~ Literacy Bar ~

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ここはイマイチ社会性のない自称・のんぽりマスターの管理人が、
時事、徒然、歴史、ドラマ、アニメ、映画、小説、漫画の感想などをスナック感覚の気軽さで書き綴るブログです。
※基本、ネタバレ有となっていますので、ご注意下さい。

 

 

 

『SHOGUN』ここに在りと世界に知らしめた我らが尊氏さん。この快挙で次回の大河ドラマ再放送枠は『太平記』に決まったようなもの(希望的観測)ですが、現在再放送中の『独眼竜政宗』にも真田さんが出てくるから、それも見ような! ケン・ワタナベと真田広之が共演するドラマとか、今思わなくてもスゲーゼータクなキャスティング。この二人が義理とはいえ親子を演じていたのを海の向こうの方々は御存知なのか気になります。それを伝える意味でも『独眼竜政宗』と『太平記』を世界に発信して欲しいンゴねぇ。意外と過去の大河ドラマのほうが海外ウケはいいと思うんよ。近年の大河ドラマは考証の結果としてクラシカルな時代劇の所作を排する傾向があるので、逆に過去の名作のほうがニーズはあるんじゃあないかな。

 

今週は大河と、別のドラマの寸感。まずはこちらの記事の感想から大河ネタに入ります。

 

 

 

 

今年の大河ドラマの脚本家センセのインタビュー。刺激的なタイトルについては私よりも平安期に詳しい友人がんなこたぁないとツッコんでいましたが、個人的には『上役ヨイショ大好きの清少納言と権力批判や人生論も語れる紫式部ではなぁ、作家としてのレェェェェェヴェベルが違ぇぇぇんだよ!(巻き舌)』という発言のほうが気になりました。エッセイストと小説家を同じモノサシで図るのはウサイン・ボルトとイアン・ソープの100㍍のタイムを比べて『ボルトのほうが速い』と宣うようなものではないでしょうか。まぁ、人物の評価自体は個々人の価値観として尊重されるべきですが、本作では脚本家センセがヨイショする紫式部のほうが、

 

下半身コネクションでスカウトしてくれた権力者のために執筆する

 

という側面がある描かれ方をされているのは大いなる矛盾ではないかと思う次第。

ただ、興味深いのは三郎との爛れた腐れ縁で表舞台に登場したまひろよりも、純粋に推しの尊さを広めたいという思いで創作に勤しんでいたききょうのほうが、キャラクターとして圧倒的に面白いこと。特に今回、久しぶりに登場したききょうさんの、自分が不在の間の朝廷で『枕草子』に代わって『源氏物語』が覇権書物になっていると知った時のリアクションが最高にいとあはれなのよ。本作は兼家や晴明などの幾人かを除いて登場人物の行動原理の九分九厘がリビドーというところがありまして、男女の営みは兎も角、政治闘争までが下半身由来の欲望で固められているのは如何なものかと思っているのですが、今回のききょうさんは、

 

ヒット作に嫉妬するクリエイター

 

という本作のキャラクターが今まで表したことのない感情を剥き出しにしてくれて、それが実に新鮮でした。脚本家センセが『作家として上手』と評したまひろよりも、ききょうのほうがクリエイターのサガを色濃く反映しているのは、創作とは描き手にとっても自身の思い通りにいかないことを如実に表す現象ではないでしょうか。まぁ、私は自分の実体験を元に創作するよりも、未体験の事案への妄想を煮詰めてエンタメに昇華するクリエイターのほうが上と思うタイプなので、本作の『実体験を描く』まひろへの評価が辛くなるのかも知れません。

 

尚、今回のメインイベントとなった『紫式部日記』をベースにした五十日祝、映像的な評価は別として私は圧倒的否定派。そもそも『この時代に無礼講という概念があったっけ?』という南北朝脳の無粋なツッコミはさて置き、史実通りの展開を意識し過ぎて本作の創作部分との整合性が取れなくなっていました。

 

誰とは言わんが、まひろと三郎、オメーらだぞ。

 

