~ Literacy Bar ~

ここはイマイチ社会性のない自称・のんぽりマスターの管理人が、
時事、徒然、歴史、ドラマ、アニメ、映画、小説、漫画の感想などをスナック感覚の気軽さで書き綴るブログです。
※基本、ネタバレ有となっていますので、ご注意下さい。

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ボブ・ボイヤー「初めての戦闘……覚えてるかい?」
キートン・太一「忘れられないよ……」
ボブ・ボイヤー「雄々しく戦った自分を誇りに思うかい?」
キートン・太一「いや……二度と思い出したくないよ」
ボブ・ボイヤー「俺もだ」


今回は非常にデリケートな時事問題に斬り込んだと思います。
勿論、登場人物が皆、フォークランド紛争の後遺症に苦しんでいるとはいえ、事件そのもの三十年以上も昔の戦争であり、日本の読者との接点は薄いように見えますが、近年、幾つかの隣国との間で火種になっている事案を思うと、作者なりの問題提起と考えずにはいられません。
どちらの言い分が正しいかという議論は一先ず措きましょう。この種の問題で自分の意見を口にすると、それが正しい解答であってもロクな結果を招きません。大抵、泥沼の罵りあいに巻き込まれるだけです。そうした議論は別として、実際に武力が行使された結果、どちらか一方の念願通りになったと仮定します。こちらの言い分が通った。これで一切の問題は解決。世は全て事もなし……ということには残念ですがならない。諸外国とのパワーバランスといった政治上の問題は元より、帰還兵の心身のケアという社会上、医学上の課題が出てくるのは必定。最近、海外のサスペンスドラマを見る機会が増えていますが、アフガンやイラクからの帰還兵が題材にならない作品のほうが少ないように思います。回を重ねるごとに単なるアクション映画に堕した『ランボー』も、元々はヴェトナム戦争の帰還兵を扱った社会派映画の要素がありました。そうした事案を起こり得る現実として見据えて、上記の問題を語る際の要素に加えている人が果たして何人にいるのかな、という気分にさせられました。『自分は戦場に出ないから関係ない』とか『黙って正義のために戦え』とかいう人は、

バラライカ「正義か。これほど万人に一番愛される言葉もないな。素晴らしい言葉だ。しかしな――自分の力を行使するでもなく、他力本願で他の誰かの死を願う。お前の言う正義だって、随分と生臭いぞ。血溜まりの匂いが鼻につく、そう思わないか?」

という姐御の金言を肝に銘じるべきでしょう。

内容面では『Reマスター』ならではの熟成がありました。フォークランド紛争を発端にした悲劇描いた作品は、無印キートンでも『デビッド・ボビットの森&帰還』がありましたが、あれは紛争から十年も経過していない時代が舞台です。しかし、今回は三十年以上経った現在でも、戦争に自らの羅針盤を狂わされた人々の苦悩が描かれている。戦場で体験した苦悩は生きているかぎり続く。そうした主張を描くうえで、まさに『Reマスター』という無印キートンから四半世紀近くが経過した現代の設定が生きたと思います。また、本編ではキートンが上陸作戦で如何に戦ったかは結局、描かれないままでしたが、これが逆にキートンの二度と思い出したくないという胸中を表しているのでしょう。敢えて描かないことで読者の想像力に委ねる、或いは他人の想像で勝手に描いていい問題じゃないというメッセージにしている。更につけ加えると、無印時代のラストエピソードで、敵を撃てないキートンをチャーリーが怒鳴りつける場面がありましたけれども、多分、キートンが人を撃てなくなったのは今回の題材に起因するんじゃないかと漠然と思えました。当時はチャーリーの言い分が正しいと思いましたが、今回の話を読むと自分の浅はかさに赤面してしまいます。まぁ、浅はかなのは今に始まったコトじゃありませんが。

でも、それよりも衝撃を受けたのは毎度御馴染みの薀蓄ネタ。

キートン・太一「狙撃銃に可視のレーザーポインターなんか付けると思うかい。狙撃手の位置は特定されるし、直射光線とは弾道と無関係だし……」

ああ! いわれてみれば!

これは無印キートンの『銃口に指を突っ込んでも暴発しない』に匹敵する驚きでした。これもドラマやアニメなどでレーザーポインターが効果的な演出の小道具として使われたがゆえの錯覚でしょうね。キートンに解説されないでも、銃弾が直線で飛ばないのは『JoJo第四部』の鼠狩りで知っていた筈でしたが、何故、今まで気づかなかったのか。

しかし、更なる衝撃は本編直後の広告頁。

『MASTERキートンReマスター』2014年11月末ごろ発売予定

物語

嬉しいかぎりですが、巻数がついていないのが些か気になる。まさか、一巻分の連載でお終いなのでしょうか。いや、ヘタにズルズルと続けられるよりはマシなんですが、それでも、長期エピソードの一つでもやって欲しいものですのでね。

