既に5ヶ月が過ぎようとしていた。
木場氏と良く話をしていたのは、今後の事であった。このまま、今の状態での仕事が続けられるのかどうか?また、それぞれの進む方向性についても話し合った。
いずれにせよ、元々職種も異なる。ここらで、何かしら個別にアクションを起こすべきではないだろうかと思い始めていた。
木場は「つまらないかもしれないけど、大手企業の組織に収まるのもいいかな?」と呟いた。
耕一は「自分は、いまさら就職活動しても厳しいかな?何か仕事になりそうなこと無いだろうか?」と呟いた。
そんな中、黒岩氏が「東京事務所を出したい」といい始めた。二人は顔を見合わせた。
これとは別に、耕一は以前に紹介された、藤本氏とNEPの話を進めていた。広島との往復の合間に、NEPへすでに3名の人材紹介が決まっていた。更に2名の紹介予定もほぼ決まっていた。その話が終結しようとした頃、藤本氏から「相談があるんだけど・・・」と声をかけられた。
ある日、藤本氏と耕一は渋谷の居酒屋で待ち合わせをした。
藤本「中澤さん、ぼちぼちどう?何をやるか決まった?」
耕一「いえ、未だ何もハッキリとは・・・」
藤本「そう・・・実は、相談というのは・・・私が元々持っている法人があってそれをもう一度、稼動させようかと考えているんだけど・・・」
耕一「藤本さんの、何の会社ですか?」
藤本「いや、元々は税金対策で作った個人会社だから何ということも無いんだけど・・・そこで、一緒に定款も見直して、一緒にやってみない?」
耕一「そうですね・・・でもやるとなると何も資金は無いですよね?どうしますか?」
藤本「負債は無いから、とりあえず新規に何か仕事が取れれば、その入金はすべてまわせる事になるから大丈夫じゃない?」
今にして思えば、上場企業の管理本部長を務めた人間の言葉とは思えなかったかもしれない。この時点では、耕一は何も疑う余地は無かった。
耕一「分かりました。何かしらコンセプトとか考えてみましょう。」
この話の発端が、新たな火種になるとは想像する由もなかった。
ニュースでは、毎日流れる幼児や子供の虐待・殺人には心が痛みます。
社会的弱者が、全ての犠牲になっているのですから・・・・悲しい事です。
また、若年層の犯罪も多いのと、外国人の犯罪と思われるものも多いですね。
暗い話だけではなく、経済は昨年よりも明らかに上向きな兆しが感じられますが・・
これらとは別に、色んな転換期でもあるのかと感じます。物理的ではありますが、マイクロソフト社のVistaのリリースにより、必然的に今後暫くは、アップグレードや移行に伴う需要が発生するようです。加えてインターネットの世界でも2.0が主流になってきています。携帯電話は、より高機能に進化しています。これらに連動して、放送局のデジタル化が一段と進んでいます。
しかし、一番大切な何かが進化が一番遅れてはいないでしょうか?・・・
そう、人間自身です。なかなか新しい事は覚えにくいものです。しかしそれ以上に一番憂うのは、世の中の仕組み、それを仕切っている政治などは、一体いつになったら進化するのでしょうか?
今年は、宮崎県知事を皮切りに、選挙の年ですから話題が尽きないようですが・・・高い税金を払っている以上、選挙権は無駄にしたくないと思いつつも、その1票がいかほどの力があるのか?疑問です???
一度、政治家を全員解雇して、ゼロから全て、組みなおしたほうがいいのではないでしょうか?このまま、時の流れに任せていいのでしょうか?
野党第一党の民主党も、無力のようです。K・H・Oの3氏に直接お会いした事ありますか?まさに、詐欺氏の匂いプンプンですよ。まあ、政治家は殆どが同じ空気を持っているようですが・・・
どうしたら、皆が納得して、「いい感じ」と思える社会が出来るんでしょうかね?
