• 学問の自由を阻害しているのは、学術会議の方だ。ー【東京社説】学術会議と学問の自由 「戦前」が蘇らぬように

  「学術会議問題」ってのは、詰まる所、「学術会議に対して政府が有する権限を、その権限通りに執行したら、其奴がそれまでの慣行に反するってんで、結構な騒ぎになっている。」件であり、事件性も違法性も犯罪性も無い。精々の所「話題性」があるきりだ。
 
 所がコイツが、「学問の自由」と結び付けられてしまうんだから、全く呆れるほか無い、って記事は、幾つも弊ブログに書いたな。何しろ、学術会議自体が紛れもない「学問の自由の敵」なのだから、「片腹痛い」どころでは無い。

 第一、「長年の慣行により、政府が学術会議に対して有する任免権が、事実上無効化されていた。」って「従来の慣行」こそが糾弾されるべきであるのに、未だにアカ新聞共は「以前の慣行通りにしろ」って騒いでいる。

 有り体に言って、実に滑稽だ。

  • (1)【東京社説】学術会議と学問の自由 「戦前」が蘇らぬように

学術会議と学問の自由 「戦前」が蘇らぬように

 

https://www.tokyo-np.co.jp/article/325798?rct=editorial

 

 

2024年5月8日 08時00分

 昭和天皇が学術分野への政治介入を戒めたことがあります。1935(昭和10)年の天皇機関説事件のときでした。

 侍従武官長だった本庄繁の「本庄日記」(原書房)の同年4月25日の項に記されています。

 <陛下は、若(も)し思想信念を以(もっ)て科学を抑圧し去らんとするときは、世界の進歩は遅るべし。進化論の如(ごと)きも覆へさざるを得ざるが如きことゝなるべし>

 思想や信念で科学を抑圧すれば世界の進歩はなくなってしまう。ダーウィンの進化論を覆すようなものだという、生物学者らしい昭和天皇の考えでした。

 

 天皇機関説とは国家を法人にたとえ、天皇はその最高機関である-憲法学者・美濃部達吉=写真=のこの学説に対し、「緩慢なる謀反だ」などと議員や右翼らが一斉に攻撃した事件でした。

 機関説は当時の最有力の学説でしたが、貴族院議員でもあった美濃部は辞職に追い込まれ、著書も発禁処分になりました。

 でも、進化論にせよ地動説にせよ、正しいかどうかは、科学のみが判定できます。教会も国王も政治権力も判断できません。

 政治が野心を見せるときは、野蛮な下心があるからでしょう。天皇機関説事件から2年後には日中戦争、6年後には太平洋戦争。10年後にはついに敗戦です。

 明治憲法になかった「学問の自由」が、日本国憲法で新たに定められたのも、戦前に学問分野が国家権力によって侵害された歴史を踏まえてのことです。

 日本国憲法の制定時、憲法担当大臣の金森徳次郎が中国の始皇帝による焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)や進化論、天動説と地動説の論争を引き合いに、議会でこう答弁しています。

 <各人正しいと思う道に従って学問をしていくことを、国家が権力を以て之(これ)を妨げないことです>

 つまり「学問の自由」とは、学問分野への政治的干渉を排除することにこそ眼目があるのです。人事への介入もいけません。

 2020年に日本学術会議の会員候補6人が当時の菅義偉首相によって任命拒否された問題は、明らかに「学問の自由」の領域を侵していると考えます。

◆任命拒否を白紙に

 今なお、この問題がくすぶり続けているのは、政治の力で学術会議をねじ伏せようとしているからに違いありません。

 そもそも歴代内閣では「政府が行うのは形式的任命にすぎない」との答弁が国会で繰り返されています。それが確立された政府解釈で、首相による任命拒否などありえないことなのです。

 かつ学術会議は法により「政府から独立して職務を行う」と規定された独立機関でもあります。

 ですから、各分野の約1300もの団体が抗議声明を出す事態になりました。それでも政府は任命拒否を撤回せず、説明責任も果たしません。公文書もほぼ開示せず、裁判が起こされました。

 現在、政府がもくろんでいるのは、学術会議の法人化です。現行の「国の特別の機関」から「国から独立した法人」に移行する基本方針を示しています。

 でも法にある「独立」の言葉を「独立の法人」と言い換え、政府自らが組織改編に乗り出すのは矛盾です。あえて「透明性」の言葉を使い、従来の選考方法などを変えてしまいたいのでしょう。

 なぜ政府は干渉したいのか。学術会議がかつて「軍事目的の科学研究を行わない」との声明を出したからでしょうか。

 学術会議は「ご意見番」たる存在ゆえに、ときに政府に批判的であることも大事です。ですから、この問題は任命拒否こそ「白紙」に戻すべきだと考えます。

 冒頭の天皇機関説事件ですが、憲法学者の美濃部が右翼らの攻撃対象となったのはなぜか。原因の一つに事件前年の1934(昭和9)年にあった「陸軍パンフレット事件」が考えられます。

◆戦争は創造の父か

 「たたかいは創造の父、文化の母である」-そんな書き出しの戦争賛美の冊子でした。

 これに真っ向から反対する論文を「中央公論」(同年11月号)に書いたのが美濃部でした。

 <「創造」や「文化」は、個人の偉大な天才と、自由の研究とによってのみ生(うま)れ出(い)ずるものであり、それはもっぱら平和の産物で、戦争はかえってむしろこれを破壊する>

 実に明快ではありませんか。科学と戦争を結びつけるのは何とも浅はかです。学術会議問題の政府の真意が軍事にあるのなら、まるで「戦前」が原色を帯びて蘇(よみがえ)ってくるようです。

 