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明治の山川を語る前に、彼の私生活について触れておこう。
内縁や事実婚を含めると、山川は生涯で四人の女性と婚姻関係にあった。会津の名門・北原家の分家の息女・登勢、母の実家で旧会津藩家老・西郷近登之(ちかとし)の縁者某、同じく西郷家の縁者であった志づ、そして、池谷金五郎の息女・仲(なか)である。現存する山川の写真は見るからにきかん坊な面構えをしているものの、目鼻だちは概ね端正で女性にモテたことは想像に難くない。ただし、艶福家と表現するには山川と妻女の関係には悲愴の影が濃かった。最初の妻・登勢は鶴ヶ城攻防戦で焼玉押さえ(撃ち込まれた砲弾を濡れ布団で包んで爆破を防ぐ作業)に従事中、爆発に巻き込まれて戦死。西郷某との間には子が授からず、志ずは長男・洸(たかし)を生むも、息子は早々に家を飛び出して米国のコロラド州で客死。最後の妻・仲も子を生むことは叶わず、妹夫婦の間に生まれた男児を養子に迎えることになった。山川は自らが尊敬する英国の軍人チャールズ・ジョージ・ゴールドンに肖り、

山川戈登(やまかわごるどん)

と命名して実子同然に慈しんだが、戈登は二十五歳で夭折。同じく妹夫婦の子である廉(きよし)が家を継いだものの、彼も二十二歳の若さで世を去っている。三男二女に恵まれた弟・健次郎、前妻の子を含めると七人もの子に囲まれた妹・捨松に比べると些かの寂寥感を禁じ得ない。尚、廉の没後は健次郎の三男・建(たける)が山川の嫡流を継ぎ、今日に至っている。

さて、戊辰戦争に敗れた会津藩が家名再興を条件に下北半島への移住を命じられたのは、明治三年一月三日のことである。明治政府が示した試算では家禄三万石という触れ込みであったが、事実上の実入りは七千石程度であった。二十三万石の会津藩に住まう人々を一万石にも満たない地に押し込めようとした明治政府の措置は一藩流罪という表現を用いても誇張し過ぎということはあるまい。明治政府は下北の他に会津に近い猪苗代という選択肢を与えているが、戊辰戦争に巻き込まれた地元の百姓町人の怨嗟を抑える力が敗亡した会津藩にあったとは考えられない。それと知ったうえで『当事者の会津に選ばせた』という形式が欲しかったのではないか。彼らが北辺の地で野垂れ死のうとも、それは自己責任という理屈である。
会津家中でも猪苗代派と下北派に二分して激論が交わされた。山川は下北派である。幕末編で触れたように、山川は貨幣の大量鋳造でハイパーインフレを起こした張本人ということもあってか、会津近辺での藩経営は至難と考えたようだ。明治三年一月十九日。家名再興を旗印に移民団を率いて下北に移住した山川は事実上の執政官である権大参事に就任。新天地を『斗南』と命名した。『北皆帝州』という中国の詩文に出典を仰いだ藩名には、北の果てから南の彼方まで全てが帝の土地=斗南の民も帝の民=我々は賊徒ではないとの思いが反映されたといわれている……が、実は上記七文字に該当する詩文は現在でも発見されていない。或いは山川の為人を慮るに南(明治政府)と斗(たたか)うとの隠された宣戦布告と思えなくもない……が、肝心の『斗』が『闘』の簡略字として用いられるようになったのは遥か後代のことなので、この説も成立しない。確かなことは斗南に移住した人々が尋常ならざる飢渇に苦しんだという事実である。

「生者稀にして死者多く有之。過半は浮腫にあらざれば血液空乏、其容体永く禁獄せらるる者の如く、畢竟、衣食住不全之致す処」

と『青森県史』が記すように藩士の多くは劣悪な環境が原因の栄養失調を患っていた。或る統計では斗南に移住した一万七千三百二十七人のうち、二千三百七十四人が病床にあったとされている。構成員の一割四分が病人という数字は共同体そのものの壊滅を表しているといってよい。膨大な藩務処理と過酷な開墾事業でゲッソリと痩せ細った山川が、権大参事のササヤカな特権で豆腐粕(おから)を買い占めただけで、藩士一同から轟々たる怨嗟の声があがるほどに斗南の飢餓は深刻であった。

山川浩「斗南の魅力? ないんだなそれが」

という当時の山川の血を吐く……というか、逆さに振っても鼻血も出ない思いを綴った歌が残されている。更に明治四年の廃藩置県で日本から藩という存在そのものが消滅。北辺の地での再出発を企図していた藩士の生活基盤は雲散霧消してしまった。山川は廃藩置県のドサマギに乗じて斗南を近隣の財源豊かな市町村と合併させることに成功したものの、それでも、多くの藩士が路頭に迷うことになった。明治四年十二月十七日、斗南を併合した青森県を依願退職した山川は東京に居を構えた。自らが明治政府に仕えることで会津や斗南の人々への金銭上、政治上の支援を図ると共に、彼らが上京して官途に就く際の橋頭保になろうとしたのである。会津の国土と名誉を踏み躙った薩長の奴輩が中枢を占める明治政府に膝を屈するのは、人並み外れた自尊心を誇る山川には死ぬよりも辛い決断であったに違いないが、会津藩家老として、斗南藩権大参事として、郷里の人々の生活を保障する責任から逃れるワケにはいかなかった。
幸いにも、山川は明治政府との取次に人物を得た。旧土佐藩の谷干城である。幕末編で触れたように新政府軍の指揮官として会津攻めに参加していた谷は、日光口の戦いで山川相手に苦杯を舐めた経験を持つが、その分、誰よりも山川の将略を理解しており、彼が東京に居を構えたと知るや、その出廬を願った。徹頭徹尾、野戦攻城の人であった山川に対して、谷は守戦籠城を本分とする指揮官であったが、生まれながらの軍人気質という点で両名には相通じる何かがあったらしい。初対面、しかも、嘗ては干戈を交えた間柄にも拘わらず、山川と谷は忽ちに意気投合した。日本史に数多の人物は存在すれども、山川と谷ほどに、