社会的弱者が、全ての犠牲になっているのですから・・・・悲しい事です。
また、若年層の犯罪も多いのと、外国人の犯罪と思われるものも多いですね。
暗い話だけではなく、経済は昨年よりも明らかに上向きな兆しが感じられますが・・
これらとは別に、色んな転換期でもあるのかと感じます。物理的ではありますが、マイクロソフト社のVistaのリリースにより、必然的に今後暫くは、アップグレードや移行に伴う需要が発生するようです。加えてインターネットの世界でも2.0が主流になってきています。携帯電話は、より高機能に進化しています。これらに連動して、放送局のデジタル化が一段と進んでいます。
しかし、一番大切な何かが進化が一番遅れてはいないでしょうか?・・・
そう、人間自身です。なかなか新しい事は覚えにくいものです。しかしそれ以上に一番憂うのは、世の中の仕組み、それを仕切っている政治などは、一体いつになったら進化するのでしょうか?
今年は、宮崎県知事を皮切りに、選挙の年ですから話題が尽きないようですが・・・高い税金を払っている以上、選挙権は無駄にしたくないと思いつつも、その1票がいかほどの力があるのか?疑問です???
一度、政治家を全員解雇して、ゼロから全て、組みなおしたほうがいいのではないでしょうか?このまま、時の流れに任せていいのでしょうか?
野党第一党の民主党も、無力のようです。K・H・Oの3氏に直接お会いした事ありますか?まさに、詐欺氏の匂いプンプンですよ。まあ、政治家は殆どが同じ空気を持っているようですが・・・
どうしたら、皆が納得して、「いい感じ」と思える社会が出来るんでしょうかね?
その後の定例会で、何度か同じ話が繰り返されていた。それは、法律的にグレー名部分をどうするか?ということである。
この点においては、神辺氏がなんとも決断が慎重であり、次の段階への話が一向に進まなかった。その間、耕一は頻繁に、黒岩氏と神辺氏との夜席に同席することとなった。そう、黒岩氏はこの席で幾つもの仕事をこなしてきた自負があり、神辺氏もそもそもこれがきっかけであった。
耕一は、ある時、黒岩氏に「神辺社長に正式に何かしらの契約を勧めるのはどうでしょう?」と進言した。しかし、黒岩氏は「広島じゃ、そのやり方は受け入れられんから・・・」と却下された。その他のメンバーもこれには何とも言葉が無かった。しかし、黒岩氏は神辺氏に「中澤氏を御社の本部のメンバーに入れれば?」と打診した。神辺氏は「それは、専務(嫁)がうんと言わんと無理じゃな・・・」それを受けて黒岩氏は「中澤さん、あんた専務に営業かけんしゃい!」と伝えた。
耕一は、またしても困った・・・
それから、1ヵ月後、黒岩から「中澤さん、例の専務の件じゃが、なんかすすめたかのう?」と言ってきた。
耕一は「いや、まだ何も出来ていませんが・・・」
黒岩「そりゃ、よかった。暫く様子見といてくれくかのう?実は、神辺社長が浮気相手が専務にばれて、離婚騒動まで話が出て大変なんじゃわ・・・」
耕一「はい、分かりました・・・」
耕一は、苦笑した。一体何なのだろう?のこ人たちは・・・・それ以来、この採血事業の件はすべたが保留となった。何ともお粗末ではなかろうか???(苦)
この点においては、神辺氏がなんとも決断が慎重であり、次の段階への話が一向に進まなかった。その間、耕一は頻繁に、黒岩氏と神辺氏との夜席に同席することとなった。そう、黒岩氏はこの席で幾つもの仕事をこなしてきた自負があり、神辺氏もそもそもこれがきっかけであった。
耕一は、ある時、黒岩氏に「神辺社長に正式に何かしらの契約を勧めるのはどうでしょう?」と進言した。しかし、黒岩氏は「広島じゃ、そのやり方は受け入れられんから・・・」と却下された。その他のメンバーもこれには何とも言葉が無かった。しかし、黒岩氏は神辺氏に「中澤氏を御社の本部のメンバーに入れれば?」と打診した。神辺氏は「それは、専務(嫁)がうんと言わんと無理じゃな・・・」それを受けて黒岩氏は「中澤さん、あんた専務に営業かけんしゃい!」と伝えた。
