかった。「光物」とは「光通信」と「ソフトバンク」を指していたのである。共にいろんな意味で大手企業、金融機関も当初は懐疑的態度をとる企業であった。ただ、ある人物からこの2社はいづれも「生粋の日本企業じゃないからね」と聞かされた。耕一は、またも灰色の資本社会の毒を知った気がした。



現場では、営業が中堅規模のクライアントに訪問すると「オタク、光通信の孫会社だって?大変だね?立ち上げたばかりで大丈夫?」と茶化され始めていた。このような状況になってくると、まともな正面からの営業では厳しくなってくる。耕一は、不本意ながらも、親会社ネクサスとその関係の金融機関に相談し、クライアントの紹介をしてもらえるように申し入れた。ネクサスは、なぜかこのような動きだけは類まれに見るスピード感があった。また、金融機関も様々な企業を紹介してきた。先ず最初に紹介されたのは、「ギャオ」というネクサスの子会社の一つであった。当時、いち早く1・2を争う勢いで、携帯電話メールの広告配信事業を進めていた。既に2期目に入り業績は好調であった。ギャオの拡販を狙って、何かプロモーションを提案して欲しいとの話であった。こういう案件では、広告制作部隊の出番である。須藤他3名が提案活動に入った。しかし気になったのは本間が「私には、さっぱりわからないので・・・」と言いつつ、この提案活動には全くタッチしなかった。

次に、提案されたのは日債銀(現、あおぞら銀行)から「あの楽天市場のE-コマースサイトの構築を請け負った会社の社長を紹介する」と、ある土曜の昼下がり、お台場の日航ホテルのラウンジで面会した。驚いたことに相手は30代前半の女史であった。昔、タレントぽい事をしていたらしく、容姿は整っていたが、今ひとつ、垢抜けていなかった。「御社のそのシステム、面白そうね。社内に持ち帰って検討してみるわ。」とその後、一切の連絡は取れなかった。その他、大手セキュリティ会社の本部、大手通信販売会社、消費者金融、中古車販売会社、アパレル企業、などなど様々な業種に営業を掛けた。しかし、その打率は惨憺たるものだった。



なぜ、売上につながらないのか?耕一は悩んだ。自ら営業に回り、初対面の相手に懸命に自身の会社のPR、商品・サービス提供の説明を幾度となく繰り返した。試行錯誤の連続である。なかなか耕一の中にも確信が掴めない。そんな中、PEJの馬場社長に紹介されたある中古車会社があった。相手の社長は耕一よりも若く、元気のいい社長であった。彼は韓国出身の、溌剌とした経営者、李氏だった。弁も立つ。耕一は「いける!」と思った。



それから、具体的な提案より、起業家として同じ感覚を持つものとして接し始めた。その際に、須藤と営業担当の久保田に具体的提案を任せ、李社長自身が何をしたいのかを引き出すことに耕一は専念した。李氏の思いは「現代の車社会は、本当に生活に密着している。よって、新車、中古車問わず、今の流通のあり方を変えたい!」との弁であった。それは、今の中古車流通におけるオークションシステムを変えたいとの思いだった。インターネットを介して直接ユーザー同士の売買によって、より良い車社会を築きたいとの事であった。それを受けて、耕一たちはインターネット上でブラウザー上で、売主が手持ちの車の状態をチェックしていくだけで、均一かつ公平な査定が出来るシステムを提案した。併せて、起業イメージを向上させるために"ロゴ"を提案した。これは、既存市場に乱立する、アップル・ガリバーなどに正面から勝負を挑むためでもあった。李社長は、耕一たちの提案を大変気に入り、今後ともお互いに協業関係を結ぼうと、株式の持合まで持ちかけてきた。このシステムは、販売価格で約3,000万円、ロゴの全ての権利は600万円で折り合いがついた。見積もりを提出する際に、久保田の上司である部長の熊崎は、システムは別としても、ロゴを昨今600万円での金額は、バブルでない限り無理と断言し、最終交渉での同席を拒んだ。しかし、耕一は自ら出向き営業としてのプレゼンと交渉をしたのである。価格はそのまま受け入れられ、先の株式の持合まで話が及んだ。久保田も、熊崎も、デザイナーである福井も唖然とした。福井は逆に、営業として耕一の案件は最優先にするから、クライアントに同行させて欲しいと申し出てきた。ようやく少し、巧妙が見えはじめた気がした。社長自らが営業マンでなければ、草創期は推進力に欠ける。しかしこれが悪循環になることもある。