(2)ネットも航空機も電子レンジもカーナビも使うなよ。話は、それからだ。

 ネットことインターネットの元々の技術は、軍用通信の多重化抗堪化技術だ。 


 現在の航空機技術の内、単葉機、全金属機、セミモノコック構造、ジェットエンジン、慣性航法装置などの主要にして不可欠な技術は、何れも軍用機、特に戦闘機として実用化され、普及し、多くの民間機(旅客機含む)に適用されている。軍事技術なくして、現在の航空機は、無い。


 電子レンジに採用されているマイクロ波技術は、軍用レーダー技術の副産物だ。
 

 現在のカーナビやスマホのナビに不可欠なGPSは、元々軍用の航法衛星であり、今でも「軍用として、民間用よりも高精度の航法情報を提供している」ばかりでは無く、「一朝有事の際には、民間用GPSの航法精度を下げる」ことが出来る。湾岸戦争のときには実際にそうした、実績・実例がある。つまりは、GPSは紛れもない「軍事技術」と言うことだ。

 大体、上掲東京新聞社説自体が、ネット版の引用だぞ。思い切りインターネットを活用しておいて、戦争は、破壊であって、創造ではないから、”創造の父”ではない。」などと綺麗事抜かせるんだから、チョウセンジン並みの面の皮だな。
 
 戦争は、破壊であって、創造ではないから、”創造の父”ではない。ってのも、相当な詭弁・・・と言うより短絡思考だ。戦争そのモノは「破壊」であっても、戦争の準備や、破壊の手段を開発製造配備運用するのは十分に創造的で、「創造の父」と言っても過言とはなるまい。

 打製石器から磨製石器へ。更には青銅器、鉄器と刀槍を発達させ、更に更に弓矢、銃火器、火砲、ミサイル、原子爆弾、水爆と、直接的な「破壊のための手段」でさえ、技術を進歩させ、科学を発展させている。況んや、「破壊のための手段の運搬手段および運用法」や「破壊を極限し食い止める手段」ともなれば、もっと裾野は広い。

 言い替えるならば、戦争(自身)は破壊ではあっても、戦争準備は創造的であり、”創造の父”である。と言うことだ。
 
 なればこそ、章題にもした通り、現代社会の相当部分は軍事技術の恩恵を被っている。軍事技術無しには、現代社会は成り立たない。

 そんな極当たり前のことにさえ、気づこうともしないのだから、思い込みって怖いねぇ。

 

  • ☆「平時」とは、常に「戦前」だ。左様考えることこそが、国防であり、国家安全保障だ。間抜けめ。

 現代社会に於ける軍事技術の恩恵」に気づかないことよりももっと間抜けなのが、「戦前忌避」というか「軍事忌避」というか、「安保白痴の平和ボケ」というか、「現代及び将来を、”戦前”にしてはならない」って思想・発想だ。

 忌み嫌い、拒否拒絶さえしていれば、「戦争にはなら無い」ってある種の信仰、否、狂信だな。現実逃避の自己陶酔以外の、何物でも無い。

 戦争に備え、戦争準備が万端で、負けない様にしてこそ、戦争は防げる。

 戦争に備えず、戦争準備を怠ることは、「負ける様にしている」ってことで、戦争誘因だ。
 従って、平時とは、常に「戦前」と考え、備えるべき時であり、「戦前とは考えない」ことは「戦争を惹起し、戦争/戦前としてしまう」可能性がある。

 そんな常識論は、東京新聞にも、「軍事研究反対」とか唱えている学術会議にも、通じそうに無い。それだけ呑気で脳天気で間抜けでお花畑の集まりである・・・と考えるよりも「日本侵略を目論む侵略者の手先」と考える方が、安全側だな。

 まあ、学術会議が実際実体「侵略者の手先」であるかどうかは兎も角、国家安全保障とか国防と言った「国の危急存亡にも関わる重大課題」を議論し、提案提言出来る相手ではない、って事は確かだな。

 だ・け・ど・さ。
 国税を相当に投入し、国に対するアカデミックな助言することを存在理由とするはずの学術会議が、「国の危急存亡にも関わる重大課題」に関しては箸にも棒にもかからないってのは、相当に問題じゃぁ無いのかね。

 Parabellum。戦いに、備えよ。
 
 今の学術会議とは別に、安全保障や国防に関してアカデミックな提言を為せる、「平時を戦前と考える」新学術会議が必要なのではないかな。
 
 それ以前に、「軍事研究反対」を戦後3回も明言断言して、我が国の「軍事研究する自由」を迫害阻害している学術会議の擁護に、「学問の自由を訴える」って、ギャグ以外のナンだよ。
 

  • 子供だましー【沖縄タイムス社説】「こどもの日」と平和 学び行動 続ける努力を

 
 「子供だまし」って言葉を、私(ZERO)は好まない。そりゃ、子どもというモノは、大人より経験も知識も乏しいのが一般的であろうから、「騙しやすい」可能性はあろう。

 だからと言って、「子供だまし」で、「大人には通用しそうにない嘘でも、子ども相手ならば通用するだろう。」と断じるのは、相当程度「大人の傲岸不遜」と思われてならない。年を食い、年月を経ているからとて、「賢い」とも「聡明」とも限るまい。早い話、「子供だまし」は、「大人が思う程には、子ども相手にさえ通用しない」様に、私(ZERO)には思われるのだ。

 一言で言えば、「子どもを、舐めるな。」ってことだ。

 そんな、「私(ZERO)の嫌いな言葉」である「子供だまし」をタイトルにしたのは、無論、下掲する沖縄タイムス社説が唱える「日本国憲法擁護論」が、「子供だまし」と思えたから。

 それも、「子ども相手にさえ、通用しそうにない、子供だまし」とね。

 「子供だまし」。私の苦手な言葉です(*1)
 

  • <注記>
  • (*1) メフィラス語法として、一時期流行したなぁ。 


 

  • (1)【沖縄タイムス社説】「こどもの日」と平和 学び行動 続ける努力を

 

「こどもの日」と平和 学び行動 続ける努力を

2024/05/05 05:00沖縄タイムス

 