耕一は、またしても困った・・・
それから、1ヵ月後、黒岩から「中澤さん、例の専務の件じゃが、なんかすすめたかのう?」と言ってきた。
耕一は「いや、まだ何も出来ていませんが・・・」
黒岩「そりゃ、よかった。暫く様子見といてくれくかのう?実は、神辺社長が浮気相手が専務にばれて、離婚騒動まで話が出て大変なんじゃわ・・・」
耕一「はい、分かりました・・・」
耕一は、苦笑した。一体何なのだろう?のこ人たちは・・・・それ以来、この採血事業の件はすべたが保留となった。何ともお粗末ではなかろうか???(苦)
前年に、株式を店頭公開していた。よって、耕一の米国駐在の任命は役員会の承認をもって、公の発表でもあった。
これにあわせて、当時耕一が地方の営業所に勤務していた事務所から東京本社への転勤が決まっていた。この際に大山部長より、「後任の育成」を命じられた。しかし、人事権があるわけではないので、中途入社の社員を10ヶ月間預かったのである。それが、坂下であった。この頃、耕一はマネージメントの能力があるはずも無く、上からの業務命令としてどうしたものかと思案した。坂下は、他の業界からの転職組みである。何から教えるべきかも分からなかった。
とりあえず、3ヶ月間は耕一と全て行動を共にすることとした。耕一は、これまで自分がやってきた「営業」を見せるのがまず、手っ取り早いだろうと考えた。始業から帰宅まで、全て同じ時間をすごすように命じた。要は、鞄持ちをさせたのである。そして、耕一はいいところでだけではなく、うまくいっていない得意先との交渉も含め、その全てをさらけ出した。ところが、以外にもそんな客に限って、新しい案件が発生することが増え始めた。そう、顧客開拓が上手くいき始めた。中にはこれまでに無い案件も獲得し、その営業所は順調に業績を伸ばした。そうして、耕一の評価は、ある意味安定したものでもあった。
しかし、本社転勤後、米国事務所にて約6ヶ月間近いの長期滞在を命ぜられた際に、耕一にとってはじめての挫折を味わうこととなった。
それは、そこの上司との話においてであった。上司(副社長)は、決して耕一を認めようとはしなかった。それは、耕一だからではない。理由は、(彼曰く)「この10年間、想像を絶する苦労をしてきて、後任が、何の苦労も知らないで引き継ぐのは許せないと言うのである。」これは、一体どういうことか?耕一は、意味が分からなかった。
副社長の言い分は「当時、自分が単身で米国に渡り、現在の事務所を立ち上げるまでに、様々な苦労をしたが、本社側は大して助けてくれたわけでもなく、加えて雇用契約(給与面)条件は、何も無い状態で、今日本に戻っても、厚生年金も何も無い。なのに、後任は、新しいルールの元、大手企業水準に合わせる形で、それらの条件が180度変わった。これは、不公平であり、許せないと言うのである。」
この話以降、耕一と副社長の間には溝が出来始めた。なぜなら、耕一が苦労し無い限りは何も認めないと言うような空気となった。加えて、「日本で“出来る奴"が、米国で出来る奴にはならない。言わば、今の君は使い物にならない」とまで言われた。これには、耕一もこたえた。この言葉は、日本に戻る空港に送ってもらう車中で言われたのである。
耕一は、愕然として飛行機に乗った。機中でも、呆然としていた。
数ヶ月間、言葉・文化の異なる場所で一人で生活する孤独感も十分に理解し、海外駐在員が経験する初期症状(1ヶ月目、2ヶ月目、3ヶ月目)の体調の変調も克服し、何とか通常の生活が出来るまでにはなっていた。
思えば、10代半ばの夢を追いかけ、結婚する際にも妻にはその夢は捨てないで、生きていくことを約束し、がんばってきたのである。この時点でその夢は脆くも砕かれた。日本に帰国してから、耕一は悩んだ。
仮に、自分の夢を貫いても、会社に対してマイナスな存在であれば何の意味も無い。果たして、自分が米国での仕事を遂行することが出来るのか?
