柴田勝家「心配するな……義父は戦などせぬ」
いや、戦をして下さいよ、権六さん。
戦大好き秀吉=悪、平和論者勝家=正義と描きたいんだろうが、全然、作中の権六に同情できなかった。
本作の権六はあまりにも阿房過ぎる。
信長の葬儀に気づかないほどに諜報を蔑ろにしている(実際は勝家と市を喪主とする信長百日忌が妙心寺で9月11日に営まれている。大徳寺で営まれた秀吉による百日忌は翌、12日)。
中央への要路である長浜城を秀吉に奪われたにも拘わらず、戦はしないと戯言をほざいているから、信孝への援軍を出せないままに三法師を連れ去られる。
共同戦線を張るべき伊勢の勢力(多分、滝川一益だよな)への援助もしない。
権六「サルめ……卑怯なり!」
ハァ? 仏の嘘は方便、武士の嘘は武略といわれる時代じゃないか。卑怯な策謀にハメられた権六が悪いに決まっている。戦国武将として為すべきことも為さずに家族ごっこに現をぬかしているから、秀吉に遅れをとるんだよ。
戦わなきゃ、現実と。
戦国武将も好き好んで戦をしていたわけじゃない(ただし、鬼武蔵と鬼日向は除く)。あの時代は戦わなければ生き残れないんだよ。この場合も権六は戦わければ秀吉に攻め滅ぼされるだけだ。攻め滅ぼされれば妻子を護れないのだから、権六は江たちのためにも戦おうとするべきなのだ。御市も武将の心で嫁いできたからには、自らの生命と織田家の面子を護るために権六を戦わせようとするべきなのだ。どうしても、権六を戦わせたくないのなら、雪に阻まれて動くに動けなかったという史実における事情を描くべきなのだ。しかし、製作者のイクサはイヤでございまするゥという戦国の世にそぐわない価値観をゴリ押しするから、権六が妻や連れ子の我儘に振り回されるオロカ野郎に映る。御市は御市で、
市「男は戦いたいのじゃ!」
茶々「私には判りません!」
市「母にも判らん!」
ときたもんだ。羽柴秀吉と柴田勝家の抗争の必然性に触れようともしない。そもそも、この戦いはオマエら母子を守るためでもあるんだぞ。それを、戦をする男=バカ、戦の嫌いな女=正しいという、たぶちんの似非フェミニズム&似非ウーマンリブ丸出しの論理で斬り捨てるなど言語道断である。こんな柴田家は滅んで当然だ。やれ、秀吉。俺が許す。
逆に今週の秀吉は輝いていたぞ。理由は簡単。権六よりも秀吉のほうが戦国武将していたからだ。この一点だけでも、如何に製作者が戦国時代の価値観から乖離しているかが判るというものだ。製作者が秀吉を悪く見せよう、悪く見せようとするほど、むしろ、その活躍が際だって見えた。劇中で5回もイクサはイヤでございまするゥという台詞を繰り返しておきながら、自分たちが伝えたいことを視聴者に伝えられてないとは、ここのスタッフはホントにプロなのか。
『義父の涙』という題名でしたが、ホントに泣きたいのは全国の歴史劇ファンのほうでした。