いのちを大切にしましょう。
小学校など、小さい頃に大人や先生に聞かされてきた言葉。
この場合のいのちとは
生き物を殺してはいけませんってことを指している。
ぼくらは気づいた時にはこの世界に生を受けている。
死ぬときも、気づいたらこの世界を離れていたってことになる。
ぼくらが気づく前、自我が芽生える前、胎児のころから、
まだ細胞である時代から
この世界に誕生した「いのち」は息づいて営まれていた。
だから自我意識の「わたし」はいのちの本体じゃない。
「わたし」はいのちが表現しているもののひとつに過ぎない。
いのちは無意識運動そのもの。
無意識運動は内から生じる要求によって突き動かされている。
整体指導の際は
始まりと終わりに礼を行う。
これは整体指導者の先生に対する礼なんかじゃない。
礼の対象は自分のいのち。
自分のいのちに対して整体指導者と二人で向き合うために礼を行う。
整体指導は気の感応によるいのちとの共同創造。
いのちという無意識運動が動き出してくれることが整体だからね。
あくまでも「いのち」が主体で
整体指導者の働きかけは呼び水に過ぎない。
いのちの運営が問題なく営まれている時には
ぼくらはその活動に目を向けることはほとんどない。
いのちの運営に問題が起こって初めていのちの営みということに思いを巡らす。
熱が出たりすると 気付くんだ 僕には体があるって事
鼻が詰まったりすると 解るんだ 今まで呼吸をしていた事
BUMP OF CHICKENのSUPERNOVAの歌詞の出だし。
空気があることだって普段は思い至らない。
ぼくもいのちと向き合い始めたキッカケは
会社員時代に心身症を呈してからだものね。
湧き起こる要求に従って生きていたら病んでしまう経験をせずに済んだんだろうけど
健やかな生活が出来なくなって
自分の在り方に目を向けざるえなくなった。
自分はいったい何がしたいんだろう?
なにをしているときに喜びを感じるんだろう?
なにをしているときに心震わすのが「わたし」なんだろう?
そして未知の世界だったにも関わらず
脱サラして役者の道に進んだ。
演技術を学んでいくうちに
他者と分かりあえたとき、交流できたと感じられたとき
役柄の心の震えをカラダで感じられたときに
最も喜びを感じているってことに気付いた。
そしてふれて他者に気を伝えていく
気を通していく愉気を体験して
臨終の祖父に愉気をする体験を通じて
「ふれる」ことで伝わっていく何かを意識した。
大切な人にふれるを伝えていきたい。
「ふれる」に出来ることを思い出してもらいたいって。
祖父のことは大好きだったけれど
その大好きな祖父に何時間も触れた初めての体験。
おじいちゃんを触れて感じた最初の体験が死の間際だなんて。
いのちって
自分の中に芽生えた要求のこと。
自分のうちから湧き起こってきた要求のこと。
自分が感じた望みのこと。
瞬間、瞬間に芽生えたやりたいこと、行動したいこと
生まれてきた要求を丁寧に感じ取って
この世界で実現していってあげること。
それだけが「いのち」を大切にするってこと。
あなたの要求の中に
大切な人に「ふれる」が加えられる未来が訪れますように。
※この動画を観て驚いた。神様という表現だけど同じことを言ってる。
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