『修羅の門 第弐門』 ~毅波秀明の正体~ (ネタバレ有) | ~ Literacy Bar ~

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※基本、ネタバレ有となっていますので、ご注意下さい。

今月号の『修羅の門』は休載です。

先月号で毅波秀明との決着がついたので、まぁ、きりのいいところだと思います。『皇帝』の登場に期待しながら、来月号を待つとしましょう。そんなわけで、今月号の『修羅の門』の感想もお休みになります。ただし、全く『修羅の門』関係の話をしないのも欲求不満が鬱積するので、今回はちょっとした考察というか推測を試みてみたいと思います。それは、


毅波秀明の正体は誰なのか?


というものです。

何をいっている? オンの正体は毅波秀明だが、毅波秀明は毅波秀明じゃないか? という声をあげそうになられた方、少しだけお待ちください。別に私も毅波秀明がニセモノで、実はオーバーボディーの中に片山右京が潜んでいたなどというキン肉マンのような話を展開するつもりはありません。

まず、周知のようにオンの正体は毅波秀明でした。私はこれに関して、オンは何故、毅波秀明でなければならないのか?  という命題に挑戦したことがあります。詳しくはリンク先の記事を参照して頂きたいのですが、簡単にいうと格闘技の総合化に伴う陸奥圓明流の相対化を描くために雑魚中の雑魚である毅波秀明に白羽の矢がたったというものでした。これはこれで、当時の私の読解力の全てをあげて到達した推測でしたし、現今でも然程マト外れな考察ではないと思っています。

今回の問題はそれとは別の話です。オンの正体を毅波秀明にする理由ではなく、陸奥九十九VS毅波秀明戦で作者が何を描きたかったのかということです。まず、私なりの結論を先に述べてしまいましょう。


毅波秀明は川原正敏氏である。


これが答えです。勿論、これも毅波秀明がニセモノで、オーバーボディーの中に川原センセが潜んでいたというわけでもありません。九十九VS毅波戦は川原センセの陸奥九十九、或いは『修羅の門』に対するリベンジ&リトライを仮託したものだということです。これを知るためには陸奥九十九の戦いを振り返る必要があります。

基本、九十九と戦った相手には失神KO、或いは死亡の二択しか残されていません。ただし、例外が5人存在します。飛田高明、ジャージィ・ローマン、マイケル・アーロン、ブラッド・ヴェガリー、そして、嘗ての毅波秀明です。飛田の場合は九十九のほうがこれ以上の戦いを望まなかったため。ローマンは宗教上の理由。ヴェガリーは仕合と勝負には負けましたが、ペテンの一点では九十九を出し抜きました。彼ら三名は意味ある敗北と評してよいでしょう。しかし、アーロンと毅波は違います。両名は腕、或いは足首を折られての戦意喪失です。最期まで戦わずに勝負を放棄した逃亡者です。勿論、現実の格闘技では骨が折られそうな段階でギブアップすることは恥でも何でもありませんが、これは漫画の話ですので、その点は御了承下さい。


陸奥九十九「戦うってことは怖いってことだ。そして、そこから逃げないってことだ」

陸奥九十九「オレだったら、戦って敗れたい」

陸奥九十九「負けてもいい。でも、大事なところで踏み込まない奴には負けてやらん」


これらは物語の随所で九十九が口にした台詞です。千年不敗の伝説を証明するために戦い続けているにも拘わらず、九十九には戦いに敗れることよりも、戦いの恐怖から逃げるほうが許せない行為なのでしょう。この価値観に照らしてみれば、嘗ての毅波とアーロンは九十九が本気で戦うに値しない相手でした(これはアーロン戦での九十九の言動が証明しています)

ところが、ここにもう一人、陸奥九十九との戦いを途中で放棄した人物がいます。誰あろう、この『修羅の門』の作者の川原正敏氏です。ヴァーリ・トゥード編を終結させた1996年、川原氏は突如として『修羅の門』の無期限休載を宣言しました。氏はその理由を単行本第31巻のあとがきで、レオン・グラシエーロの最期に対する読者の反応に落胆した&この作品で描きたいことは全て描いてしまったと述べておられました。実際、ヴァーリ・トゥード編は渾身の作品でしたし、あの『刃牙』の作者の板垣恵介氏からも大絶賛されたほどでしたから、氏が一種の燃え尽き症候群に陥ったとしてもムリからぬことでしょう。