[社説]「こどもの日」と平和 学び行動 続ける努力を

 

外務省で質問する上原一路さん(左)=2022年

 

(沖縄タイムス)

 

 きょうは「こどもの日(ひ)」。戦後(せんご)間(ま)もなくできた「祝日(しゅくじつ)」を決(き)める法律(ほうりつ)で最初(さいしょ)に定(さだ)められた九(ここの)つの祝日の一(ひと)つです。

 

 祝日を選(えら)ぶに当(あ)たり当時(とうじ)の国会(こっかい)が第一(だいいち)の基準(きじゅん)としたのは「新(あたら)しい憲法(けんぽう)に沿(そ)っていること」でした。

 

 世界(せかい)に例(れい)がない「こどもの日」は、平和(へいわ)憲法の下(もと)で新(あら)たな国(くに)づくりへ、子(こ)どもたちにかけた期待(きたい)の大(おお)きさの表(あらわ)れでもあったのです。

 

 その子どもたちから今(いま)、平和を求(もと)める声(こえ)が上(あ)がっています。

 

 最近(さいきん)では2021年(ねん)、核兵(かくへい)器(き)を持(も)ったり造(つく)ったりすることを禁(きん)じる国連(こくれん)の「核兵器禁(きん)止(し)条約(じょうやく)」に賛成(さんせい)するよう日本(にほん)政府(せいふ)に求める署名(しょめい)活動(かつどう)が、全(ぜん)国(こく)の高校生(こうこうせい)たちによって実施(じっし)されました。

 

 中心的(ちゅうしんてき)な役割(やくわり)を担(にな)ったのは、平和について学(まな)び行動(こうどう)するサークル「高校生平和ゼミナール」です。1978年に広島(ひろしま)で誕生(たんじょう)し、その後(ご)各地(かくち)に広(ひろ)がりました。

 

 県内(けんない)からも高校生3人(にん)が参(さん)加(か)。その一人(ひとり)、4月(がつ)に京都(きょうと)の大学(だいがく)へ進学(しんがく)した上原(うえはら)一路(ひろ)さん(18)に、平和に関心(かんしん)を持ったきっかけを聞(き)きました。

 

■    ■

 

 きっかけの一つは小学(しょうがく)4年生の頃(ころ)に家族(かぞく)で名護市(なごし)の「瀬嵩(せだけ)の浜(はま)」を訪(おとず)れた時(とき)のこと。貝(かい)一つ一つに名前(なまえ)があると母親(ははおや)から聞き、「面白(おもしろ)そう」と思(おも)ったそうです。

 

 同時(どうじ)に知(し)ったのは、基地(きち)を造るためこの海(うみ)がもうすぐ埋(う)め立(た)てられるということ。「きれいな海をなぜ埋め立てるの?」と疑問(ぎもん)が湧(わ)きました。

 

 6年生の時には学校(がっこう)の勧(すす)めで平和ガイド講習(こうしゅう)に参加。最初(さいしょ)は嫌々(いやいや)でしたが、お年寄(としよ)りが子ども時代(じだい)に経験(けいけん)した沖縄戦(おきなわせん)の話(はなし)を聞き、もっと知りたいと思うようになったのです。

 

 「平和と言(い)うとハードルが高(たか)いようだけど、平和は身近(みぢか)な問題(もんだい)」と上原さん。「なぜ」と「知りたい」を重(かさ)ねて考(かんが)えるようになったと話(はな)してくれました。

 

 小橋川(こばしがわ)仁菜乃(ひなの)さん(16)も身近なことから平和に関心を持った一人です。

 

 昨年(さくねん)、うるま市の自宅(じたく)から徒歩(とほ)10分(ぷん)の場所(ばしょ)に自衛隊(じえいたい)の訓(くん)練場(れんじょう)ができると聞いて「静(しず)かな環境(かんきょう)はどうなるんだろう」と不安(ふあん)になりました。

 

 母親と一緒(いっしょ)に住民(じゅうみん)説明会(せつめいかい)に参加。中学(ちゅうがく)で習(なら)った憲法を思い出(だ)し、防衛省(ぼうえいしょう)の担当者(たんとうしゃ)に「なぜ9条(じょう)があるのに訓練をする必要(ひつよう)があるのか」と疑問をぶつけました。

 

 答(こた)えは早口(はやくち)で、ほとんど聞き取(と)れなかったそう。一方(いっぽう)、建設(けんせつ)反対(はんたい)の声の高まりを受(う)け、防衛省は先月(せんげつ)、計画(けいかく)の撤(てっ)回(かい)を決めました。

 

■    ■

 

 「おかしい」と思ったら声を上げること?。2人の経験(けいけん)は、私(わたし)たちに大切(たいせつ)なことを教(おし)えてくれています。

 

 今もいろんな国(くに)で戦争(せんそう)や紛(ふん)争が起(お)きており、平和は当たり前(まえ)ではありません。

 

 戦後80年近(ちか)く日本が戦争をしなかったのには「戦争の放(ほう)棄(き)」を定めた憲法9条が大きく影響(えいきょう)しています。

 

 一方、その憲法には自由(じゆう)と権利(けんり)は「不(ふ)断(だん)の努力(どりょく)によって保持(ほじ)する」ともあります。

 

 平和であるためには常日頃(つねひごろ)からの国民の努力が重要(じゅうよう)なのです。

 

 一人一人が考え、異(こと)なる考えであれば話し合(あ)い、争(あらそ)いを避(さ)けるために行動(こうどう)する。平和はそうした積(つ)み重ねでしかつくれないことを、大人(おとな)も子どもも知る必要があります。

 

 そして、すでにそれを実践(じっせん)している子どもたちの声は、尊(そん)重(ちょう)されるべきだと思います。

 