『強敵』と書いて『とも』と読む

関係は稀であろう。明治六年、山川は谷の推薦で陸軍省八等出仕となり、同年七月十日に陸軍裁判所大主理(大書記官)に任ぜられた。この年、山川は二十九歳。推薦した谷は三十七歳である。ただし、明治政府の山川に対する態度は推挙した谷のほうが申し訳なく思うレベルの冷遇っぷりであり、山川も出世や昇給のたびに郷里への仕送りの額や自宅で養う会津出身の書生の数を増やしていたから、山川家の台所事情は常に火の車であった。一時などは山川家に寄宿していた十四歳の少年に頭を下げて、彼の虎の子の貯金を借用したことさえあった。尤も、数日後に少年が陸軍幼年学校に合格したと知るや、当人以上に狂喜した山川は手持ちの金銭の半分近くをつぎ込んで、彼に入学祝いの洋服を仕立ててやったという。勿論、山川の手元にあった金銭とは少年の貯金に他ならない。ヘタな落語よりも愉快な逸話であるが、後年、その統率力と人格を諸外国に絶賛される軍人になった少年は、上記の一件を『知恵山川』と謳われた名将が我を忘れるほどに自分の合格を寿いでくれたという深イイ系の話として語り継いでくれた。少年の名を柴五郎という。
山川家に寄宿していた書生は柴のような穏健篤実な男ばかりではなかった。中には飼い犬持参で押し掛ける強者まで現れたが、山川は笑って『犬の分も飯をやれ』と指示したという。この書生は他にも無断で友人を呼んでは人数分の飯を要求したり、山川の政治家仲間に食って掛かったりと様々なトラブルを起こしたが、その度に山川は笑って許した。のちに張作霖の軍事顧問として満蒙に暗躍する町野武馬の若き日の姿である。山川に理不尽な叱責を受けた弟の健次郎や庄田保鉄にしてみれば『解せん』の一言に尽きるに違いないが、若い頃、藩教の朱子学への反発から陽明学に傾倒した山川は、会津人の美点の全てを備えた柴よりも、町野のように人を食った跳ねっ返りの若者を好んだのかも知れない。まさしく類は友を呼ぶである。
このように私生活では郷里の人々のために奔走する充実した毎日を送っていた山川であるが、仕事では不遇の時代が続いた。明治政府が山川に用意したポストは軍事裁判所の書記官や兵器工廠の管理官ばかりで、野戦攻城を本領とする彼の器量に適したものではなかった。明治七年の佐賀の乱では前線指揮を命じられたものの、当時の上司は仙石秀久と並ぶ日本二大無能軍監として名高い岩村高俊という段階で山川の運のなさは推して知るべしである。現在でも姓名でググると『岩村高俊 無能』と表示されるほどの何時ぞやの総理大臣レベルのノータリン野郎として知られる上司の判断ミスで山川は左腕を負傷。その自由を失ってしまう。左腕の機能喪失は身体よりも精神の深手となったようで、山川は何度も依願退職を仄めかすようになった。自他共に生来の軍人と認める山川が軍籍を退こうとしたのは余程の覚悟と絶望を抱いていたに違いない。

しかし、明治十年。薩摩の不平士族が西郷隆盛を擁して起こした反乱、所謂西南戦争の勃発で事態は急変する。維新最大の元勲を旗印とした反乱に肝を潰した明治政府は、薩摩に怨みを抱く旧幕府側の人材を戦場に送り込むというプラグマティズムに溢れた、或いは恥も外聞もない手段に出た。誰が呼んだか『会津のうっかり官兵衛西郷隆盛』と慕われるほどの人望を警戒していた佐川官兵衛や、山川以上の軍才を怖れてドサ回りの地方判事という冷や飯を食わせていた立見尚文の登用が典型である。更には新進気鋭の学者とはいえ、戊辰戦争での少年兵の経験しかない山川健次郎に、明治政府の重鎮中の重鎮である岩倉具視が『少佐待遇で戦地に赴いて欲しい』と要請したというから、事態の深刻さが窺えよう。当然、現役の軍人である山川にもお呼びがかかった。待ちに待った戊辰戦争の復讐戦の到来。そのうえ、今度は朝廷に弓引く薩摩を会津が討伐するという構図である。山川にとっては笑いがとまらない話であったろう。この推測が誇張であっても虚構でないのは山川が出陣に際して詠んだ詩句を見れば一目瞭然である。