帰国してから半年後、耕一は米国行きの立候補を自ら取り下げ、その会社を退社する事となった。しかし、耕一は次の転職先に、米国系の外資系企業に挑むこととしたのであった。なぜなら、自分が「使い物にならないか否か?」を確かめるためでもあった。敢えて、厳しい選択肢を選び、それまでの自分の過去のスタイルにリセットボタンを押したのである。(終)
これにあわせて、当時耕一が地方の営業所に勤務していた事務所から東京本社への転勤が決まっていた。この際に大山部長より、「後任の育成」を命じられた。しかし、人事権があるわけではないので、中途入社の社員を10ヶ月間預かったのである。それが、坂下であった。この頃、耕一はマネージメントの能力があるはずも無く、上からの業務命令としてどうしたものかと思案した。坂下は、他の業界からの転職組みである。何から教えるべきかも分からなかった。
とりあえず、3ヶ月間は耕一と全て行動を共にすることとした。耕一は、これまで自分がやってきた「営業」を見せるのがまず、手っ取り早いだろうと考えた。始業から帰宅まで、全て同じ時間をすごすように命じた。要は、鞄持ちをさせたのである。そして、耕一はいいところでだけではなく、うまくいっていない得意先との交渉も含め、その全てをさらけ出した。ところが、以外にもそんな客に限って、新しい案件が発生することが増え始めた。そう、顧客開拓が上手くいき始めた。中にはこれまでに無い案件も獲得し、その営業所は順調に業績を伸ばした。そうして、耕一の評価は、ある意味安定したものでもあった。
しかし、本社転勤後、米国事務所にて約6ヶ月間近いの長期滞在を命ぜられた際に、耕一にとってはじめての挫折を味わうこととなった。
それは、そこの上司との話においてであった。上司(副社長)は、決して耕一を認めようとはしなかった。それは、耕一だからではない。理由は、(彼曰く)「この10年間、想像を絶する苦労をしてきて、後任が、何の苦労も知らないで引き継ぐのは許せないと言うのである。」これは、一体どういうことか?耕一は、意味が分からなかった。
副社長の言い分は「当時、自分が単身で米国に渡り、現在の事務所を立ち上げるまでに、様々な苦労をしたが、本社側は大して助けてくれたわけでもなく、加えて雇用契約(給与面)条件は、何も無い状態で、今日本に戻っても、厚生年金も何も無い。なのに、後任は、新しいルールの元、大手企業水準に合わせる形で、それらの条件が180度変わった。これは、不公平であり、許せないと言うのである。」
この話以降、耕一と副社長の間には溝が出来始めた。なぜなら、耕一が苦労し無い限りは何も認めないと言うような空気となった。加えて、「日本で“出来る奴"が、米国で出来る奴にはならない。言わば、今の君は使い物にならない」とまで言われた。これには、耕一もこたえた。この言葉は、日本に戻る空港に送ってもらう車中で言われたのである。
耕一は、愕然として飛行機に乗った。機中でも、呆然としていた。
数ヶ月間、言葉・文化の異なる場所で一人で生活する孤独感も十分に理解し、海外駐在員が経験する初期症状(1ヶ月目、2ヶ月目、3ヶ月目)の体調の変調も克服し、何とか通常の生活が出来るまでにはなっていた。
思えば、10代半ばの夢を追いかけ、結婚する際にも妻にはその夢は捨てないで、生きていくことを約束し、がんばってきたのである。この時点でその夢は脆くも砕かれた。日本に帰国してから、耕一は悩んだ。
仮に、自分の夢を貫いても、会社に対してマイナスな存在であれば何の意味も無い。果たして、自分が米国での仕事を遂行することが出来るのか?