  • (2)子どもでも、チョイとひねてりゃ、騙されまい。


 「子ども」ってのも定義が色々ありそうだが、小学生なら当確で、中学生まで、ってのは一つの目安だろう.高校生以上になると「子ども」ってよりも「青年」とかナントカ「半成人」「半大人」として扱った方が良さそうだ。

 上掲沖縄タイムス社説が「子ども向け」なのは明らかだろう。全て(でも無いな・・・)の漢字に括弧書きで「読み仮名」をつけているのだから、小学校低学年でも「平仮名を読めるならば、読める」様になっている。


 「小学校低学年でも読める」社説として、巧みに己が主義主張をすり込もうって訳だ.「ヒトラーユーゲント方式」とでも呼ぶべきか。まあ、共産圏のあちこちでも、小説「1984」世界でも、同様の手法は見られるから、別にナチの専売特許ではない。

 「すり込もうとしている己が主張」の最たるモノが、憲法9条信仰であろう。「小橋川仁菜乃さん」とか言う16才(*1)の子は「自衛隊の訓練場説明会」で、

1> 「なぜ9条(じょう)があるのに訓練をする必要(ひつよう)があるのか」と疑問をぶつけました。

って事になっている。無論、かかる姓名の「16歳児」が実在するかどうかも、実際その場でその様な質問をしたかどうかも、疑える余地は大いにある。オマケに、

2> 答(こた)えは早口(はやくち)で、ほとんど聞き取(と)れなかったそう。

とも上掲社説にはあるから、上記1>質問に対する回答を当該「小橋川仁菜乃さん」は「理解出来なかった」って事であり、上掲沖縄タイムス社説を書いた記者は、その説明会のその場に居合わせた訳ではなく、「小橋川仁菜乃さん」にインタビューして上掲社説を書いている、って事になる(*2)。

 上掲1>に現れているのは、その「裏返し」たる日本国憲法9条があれば、訓練は必要ないという発想であり、さらには日本国憲法9条があれば、自衛隊は必要ない」という思想である。
 
 上掲1>は、未だ「小橋川仁菜乃さん」なる「16歳児」の発言の引用、って事になっているが、より直接的には、以下の様に「社説の地文」として、それ即ち「沖縄タイムス社の公的公式な主張」として、明記されている。

3>  戦後80年近(ちか)く日本が戦争をしなかったのには
4>「戦争の放(ほう)棄(き)」を定めた憲法9条が大きく影響(えいきょう)しています。

 

 斯様な詭弁には騙され引っかかる大人も相当数あるだろう。が、子どもであろうとも、「健全なる猜疑心」を身につけた「チョイとひねたガキ」ならば、こんな詭弁には騙されまい。

 詭弁の一つは、「時系列の前後関係を以て、因果関係と断定していること」。
 一寸考えれば判るはずだが、「時系列の前後関係は、必ずしも因果関係ではない。」。「戦後80年近く日本が戦争をしてない」ことも「その戦後80年近くの間、憲法9条は実在した」ことも事実だが、その二つが「同時代であるから」とて「因果関係がある」とは限らない。


 と言うよりも、その二つの「同時併存」を強調する言説は数多あるが、その因果関係を説明した言説ってのは、未だ嘗て見たこと聞いたこと読んだことが無く、上掲沖縄タイムス社説でもその因果関係は「自明として、説明すらしていない」。
 それ即ち「説明不要なぐらい自明」と言いたいのだろうが、私(ZERO)も「チョイとひねたガキ」も、そんな「論理の直結」は許容しない。左様に主張するならば、そのロジックをじっくりとっくり説明すべきである。

 もう一つの詭弁は、「日本国憲法9条に縛られて日本が戦争を仕掛けなければ、日本が戦争になることは無い。」と言う独断。
 

 日本国家憲法9条は、所詮「日本国の憲法の中の一条文でしかない」のであるから、それが影響し掣肘するのは、タダ我が国・日本のみである。これ即ち、「我が国から戦争を開始し、仕掛けることを阻害・阻止する」効果は。「ひょっとしたらある」かも知れないが、外国から我が国に戦争を仕掛けることに対しては、「何ら効果・効力・霊験・御利益は、無い。」と考えるのが、常識的判断というモノだ。

 ああ、憲法9条を掲げる我が国を侵略したら、その国は、終わる」とか言う「9条信仰」が世の中にあることは知っているさ。だが、イラクはクウエートを併呑しても、それだけでは「終わり」となら無かったし、ロシアはウクライナを侵略し、一時は首都キーウを陥落せん勢いだったが、未だ終わらず戦争継続中だ。クウエートやウクライナに「憲法9条はなかった(*3)」だろうが、「あったら、もっと酷いことになった」だろうさ。
 
 「憲法9条」こそ無いものの、ロクに装備も軍隊もなかった韓国は、北朝鮮に侵略されて危うく釜山まで占領されそうになり、その戦争=朝鮮戦争は未だ継戦中だ。で、そんな戦争を仕掛けた北朝鮮は、今でも未だ「在る」。

 我が国の憲法の一条でしかなく、我が国の行動を掣肘するばかりの憲法9条が「戦後80年近(ちか)く日本が戦争をしなかった」ことに「大きく影響したと断定断言出来るのは、我が国から戦争を仕掛けなければ、戦争にはならない」と言う、凄まじいまでの独断・断定・偏見・狂信の結果に他ならない。

 中国や北朝鮮やロシアの核恫喝は、こいつらには聞こえないか、都合良く忘れているのだろうさ。

 だが、そんな「化けの皮」は、たとえ「何も知らないガキンチョ相手」でも、長続きはしない・・・と、期待したいな。
 

  • <注記>
  • (*1) って事は、高校生だよなぁ。また、間抜けな16才だな。実在するならば、だが。 
  •  
  • (*2) 無論、「小橋川仁菜乃さん」が実在するとして、だが。
  •  実在しているとして、裏ぐらい取って書いているんだよな。この社説は。 
  •  
  • (*3) そりゃ、普通は「無い」さ。普通、国には、軍隊があるからね。 
     