薩摩人 みよや東の丈夫が 提げ佩く太刀の 利きか鈍きか

詩は人を表す。僅か二十四の文字に己の存在意義と戦闘意欲の全てを込めた山川の気魂と詩才は尋常ではない。山川浩を理解するには、この詩句を知るに若くはないと評される所以である。山川が西南戦争に入れ込んだ理由は他にもあった。鹿児島を進発した西郷軍は小倉に向かう途上にあった熊本城を火を噴くような勢いで攻めあげていたが、この熊本城の防衛司令官は谷干城であった。鶴ヶ城攻防戦の経験上、誰よりも籠城側の心細さを熟知している山川は一刻も早く谷を救いたかったのである。しかし、新政府軍の首脳部は用兵に慎重を期した。装備は兎も角、兵の練度や勇猛さでは新政府軍は西郷軍の足元にも及ばない。山川の上官で『小ナポレオン』の異名を持つ長州の山田顕義は僅かな計画の乱れが全軍の崩壊に繋がることを危惧。独断専行を固く戒め、最前線に充分な兵力を揃えてから、堂々と熊本城を救援する旨を部下に伝達した。

勿論、山川はガン無視した。

長州人の指図を聞いていられるか&目の前の薩摩兵を倒さずにいられるか&盟友の谷を救わずにいられるかとばかりに手勢の二個中隊を率いた山川は四月十三日、熊本城を包囲する西郷軍の一角を急襲。これを手もなく蹴散らすと一気に熊本城に肉薄したのである。山川が最初から熊本城に入る気でいたのは、突破した敵の堡塁を放置したばかりか、退路も満足に確保しなかったことからも確定的に明らかであった。あまりも鮮やかに敵陣を突破した所為か、籠城中の新政府軍は山川の部隊を敵と誤認して銃撃を加えてきたほどである。麾下の士卒は同士討ちの危険に戦慄したものの、山川は即座に陣形を整えると『ウチカタヤメ』のラッパを吹かせつつ、堂々と熊本城への入城を果たした。彼岸獅子入城と並んで入城戦の双璧と謳われる山川の熊本城救援第一号である。谷干城は物事に動じることのない人物であったが、入城した山川と顔をあわせた時は感極まり、一言も発することができなかったという。後日、西郷軍は熊本城の囲みを解いた。鶴ヶ城に無血入城しながらも、戦局を立て直せなかった会津戦争から十年を経て、山川がリベンジを果たした瞬間であった。当然、明確な軍令違反であり、激怒した山田は山川を本営に連れ戻して厳しく譴責したものの、当の山川は小言を右から左に聞き流した挙句、兵糧不足に悩む新政府軍の軍議の場で御手持の握り飯をパクつくという抜群に大人気ない態度で応じた。

ぷっつん。

山田顕義「この会津モンが! 俺をナメてんのか! 何回教えりゃあ理解できんだコラァ! 『勝手に熊本城に入るな』と命令しておいたのに、何で谷と一緒に俺を出迎えてやがるんだ! このド低能クサレ脳ミソがァー!」

完全にブチぎれた山田は四月十九日、御船の戦いで山川以上に大人気ないイヤガラセに出た。山川の部隊を新政府軍の中央に配置すると、川を挟んだ御船ノ台に陣を敷く西郷軍の正面を攻めよと命じたのである。この指令を最も判りやすい言葉に翻訳すると死ねばいいのにという意味になる。敵前を渡河したうえに高所に陣取る相手の中央を突破せよなどという命令、他に訳しようがない。山田は中央の山川の部隊を囮にして敵の目を惹きつける間に左右両翼から西郷軍を包囲殲滅する肚であった。しかし、

山田顕義「あ、ありのまま、今起こったことを話すぜ! 俺は山川隊の犠牲に乗じて敵を包囲するつもりでいたら、何時の間にか、山川隊が敵の中央を突破していやがった。な……何を言っているのか判らねーと思うが、俺も何をされたのか判らなかった………頭がどうにかなりそうだった……彼岸獅子だとか軍令違反だとか、そんなネタじみたもんじゃあ断じてねえ。もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ……」

囮にされた筈の山川の部隊は左右両翼の動きにあわせた巧妙極まる進退の果てに、見事に敵陣の中央を突破してしまったのである。西郷軍の死傷一千に対して、新政府軍の損害は僅かに四十四名というワンサイドゲームであった。田原坂の戦いに代表されるように一進一退の攻防戦の印象が強い西南戦争において、山川の采配は余程、敵味方の記憶に残ったらしく、降伏した西郷軍の捕虜に最大の敗北は何処かと尋ねると口を揃えて『御船』と答えたという。他日、新政府軍の右翼が西郷軍の奇襲を受けた際にも、慌てふためく周囲を他所に、

山川浩「阿呆。右は囮だ。敵は我が軍の正面、次いで左翼を襲うぞ(賊、今我が前面を来たり犯し、尋いで左翼に当らん)

と断言して小動ぎもせず、事実、山川の予想通りに戦況は推移した。『知恵山川』の面目躍如ともいうべき逸話であるが、当の本人は左腕の自由を喪っていたにも拘わらず、誰よりも最前線での戦いを好み、足元に敵の銃撃が着弾する危険地帯でも嬉々として指揮を執り続けた。幾ら警告を発しても最前線を退かない上官の身を危ぶんだ部下の一人が試みに、

高木盛之輔「中佐殿! あちらの戦線のほうが遥かに危険です!(某所甚だ急なりと告ぐるものあり、山川中佐、速やかに某事を処理せざるべき)