如何に史実通りとはいえ、作中のシチュエーションで三郎がまひろに詩を詠ませた挙句、返歌までしまったら『自分たちを只ならぬ関係と勘ぐってくれ』と宣言しているようなものでしょう。バーミリオン会戦までヤンとメシマズさんが両想いと気づかなかった私でも御察しですよ。これ、二人がプラトニックな関係でしたらゲスの勘繰りをする周囲が悪いし、本人たちに隠す気がない公然の秘密であったならば、逆に堂々とした態度と評価も出来るのですが、作中では『不義の子』とかいう両足を下腿骨から切断されるレベルの脛の傷を隠し持つ設定の中年カップルが、男はシタタカに酔った勢いでやらかして『あっ、ふーん(察し)』と気づいて中座したヨッメを見て慌ててフォローに奔り、女は御局上司に『オフィスラブか? オフィスラブなのか?』と詰められるまで事態の深刻さを自覚していなかったとか、まひろも三郎も頭悪過ぎやろ。少なくともどっちかは途中で気づけ。史実に即した表現は大事ですし、史実に囚われない創作も大切ですけど、その両者はキチンと噛み合わせて欲しい。『まひろと三郎の関係が如何なる経緯で倫子さんに露見るか』でワクテカしていた分、こんなボーンヘッドでサスペンスの種が割れてしまうとは一気に醒めたちゃったなぁ。種類は異なるけど、昨年の瀬名の東国共栄圏と同じくらいは醒めたかも。

 

次はこれ。

 

 

 

 

田宮太一「ドッキリか?」

 

 

またしても何も知らない大泉洋。

 

日常から突如、不条理な世界に放り込まれた人物を演じさせたら右に出る者はいないにょういずみにょうさん。本作でもその持ち味を存分に発揮していました。ドラマでもバラエティでもコメディアンとして周囲を笑わせるキャラクターを求められる傾向が強いですが、基本的には周囲の状況がトチ狂っているだけで本人は至って真剣という役回りのほうがどうでしょうで培われた本来の凄みが光ると思っていたので、今回の主人公はまさに適任。何気に堤真一との芝居が噛み合っていたのも心地よかった。イケオジであると共に、大泉よりも胡散臭い役回りを演じることの多い堤さん、実は大泉と芝居の相性がいいのかも知れません。

さて、本編ですが、私自身もラストシーンに到達するまで完全に騙されました。そらそうよ。2時間ドラマという長尺ベースとか、謎に豪華過ぎるキャスティングとか、戦後と戦中の価値観の温度差とか、何も知らない若者は時代の空気に染まって戦争に賛成しやすいから我々が導いてやらなければならないという年長者特有のお節介とか、例え僅かでもいいから死にゆく運命の生命を救うために歴史に抗うとか、兎に角、これでもかとばかりに戦争ドラマのセオリーを全部ブッ込んでくるから、てっきり私も『ああ、そっち系の作品ね』と油断ぶっこいていたところで、あのラストですよ。星新一ですよ。アウターゾーンですよ。『世にも奇妙な物語』ですよ。

 

頭ン中で『トワイライトゾーン』のテーマが鳴りっぱなしですよ。

 

確かに何度か怪しげな要素はあった(そもそも戦争ドラマなら8・15に放送するよな)けど、結局は最後まで騙されましたよ。作中の『戦争に対する批判的なメッセージ』と思わせる主張の全てが、壮大で唐突なオチに繋がるミスディレクション。戦争ドラマを見慣れているからこそ騙される構成。本作は戦争ドラマのフリをした壮大なドッキリなんよ。もっと言うと本作の直前に放送していた『池上彰のニュースそうだったのか!!』のラストのテーマの『過去最大の防衛費! 日本はミサイル攻撃を受けた場合迎撃だけでなく、反撃もすることも可能になった!』という番組の順番も視聴者に仕掛けられたミスディレクションであると同時に、ちょっとしたネタバレなのよ。確かにオチは滅茶苦茶強引で解釈が分かれる点もあるけど、ラストシーンはいつまでも2度目の記憶に拘泥していると3度目は出鼻で瞬殺されるぞという究極の戦争ドラマ的解釈も可能なので、その意味でも納得。今回、初めて大泉洋の気持ちが頭でなく、心で理解出来た気がしました。