  • .愛は、勝つ。ー 実写版「City Hunter」(Netflix2024年)


 嘗て、「磯野家の謎」と言う、漫画&アニメ「サザエさん」の世界観、背景、設定、裏設定、その他諸々を、解説だか妄想だか深読みだかした本が出版された。これが結構売れたそうで、当時既に「斜陽産業」と言われていた出版業界は、二匹目三匹目四匹目N匹目のドジョウを狙って、「サザエさん」以外の漫画やアニメやその他についての解説/妄想/深読本を次々と出版した(*1)。

 そんな「時流に乗った本」を、私(ZERO)は立ち読みの斜め読みぐらいでしか読んだ覚えは無いが、その頃数多あった「磯野家の謎」はじめとするこれら解説/妄想/深読本は、大凡二種類に大別出来る様に思われた。

 一つは「磯野家の謎」に始まるこのブームを当て込んで、一儲けも二儲けもしようという本。ある意味「浅ましい」が、ある意味「商売だから当然」とも言い得るし、ある種「プロ意識の産物」としての解説/妄想/深読本。こう言うのは、儲けるのが主眼だから、解説/妄想/深読の対象は、「サザエさん」と同様、或いはそれ以上に人気であったり流行であったりするモノを選んでいた様だ。

 もう一つは、「磯野家の謎」とは無関係に、タダひたすら、(人知れず、かも知れない)ある対象を愛で、愛し、研究考察し、その結果を(「磯野家の謎」ブームを契機として、)発表・発刊・発行した本。ある種の「作品に対する愛の結晶」であり、こう言う本は多くは作れなさそうだ。
 
 で、この二つの内、どちらを読みたいか、と言われれば、私(ZERO)ならば、圧倒的に「後者」なのである。「好きこそものの上手なれ」と言うべきか、その対象が何であれ、「作品に対する愛」に対しては原則的に相応の敬意を表するべきだ、ってのが、ある種の「マニア」であることは恐らく自他共に認めるであろう私(ZERO)の持論であるから。
 況んや、その対象に私(ZERO)が共感出来、共有出来るモノならば、尚更後者である。まあ、前者ってのにも興味は無いではないが、先ずは「同好の士」に共感したい、と考えるのが、人情と言うモノだろう・・・・残念ながら、そんな解説/妄想/深読本は、発見出来た覚えがトンと無いが。

  • <注記>
  • (*1) さらには、「盛り込める限りの情報を、最初から漫画に盛り込んでしまおう」って「裏返し」とも「逆突き」とも言えそうな漫画を、相原コージって漫画家が試験的に描いて見せていた。
  •  まあ、それだけ、「一世を風靡した」ってことだ。 


 

  • 1. 必ず、最後に愛は勝つ。


 「磯野家の謎」はじめとする解説/妄想/深読本なんてモノを久々に思い出したのは、Netflixで動画配信された実写版"映画(*1)"「City Hunter」を観たから・・・もとい。これでは順番が逆だ。実写版「City Hunter」を観る為にNetflixに加入して鑑賞し、予告編やYoutube動画でも十分明白であった北条司原作の漫画及びアニメたる「City Hunter」に対する尋常ならざる作品愛を確認・堪能・共感したから、である。
『シティーハンター』予告編 - Netflix (youtube.com)


 左様「共感した」のである。それは即ち、私(ZERO)自身がCity Hunterのファンであり、北条司のファンであることの自白・告白でもある。

 City Hunterを全く知らない人のために手短に解説すると、北条司原作の(基本)劇画調の漫画で、東京は新宿を拠点とする凄腕のスイーパー(万揉め事始末屋)「City Hunter」として知られる冴羽獠(と、その相棒)を主人公とする、一種の悪漢小説(ピカレスクロマン)である。超人的な身体能力及び射撃技術と、冷静明晰なる頭脳と、無類の女好きを同時実現した主人公は、ある種の「理想像」といえるだろう。少年ジャンプに連載されたのが1985年から91年と言うから、連載開始からだともう40年近い。
 その後テレビアニメとなり、漫画原作には無い話も数多ある(が、基本的には漫画に忠実な)テレビアニメとして1,2,3,91と4シリーズも放映され、その後も度々劇場版アニメが作られ、最新作は2023年劇場公開の「シティハンター 天使の涙(エンジェルダスト)」であるそうだから、アニメも40年近いロングセラーであり、且つ主人公・冴羽を声優・神谷明が一貫して演じている点も、特筆大書して良かろう。
 ジャンルとしては、「アクション・コメディー」とか「ラブ・コメディー」ともされるそうだが、それらの要素も相応に含まれているのは確かだ。また、その後日談とも続編とも言える漫画「エンジェル・ハート」を北条司自身が描いているほか、スピンオフ作品も小説、漫画とあって、「広範にわたる影響力・浸透力」を示している。

 



 City Hunterの実写映画化も、既に何度か実施されており、比較的メジャーな「ジャッキー・チェンを主人公・冴羽にした」作品がその嚆矢であるらしい。が・・・「City Hunterなのは、冒頭5分だけ」なんて評価もある様で、幾らジャッキー・チェンが得意で「強み」であろうが、「冴羽獠がカンフーで戦う」ってのは「興ざめ」だろう。私(ZERO)なんざ、見ようという気も起きなかったし、今後も見そうにない。
 2019年にはおフランス製の実写版「シティハンターThe Mobvie 史上最香のミッション」が製作・公開された。フランス製だけに、登場人物は軒並み白人なのだが、何しろ監督・主演したフィリップ・ラショーって人が原作「シティハンター」の大ファンで、その「好き」が昂じて実写映画にしちまったってんだから、「その意気や壮」とすべきだろう。
 聞くところによると、日本語版吹き替えに当たって、アニメ「シティハンター」で冴羽役を演じる声優・神谷明に日本語吹き替え(勿論、冴羽獠役)をオファーしたのだが、神谷明は「自分は、アニメの冴羽獠役の声である」として、断ったのだ、とか。
 オファーする方もオファーする方だが、断った方も断った方で、どちらも「原作に対する愛」によるモノ、と、私(ZERO)は解釈している。