帰国してから半年後、耕一は米国行きの立候補を自ら取り下げ、その会社を退社する事となった。しかし、耕一は次の転職先に、米国系の外資系企業に挑むこととしたのであった。なぜなら、自分が「使い物にならないか否か?」を確かめるためでもあった。敢えて、厳しい選択肢を選び、それまでの自分の過去のスタイルにリセットボタンを押したのである。(終)
野球場に足を運びました。
天気もよく、神宮球場で公式戦(ヤクルトX広島)を観戦しました。
マスコミで報道されている以上に、雰囲気やエンターテイメント性は良くなっているのに驚きました。
面白かったですよ。今シーズンは、また行こうかとも思いました。
天気もよく、神宮球場で公式戦(ヤクルトX広島)を観戦しました。
マスコミで報道されている以上に、雰囲気やエンターテイメント性は良くなっているのに驚きました。
面白かったですよ。今シーズンは、また行こうかとも思いました。
彼が、27歳の時だった。
耕一は、17歳の頃に心に誓った自信の目標があった。それは、「仕事で必ず、米国へ渡ることと、米国への永住権の獲得」だった。
耕一は、20歳の時にそれまで通っていた大学を周囲の反対を押し切って、退学した。そして、直ぐに社会人として地方のある小さな商社に勤務した。当時の彼は、社会人の常識など全く無く、ただただ、若さと勢いで目の前の物事に全力で取り組んだ。それは、大学を辞めた際にこれから負うであろうハンディを跳ね返すことを常に頭に置き、誰にも負けたくないと思っていた。
初任給、¥115,000-、手取りで¥87,000が彼の給料だった。生活は、学生時代よりも質素にならざる終えなかった。
その会社に在籍している時に、結婚した。彼は22歳であった。それから半年後、ある時車で営業中にラグビーの同好会に誘われた、細川氏とばったりすれ違い、その場で立ち話をした。
細川「中澤さん、もし良かったら俺の会社に来ない?」いきなりの誘いである。耕一は「いきなり言われても・・・」
細川「今日でも、明日でも時間があれば事務所にきてほしい。」そう言い残して、去っていった。
後日、耕一は細川氏のところを訪れた。そこで、所長である太田氏と面談した。
太田「中澤さん、是非来てくださいよ。今よりは確実に待遇面は保証できるし、この会社は、将来必ず大きくなるから・・・」
あっという間に、耕一はこの会社に入社した。入社して分かったことは、細川氏が太田氏から暖簾分け的に、別のエリアでの事務所の設立を目標にしていることであった。これに対して、耕一は、細川氏から「この会社の米国支社へ行くことも可能になるだろう。」との言葉に、掛けてみようと思ったのであった・・・
それから4年半、地方での営業実績も認められ、本社転勤の条件として、米国支店の人員の座を獲得し、初めての海外出張に至った。この頃は、耕一は英語もろくにしゃべれず、相変わらず、若さと、勢いで、突き進むだけが取り柄であった。(続)
耕一は、17歳の頃に心に誓った自信の目標があった。それは、「仕事で必ず、米国へ渡ることと、米国への永住権の獲得」だった。
耕一は、20歳の時にそれまで通っていた大学を周囲の反対を押し切って、退学した。そして、直ぐに社会人として地方のある小さな商社に勤務した。当時の彼は、社会人の常識など全く無く、ただただ、若さと勢いで目の前の物事に全力で取り組んだ。それは、大学を辞めた際にこれから負うであろうハンディを跳ね返すことを常に頭に置き、誰にも負けたくないと思っていた。
初任給、¥115,000-、手取りで¥87,000が彼の給料だった。生活は、学生時代よりも質素にならざる終えなかった。
その会社に在籍している時に、結婚した。彼は22歳であった。それから半年後、ある時車で営業中にラグビーの同好会に誘われた、細川氏とばったりすれ違い、その場で立ち話をした。
細川「中澤さん、もし良かったら俺の会社に来ない?」いきなりの誘いである。耕一は「いきなり言われても・・・」
細川「今日でも、明日でも時間があれば事務所にきてほしい。」そう言い残して、去っていった。
後日、耕一は細川氏のところを訪れた。そこで、所長である太田氏と面談した。
太田「中澤さん、是非来てくださいよ。今よりは確実に待遇面は保証できるし、この会社は、将来必ず大きくなるから・・・」