個人的には本作は主人公が初手のミサイル攻撃による失神から目覚めるまでに見た刹那の夢であり、覚醒後に見たメンコや若い頃の母親と若者の姿は負傷による記憶の混乱と幻覚と認識しています。うたた寝している人の首筋に冷えた何かを押し当てたら、びっくりして目を覚まして『今、悪さをして捕まって首を刎ねられる夢を見た』と答えた人がいたという話を何かで読んだ記憶がありますけど、主人公が暮らした一年間もそれに近いんじゃあないかなぁ。如何せんラストシーンで提示された材料が余りにも少ないので、何とも言えないけど、合理的な解釈や政治的なメッセージを読み解くよりも、唐突なオチを楽しんだ者勝ちというのが一番正しいんじゃないかと思います。久しぶりにテレビドラマに『斬られた』という感想。居合でスパッとやられたというよりは受けた太刀ごと示現流で強引に捻じ伏せられたという印象ですけど。

あと、大泉洋と橋爪功の共演を見ていると、いつか大泉には真田幸隆を演じて欲しくなる。

 

 

 

 

まひろ「えー? ここ(宮中)で書くんですか?」

赤染衛門「紙も用意してある。自由に使ってくれ。筆、硯、墨、全て女官を通じて注文してくれ。経費は宮廷で持つ。身の回りの世話は宮中の女官が担当する。何でも言ってくれ」

まひろ「うーむ、あまり恵まれた環境だと書きにくいな……餅茶でも飲んで気分を落ち着けないと……」

赤染衛門「おい、餅茶だ!」

宮宣旨「(カチッ)はい、餅茶です!」

藤原道長「どうだ、新作は出たか?」

まひろ「そんなすぐ出る筈がないでしょう!」

藤原道長「これだけの贅沢をしてどこが不服だ! 新作を出すんだ!」

まひろ「うこじゃあるまいし、毎日出ませんよ!」

藤原道長「お前の作品には彰子と帝のうまぴいがかかっているんだ! いいものを書くんだ!」

赤染衛門「そうとも、早く新作を出さんか!」

まひろ「やだぁ! カンヅメはいやだ!」

 

 

藤原惟規「環境が変わったせいか、作品の進みが遅いみたいだよ」

いと「家で家事をサボりながら書いていたほうが調子いいようね」

 

 

 

 

 

旧Twitterの実況では『ブラックジャック創作秘話』の手塚治虫センセとの共通点を挙げる方が多かった今週のまひろさんですが、個人的には『こち亀』の『文豪・両津勘吉先生』を思い出しました。手塚センセが『ケーキが食べたい!』『六本木のコンソメスープが飲みたい!』『開明墨汁買ってきて!』『メガネがない!』『スリッパがないと描けない!』『メロンー!』などと凡そ創作と無関係なワガママを並べ立てるのは、一秒でも締め切りを引き延ばすための巧妙な作戦の意味合いが強かったと思われます(仕事量半端なかったからね、仕方ないね)が、まひろの場合は純粋に環境の変化への戸惑いと『好き』が『仕事』に変わったプレッシャーが、創作の筆を遅らせたのではないでしょうか。生半可に環境が整ってしまうと逆に創作に集中出来ないとか、まさに、

 

クリエイターあるあるネタ

 

ですね。勿論、環境が整っているに若くはありませんが、環境を整えさえすれば、創作が捗る訳ではありません。クリエイターとはカネを入れてスイッチを押せばアイデアが出てくる機械ではないのですから。ただ、実際問題、プロともなるとカネに応じたアイデアを出さねばならないのも確かで、今回中盤の、

 

三郎「おう、新刊あく出せよ」

まひろ「既刊のリメイクで許してクレメンス」

 

という言い訳が通用するのはアマチュアまで。最終的には三郎に依頼された分を極道入稿することなく、キチンと書き上げたまひろは『創作環境は自分に一任して欲しいが、頼まれた仕事は責任を持って請け負う』というプロとしての姿勢を明確に示し、クリエイターとして一皮剝けたことを如実に表していたと言えるでしょう。

それにしても、出仕早々、教養を鼻にかけた女と陰口を叩かれて、メンタルを病んで自宅療養を経て、復帰後は『あたしィー、漢字も読めないからァー』と不思議ちゃんキャラを演じて周りの軋轢を回避して何とか働けるようになったという史実の紫式部の宿下がりエピソードをクリエイターと創作環境というテーマに置き換えてくるとは思わなかった。史実通りのストーリーを見たくなかったといえば嘘になるけど、これはこれでアリかなとも思います。本作は紫式部という『クリエイター』が主人公の大河ドラマである以上、創作に関するストーリーを膨らませるのは理の当然。ただ、動機が職場のストレスであれ、創作環境の改善であれ、先週、あれだけ家族から感動的に送り出されたまひろが、フツーに自宅に帰って来るのに拍子抜けしたのも否めないので、この辺は構成の課題として認識して欲しいところ。