 左様、「リスペクト=尊敬」と言うよりは、「愛=執着=執念」である。

 とある動画において、「実写化作品は、原作の再現性という点で、二つのレベルに大別される」と言う説を唱えていた。一つは、「金を大してかけない程度で、再現する。」と言う「コスパ重視」レベル。もう一つは、「再現に命を賭ける。」レベル、なんだそうな。
 「イヤ、中間はないのかよ獠」って突っ込みは当然あるが、今回の鈴木亮平主演「シティハンター実写版」は、「後者の、”命を賭ける”レベルだ。」と、その動画は断定しており・・・私(ZERO)はこれに同意するモノである。

 【NETFLIX】シティハンター【出来がいい】でも〇〇が足りない!(ネタバレほぼなし) (youtube.com)

 「原作の再現に、命を賭ける」というのも、ある種の「愛」であり、「執着」であり、「執念」であろう。

 而して、アニメでも漫画でもそれを「実写化」するに当たっては、「原作に対するリスペクト」は当然ながら(*2)、「原作に対する愛=執着=執念」が、必須なのではないか、と、私(ZERO)は本作を見て感じたのである。それが、章題「必ず、最後に、愛は勝つ」に繋がっている。

 沈着冷静に、冷徹に言えば「原作に対する愛=執着=執念」があったとて、その実写化映画が成功するとは限らないだろう。再現性が高かろうとも、売れないかも知れないし、受けないかも知れないし、駄作にも黒歴史にも、なり得る、と考えるべきだろう。精神論や根性論で、全てが解決する訳がない。
 
 だが、「実写化映画の成功」には、「原作に対する愛=執着=執念」は、「十分条件ではないかも知れないが、必要条件ではある」のではないか、と、私(ZERO)は考え、否、感じたのである。
 
 それ故の、この章題である。「必ず、最後に、愛は勝つ。」。鈴木亮平の長年の積年の「シティハンターに対する愛=執着=執念」が、遂に具現化実体化したのが本作であり、その「愛=執着=執念」が故に、本作は邦画として希に見る様な「実写化成功作」となっている、乃至なりつつある、様に、私(ZERO)には思われる。

  • <注記>
  • (*1) 基本的に映画館で上映されない動画を、「映画」と呼ぶのは、些かならぬ抵抗がある、のだが。 
  •  
  • (*2) 「それすら怪しい」実写化映画ってのは、心当たりがないでも無いが。 


 

  • 2. 邦画離れしたガンプレイ

 本作で特筆大書すべきもう一つの特徴は、主人公を演じる鈴木亮平の見せるアクションシーン、取り分け(章題にした通り)ガンプレイである。


『シティーハンター』メイキング映像 - 鈴木亮平・森田望智が語る舞台裏 (youtube.com)


 一般的に言って、邦画はガンプレイが苦手だ。これが刀剣による立ち回りとなれば、「殺陣師(たてし)」と呼ばれる「伝統的専門職集団」が黙っていないので、相当に高いレベルとするのにさしたる苦労はない。だが、江戸時代からこちら、日本人にとって銃器は「縁遠い存在」であり、兵役もなくなった戦後ともなると「銃の構え方も知らない」者がゴロゴロ居る様な「銃無き社会」なのが日本だ。それ自体はある意味「結構なこと」で、「映画のガンプレイが優秀な銃社会(例 アメリカ)」と「映画のガンプレイがショボい銃無き社会(典型的例 日本)」と、「どちらが良いか獠」と問われれば、後者が良いに決まっている。
 
 が、「銃無き社会」では「優れたガンプレイの映画は作れない」ってロジックは、無い。「銃無き社会」では、「ショボいガンプレイの映画でも、そこそこ売れる」と言うだけである。「ガンプレイ」を評価し、批評する映画ファンが「少ない」から、当然、そうなる。

 だ・が・今回実写化されたのは、北条司原作の「シティハンター」である。原作たる漫画にも、幾つも「光るガンプレイ」があったし、アニメでは、確か2の「新宿に仕掛けられた原爆の起爆装置を、コルトパイソンの銃弾3発で解除する」シーンなんて痺れるガンプレイがある。シティハンター実写化に当たり、「優れたガンプレ」は、「必要不可欠」とは言いかねるかも知れないが、「相当なアドバンテージ」ではあろう。

 本作で冴羽獠を演じる鈴木亮平は、本作中で使用する6種類(コルトパイソン、コルトローマン、MP5K、ベレッタF92(多分)、M4カービンと・・・グロックか?)の銃全てのモデルガンを(自腹で獠)購入し、練習に努めたと言う。

 その「練習の成果」が、「優れたガンプレイ」もとい、「邦画離れした、優れたガンプレイ」として、本作の随所に見て取れる。ネタばらしになるといけないので、一つだけあげると、冒頭近くにヤクザの事務所を襲撃し、5,6人のヤクザを徒手格闘戦で圧倒する冴羽に対し、とうとう銃を持ち出してきたヤクザのシーンがあげられよう。冴羽は難なくその銃を取り上げ、分解して「暫く使えない様にする」ってシーンなのだが、この「銃の分解」が凄いのである。
 視線は相手に向けたまま、手元なんか見ないで、ヤクザから取り上げた自動拳銃(グロック、かなぁ・・・)の、マガジンを落とし、スライドを引いて薬室を空にし、そのままスライドとレシーバーを分解し・・・・までは「私(ZERO)でも、練習すれば、ナンとか」と思える。ああ、その速度に追いつくのは、また別だがな。(いや、正直、ちょっとやそっとじゃぁ「追いつける」とは思わない。)
 でも、此処で終わらないのだ。鈴木亮平=冴羽獠リは。右手にレシーバー、左手にスライドを持った状態で、左手一本で、スライドから復座バネ抜いて飛ばしてみせる。繰り返す、左手一本で持った状態のスライドから、復座バネを抜いて飛ばす、のである。
 当人も「むっちゃ練習した」と言い、「本番撮影では一発で出来て、自分でも吃驚した」と語っているが・・・こう言うのを、「入神の技」というのだろうな。