と嘘の報告をすると山川は喜び勇んでそちらに駈け出したというから、ネタでやっているのでなければ、単なる脳筋としか解釈の仕様がない。ちなみに山川が去った直後に彼がいた場所に敵弾が飛来。山川と肩を並べて戦っていた新政府軍の指揮官が負傷した。この勇猛で不運な指揮官は山地元治である。そして、思わぬ機転で上官を救った高木盛之輔の姉は、山川の下仲人で藤田五郎という警官と結婚していた(上仲人は松平容保である)。藤田は義兄や仲人と共に西南戦争に従軍。戦功を挙げて勲七等を授与されている。藤田の本名を斎藤一という。
山川も西南戦争の軍功で勲四等に叙されて、年金百三十五円を下賜された。この処遇が妥当なものであるか否かは現在に至るまで見解が分かれている。熊本城で山川に救われた谷は『山川は会津人ゆえに論功行賞でも冷遇された』との批判の声をあげているが、他の佐官との処遇と比べて山川の恩賞が取り立てて低いという事実はない。ただし、内乱が終結すると山川が第一線の人事から外されたのは紛うことなき事実である。前線で幾度も山川と抗争を繰り広げた山田は司法方面に転じたものの、明治陸軍の実権は山田と対立していた同じ長州出身の山県有朋が掌握することになった。あの石橋湛山に死もまた社会奉仕という追悼記事を書かれるほどに、才能とは真逆の歪んだ性格で知られた山県である。薩長閥に属さない、それも、賊軍あがりの山川に冷や飯を食わせるのに何の痛痒も感じなかったであろう。物証はないが心証は確実である。そして、山県の評価に関しては常に心証が正しいのだ。

それでも、山県に弁護の余地があるとすれば、山川が山県と並ぶ明治陸軍の領袖として知られた薩摩の大山巌と姻戚関係を結んだことがあげられるかも知れない。明治十六年十一月八日、四十二歳の大山巌は山川の妹で二十四歳の捨松を後妻に迎えたのである。この縁談は明治政府でも一、二を争う『西洋かぶれ』で知られた大山が帰国子女の捨松に一目惚れしたのが契機という当時では珍しい恋愛結婚であった。一目で捨松にメロリンQになった大山(参議、陸軍卿、陸軍中将、四十二歳、男寡、コブつき)は舅の吉井友実(日本鉄道社長)や従兄弟の西郷従道(農商務大臣)といった有力親族を総動員して、山川家に大攻勢をかけてきた。鶴ヶ城攻防戦の序盤に負傷して後方に搬送されたとはいえ、新政府軍の砲兵隊長を務めていた大山は焼玉押さえで戦死した妻・登勢の仇といえなくもない。果然、山川は縁談に難色を示したが、当時の日本には捨松のような帰国子女の受け皿になる社会基盤も、二十歳を過ぎた女性に舞い込む縁談も殆ど存在しなかった。就職口も嫁ぎ先も見つからず、周囲の同年代の女性が結婚するたびに、

山川捨松「でゅるわぁあああああぶるわっひゃあひゃひゃひゃひゃどぅるわっはあああああああああぎゃあああああうわああああああああ」(意訳)

などという手紙を米国の友人宛に書き殴る妹の姿を見ていれば、相手が誰であっても結婚して欲しいと思うのが家長の心情というものである。それに、大山は『西洋かぶれ』といわれるだけに英語が堪能で、長年の留学で漢字の読み書きすらも不自由になっていた捨松には日本で殆ど唯一、普通の会話が楽しめる男性であったのだ。チャリ(冗談)好きで大人の器量に溢れた大山の為人も魅力であったろう。山川も訪問してきた西郷従道には、

山川浩「ウチは逆賊の身内なんで大山さんには相応しくないんじゃないスかね」(すっとぼけ

と、西南戦争で逆賊認定された西郷隆盛の実弟に対するアテコスリとしか思えない言葉を浴びせたもの、最後は当人の意思次第という当たり障りのない結論で合意している。寧ろ、この件で兄貴よりも大人気ない対応を見せたのは弟の健次郎で、農商務大臣たる西郷従道が自宅を訪ねて来た際にも『こんな人に俺は用はない』(原文ママ)と顔も見ずに追い返したという。自分と同じ海外留学の苦労を味わった妹を健次郎は溺愛していたようで、

山川捨松「兄健次郎は親切で思い遣りがあり、私を居心地よくするためにはどんなことでもしてくれます」(原文ママ)