構成の課題といえば、まひろの新作に対する三郎の、二人の馴れ初めを描いた『褒美』は何もかもが美しくて、思わず胸キュン(死語)でしたけど、それだけに二人の爛れた焼け木杭な関係にはそぐわない印象を受けました。ああいうのって、お互いのためを思ってプラトニックな関係を貫いたカップルか、或いは艱難辛苦を共に過ごした熟年夫婦だからこそ、その純粋さが際立つのであって、夫公認とはいえ不義の子をこさえて未だにベタベタとくっついたり離れたりを繰り返す使い古した湿布みたいな二人には似合わないのよね。それこそ、先述した『新刊出せ』『すんません、既刊のリメイクです』辺りのワガママ作家に苦労する編集者みたいな、知りたくもない相手の欠点を知り尽くした者同士のやり取りのほうが『元カレ元カノ』らしい雰囲気が出ていて、似合っていたと思うのよね。どうにも本作って、まひろと三郎を純愛にしたいのか、ドロドロ愛憎劇にしたいのか、全体の構成はハッキリしないのよ。

あと、今回の平惟衡の任官問題をほぼほぼ台詞で説明したのが象徴しているように、本作は政治劇パートの貧弱さは勿論のこと、三郎のキャラクターが致命的に弱いのよ。三郎って下半身がだらしない以外は仕事でもプライベートでもマトモなことしか言わないキャラクターだから、タダでさえ、視聴者への押しが弱いうえに正論家という点で実資とキャラが被っているので、見た目のインパクトが強い実資のほうが圧倒的に上に見えるのよね。もっと三郎個人の欲望や展望を見たいのに気の抜けた炭酸飲料みたいなベタッとした甘さや人間関係くらいしか印象に残らないキャラクターになってしまっているのが惜しい。結局、本作の最大の長所と最大の短所って、

 

男性では実資、女性ではききょう

 

と各々のライバルのほうが遥かにキャラクターの出来がいいことで、しかも、そのライバルとはあまり多く絡まないことなのよね。『キャラクター』と『対立構造』という物語の王道要素がズッポリ抜け落ちているのは致命的。流石にココまで来るとテコ入れや修正は難しいだろうなぁ。

ただ、今週は先週の記事で更新を休むと宣言しておきながら、何だかんだで感想を書きたくなるレベルで面白かったのも事実。まひろの『式部化』でクリエイターパートがストーリーを主導することで、三郎の政治パートの貧弱さを補いつつ、フィニッシュに辿る点けるか否かが後半戦のポイントになりそうです。

 

 

 

 

これまでの14回の中で三番目くらいに色々とヤバい開設記念日。理由の第一は仕事量の圧倒的増加と今まで上にいたアレな先輩が自分の直属に配されたことかな。アレな上役とアレな部下、どちらが尾籠味の咖哩でどちらが咖哩味の尾籠なのか、自問自答を繰り返す毎日です。体調も寄る年波には勝てず、身体のアチコチにガタが来ているのを実感する日々。先日も健診の一環でMRIを受けましたが、あれほどの稼働音を発する機械の中で危うく爆睡しかけるという、健康なのかそうでないのか俄に判断がつきかねる体験に見舞われました。

今現在はほぼ隔週更新のペースも今後はもう少し頻度を落とす予定。月1~2回くらいになるかな。大河ドラマも向こう2年は推し題材ではないので、更新は今まで以上にユルユルと……というか、何とかして@1本UPしたいネタがあるのですが、これもなかなか進捗しない。誰かが先に手をつける前に形にしたいなぁ。取り敢えず、毎日少しずつやるしかないか。

そんな訳で来週はほぼ確実に休むことが決まっている分、今回の更新は多めの内容。まずは大河ドラマの寸感から。

 

 

 

今までの大河ドラマの中でも飛び抜けて衣装代がヤバそうな『光る君へ』。或いは戦国大河で毎週登場人物全員が甲冑を来て撮影するくらいのリソースが掛かっているんじゃあないかと推測してみます。衣装への拘りが予算を圧迫していると指摘されていますが、題材的にはやむを得ないでしょう。それこそ、戦国大河で予算がないからと武将が平服で合戦シーンに臨んだらサマにならないのと同じですね。本作を契機に大河ドラマで平安貴族劇の需要が高まれば、供給も充足してコストが下がるのかも知れませんが、この辺は先駆者の苦しみという奴でしょうか。