しかし、今回、改めて『修羅の門』を再開するにあたって、川原氏は一度は向きあうことを放棄した陸奥九十九の物語を描くことに躊躇いを覚えたのではないでしょうか。ここから先は完全に私の憶測です。些か厳しい言葉を使うかも知れませんが、川原氏をはじめ、実在の人物を貶める意志はないことをお断りしておきます。予め、御了承下さい。さて、連載を再開する川原氏が端緒に描くべきことは何か? それは一度は陸奥九十九の物語に背を向けたことを赤裸々に告白すること。今度は絶対に陸奥九十九から逃げないという硬い意志(石)をしめすことです。そして、それを物語という形式で描くには、氏と同じように九十九との戦いを放棄した男を再登場させるのが一番です。つまり、毅波秀明です。マイケル・アーロンも九十九との戦いから逃げた男ですが、流石にアーロンがオンでは正体バレバレですから、作者には毅波秀明という選択肢しか残されていなかった。これが毅波秀明が再登場したもう一つの理由と考えられます。その論拠となるのはオンの覆面を脱いだあとの毅波の台詞です。毅波秀明ではなく、川原正敏氏の台詞としてお読み下さい。


毅波秀明「あの時、おまえに足を挫かれただけで、オレの意志が欠けた……まだ、動けたのに……オレは逃げ出した」

毅波秀明「体の芯から震えがくる。怖い……よ。あんたが、陸奥九十九が怖い。だけど、オレは逃げずにたっていられる。オレの石は割れない」


上記の台詞からは、作中で戦いから逃げるなと描いておきながら、自分は陸奥九十九に背を向けたことへの慙愧の念と、今度はどんな苦境に晒されても、絶対に陸奥九十九から逃げないという作者の決意が伝わってくるようです。また、足首を折られ、靭帯を捻じ斬られながらも、戦うことを已めなかった毅波秀明の姿を描くことで、台詞ではなく、画でも作者の硬い意志を表しています。そして、この川原正敏氏の覚悟に対する陸奥九十九の『赦し』とも思えるのが『虎砲』に沈む毅波秀明にかけた言葉です。


毅波秀明「やっぱり、オレは勝てないのか。何者にもなれぬまま……オレの四年半は何だった……?」

陸奥九十九「人は、自分以外のものにはなれない。お前は四年半かけて毅波秀明を磨いただけだ。そして、それが答えで、誇っていい正解だ」


まぁ、実際は四年半どころか、十五年かけてきたわけですが、それでも、その間に描いてきた『海皇記』や『修羅の刻』は絶対にムダじゃないし、漫画家としての川原正敏を磨いてきたんだから、それでいいじゃないかという意味だと思います。そう考えると、毅波秀明戦の最期の最期で九十九が漸く『虎砲』を出せたのも、九十九の壊れっぷりだけでなく、作者の心情を投影したものなのかも知れません。つまり、一度は陸奥九十九の物語に背を向けたことを正直に認め、今度は劇中の毅波秀明のように最期まで陸奥九十九に固執する覚悟をしめしたことで、漸く作者は陸奥圓明流の代名詞ともいうべき『虎砲』を描くことを自らに許したんじゃないのか。


山田さん「陸奥九十九は今日……ようやく虎砲が出せた。たぶん、これは正解です」


という山田さんの台詞も、実は九十九ではなく、作者自身に向けられたものなんじゃないか。そう考えると結構、納得できるんじゃないかと思います。『修羅の門 第弐門』第二巻のあとがきで作者は、


川原正敏「3巻では何故、彼(毅波秀明)なのかについて、語りたいと思います」


と述べておられました。先回&今回の私の推察が果たして、どれほど川原センセの心情を洞察したものであるのか。その回答は今夏発売の第三巻で明らかになります。多分、外れていると思いますがね。