という証言が残されている。鮭様レベルの重度のシスコンであった可能性は否めない。ともあれ、山県は長州閥が大勢を占める陸軍の中でも、自分を遥かに凌ぐ人望を有する大山とトラブルを起こすのは避けたかった。況や、大山の年下の義兄・山川の処遇が扱いに困る事案であったのは想像に難くない。実務と保身の名人である山県は、山川との関係を『長州と会津の確執』という判りやすい構図に押し込めてしまうのが最も無難な方策と考えたのではないか。山川は妹の結婚で陸軍内部に一定の後ろ盾を得たと同時に、過度の栄達も望めない立場となったといえる。
しかし、一つの道が閉ざされれば、別の道が開けるのが人生である。明治十八年から十九年にかけて、山川は現役の陸軍大佐のまま、東京高等師範学校(筑波大学)及び附属学校(筑波大学附属小・中・高等学校)、女子高等師範学校(お茶の水女子大学)の校長に任ぜられた。時の文部大臣・森有礼の要請である。凡そ、若者に対しては手放しで面倒を見るか、或いは死ねばいいのにと叱りつけるかのどちらかの経験しかない山川にとって、教育方面からの打診は大山と捨松の結婚以上に困惑したに違いないが、森が山川に求めたのはスキルやノウハウではなく、幕末から明治に至る無秩序の世に育った野放図極まる学生たちに規律を叩き込む気概と威厳であった。これは確かに天性の軍人である山川にうってつけの仕事であったろう。弟の健次郎は東京開成学校で教鞭を執っていたので、兄が弟の道に続いたことになる。ちなみに後年の健次郎は学生に規律を叩き込む一環として、彼らに早朝の冷水摩擦を義務づけていた。学生たちがヒーヒーいいながらタオルで身体を擦る姿を眺めて、健次郎はパイプを片手に満面の笑みを浮かべていたという。しかも、学生よりも早起きして、健康に害が及ばないギリギリの水温になるように手ずから寒暖計で計測するというドSっぷり芸の細かさであった。その点、兄貴の取った方法は如何にも最前線の軍人らしい、大鉈で薪を叩き割るように武断性に富んだものであった。

山川浩「取り敢えず、授業料は三倍に値上げな。その金銭で優秀な教師を雇うから。文句のある奴は明日から来なくていいぞ」

一言で校紀は粛然となった。

生徒たちは学問の機会が如何に貴重なモノかという当たり前の認識に気づかされたのであろう。事実、授業料が値上げされても殆どの学生が在学を望んだというから、瞬時に物事の本質を抉る山川の洞察力は戦場と同じく、教育界でも発揮されたといえる。或いは会津戦争時の戦費調達のように最も手軽に予算を集める方法を選んだだけかも知れないが、山川が単なる守銭奴でないのは、国の教育予算が削減された際にポケットマネーで教員の給料を補填したことからも明らかであった。教育の腐敗は教わる側ではなく、教える側の質の低下が招くことも直感していたと思われる。明治十九年五月十八日、改革の成った高等師範学校は明治天皇の行幸の栄誉に博した。戊辰戦争で賊将の汚名を着せられた経験を持つ山川にとっては感無量の瞬間であったに違いない。
明治二十三年七月一日。少将で予備役に編入されていた山川は日本憲政史上初の総選挙となる第一回衆議院議員総選挙に出馬。これに落選するも、二か月後に貴族院議員に勅任されて、晴れて国会議員となった。同時期に貴族院に名を連ねた盟友の谷干城、旧柳川藩の曾我祐準と共に、軍人出身の議員として貴族院の三将軍と呼ばれたが、政治家としての山川には特筆すべき業績は殆どない。清廉な政治家ではあった。山川はキレることはあっても偉ぶることはなく、会津に帰省する際も愛用の瓢箪をブラ下げた着流し姿で通したため、出迎えに来た地元の役人は誰が山川か判らなかったという。出張先で公費で催された歓迎パーティーに誘われた時には『この税金泥棒が!』との即興詩(字余り)を叩きつけて参加を断ったこともあったが、地元有力者の顔を潰しかねない物言いをする人間は、善かれ悪しかれ政治家には向かない。『貴族院の三将軍』の称号も裏を返せば、山川たちの気質が軍人であって政治家ではないことの皮肉とも取れる表現であった。山川本人も自分が政治家に向かないのは斗南藩の経営に失敗した経験から自覚していたであろう。それでも、政界に転じたのは更に多くの会津や斗南の人々を支援をするために違いない。上記のように山川は少将で予備役に編入されており、軍部における出世の方途は閉ざされていた。校長としての活躍も述べた通りであるが、教育とは真面目にやればやるほどに儲けが出ない分野である。軍部での栄達が望めず、やり甲斐はあっても実入りの少ない職では郷里の人々を支えることはできない。それゆえの政界進出であったと思われる。
一つには病魔が山川の身体を蝕んでいたのも、政治家としての活躍が少なかった理由かも知れない。病名は労咳。日清戦争が勃発した明治二十七年には既に東京の自宅よりも白河や葉山の療養地にいる時間のほうが長かったといわれている。それでも、開戦が囁かれ始めた頃、病躯をおして大山巌に面会を求めると、

山川浩「病に斃れるよりも戦場で死にたい」

と頼み込んで妹婿を困惑させたというから、この男の戦に対する情熱は不治の病を以てしても抑えることはできなかったようだ。尤も、弟の健次郎も常日頃は『戦争は出来るかぎり避けねばならない』と口にしていたにも拘わらず、日露戦争が勃発するや、帝大総長の要職をかなぐり捨てる勢いで『俺を一兵卒として最前線に放り込め!』と軍に捻じ込んだというから、これも或いは山川家の血なのかも知れない。