さて、前回今回次回と本格的にまひろが『紫式部』というクリエイターに開花する過程が結構な尺を費やして描かれる模様。本作、色々と不満点が多い……というか、ぶっちゃけると不満点のほうが多い本作ですが、クリエイターパートは結構好き……というか、何気に衣装よりもメインストーリーよりも楽しみにしております。特に前回、三郎の依頼で一遍書き上げて献上したあとも、

 

まひろ「やべえ、創作の脳汁ドバドバ出て止まらねぇわ」

 

誰に見せるでもない自作をあれこれと添削・推敲するまひろの『創作の養分を得たクリエイターズハイ』はモノカキの経験のある方は誰でも共感出来るのではないでしょうか。或いは三郎の持ってきた創作の養分があまりにも極上過ぎたのも、まひろがトリップした理由の一つかも知れません。ただ、三郎が帝の個人情報をダダ漏れにするの、コンプラとか不敬とかいう話じゃないけど、主上の宸襟を勝手に推察して勝手に垂れ流すとか、些か歴史劇の登場人物としての節度に欠けていると思う。

そして、今週のラストで遂に出仕の決まったまひろを、今まで『お前が男であればなあ』と史実準拠の愚痴をこぼしていた為時パッパが『お前が女でよかった』『お前ほどの才があれば内裏も恐れることはない』と送り出すシーンはよかったのですが、そのまひろさんは、

 

出仕早々『教養を鼻にかけた女』と陰口を叩かれてメンタルを病んで自宅療養を経て復帰後は『あたしィー、漢字も読めないからァー』と不思議ちゃんキャラを演じて周りの軋轢を回避して何とか働けるようになる

 

という次回以降の展開を知っていると、今回の感動的なシチュエーションも次回の開幕早々出鼻を挫かれる訳で、話のリズムが悪くならないかと心配。来週のまひろの挫折シーンを見た視聴者、意気揚々と海外視察に出掛けた筈の一蔵サァが『メンゴメンゴ、委任状を忘れていたわ』とこっそり一時帰国するのを見た吉之助サァのような気分に浸れるのではないかと思います、思えない?

 

次はこれ。

 

 

 

先週『トトロ』で今週『ラピュタ』とジブリ祭りの金ロー。『トトロ』が公開時に『火垂るの墓』とかいうトラウマ作品と二本立てで公開されたのはあまりにも有名な話ですが、鈴Pによると宮さんが『火垂るの墓』の高畑監督に対抗して『全体の尺を伸ばしたいから主人公の女の子を姉妹に変えて話を膨らまそう』と言い出したのはあまり知られていない話です。尤も、当初の企画書の時点で既にサツキとメイの二人が主人公に設定されているという説もあり、鈴Pの発言もどこまで信用出来るか微妙なところ。昨年放送されたNHKのドキュメンタリーで鈴Pは『宮さんの語る高畑さんの思い出は多分に願望や齟齬が混じっていて正確ではない。でも、宮さんの中では真実』みたいなことを述べていましたが、本人も似たようなモノなのかも知れません。

さて、その『トトロ』と『ラピュタ』では圧倒的に後者推しの私。理由は単純で『ラピュタ』はほぼほぼキャストの吹き替えの技量に満足しているから。ジャンルは異なれども、ストーリーのクオリティが同レベルなら、あとは芝居の質が作品の善し悪しを決めるのは理の当然。サツキとメイの父親のような『今日あま』の頃のメルト君を思わせる芝居は好きではありません。まぁ、宮さんは『俺はキャラの演技を全部画で表現出来ているから、そこに他人の芝居を上書きされるのはイヤなので、吹替はなるべく無個性なほうがいい』と考える天才アニメーター(個人的見解)であり、鈴Pは『独特のキャスティングと引き換えに製作費と興行収益を保証する異能力者』(客観的推論)と頭では理解していますが、芝居の質と世界観の相性の善し悪しは観客の作品への没入度に正比例するのも確か。その鈴Pがジブリ作品ではないとはいえ、キャスティングで自身の意見を通せなかったと言われるのが、

