• 学問の自由を阻害しているのは、学術会議の方だ。ー【東京社説】学術会議と学問の自由 「戦前」が蘇らぬように

  「学術会議問題」ってのは、詰まる所、「学術会議に対して政府が有する権限を、その権限通りに執行したら、其奴がそれまでの慣行に反するってんで、結構な騒ぎになっている。」件であり、事件性も違法性も犯罪性も無い。精々の所「話題性」があるきりだ。
 
 所がコイツが、「学問の自由」と結び付けられてしまうんだから、全く呆れるほか無い、って記事は、幾つも弊ブログに書いたな。何しろ、学術会議自体が紛れもない「学問の自由の敵」なのだから、「片腹痛い」どころでは無い。

 第一、「長年の慣行により、政府が学術会議に対して有する任免権が、事実上無効化されていた。」って「従来の慣行」こそが糾弾されるべきであるのに、未だにアカ新聞共は「以前の慣行通りにしろ」って騒いでいる。

 有り体に言って、実に滑稽だ。

  • (1)【東京社説】学術会議と学問の自由 「戦前」が蘇らぬように

学術会議と学問の自由 「戦前」が蘇らぬように

 

https://www.tokyo-np.co.jp/article/325798?rct=editorial

 

 

2024年5月8日 08時00分

 昭和天皇が学術分野への政治介入を戒めたことがあります。1935(昭和10)年の天皇機関説事件のときでした。

 侍従武官長だった本庄繁の「本庄日記」(原書房)の同年4月25日の項に記されています。

 <陛下は、若(も)し思想信念を以(もっ)て科学を抑圧し去らんとするときは、世界の進歩は遅るべし。進化論の如(ごと)きも覆へさざるを得ざるが如きことゝなるべし>

 思想や信念で科学を抑圧すれば世界の進歩はなくなってしまう。ダーウィンの進化論を覆すようなものだという、生物学者らしい昭和天皇の考えでした。

 

 天皇機関説とは国家を法人にたとえ、天皇はその最高機関である-憲法学者・美濃部達吉=写真=のこの学説に対し、「緩慢なる謀反だ」などと議員や右翼らが一斉に攻撃した事件でした。

 機関説は当時の最有力の学説でしたが、貴族院議員でもあった美濃部は辞職に追い込まれ、著書も発禁処分になりました。

 でも、進化論にせよ地動説にせよ、正しいかどうかは、科学のみが判定できます。教会も国王も政治権力も判断できません。

 政治が野心を見せるときは、野蛮な下心があるからでしょう。天皇機関説事件から2年後には日中戦争、6年後には太平洋戦争。10年後にはついに敗戦です。

 明治憲法になかった「学問の自由」が、日本国憲法で新たに定められたのも、戦前に学問分野が国家権力によって侵害された歴史を踏まえてのことです。

 日本国憲法の制定時、憲法担当大臣の金森徳次郎が中国の始皇帝による焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)や進化論、天動説と地動説の論争を引き合いに、議会でこう答弁しています。

 <各人正しいと思う道に従って学問をしていくことを、国家が権力を以て之(これ)を妨げないことです>

 つまり「学問の自由」とは、学問分野への政治的干渉を排除することにこそ眼目があるのです。人事への介入もいけません。

 2020年に日本学術会議の会員候補6人が当時の菅義偉首相によって任命拒否された問題は、明らかに「学問の自由」の領域を侵していると考えます。

◆任命拒否を白紙に

 今なお、この問題がくすぶり続けているのは、政治の力で学術会議をねじ伏せようとしているからに違いありません。

 そもそも歴代内閣では「政府が行うのは形式的任命にすぎない」との答弁が国会で繰り返されています。それが確立された政府解釈で、首相による任命拒否などありえないことなのです。

 かつ学術会議は法により「政府から独立して職務を行う」と規定された独立機関でもあります。

 ですから、各分野の約1300もの団体が抗議声明を出す事態になりました。それでも政府は任命拒否を撤回せず、説明責任も果たしません。公文書もほぼ開示せず、裁判が起こされました。

 現在、政府がもくろんでいるのは、学術会議の法人化です。現行の「国の特別の機関」から「国から独立した法人」に移行する基本方針を示しています。

 でも法にある「独立」の言葉を「独立の法人」と言い換え、政府自らが組織改編に乗り出すのは矛盾です。あえて「透明性」の言葉を使い、従来の選考方法などを変えてしまいたいのでしょう。

 なぜ政府は干渉したいのか。学術会議がかつて「軍事目的の科学研究を行わない」との声明を出したからでしょうか。

 学術会議は「ご意見番」たる存在ゆえに、ときに政府に批判的であることも大事です。ですから、この問題は任命拒否こそ「白紙」に戻すべきだと考えます。

 冒頭の天皇機関説事件ですが、憲法学者の美濃部が右翼らの攻撃対象となったのはなぜか。原因の一つに事件前年の1934(昭和9)年にあった「陸軍パンフレット事件」が考えられます。

