本日の論文は
「ロボットがフレーム問題に悩まなくなる日」 柴田正良
「心の哲学 ロボット篇」勁草書房 2004年に収まっています。
柴田先生は金沢大学文学部教授であらせられます。
フレーム問題、
この問題の由来は、マッカシーとヘイズの書いた論文「人工知能の観点から見た哲学的諸問題」だとされています。
それじゃこの問題とは何たるかを確認する事から始めますしょう。
それは、人工知能(ロボット)のプログラム問題で、“どうしたらいいか”、“どう判断したらいいか”が決断できない状況が起こるという問題、
簡単な例で“お茶にするかコーヒーにするか”の決断が出来ないプログラムになる場合があるという問題です。
下手なプログラムを組めばそうなるでしょう。でも何度もバージョンアップし実験すれば、結構よくなりこのような問題はなくなると思うのですが。
そうなんです、現実のプログラマーはこのような下手なプログラムは作りません。わたしが作るなら、このような状況では好み関数を作って対処するでしょう。つまりこのロボットは女性好みであるから、7:3で紅茶を選ぶように乱数表を使いプログラムを組みます。当然その前に、朝飲んできた飲み物が重ならないかとか、の状況判断は入れますよ。
ロボットの持っている有限の情報・資産と好みを使い、
決められた時間内で決められた問題の結論を出すようなプログラムは簡単に作れます。全ての問題ではありません。
全ての問題を考慮した場合、
ロボット、人工知能、人間を計算機でシミュレーションしようとすると、全く異なるアプローチが必要です。ヒト全体を見渡せるプログラム、行動の最優先課題、価値判断、外界把握、過去の経験、など等を全て考慮に入れ判断・決断できるプログラムを考えないといけないのは、多分常識でしょう。
拙い私の考えでは以上のようなプログラムを想像しますが、
もっと頭のいい経験豊富なエンジニアであれば、さらにスマートなプログラムが出来上がるでしょう。
多分現在、世界のどこかでヒトシミュレータなるプログラムを開発している人がいるのかも知れません。
しかし話を戻し、哲学者の考えは違います、
「問題は、かなり窮屈な人工知能が融通のきかない演繹システムによって、こうした変化をとらえようとする場合だ。・・・公理からの論理的証明によって全ての知識を獲得しなければならないから、ある出来事の変化によって生じている世界の変化についても・・公理から推論しなければならない。」と、
あくまでも直球を求めます。
お茶かコーヒーかの選択時に、その選択結果想定される世界の変化を公理から推論しなければならないのです。
こんな事が問題になると考えている哲学者の思考はどうなっているのでしょうか。
著者は
「フレーム問題の本当の困難さは・・・所詮は現実問題とは直接関係のない、単なるプログラム上の技術的問題だと思われるかも知れないからである。しかしながらそうではない。この問題の一見した空虚さは、人工知能がやがて身体をまとい、ロボットとなって現実世界の中で行為しようとするやいなや、とたんに切実なものとして重くのしかかってくる。」
「フレーム問題が、人工知能、それも特に現実世界の中で行為するロボットにとって致命的な問題であることが、これで少しは明らかになったと思う」
と、
デネット博士のロボットの例で説明します。デネット博士はこの分野では有名な人です。
このデネット博士の話は、
ロボットが部屋に仕掛けられた時限爆弾をひきずりだし、部屋の中にある、ロボットにとって命より大事なバッテリーを守ろうという作戦です。
ところが毎度、失敗・爆発ばかりするので、改良したロボット「分別のある演繹ロボット」を設計者は作り出したのです。
ところがそのロボットは、作戦実行時に動けないのです、考える事が多すぎ行動が出来ないのです。かくてまたもや時間切れで爆発。
このような状況が考えられるでしょう、ということでこの問題はロボットにとって深刻な問題になるのです。
現実にロボットのプログラムを設計しようとすれば、このような単純な問題ではなく、別の現実的問題が一杯でてくるのは、日(火?)をみるより明らかです。
フレーム問題のような、どうでもいいような・どうにでもなる単純問題を、大上段にとりあげ、哲学的問題にするからには、私には見えていない隠された哲学的問題があるのではないのかと、かんぐります。
それがどうも
「認知に関するこの問題の哲学的な含みを検討しこの問題の解決のための条件をできるだけ明確にすることである。その結果は、しかし、単なるフレーム問題という枠を越えた知性一般に関する論点につながるだろう。」
という事らしいのです。
つまりこの問題をきっかけに、知性一般に関する論点につなげようと考えられておられます。
そこで、先生は古典的計算主義コネクショニズム・ニューラルネットワークでの解決策を模索しますが、その前に先生はこのフレーム問題を避けるための対策を三つ挙げられます。
① 必要のない事を無視する
② 情報の整理・組織化を無限数行なうのではなく、知的・信念システムにおいて実現させる
③ 例外的処理の仕方に工夫が必要
ということです。
ここで先生が勘違いされているのではないかと言う具体的な点を一つ挙げます。上で述べました設計時の現実的問題とも関係していますが。
それは例外的処理に対し、
「特別な事情をすべてあらかじめ枚挙する事は、文脈によってどの条件もその特別な事情になりうるのだから、土台無理な話である。」
と“特別な事情・例外的処置”全てを取り扱えないという事を言われています。
確かに“全て”ということでの特殊事情は考えられません。現実に全てを把握できないからです。
「レストランに着いたら、特別な事情がない限り、料理の注文をせよ。」と言う場合の“特殊な事情全て”は想定困難です。
だからといって土台無理な話ではありません、
財布にお金が入っていなかった時とか、待ち合わせの彼女がいなくなっていたとか、満席だったとか、それぞれ特別に一つ一つ対処するプログラムも考えられますが、
プライオリティー・優先度をつけたべつの側面からの判断も加味します。例えば、自分の命が危ない(火事、鉄砲で狙われている)とか、経済的金銭的判断とかの側面での判断も加味しなければなりません。
単純なその場限りの単独問題の判断では無いのですから、「すべてあらかじめ枚挙する」と言う意味は、
階層的に判断を行なう判断基準を作っておけば“ほとんど「すべてあらかじめ枚挙する」事は可能です”。
現実的に総合的情報判断が求められ、その側面からのアプローチにより問題は解決出来ます。フレーム問題という単独問題として問題を把握してはいけないのです。
こうすれば、現実の人間の行動くらいの行動が、ロボットに出来ると思われます。
さらに、最近のコンピュータは性能がよくなり、処理能力も抜群ですから、例えば100年後のコンピュータと新しいプログラムソフトが使えるなら、なんら問題ではなくなるはずです。
ということで、今日はここまでにしておきます。
先生はこの後、フレーム問題を、古典的計算主義とコネクショニズムを引き合いにだし、取り上げられ、「最後に知性一般に関していささかの思弁をこころみ」られます。