 

 

 

 

既に前作で終身名誉草薙素子のポジションが確定していた田中敦子さんの代わりに別の有名女優のキャスティングを試みたものの、現場の反対で断念したという有名な逸話、冒頭で触れたサツキとメイの誕生秘話のように異説があるのかも知れませんが、重要なのは、

 

『あの』鈴Pがキャスティングの横車を押せなかった

 

というエピソードが広く信じられているほどに田中さんの力量がファンの間で認知されていたことでしょう。『信長が最も恐れた戦国武将』というキャッチコピーに近いことをリアルに体現していたと言えます。クリエイターであろうと一読者であろうと『田中さんに演じて欲しかったキャラクターが必ずいる』というのが私の持論。私は『修羅の門』がアニメ化されたら羽生つばさを演じて欲しかった。『硬質のエロス』と『タフでインテレクチュアル』。この相反する二つの要素を矛盾なく表現する第一人者……というか、この方の凄さは『〇〇の役は田中敦子さんに!』という以前に『このキャラはどんな奴?』という質問に『CV:田中敦子』という返答が成立することなんだよなぁ。キャラに合わせたCVではなく、CVから逆算したキャラの造型が成立する。それほどの存在感と美声と演技力と個性と実績を兼ね備えた稀有な存在でした。慎んで哀悼の意を表します。

 

 

次はこれ。

 

 

 

 

先週封切られた野木亜紀子作品クロスオーバーですが、残念ながら未見です。多分、円盤レンタルが始まるまでは見ないでしょう。このブログで何度か指摘しているように作風も評者も『題材の生々しさが社会派作品』と誤認しているところがあり、その辺が劇場に足を運ぶのをためらう理由の一つ。時事ネタを扱う=社会派という認識はトマトを使った料理は全部イタリアンという発想に近いと思います。先日、地元深夜に再放送された『MIU404』の『夢の島』と『リフレイン』を見た時も改めて同じことを思いまして、まず、前者の『夢の島』では技能実習生制度の闇を描く際の、

 

「朝5時にコンビニ弁当を並べるために実習生をコキ使っている」

 

という作中の台詞。成程、表面的な現象を描くとマコトに御尤もですが、朝5時のコンビニ弁当を買う層&売る層はヒマとカネに飽いたブルジョア階級ではなく、朝5時にコンビニ弁当を食べる行為を贅沢として嗜んでいる訳でもありません。極端な話、朝5時にコンビニに弁当を並べない社会になっても、それで救われる人間が出る訳ではないのです。マクロ経済という人が罪悪感から逃れるために相手の顔を見ずに済むよう発明されたグローバルな搾取構造の問題点を、ゼータクは敵という前近代的儒教的善悪論とスリ替える手法はナチュラルにアンフェアでしょう。同じ問題を扱った作品に『相棒』の『右京の同級生』がありまして、犯罪者をハイエナのように執拗に追い詰めて毒蛇のようにジワジワと仕留めることに定評がある杉下が事件の黒幕を逮捕出来なかった(2024年8月現在)数少ないケースでしたが、あの作品は『使う側も人件費の確保にカツカツで首が回らない』というもっと笑えない社会情勢を抉り取っていたのに加えて『MIU404』よりも数年早く発表されていることを考えると、どちらがより広く深く社会を観察しているかは論ずるまでもないと思われます。

そして、後者の『リフレイン』は志摩の『相棒殺し』という二つ名の真相が明かされる回でしたが、フタを開けてみると『やる気だけは一丁前の元相棒が容疑者に手玉に取られた腹いせにニセの証拠を捏造して逮捕を試みるも志摩にバレて厳しく叱責されたうえ、その容疑者は実は真犯人でも何でもなく、元相棒は完全な自業自得で進退窮まった挙句、自殺と思しき状況で死んだ』というだけのことで、ぶっちゃけると志摩は何一つ悪くないよねの一言。いや、正確には志摩は元相棒の死に対する責任よりも、

 

元相棒が証拠の捏造による違法捜査で無辜の市民を冤罪に落としかけた警察の不祥事を『アイツの母親が不憫だから……』という情実で上司が揉み消すのを黙認している

 

ことを気に病めよと言いたい。ついでに揉み消しをした上司は現在も直属の上司で、ケーサツのタテ社会に抗うアテクシカコイイ的ポジションなのですが、こんなことを特命係に嗅ぎつけたら、