エイペックスジャパンとして、ようやく初の本格的な受注である。システム構築のためのソフトウェアエンジニアに、激をと飛ばし、耕一は別のクライアントへと赴いた。それからは、下田も持ち前のライバル意識で様々な案件に取り組んだ。下田はこの後、継続性のあるこの会社にとっても大変価値のあるクライアントを獲得することとなる。ようやく、活気が出始めた気がしたと同時に、ネクサスより営業支援するために、4名の営業人員を無償で派遣させるとの連絡があった。社内では、軽い嫌悪感が漂った。と言うのも、親会社からの人間が来るとなると皆気を遣うようであった。また、ネクサスの体質からして、光通信張りの営業文化を継承しているとなると、現在のエイペックスジャパンの営業とはかなりカルチャーギャップがあると、スタッフ全員が感じていた。しかし、耕一は何も言わず受け入れた。



一方、資金調達はこれらとは裏腹に、困難を極めた。今にして思えば、何も知らない素人経営者のグループである。財務会計的観点からすれば、とんでもなく甘い内容であったことは確かであった。それ以上に、「光ショック」の影響で訪問する度に「君も、光通信に居たの?」と耕一は質問されることしばしばであった。ここで、金融機関について全くもって愕然とすることがあった。それは耕一が自社の情報を公開するに当たり、プレゼンの前に必ずNDA(機密保持契約書)を交わした上で、交渉を進めていたが、これが日本においては、全く何の効力を持っていないことに気づいたのである。それはある時、某ベンチャーキャピタルが来社した。いつものように会議室で、プレゼンを始めた。一通り終わって、質疑応答に入った。その際に、相手はなにやら白黒の書類を見ながら質問してきたのである。質問には全て耕一が答えた。しかし、その内容はその場で聞けるものではなかった。不自然に思い、相手の手元の書類を何気なく覗いた。すると、それは前週に別のベンチャーキャピタルに渡した書類を持っていたのである。「これは一体どういうことか?」耕一は、頭の中を駆け巡った。

要は、業界の中で情報は横流しにされると同時に、紹介されるといった構図であった。一体、信頼・信用とは何なのか?耕一は砂をかむ思いの中、いつもどおりに、お決まりの書類を相手に渡した。それからと言うもの、耕一はプレゼンの内容を変えなければならないと考えた。須藤に相談すると「じゃ、数字の書類と別に企画・技術の内容は別立てにしたら・・・」との言葉であった。耕一は、それだけでは駄目だと思い、スクリーンに映し出すものの一部は、紙に落とさないようにして、苦し紛れの努力をしていたのである。しかし、これはほんの序章にしか過ぎなかった。金融・株式の落とし穴の淵へ手繰り寄せられるには、まだまだ知る由もない些細な事であった。
米国APEX Interactive社から提供されつつあるライセンスを含めたソフトウェアについてどのように販売していくか、社内での検討が続いていた。特に目を引いたのは「Parts Explortion」と呼ばれるものであった。これは、サイトにアクセスするPCには、特殊なソフトウェアを搭載せず、ラウザー上から直接欲しいものをマウスによるドラッグアンドドロップで用意されたショッピングカートに自由に出し入れできるのである。このカートは、ページが変わってもそのまま移動できて、さしずめ巨大ショッピングセンターに仮想的に動き回るイメージを膨らませるものであった。更にカートには、決済機能に必要な情報も搭載できる機能もあり、プレゼンにおけるデモは大変な反響があった。しかし、問題点も多かった。まず、ベースとなるミドルウェアのサーバーには「Cold Fusion」の環境が必要であり、DBとしてはかなりマイナーであった。(後にこのDBは、日本市場から撤退した。)更にメインのページとなる画面の作り込みには、相当な労力が必要となり、いざ販売するために見積もってみると、とてつもなく高額になってしまっていた。(最低でも、5,000万円を切る事が不可能であった。)加えて、ライセンスの償却となると更に販売価格が跳ね上がってしまう。営業担当は「提案書を作るのは可能ですが、いざ具体的な詰めになると、クライアントが引いてしまう。」と嘆いていた。それではと言うことで、とりあえずホームページの作成へ話を切り替えざる終えないのである。

