『修羅の門 第弐門』 ~毅波秀明の衝撃~ (ネタバレ有) | ~ Literacy Bar ~

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※基本、ネタバレ有となっていますので、ご注意下さい。

この記事 でも触れましたように、


『オン』の正体は『あの』毅波秀明でした。


ネタとはいえ、オン=毅波秀明説を何度も唱えてきた私の予想が的中してしまいました。多くの方からお祝いのコメントも賜わりました。ありがとうございました。

しかし、本編の感想では『当たった当たった』と喜びましたが、これは物語を読み解いた結果でないことは誰よりも私が判っています。例えてみれば、真面目に勉強をしなかった受験生が鉛筆転がしで東大の入試を受けたら、いつの間にか、一流企業の内定を貰っていたようなものです。全く、自分の実力ではありません。どんなにマト外れな結論でも、やはり、自分の読解に基く記事を描きたいものです。そう考えていたら、ある疑問が浮かんできました。


『オン』は何故、毅波秀明でなければならないのか?


これは結構、興味深い設問です。マグレで正体を当ててしまったことの穴埋めといっては何ですが、今回は分析や予想が外れることを覚悟で、この疑問を読み解いてみたいと思います。


毅波秀明。

年齢不明。流派不明。

作中における陸奥九十九の最初の対戦相手です。神武館へ道場破りに現れたものの、たまたま居合わせた九十九に手もなくヒネられています。勿論、作中ではそれなりの実力の持ち主らしいことは触れられていますが(多分、増畑よりは強いでしょう)、結局は陸奥の噛ませ犬でした。2011年3月4日現在、ウィキペディアの『修羅の門』の項目にも彼の名前は乗っていません。実に不憫な奴です。

そんな彼が何故、陸奥もどきの『オン』の正体に選ばれたのでしょうか?

作中で毅波を『オン』に抜擢した人間は現在のところ、判然としていません。自分で売り込んだのか。羽生つばさがスカウトしたのか。山田さん(仮名)が技を教えたのか。そこはこれからの展開に委ねるとして、今回の胆は作者の川原正敏氏の心底です。ケンシン・マエダの息子説、不破の残党説、グラシエーロ柔術の刺客説など、それぞれに魅力的な仮説が飛び交っていたにも拘わらず、正体は『あの』毅波秀明。『オン』の正体を知って驚きはしたものの、心の底から喜んだ方は少ないと思われます。

「毅波秀明ごときでは話が膨らまない」

とお考えの方もおられるのではないでしょうか。しかし、よく判らないところこそが人や作品のツボ。川原センセが毅波秀明を抜擢したからには、そこには何かしらの意図が存在する筈です。


『修羅の門 第弐門』の主題の一つは、

『格闘技の没個性化』

です。第二話で観客が語っていたように、全ての格闘技には対処法があり、自然、格闘家は総合路線に走らざるを得ない状況にありました。簡単にいえば、誰もが『何でもできる』陸奥の亜流になったわけです。一つの流派に拘らず、打撃をこなし、投げを嗜み、関節技を操る。それは、皆が他の流派の技を使うようになったことと同義です。あるブログの記事によれば(うろ覚えの記事なのでソースは出せません。思い出し次第、許可を頂いてリンクします)、陸奥圓明流の代名詞の一つである『雷』は現実世界でも使うことができる技だそうです。『旋』も作者の川原センセの実体験をもとに描かれています。そして、この試合で毅波が使った圓明流の技も実現の可能性のあるものばかりでした。つまり、格闘技の総合化の結果、主人公の流派である陸奥圓明流の技でさえも他の格闘家に使われてしまう状況という、格闘漫画の最大の魅力をブチ壊すような非情な現実が『第弐門』では描かれているのです。

その現実にリアリティを持たせるためには毅波秀明が必要でした。陸奥圓明流のコピーは片山右京の牙斬、龍造寺徹心の蔓落とし、飛燕裏十字、龍造寺巌の訃ノ蔓・狼牙など、これまでにも幾度も描写されてきましたが、彼らは皆、天才、武神、闘鬼と謳われる存在です。彼らが圓明流を模倣したところで、それは才能に基くものとして一蹴されてしまいます。これでは、格闘技の総合化による圓明流の価値の相対化という非情な現実にそぐいません。しかし、毅波秀明であれば話は別です。毅波は誰もが認める作中最高(?)の噛ませ犬です。作者は毅波秀明に圓明流の技を使わせることで、陸奥圓明流も他の流派と同じく、一定の技量を有する格闘家ならば、容易に模倣できる対象になってしまったことを現したのです。主人公の流派を『one of them』として扱う。これこそ、格闘技の没個性化の描写に他なりません。この主題を掲げるために、オンに毅波秀明が抜擢されたのだと私は考えます。

そうなると、今度は如何にして陸奥九十九と他の格闘家の区別をつけるかという命題が生じてきます。その答えになるのは『奥義』でしょう。『虎砲』『龍破』『無空破』といった、現実世界だけでなく、作中でも常人には実現不可能な技こそ、陸奥のアイデンティティになる筈です。事実、今回の九十九も、

「おまえに『神威』は撃てないだろうからな」

という台詞でオンが不破でないことを指摘しています。宮本翔馬との対戦で描かれたように、現在の九十九は奥義を使わない、或いは使えない状況にありますが、これは『溜め』の演出であることは明らかです。九十九が陸奥圓明流の『奥義』を放つ瞬間こそ、真の陸奥九十九の復活であり、修羅の門の第弐門が開かれる時であると予想します……。


……と偉そうに書き綴ってみましたが、多分、この予想は外れます。現実世界であれ、仮想世界であれ、物事は人間の想像力の遥か彼方へと推移するものです。

10年前、勇次郎が刃牙と同じ食卓を囲みながら、海原雄山よりも重みのある『食』の説教を垂れることを誰が予想し得たでしょうか(多分、作者の板垣センセも想定していなかったと思います)

そう簡単に予想が当たるほど、世の中は甘くありません。


※この記事の続編にあたる『修羅の門 第弐門~毅波秀明の正体~』はこちら です。

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