あっという間に、耕一はこの会社に入社した。入社して分かったことは、細川氏が太田氏から暖簾分け的に、別のエリアでの事務所の設立を目標にしていることであった。これに対して、耕一は、細川氏から「この会社の米国支社へ行くことも可能になるだろう。」との言葉に、掛けてみようと思ったのであった・・・
それから4年半、地方での営業実績も認められ、本社転勤の条件として、米国支店の人員の座を獲得し、初めての海外出張に至った。この頃は、耕一は英語もろくにしゃべれず、相変わらず、若さと、勢いで、突き進むだけが取り柄であった。(続)
散ってしまいますね。まだ、お花見もしていないのに・・・
今年こそは、風情のあるお花見がしたかったのですが・・・
やっぱり今年も無理のようです。トホホホホ・・・・
今年こそは、風情のあるお花見がしたかったのですが・・・
やっぱり今年も無理のようです。トホホホホ・・・・
耕一は、実際に生でその実態を見ると、非常にいいものという感覚は得た。実際に自分の子供にも受けさせたいと思われる教育内容でもあった。そこで、目の前にある経営資源と思しきものの整理をしてみた。
1.指導方法(ノウハウ・教育理念)
2.教 材(オリジナルで作成してきた、書籍・玩具・ソフトウェア等々)
3.実 績(卒園生の履歴等々)
4.園長の知名度
であった。これらの内容を整理するに当たり、1.2.が一番厄介であった。既に多くのものがあることと、素人が簡単に出来る内容ではないということである。特に、1.は簡単に言えば「マニュアル」の作成である。これが出来れば、ノウハウの殆どが集約されるに等しい。加えて、2.は常に現在進行形で、新しいものが出てくる。いつまでたっても終わりがないのである。
ここで、学習塾を経営する、大内氏が意見を言ってきた。「要は、子供を持つ親が、納得してお金を出せればそれでいいから、学校法人などと一緒にしたらいかんじゃろな。あくまでも、個人の任意で集客し、そこにビジネスが成り立つ形じゃないと、ややこしことばかりに付き合わされるわ。」
大内「そこでじゃ、この幼稚園の運営・経営を、一元化してパッケージにすりゃどうじゃろ?そして、フランチャイズ式に、小規模から大規模まで、その場に併せた多店舗的展開で考えたら同じゃろか?」まさに、学習塾の発想である。有名なK塾と同じことを言っていたのだ。そして、この大内氏はスタート地点(ターゲットの顧客)が低年齢層であることに非常に興味をそそられていた。それは、この幼稚園のビジネスの展開により、本業である学習塾への集客導入を狙っていた。
「この幼稚園のブランドと実績で、学習塾も価値を引き上げたい」とう思いがあった。もっともである。狙いは悪くないかもしれない・・・しかし、耕一はなんとなくしっくりしない。「なぜだろう???」
ある時、やげんぼりにある小さなラウンジに行った。広島は独特の空気があり、一般で言うクラブやパブとは異なり、「ラウンジ」と称する店が多い。その店の経営者であるママ(美和)にひょんな事からある話を聞いたのである。それは・・・
美和「私、黒岩さんも大内さんも、しっちょーよ。昔から、この辺でようのんどったからね・・・黒岩さんは、絶対に気をつけたほうがええよ!・・・・・」
耕一「何で?今、世話になっているから、なんともいえないけど・・・」
美和「あの人は、絶対に忘れない人じゃ。少なくとも私は、あの人に会ったら、背中がすくむけん・・・」
耕一「そうですか・・・・じゃ、大内氏は?」
美和「あの人は、知りおうてからもう長かね。まあ、小心者の割には、大風呂敷広げるとよ。だから、今ひとつ成功せんわね。調子のいいときは、よく飲みにきとったとよ。・・・」「だから、あんまりいっちょること全部信用せんほうがええよ・・」
と、聞かされたのである。そう、美和は年は30代には入っていたが小柄で見た目、男性が寄るタイプの女性であった。しかし、長年この界隈で夜の水商売をしていただけあって、地元のことはよく知っていいる。かといって、誰にでもこのような話をしていたら、信用は落ちるのは当たり前である。耕一は、美和に感謝した。
これからの進め方を考えるに当たり、先のモヤモヤが少し晴れた気がした。
1.指導方法(ノウハウ・教育理念)