◆戦争は創造の父か

 「たたかいは創造の父、文化の母である」-そんな書き出しの戦争賛美の冊子でした。

 これに真っ向から反対する論文を「中央公論」(同年11月号)に書いたのが美濃部でした。

 <「創造」や「文化」は、個人の偉大な天才と、自由の研究とによってのみ生(うま)れ出(い)ずるものであり、それはもっぱら平和の産物で、戦争はかえってむしろこれを破壊する>

 実に明快ではありませんか。科学と戦争を結びつけるのは何とも浅はかです。学術会議問題の政府の真意が軍事にあるのなら、まるで「戦前」が原色を帯びて蘇(よみがえ)ってくるようです。

 

(2)ネットも航空機も電子レンジもカーナビも使うなよ。話は、それからだ。

 ネットことインターネットの元々の技術は、軍用通信の多重化抗堪化技術だ。 


 現在の航空機技術の内、単葉機、全金属機、セミモノコック構造、ジェットエンジン、慣性航法装置などの主要にして不可欠な技術は、何れも軍用機、特に戦闘機として実用化され、普及し、多くの民間機(旅客機含む)に適用されている。軍事技術なくして、現在の航空機は、無い。


 電子レンジに採用されているマイクロ波技術は、軍用レーダー技術の副産物だ。
 

 現在のカーナビやスマホのナビに不可欠なGPSは、元々軍用の航法衛星であり、今でも「軍用として、民間用よりも高精度の航法情報を提供している」ばかりでは無く、「一朝有事の際には、民間用GPSの航法精度を下げる」ことが出来る。湾岸戦争のときには実際にそうした、実績・実例がある。つまりは、GPSは紛れもない「軍事技術」と言うことだ。

 大体、上掲東京新聞社説自体が、ネット版の引用だぞ。思い切りインターネットを活用しておいて、戦争は、破壊であって、創造ではないから、”創造の父”ではない。」などと綺麗事抜かせるんだから、チョウセンジン並みの面の皮だな。
 
 戦争は、破壊であって、創造ではないから、”創造の父”ではない。ってのも、相当な詭弁・・・と言うより短絡思考だ。戦争そのモノは「破壊」であっても、戦争の準備や、破壊の手段を開発製造配備運用するのは十分に創造的で、「創造の父」と言っても過言とはなるまい。

 打製石器から磨製石器へ。更には青銅器、鉄器と刀槍を発達させ、更に更に弓矢、銃火器、火砲、ミサイル、原子爆弾、水爆と、直接的な「破壊のための手段」でさえ、技術を進歩させ、科学を発展させている。況んや、「破壊のための手段の運搬手段および運用法」や「破壊を極限し食い止める手段」ともなれば、もっと裾野は広い。

 言い替えるならば、戦争(自身)は破壊ではあっても、戦争準備は創造的であり、”創造の父”である。と言うことだ。
 
 なればこそ、章題にもした通り、現代社会の相当部分は軍事技術の恩恵を被っている。軍事技術無しには、現代社会は成り立たない。

 そんな極当たり前のことにさえ、気づこうともしないのだから、思い込みって怖いねぇ。

 

  • ☆「平時」とは、常に「戦前」だ。左様考えることこそが、国防であり、国家安全保障だ。間抜けめ。

 現代社会に於ける軍事技術の恩恵」に気づかないことよりももっと間抜けなのが、「戦前忌避」というか「軍事忌避」というか、「安保白痴の平和ボケ」というか、「現代及び将来を、”戦前”にしてはならない」って思想・発想だ。

 忌み嫌い、拒否拒絶さえしていれば、「戦争にはなら無い」ってある種の信仰、否、狂信だな。現実逃避の自己陶酔以外の、何物でも無い。

 戦争に備え、戦争準備が万端で、負けない様にしてこそ、戦争は防げる。

 戦争に備えず、戦争準備を怠ることは、「負ける様にしている」ってことで、戦争誘因だ。
 従って、平時とは、常に「戦前」と考え、備えるべき時であり、「戦前とは考えない」ことは「戦争を惹起し、戦争/戦前としてしまう」可能性がある。

 そんな常識論は、東京新聞にも、「軍事研究反対」とか唱えている学術会議にも、通じそうに無い。それだけ呑気で脳天気で間抜けでお花畑の集まりである・・・と考えるよりも「日本侵略を目論む侵略者の手先」と考える方が、安全側だな。

 まあ、学術会議が実際実体「侵略者の手先」であるかどうかは兎も角、国家安全保障とか国防と言った「国の危急存亡にも関わる重大課題」を議論し、提案提言出来る相手ではない、って事は確かだな。

 だ・け・ど・さ。
 国税を相当に投入し、国に対するアカデミックな助言することを存在理由とするはずの学術会議が、「国の危急存亡にも関わる重大課題」に関しては箸にも棒にもかからないってのは、相当に問題じゃぁ無いのかね。

 Parabellum。戦いに、備えよ。
 
 今の学術会議とは別に、安全保障や国防に関してアカデミックな提言を為せる、「平時を戦前と考える」新学術会議が必要なのではないかな。
 
 それ以前に、「軍事研究反対」を戦後3回も明言断言して、我が国の「軍事研究する自由」を迫害阻害している学術会議の擁護に、「学問の自由を訴える」って、ギャグ以外のナンだよ。