 

  • 3. シリアスとコミカルの瞬時切り替え

 だが、「優れたガンプレイ」ならば、銃社会であるアメリカのアメリカ映画の方が、一日も二日も長があろう。最近のアメリカ映画は私(ZERO)は見ていないので知らないが、「ジョン・ウイック」シリーズとかは、ガンプレイで評価が高いのだとか。

 しかーし!!、「シティハンター」は、冴羽獠は、「ガンプレイだけ」では成立しない・・・否、冴羽獠の本質・本体・最大の特徴にして、殆ど存在理由とも言えそうなのは、一言で表せば「もっこり」である【強く断言】。
『シティーハンター』ティーザー予告編 - Netflix (youtube.com)

『シティーハンター』冴羽獠のもっこりダンス - Netflix Japan (youtube.com)
 「もっこり」無くして、冴羽獠無く、「もっこり」なくして、「シティハンター」無し【もっと強く断言】。

 「もっこり」。中々便利な言葉である。本来の意味は、多分「勃起した男性性器」に対する「形容詞」であろう。そこは日本語の便利な曖昧性により、「もっこりする」「男性性器が勃起する」という直接的な意味合いの動詞にもなれば、「美人な女性を見て、触って、アレコレして、興奮する、喜ぶ、盛り上がる」という間接的な意味合いにもなる。更には、「もっこりチャン」と名詞化すると、これまたかなり曖昧なことに「男性性器が勃起する様な魅力的な女性」も意味するし、「もっこり美女」となると「美女」に更なる付加価値を追加する形容詞ともなる。無論、褒め言葉であり、肯定的な付加価値だ。

 



 男性性器とは色んな意味で関連・関係・因果・因縁があるので、ツイフェミあたりが発狂しそうな言葉「もっこり」ではあるが、その「もっこり」で端的に表現出来る冴羽獠のコミカルな部分と、先述の「ガンプレイ」で表現出来る冴羽獠のシリアスな部分。その二つのギャップと、瞬時の切り替えが、冴羽獠のある種「ギャップ萌え」でもあるし、恐らくは「シティハンターを実写化するに当たっての最大の障壁・障害」でもありそうだ。

 その「シティハンターを実写化するに当たっての最大の障壁・障害」を、大俳優・鈴木亮平は美事にクリアしている。それも、トンデモナイレベルで、だ。

 どれ程トンデモナイかというと、アニメで冴羽獠の声を演じ続けている神谷明が、「アニメは、こちら(声優)の演技に合わせて絵を描いてくれるから、出来た。自分で実写化・実演は、出来ない。」と断言するレベル。冴羽獠歴30年以上を数える大先輩が、脱帽しているのである。鈴木亮平の冴羽獠演技=シリアス/コミカル切り替えに。
 
 これもネタばらしになるといけないから、多くは書けない/書かないが、「いよいよ最終決戦直前」って所で、暴力団組長(橋爪功)からかかって来た電話で、「生きて返って来たら・・・あの店、貸し切ってやるよ。」との組長の激励の言葉に、手放しで大喜びする冴羽獠=鈴木亮平の表情激変は、必見モノだ。

 あ、橋爪功の「老暴力団組長ぶり」も、結構なモノだぞ。あの、人の悪い笑顔ったら、ないからな。

 

  • 4. 再び言う。「必ず、最後に、愛は勝つ。」

 橋爪功演じる老暴力団組長は、本作オリジナルキャラ、だと思う。その他、コミカルな冴羽獠にも「原作漫画程のハチャメチャな女好きぶり」はない。これは、原作漫画が連載され、アニメ化された、1980年代から1990年代と、21世紀に入って20年以上も経過した現代との「時代の違い」が大きかろう。「ポリコレ(政治的な正しさ(爆笑))」とか「フェミ(女性優先主義(もっと爆笑))」とか「多様性(死ぬ程爆笑)」などの「極端な主張」ならずとも、女性に対する接し方などが「原作漫画そのままの冴羽獠」では、「許容されない」は言い過ぎとしても、「万人受けを妨げ、新たなファン獲得の障害となる」のは否めなかろう。

 そのため、本作の、鈴木亮平=冴羽獠は、漫画原作よりは「弱毒化」され(*1)、「時代に迎合した」部分も、なしとはしない。

 だが、そんな「弱毒化」されても尚、否、「”弱毒化”されたが故に」、なお一層明確鮮明となり、溢れ出しているのが、本作「実写版City Hunter」に於ける「原作漫画&原作アニメに対する愛=執着=執念」である!・・・と、古手のCity Hunterファンであり、北条司ファンでもある、私(ZERO)には思われ、感じられる(*2)。
 
 故に、再度言う。「必ず、最後に、愛は勝つ。」

 これが精神論であり、根性論であり、また普遍的ではない、と言うことは認めよう。

 原作に対する愛=執着=執念は、実写化成功の必要条件ではあっても、十分条件でないことも、認めよう。

 だが、本作、「実写版City Hunter」は、その「原作に対する愛=執着=執念」故に、「間違いなく、成功する。」と、私(ZERO)は確信している・・・・と言うよりは、「絶大なる確信を持って、期待している。」というのが正しいか。