2.教 材(オリジナルで作成してきた、書籍・玩具・ソフトウェア等々)
3.実 績(卒園生の履歴等々)
4.園長の知名度
であった。これらの内容を整理するに当たり、1.2.が一番厄介であった。既に多くのものがあることと、素人が簡単に出来る内容ではないということである。特に、1.は簡単に言えば「マニュアル」の作成である。これが出来れば、ノウハウの殆どが集約されるに等しい。加えて、2.は常に現在進行形で、新しいものが出てくる。いつまでたっても終わりがないのである。
ここで、学習塾を経営する、大内氏が意見を言ってきた。「要は、子供を持つ親が、納得してお金を出せればそれでいいから、学校法人などと一緒にしたらいかんじゃろな。あくまでも、個人の任意で集客し、そこにビジネスが成り立つ形じゃないと、ややこしことばかりに付き合わされるわ。」
大内「そこでじゃ、この幼稚園の運営・経営を、一元化してパッケージにすりゃどうじゃろ?そして、フランチャイズ式に、小規模から大規模まで、その場に併せた多店舗的展開で考えたら同じゃろか?」まさに、学習塾の発想である。有名なK塾と同じことを言っていたのだ。そして、この大内氏はスタート地点(ターゲットの顧客)が低年齢層であることに非常に興味をそそられていた。それは、この幼稚園のビジネスの展開により、本業である学習塾への集客導入を狙っていた。
「この幼稚園のブランドと実績で、学習塾も価値を引き上げたい」とう思いがあった。もっともである。狙いは悪くないかもしれない・・・しかし、耕一はなんとなくしっくりしない。「なぜだろう???」
ある時、やげんぼりにある小さなラウンジに行った。広島は独特の空気があり、一般で言うクラブやパブとは異なり、「ラウンジ」と称する店が多い。その店の経営者であるママ(美和)にひょんな事からある話を聞いたのである。それは・・・
美和「私、黒岩さんも大内さんも、しっちょーよ。昔から、この辺でようのんどったからね・・・黒岩さんは、絶対に気をつけたほうがええよ!・・・・・」
耕一「何で?今、世話になっているから、なんともいえないけど・・・」
美和「あの人は、絶対に忘れない人じゃ。少なくとも私は、あの人に会ったら、背中がすくむけん・・・」
耕一「そうですか・・・・じゃ、大内氏は?」
美和「あの人は、知りおうてからもう長かね。まあ、小心者の割には、大風呂敷広げるとよ。だから、今ひとつ成功せんわね。調子のいいときは、よく飲みにきとったとよ。・・・」「だから、あんまりいっちょること全部信用せんほうがええよ・・」
と、聞かされたのである。そう、美和は年は30代には入っていたが小柄で見た目、男性が寄るタイプの女性であった。しかし、長年この界隈で夜の水商売をしていただけあって、地元のことはよく知っていいる。かといって、誰にでもこのような話をしていたら、信用は落ちるのは当たり前である。耕一は、美和に感謝した。
これからの進め方を考えるに当たり、先のモヤモヤが少し晴れた気がした。
私が、物申すより下記の記事は、面白いです。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/money/20070326/121721/
http://business.nikkeibp.co.jp/article/money/20070326/121721/
今年は、例年にない暖冬で昨日は、暑いほどの陽気でしたね。桜は、あちこちで蕾を開き、まさに「春」ですね。
この桜、見た目とは裏腹に意外な面を持っているようです。
よく日本では、記念樹として植えられることもあるこの桜ですが、この桜の木、実はヒトの魂を肥しとして成長していると言われる説もあります。墓地や、記念の場所には何かしらのヒトの「思い入れ」があります。そして、この桜の木が育つにはその大地にしっかりと根付いてこそ、きれいな花を咲かせます。そう、その大地には魂がしっかり入っているのです。見方を変えるとオカルトちっくですが・・・
よく、桜の木を植え替えるのは大変難しいとされているのは、そのせいでしょうか?
まあ、何にしても「お花見」で宴会をする日本の文化は、悪くないのかもしれません。その魂も含めて、年に一度にぎやかに屋外で酒宴を開くのは、いいものです。
もう、お花見はされましたか?