【中澤耕一〜番外編:20代−30代〜後編】 | 起業から、経営者へ、そして・・・

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前年に、株式を店頭公開していた。よって、耕一の米国駐在の任命は役員会の承認をもって、公の発表でもあった。



これにあわせて、当時耕一が地方の営業所に勤務していた事務所から東京本社への転勤が決まっていた。この際に大山部長より、「後任の育成」を命じられた。しかし、人事権があるわけではないので、中途入社の社員を10ヶ月間預かったのである。それが、坂下であった。この頃、耕一はマネージメントの能力があるはずも無く、上からの業務命令としてどうしたものかと思案した。坂下は、他の業界からの転職組みである。何から教えるべきかも分からなかった。

とりあえず、3ヶ月間は耕一と全て行動を共にすることとした。耕一は、これまで自分がやってきた「営業」を見せるのがまず、手っ取り早いだろうと考えた。始業から帰宅まで、全て同じ時間をすごすように命じた。要は、鞄持ちをさせたのである。そして、耕一はいいところでだけではなく、うまくいっていない得意先との交渉も含め、その全てをさらけ出した。ところが、以外にもそんな客に限って、新しい案件が発生することが増え始めた。そう、顧客開拓が上手くいき始めた。中にはこれまでに無い案件も獲得し、その営業所は順調に業績を伸ばした。そうして、耕一の評価は、ある意味安定したものでもあった。



しかし、本社転勤後、米国事務所にて約6ヶ月間近いの長期滞在を命ぜられた際に、耕一にとってはじめての挫折を味わうこととなった。

それは、そこの上司との話においてであった。上司(副社長)は、決して耕一を認めようとはしなかった。それは、耕一だからではない。理由は、(彼曰く)「この10年間、想像を絶する苦労をしてきて、後任が、何の苦労も知らないで引き継ぐのは許せないと言うのである。」これは、一体どういうことか?耕一は、意味が分からなかった。



副社長の言い分は「当時、自分が単身で米国に渡り、現在の事務所を立ち上げるまでに、様々な苦労をしたが、本社側は大して助けてくれたわけでもなく、加えて雇用契約(給与面)条件は、何も無い状態で、今日本に戻っても、厚生年金も何も無い。なのに、後任は、新しいルールの元、大手企業水準に合わせる形で、それらの条件が180度変わった。これは、不公平であり、許せないと言うのである。」



この話以降、耕一と副社長の間には溝が出来始めた。なぜなら、耕一が苦労し無い限りは何も認めないと言うような空気となった。加えて、「日本で“出来る奴"が、米国で出来る奴にはならない。言わば、今の君は使い物にならない」とまで言われた。これには、耕一もこたえた。この言葉は、日本に戻る空港に送ってもらう車中で言われたのである。

耕一は、愕然として飛行機に乗った。機中でも、呆然としていた。



数ヶ月間、言葉・文化の異なる場所で一人で生活する孤独感も十分に理解し、海外駐在員が経験する初期症状(1ヶ月目、2ヶ月目、3ヶ月目)の体調の変調も克服し、何とか通常の生活が出来るまでにはなっていた。



思えば、10代半ばの夢を追いかけ、結婚する際にも妻にはその夢は捨てないで、生きていくことを約束し、がんばってきたのである。この時点でその夢は脆くも砕かれた。日本に帰国してから、耕一は悩んだ。

仮に、自分の夢を貫いても、会社に対してマイナスな存在であれば何の意味も無い。果たして、自分が米国での仕事を遂行することが出来るのか?



帰国してから半年後、耕一は米国行きの立候補を自ら取り下げ、その会社を退社する事となった。しかし、耕一は次の転職先に、米国系の外資系企業に挑むこととしたのであった。なぜなら、自分が「使い物にならないか否か?」を確かめるためでもあった。敢えて、厳しい選択肢を選び、それまでの自分の過去のスタイルにリセットボタンを押したのである。(終)