明治三十一年(一八九八年)二月四日午前五時。
山川浩は療養先の麹町番町の借屋敷で息を引き取った。享年五十四。
その若い晩年、山川は会津の視点から幕末維新を総括する『京都守護職始末』の著述に余命の全てを注いだ。執筆の辛苦が老人とも呼べない年齢での物故に繋がったのか、それとも、一定の目途がつくまでは死ねないとの執念が重病を患っていた山川に数年の予後を与えたのか、判断の分かれるところである。草稿を書きあげた段階で山川の生命は尽きたものの、その事業は弟の健次郎が継ぐものとなり、明治四十四年十一月に刊行されている。『京都守護職始末』は幕末の歴史を知るうえでの一級史料であり、二〇一三年に放送された大河ドラマ『八重の桜』にも多大な影響を及ぼしたのは論ずるまでもない。会津戦争では面と向かって死ねばいいのにと健次郎を罵倒した山川であったが、後事を託すに際しては『コイツを死なせなくてよかった』と密かに反省していたのではないか。
尚、その死に先立つ一月二十六日、山川は男爵に叙せられている。ただし、それは西南戦争の軍功や学校教育の業績に対する評価ではなく、斗南藩での労苦に報いる内容であったという。如何にも山川の人生の縮図に思えてならない。勿論、山川が郷里のために尽くした己の半生に不満を感じたとは考えられない。事実、山川の重篤を聞いた旧会津藩士の多くが厳冬や豪雪をものともせずに東京に見舞いに駆けつけたという。男爵授与の事由も会津や斗南の辛苦が帝の知ろし召すことになったと思えば、山川の人生は充分に報われたといえよう。他人の選択を憐れみや同情で語れば、それは嘘になる。
しかし、それでも、山川の本質である軍人としての感情が、一切のシガラミから解き放たれた状況で万余の兵を自在に指揮したいと思わなかったと断言するのも間違いであろう。少なくとも、本稿で一番筆がノッたのは、

上官を欺いてでも盟友を救い、
囮部隊を率いて敵の中央を突破し、
絶対に最前線から離れようとしなかった


西南戦争における山川の活躍であった。斗南での辛苦や教育への奉職も山川の一面ではあるが、彼の本領が野戦攻城の軍人であることに疑問の余地はない。西南戦争で肩を並べて戦った山地元治は日清戦争で旅順攻略の一翼を担った。山川が救援に駆けつけた熊本城の副参謀長は、日露戦争の総参謀長を務めた児玉源太郎であり、西郷軍の包囲網を突破して山川に援軍を求めたのは第二軍司令官の奥保鞏(おく・やすたか)であった。山川家の書生であった町野武馬は旅順攻囲戦で高名な白襷隊に加わっている。同じ賊将の汚名を受けながらも、共に戊辰と西南の戦いを生き抜いた立見尚文は日露戦争の功績で陸軍大将に昇進した。否、階級は措くとしても、山川も立見のように師団級の兵を率いて己の軍略を縦横に馳せたかったに違いない……が、現実に山川が生涯で統率した兵力は大隊単位を越えることはなかった。人並み外れた将略に恵まれていた山川であったが、その才能を十全に発揮する環境や功績に値する栄誉には恵まれなかった。

屠龍の技。

学んでも役にたてる機会のない学問の謂いであるのは前章で述べた。己の天賦の才能と、西欧視察で習得した軍事知識の全てを叩きつける機会が恐らくは到来しないことを悟った山川が、如何なる思いで屠龍子と号したのか、それを思うと胸の奥に疼痛を覚えずにはいられない。尤も、キレることはあっても不貞腐れることは皆無の山川であったから、シニカルながらも笑みを浮かべつつ、自らの号を定めたのだと思いたい。
墓は、港区の青山霊園にある。


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『ママ上の異常な愛情』

とも評すべき今回の内容。他人の手にかかるのであれば、いっそ、自分の手で……というのは実にヤンデレママの真骨頂です。明日UPする歴史記事の最終校訂&ガックン参戦の謙信公祭&日本文理の準決勝に備えて、今夜も早目に本分に入ります。

1.平常運転にあらず

主人公の遠年忌法要という相変わらず、本編の流れと全く無縁の内容に終始したアバンタイトル……に見えますが、実は今回は本編と密接にリンクしていました。本編でお東の方の『滅びてしもうては御先祖さまに申し訳がたたぬ』という台詞があったように、今回のアバンタイトルに登場した茂庭家(鬼庭家)、白石家、原田家の放送当時の当主の方々は、政宗が小田原に参陣せずに奥羽を枕に討死していれば、或いは現世に生を受けなかったかも知れないんですね。歴史は絵空事ではない。今を生きる人々と密接にリンクしている。そのことを如実に表したアバンタイトルでした。

2.介山とか翁とか

OPクレジットに浮かんだ、

振付・田中泯

の文字にビビった。『龍馬伝』で吉田東洋を演じた田中泯さんですよね。恐らくはラストのお東の方の悪夢の中で政宗の亡骸を運んでいた人々の振付を担当されたのではないかと思います。あの場面、リアルタイムで見ていた時はトラウマ級のインパクトを覚えました。凄いぜ、田中さん。ちなみに劇場版『るろ剣』では柏崎念至を演じておられるとか。『るろ剣』は斎藤と左之助以外のキャスティングは完璧なんだよな……アニメ版とは真逆で。

