大変寒い、今日道路の水が凍っていた。
久しぶりです、凍ったのは。
もうすぐ立春なのに。
今日はジェグォン・キムの論文「随伴的かつ付随的な因果」を紹介します。
この論文はもともと1984年に発表されたものですが、
心の哲学Ⅲ 翻訳篇 信原幸弘編 勁草書房 2004年
に翻訳・掲載されています。
翻訳は金杉武司先生です。
ジェグォン・キムは韓国出身のアメリカの哲学者で、現在はブラウン大学に勤務している、とのことです。
本論文は心的因果をどう解釈するかについて書かれてあります。
そのために、まず随伴的因果の説明から入ります。つまり我々が毎日感じている因果という概念を見直すことからスタートです。
その例として二つ、
「対象の二つの鏡像が相次いで現れるとしても、それらはお互いに直接的な因果的結びつきを持たない。とりわけ、先行する鏡像はそれに続く鏡像の原因ではない」
「円形の部屋の真ん中にスポットライトの光源があり、それが回転しながら壁をてらしている・・・・壁に映る各スポットライトは光線が光源から移動することによって引き起こされる。しかし、それはその直後に壁に映るスポットライトの原因ではない。」
後者の例の方がわかり易いと思われますので、その説明をします。
円形の部屋の壁を、スポットライトが回転移動しながら照らします。ある瞬間の時刻に照らされた壁の光は、それ以前に照らされた光が原因で光っているのではない事はわかりますよね。光が移動するのは車が移動するのとは異なっているのです。光はその時々に新しいのが到着するのですから。
これと同じことが鏡に映った像にも適用されます。今映っている鏡の中の像は、少し前に移っていた像が原因で写っているのではないのです。鏡が作る像はその都度新しい像を作り上げるのです。鏡の像に因果関係はありません。
前者の例はジョナサン・エドワードからの見解で、後者はウェスリー・サーモンによる、と書かれてあります。
この因果の他の例として、日常生活においてよく知られている「病気の兆候の継起」があります。例えば“熱が出た”さあ“頭痛が起こるよ”の類です。これらにも直接的な因果関係はありません。
これが見かけ上の因果関係、つまり「随伴的因果」になるのです。本当の因果関係でなく本当の因果関係は別にあるという事です。
次にマクロ的因果に話が移ります。マクロ、に対しミクロという概念があります。そして、マクロ、ミクロは相対的なものである事は言うまでもありません。このマクロ的因果も随伴的因果によく似ています。
ここでの例として、
「温度上昇が金属の膨張を引き起こすというのも同様である、観測可能な現象はみな、よく知られた物理学の理論的対象に対してマクロ的な現象である。それゆえ、観測可能な現象を含む因果関係、すなわち日常的経験においてよく知られた因果関係はどれも随伴的因果の事例である」
といいます。
「マクロ的因果関係をミクロ的因果過程に還元する一般的な形式とはどのようなものか」という問題で著者は論を進めますが。ここでの結論は二つあり、
「まず第一に、マクロの法則的関係が成立するにせよしないにせよ、マクロ的因果関係はミクロ的因果関係に還元可能であるとみなされるべきである。そして第二に、ある記述をマクロ的状態のミクロ的再記述たらしめる関係は、付随性関係とみなす事ができる。すなわち、マクロ的記述とそれに対応するミクロ的再記述の関係は付随性によって理解可能である。」
説明します。
温度上昇と金属の膨張というマクロな関係は、
ある別のエネルギーが熱エネルギー・分子振動に変わること(ミクロの因果関係)により温度の上昇が観測され、かつ金属の膨張も観測される(マクロの因果関係)という事で、マクロからミクロへの還元が可能なのです。そしてこのマクロ・ミクロの関係は付随性関係と見なされます。
温度の上昇と金属の膨張というマクロ的因果は温度計の分子振動、金属分子の振動の変化に還元されるのです。
そしてマクロ的因果は全て随伴的因果なのです。
私の説明はスペースの関係上、少し荒っぽいですが、
以下著者の説明は、心的因果の考察に移ります。
心的因果とは心で思ったことが行動に現れる場合の因果関係で、例えば痛いと思った時に手を引っ込めるという行為がそれにあたります。
痛いと思ったことが原因で手を引っ込めるとするならば、心的出来事が物理的出来事に直接影響を及ぼすことになり、物理学理論の閉包的性格を危うくする。これは問題です。
そこで、著者は
「例えば、痛みが一瞬後に恐怖の感覚を引き起こすとすれば・・・、その痛みはある脳状態に付随し、さらにこの脳状態は別の適切な脳状態を引き起こす。そして、恐怖の感覚が後者の脳状態に付属するがゆえに、後者の脳状態にあるときには恐怖の感覚が必ず生じる。」と結論付けます。
脳状態の変化が中心的因果関係で、心に現れる因果の関係はそこに付随したものであるということです。あくまで物理的因果関係が中心で、心の因果関係はそれに随伴しているようです。
それでもさらに、あくまで著者は
「心的因果は実際に存在する」と断言されます。なぜなら
「心的因果は、基礎的な物理的レベルにおいて生じる因果的過程によって還元ないし説明されうる」からなのです。
私にはすこし強引だと思いますが、著者には著者の思いがあるのでしょう。
でも私の一番の疑問は、“それじゃ自由意志などの因果関係はどうなっているの”ということです。自由意志の基礎的な物理的レベルをどう説明してくれるのという事ですが、説明はありません。自由意志の因果関係です。その基礎となる物理的レベルでの説明が求められるのです。
著者はその代わりとして、
「そして、これらの問題は、志向的な心的状態すなわち信念や欲求のように命題的内容を持つ心的状態が生物の物理的詳細によって完全に決定されるかどうか、あるいはその生物を含む物理的環境の全体によってさえ決定されるかどうかという深刻な疑念につながると考えられる。」と問題提起されるのはいいのですが
「以上の疑念は、志向的な心的状態が因果関係を形成するかどうか、特に物的出来事と因果関係を形成するかどうか、またいかにしてそれを形成するのかについて改めて考えるための一つの機会である、と考える方がより適切であるように思われる。」
と問題をはぐらかしています。
この点の説明なしに、著者の説は納得出来ません。
この論文は古いものですから、最近の著者の考えがどう変わっているのか、最後の疑念に適切な解答が得られているのか、寡聞にして知りません。
でも、きっと答えは有るのでしょう。