本来、耕一の立ち上げた事業は、これからの日本国内におけるインターネット市場にシステムとしてのソリューションの一部を提供することを目的としたことであった。しかし、未だ形の無いものを提供するのは困難を極めた。要は、誰にでもわかりにくいのである。米国から持ち込んだライセンスは、決して悪いものではなかったが、いかんせんそのソフトウェアのリソースは、英語である。日本語化すると同時に、ローカライズしなけらばならない。日本語化というのは言語だけの問題であるが、PC及びサーバーに搭載されているOSそのものは、万国共通化というと決してそうではない。OSそのもののディレクトリ階層の構造が英語版と日本語版では異なることもある。データベース(DB)の場合、これらを開発する際に、開発環境と使用(運用)環境が同じでなければ動かない場合もある。ローカライズとはこのような作業を含めて言うのである。

耕一と下田の部下3名は、何度か今後の計画について話し合った。結論はこのまま米国から渡されたものをデモで動かすことは簡単だが、実際に、企画→提案→製作となると、ほとんど一から開発する工程と変わらないことが判った。当初の計画では、5月末までにプレスリリースの後、クライアントへの採用実績を積み上げる予定であった。しかし、現状ではどんなに早くても6月一杯はかかる。事実、少数精鋭のスタッフは、計画通りに進めるべく夜遅くまで、また場合によっては会社に泊まりこんでその仕事を続けていた。今にして考えても大変優秀なスタッフであり、貴重な金の人材であった。



耕一は、営業2名に激を飛ばした。「なんとしても、当社の持つミドルウェアとしての技術をクライアントに採用してもらうようにしろ!」彼は常日頃、スタッフに「我が社の夢は、私の独断的な夢かもしれない。しかしながらこの夢を共有することによって、個人の夢も是非実現して欲しい。馴れ合いや、仲良しクラブでここにいるわけではない。個人の価値観は尊重する。しかし、組織的に動く場合は一切個人の感情を捨てて全力で望んで欲しい。」と言っていた。

エイペックスジャパンに集ってきたスタッフは、最終面接の際にこの耕一の言葉を聞き、また各自が自身の夢を耕一に伝えていた。耕一は、スタッフの各自の夢を一人一人覚えていた。また、時間が経ってもなぜその本人を採用したかを明確に回答できたのである。少し異なったのは、和田氏から引き取った4名のスタッフであった。当初は、なかなか本音で話せないのが良くわかった。耕一も気を遣っていたが、あるとき酒席で本間と話した。「本間さん、あなた自身の夢って何ですか?」すると本間は「いや、ほとんど望みはないですが、実はCF(TVコマーシャル)の製作の仕事に携わっていると、いつかは・・・映画を撮りたいと思うようになるんですわ。今更ながら、黒沢明の"七人の侍"は自分のバイブルみたいなもんですわ。」と語ってくれた。耕一は、感動した。「本当に自分の周りに集まって来てくれた人々は、きっかけはどうあれ、すばらしいスタッフだと・・・」ゆえに、この事業、この会社の繁栄はスタッフ全員に還元しなければならないと強く心に刻んだ。