3.テンパッてます

将棋で小次郎にいいように叩きのめされる主人公。次回のアレを踏まえての小春日和的な兄弟関係の描写に思えますが、実は根は深刻。如何に弟相手に三味線を弾いていたとはいえ、三タテで敗れるほどに政宗が弱いとも思えない。家臣や弟の手前、表面上は強気に出ているものの、内心は秀吉の小田原参陣要求に心が千々に乱れて将棋に集中できていないのでしょう。この辺は中盤~終盤にかけてのテンパった主人公の描写を見て、初めて気づく仕組みです。

4.悪人不在

大河ドラマの主人公がいい子いい子されるのにはウンザリしていますが、主人公に敵対するキャラが悪人として描かれるのも何とかしてほしい。今年でいうと左京進とか。その点、本作は凄いな。主人公の廃嫡or【Nice boat.】を目論む人々が全然悪人に見えない。まぁ、イッセーさん演じる国分盛重は役回り上の小物感は拭えないものの、少なくとも悪人ではない。今回の内容は煎じ詰めると主君と御家のどちらが大切かということですね。輝宗や政宗に取りたてられた成実や小十郎は主君が大事。一方、長年御家の仕えてきた老臣たちは御家が大切。どちらを貶めることもなく……というか、アカラサマに主人公の勇み足&往生際の悪さのほうが目立ちます。まぁ、それに関しても、

新世界の神

自分が生まれるのが遅過ぎたと口惜しがる主人公の姿が描かれていたので、こちらにも感情移入できる。歴史に絶対善も絶対悪も存在しない。それぞれが己の信じる正義で動くからこそ、対立が生まれるんですね。

5.今週の鮭様&ラスボス

お東の方に政宗毒殺計画を吹き込むモガミン。モガミンのヒールの印象を決定づけた回だと思われますが、その言い分を丁寧に分析すると別におかしなことはいっていないんですね。政宗は兎も角、妹が嫁いだ先の伊達家の命運をそれなりに考えているのが判ります。伊達家が滅ぼされればお東の方もタダではすまないので、妹大好きモガミンとしては必死にならざるを得ません。まぁ、公人としては『自分は関白に服属したいのに通り道に伊達がいる所為で上洛しようにもできない』という事情もあるでしょうが。モガミン、いい奴じゃん。何でこれでNHKに苦情が殺到したのかワケが判らないよ。
その妹たるお東の方。今回はメンタル的にヤバい場面が多過ぎました。老臣たちが押しかけてきて『長男を廃嫡しろ』といい、当の息子は天下に楯突いて身を滅ぼそうと意地を張り、頼りの兄貴は『廃嫡では生温いから息子を殺せ』とか言い出す始末。これではメンタルを病むのも無理はありません。血圧もあがったりさがったりの繰り返しでしょう。序盤では『早く上洛しなさいよ!』とせっついていた筈なのに、ラストでは『上洛しちゃダメよ!』と夢で魘される始末。これで違和感ゼロなのが凄い。
それにしても、モガミンがお東の方に『政宗を殺せ』と順々と吹き込む場面が何やら妖しい雰囲気満載なのはどういうことでしょうか。脚本家さんもモガミンの妹に対する異常な愛情に気づいていたのかも知れません。或いは原田のアニキと志麻姐さんの色気が為せる業か。子供心に妙なエロスを感じたのを覚えています。

6.MVP

次回の前フリということでお東の方にスポットが当たりがちですが、今回のMVPは文句なく小十郎。『奥羽を枕に討死するのは武門の誉ではあっても、朝敵の汚名は免れ得ない』という諫言や、関白の軍勢は夏の蝿と同じで追い払ってもきりがないという表現(史実)で、主人公に上洛を促すさまは、まさに伊達家の懐刀の面目躍如。
特に微行で屋敷を訪ねてきた政宗に秀吉との兵力の差をメインに説くさまは見事でした。確かに秀吉との兵力差は如何ともしがたい。でも、逆にいうと小十郎の言葉は『政宗が秀吉に劣っているのは兵力だけ』とも受け取れるんですね。実際問題としては秀吉と政宗の器量は桁が違うとは思いますが、それを言ったら政宗の面目を傷つけるだけで何も生まれない。実に巧みに主君を操縦している。御家のためには主君すら欺く。それが真の軍師であり、誠の忠節というものです。そして、その嘘の裏には諌死をも辞さない強い誠意があるからこそ、主君の心に響く。この辺は実に姉の喜多譲りですね。思いだけでも力だけでもダメ。両方が揃ってこそ、人を動かすことも、歴史を変えることもできる。モガミンやお東の方に目が向きがちですが、実は一番活躍したのは小十郎でした。
逆に時宜を弁えない物言いが目立った成実ですが、

伊達成実「たとえ、関白の許しを得て、殿の御生命は全う致すといえども、領地を召しあげられるは必定じゃ! 伊達家代々の地を捨てるは甚だ口惜しきかぎり! それよりは上方の軍勢を待ち受けて矛先を争い、先祖墳墓の地にて潔く果てようではないか! 徒に世に諂い、恥辱を後世に残さんよりは、一戦の誉に名を留めるこそ武士の本望たるべし!」

こんな言い回しは単なる脳筋ではできないのは明白。物語上、ワリを食うキャラにもキチンとフォローが入るのが本作の凄味です。

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