 

杉下右京「君が悔やむべきは……そこじゃないだろぉぉぉぉ!」

 

とダークカイト事件並みにプルプルプルプルされるのは確定的に明らかで、まずは不祥事隠蔽のオトシマエをつけてから社会派ドラマの主人公ヅラしましょーねという思いを禁じ得ません。

尤も、ここまでボロクソに貶しておきながら言うのもアレですが、ストーリー自体は非常によく出来ていて、毎回楽しく鑑賞しております、マジで。上記の元相棒の死の真相も8月8日はタコの日という序盤の伊吹のKYトークが志摩の心の荷を下ろす契機になって、そのうえ、それ自体がハムちゃんの危機の呼び水になるとか、構成や展開の上手さは折り紙つき。取ってつけたような社会派の要素さえ削ぎ落してくれれば、もうちょい視聴のハードルは下がるし、劇場にも足を運ぶ気になれるのですが、それは前項の宮さんや鈴Pと同じく、それも含めてクリエイターの『色』という奴なのでしょう。それこそ、トマト嫌いが『イタリア料理はトマトが入っているからニガテ』といったところで、料理の本質が自分向けに変わる訳でも味が向上する訳でもないのですから。

 

最後はこれ。

 

 

恐らくは最後の技巧派日本人プロレスラーという称号が相応しい軽量級の偉人の引退。長らくの現役生活、お疲れさまでした。今でこそ、渕、カシン、ジョニー・スミスと並ぶ私的推しレスラー四天王の一角を占める小川ですが、初生観戦時(93年チャンカン富山大会)のジュニアは赤鬼・渕の存在があまりにも大きく、菊池とワンセットでなかなか目の出ない神酒徳利コンビとして、あまり印象に残らなかった。ただ、数年後、新潟大会の観戦後に駐車場の車内で出口の順番を待っている時に、選手バスの中から私だけにウィンク&手を振ってくれたのが契機で大ファンになりました。あとにも先にも男のウィンクに落ちたのはこの時だけ。ホンマやぞ。

小川良成というレスラーの凄みはプロレスを知らない人に伝えるのが非常に難しいのですが、ファイプロを買ってプレイすると一発で判ります(ハードル激高)。ファイプロには大技・中技・小技のボタンがあって、殆どのレスラーは大技で試合を決める、或いは選手の個性を出すのですが、小川の場合は試合の組み立てがサミング、チンクラッシャー、抱え式バックドロップとほぼほぼ小技~中技で構成されているのですよ。同じタイプの日本人レスラーは蝶野正洋くらいでしょうか。普通、そのテのレスラーはどうしても見栄えがせず、試合も単調になりがちですが、小川の場合は天性の色気と長年培った技術と抜群の受けで観客を飽きさせないんだよなぁ。それが最も光ったのが99年1月の垣原賢人とのジュニアヘビー王座戦。カッキーらしい気持ちの入った直線的な攻撃を受けていなして適度に散らせてレフェリーすらも巻き込んで、最後はUの象徴・腕ひしぎ逆十字を丸め込んでの3カウント。個人的に小川のベストバウトに挙げたい一戦。あとはダニー・クロファットとのジュニアヘビー戦も印象に残っています。あのプロレス巧者のクロファットが野暮なグーパンを使わざるを得ないほどに食い下がったからね。

冒頭で『最後の技巧派』と評したように小川タイプのレスラーは今後、なかなか現れないでしょう。川田利明が『無骨なファイトスタイルは素の自分とは乖離していた』と(少なくとも本人は)述べているように、レスラーの個性とは個人のセンスの問題ではなく、団体内のポジションやファンや時代のニーズに応じて決まるものだからです。ただ、クイック(丸め込み)主体の小川とは異なる複合ストレッチを得意としながらも、彼に師事した技巧派レスラーが、

 

 

 

 

他団体、それも業界最大手のシリーズで優勝の栄冠に輝き、師に対する感謝の念を言葉にしてくれたことは出藍の誉れという他ありません。サンキューザック、フォーエヴァーアンタッチャブル。ブレイク前に推し団体で地道に活躍していたレスラーが他団体のトップに登り詰める感慨の深さを思うと、プロレスとは競馬と並ぶ大河ドラマなんだなぁとシミジミします。