 「最後に、愛は勝つ。」と言うのは、ある種の理想像である。それ即ちある種の理想論であり、書生論とも言い得よう。

 だが、その理想は、書生論は、本作「実写版City Hunter」では、現実化し、事実となるだろう。
 

  • <注記>
  • (*1) 一方で、「アニメ版冴羽獠」には、近い様に思われる。 
  •  
  • (*2) それ即ち、「時代に合わせた原作改編」を、本作の場合は「肯定的に考えて居る」と言うことに、他ならない。 




 

  • 寝言、戯れ言、勝手にほざけ-【東京社説】世界の軍事費 軍拡の流れ断たねば


 「平和ボケ」って言葉も、最近はトンと聞かなくなった気がするのは、我が国周辺の国際情勢が冷戦華やかなりし頃よりも悪化して、さしもの日本国民もそうそう「平和ボケ」手居られなくなった空、では無いかと「殆ど生まれながらの右翼」たるこちとらは幾らか期待しているのだが、そこは戦後この方、GHQの日本国民無力化政策と、それに続き今も続く「戦後平和教育」のお陰もあってか、「平和ボケ」な事象は未だ枚挙に暇が無い。

 東京新聞はじめとするアカ新聞なんてのは、「戦後平和教育の精華」とも言うべきシロモノであるから、その社説が「平和ボケ」なのは、ある意味「理の当然」とも言い得よう。が・・・コイツはやはり、特筆大書して記録しておくべきではなかろうか。

  • (1)【東京社説】世界の軍事費 軍拡の流れ断たねば

  2024年4月24日 08時03分

 世界の軍事費が過去最高を更新した。ロシアのウクライナ侵攻や中東情勢の緊迫が反映された。軍備拡張の流れを断ち、地球温暖化など共通の課題にこそ国際社会が協力して取り組むべきだ。

 スウェーデンのストックホルム国際平和研究所(SIPRI)が公表した2023年の報告書によると、世界の軍事支出総額は前年比6・8%増の2兆4430億ドル(約378兆円)。比較できる1988年以降の最高額だ。

 

 各国の軍事支出=表=を比較するとロシアは前年比24%増、ウクライナは同51%の急増で、軍事費は政府支出総額の58%を占める。ガザへの攻撃を続けるイスラエルも前年比で24%増えた。

 80年代の冷戦期をも上回る各国の軍事支出は、多くの市民を死傷させ、数え切れない避難民を生み、街の破壊につながる。

 戦闘地域だけでなくアジアでも軍事費の伸びは著しい。中国の軍事支出増は29年連続で世界最多の米国の3分の1に迫る。中国の脅威は東アジアの軍拡競争を招き、日本は前年比11%、台湾も同11%の防衛・軍事費を積み増した。

 SIPRIの研究員は「軍事力優先は、不安定な地政学と安全保障情勢の中で、行動と反動のスパイラルに陥る危険がある」と指摘する。武力衝突を避けるための軍備増強が、紛争を誘発することは避けなければならない。

 地域紛争でも世界への影響が大きいことは、穀倉地帯のウクライナへの侵攻が世界の食糧危機と物価高騰を、中東情勢の不安定化がエネルギー危機を招いたことを見れば明らかだ。軍拡競争はいずれ偶発的な大規模紛争を起こし、人類の存在をも脅かしかねない。

 東アジア情勢の緊迫化に対応するため、岸田文雄内閣は国内総生産(GDP)比1%程度に抑えてきた防衛費を、関連予算を含めて2%に倍増する方針を決めるなど専守防衛の転換を進める。

 しかし、平和憲法を有する日本の役割は軍拡競争に参加することではなく、国際社会の先頭に立って、軍拡の流れを断ち、平和への道を粘り強く説くことである。

 

  • (2)「それって、貴方の感想、だけですよね。」


 軍拡の流れを断たねば」って何をどうする気かと思ったら・・・

1>  平和憲法を有する日本の役割は軍拡競争に参加することではなく、
2> 国際社会の先頭に立って、軍拡の流れを断ち、平和の道を粘り強く説くことである。


・・・吹いたぞ。

 かかる軍拡の流れを断つ方法に顕著に表れているのは、一つには①「平和憲法を有する日本は、軍拡競争に参戦せずとも安泰である。っていう、実に脳天気で全く根拠のない前提条件である。
 更には、②「”軍拡の流れを断ち、平和の道を粘り強く説く”ならば、”国際社会の先頭に立てる”と言う、これまた全く根拠のない前提条件であり、更に言えば③「日本が”軍拡の流れを断ち、平和への粘りを強く説く”ならば、"軍拡の流れは、断てる”。と言う、期待だか願望だか、である。

 改めて列挙すると、以下の通り。

①「平和憲法を有する日本は、軍拡競争に参戦せずとも安泰である。」

②「”軍拡の流れを断ち、平和の道を粘り強く説く”ならば、”国際社会の先頭に立てる”」

③「日本が”軍拡の流れを断ち、平和への粘りを強く説く”ならば、"軍拡の流れは、断てる”。
」と

 上記②と③は、実質同義かも知れない。上記②と③を「(当然)実現出来る」と思える時点で、相当な脳天気&平和ボケだと、私(ZERO)なんぞは思うのだが、そんな脳天気&平和ボケも、上記①に比べれば、モノの数では無さそうだ。
 
 「憲法9条が最大の抑止力」とか素面で真面目に抜かす社民党と良い勝負。或いは、「丸腰の者は撃たれない」とか「自衛隊の戦闘機は錆びているのが良い」とかコメントしていた気違いと、同工異曲、同レベル、同じ穴の狢で、大同小異ですら無さそうだ。

 これを、新聞社の公式公的な主張として「社説」にしてしまえるんだから、東京新聞ってのは、Jos某と同じぐらいに気違いで、そんな気違いは我が国では、少なくとも安全保障とか国防とかに関する限り、大手を振って罷り通ってしまうのだから・・・言論の自由万歳、と言うところかな。