前回、外気の施術が良かった為、短期集中講座の翌日、再度、外気施術を受けた。


外気の施術なので、そもそも論、気とは何ぞや?と言う話になってしまうが、その様に思う人は受けなければ良い。


自分は前回、外気を受けて一定の効果があって、もう一度受けてみたい!。

ただ、そう思っただけである。


受け手の状態もあるが、今回は前回よりも相当に濃厚だった。あっさり喜多方ラーメンと、豚骨白濁グツグツ博多ラーメンぐらいの違いはあった。


外気を受けたのは主に、頭と胃になる。
これは前回と同じである。


胃に外気を受けたとき アッっと 思った。
そう言う事か。


これは受けた本人にしか分からないが、胃は臓器の一つではあり、色んな部分と繋がっていると言う事を濃厚に感じた。


あーこれ、多少なりとも自分で出来るので、家で正しく胃のメンテナンスをしようと思った。


今回、結構長い時間、朱剛先生に胃に手を当ててもらったが、あるタイミングで、先生の手の温もりを感じなくなり、横になったまま宙に浮いているような感覚になった。


何も考えず、ただ宙に浮いているようなとても幸せな気分。
これは、良い瞑想の状態にソックリだ。


瞑想には、治療効果があると朱剛先生は言われるが、外気と瞑想は似た状態なので 成る程そういった事か! と勝手に納得した。
先生の手を通して、瞑想のような状態に導かれた。


医者に行って、こんな気分になった事は一度たりとも無い。


気功や瞑想が癒しと言われるのが、自分の身体を通して本当によく分かった。
こういった状態の時に、自然治癒力が、最大限発揮されるのではないかと思う。


外気で治療するのでは無く、外気により本来自分の持っている治癒能力を、引き出しているように思う。

頭にも、かなり外気を送っていただいた。


脳を優しく揉まれているような圧力感は、前回と同じだが、脳のある一部に集中的に圧力を感じる、。


前回は、多少圧力を感じた程度だったが、今回はムギュッとした感じがあり、軽い二日酔い位の鈍痛を感じる。


痛みを感じる脳の部分だが、先日TVで見て、私と同様の症状の人が、電気刺激を治療として受けていたので、重なる部分があり驚いた。


鈍痛はあるが、全体としては本当に心地良かった。

今回2回目の外気を受けて、気功による施術は奥が深いと思った。


今回受けた外気は、一般の短期集中講座でも自分で自分の患部に対して、気を送ると言った功法の応用にも思える。

 

レベルの差はあれ自分でも行えるのでやってみようと思います。。

そもそも論、外気は病気になったら受ける物だと思っていたが、健康な時に受けても大変、益があると思われる。

興味のある方は是非どうぞ。

コツコツ、骨の話ではありません。

 

仕事などではコツコツタイプの人が、地道に努力し、年月を経て驚くような実力を身に付ける事実を、目の当たりにすることがあります。

 

このコツコツ力は、地味ですが、確実に効果が表れる、魔法のような力だと思います。

 

禅密気功は、他の気功に比べ、とても地味だと思います。

それは、体系上、深堀して深みを目指していく事を、目指しているからでは無いかと思っています。

 

禅密気功の動功の基本は、僅か 3つ です。

その 3つ すら最終的に纏めますので 1つ になります。

しかし 1つ と言って侮ってはいけません。

塩ラーメンのスープのように、澄んでいますが何も入っていないのではなく、複雑な食材が調和して入っているのと似ています。

禅密気功も同じで、ジャンクフードのように ガツン とした刺激はありませんが、じわじわと染み渡り、長期間余韻が残ります。

 

この時代、物事がハッキリしていて、数値化される物が好まれ、行為と結果の答えが遅い物は、避けられる傾向があるかなと思います。

しかし、禅密気功は地味ですが、ジワジワと確実に効いてきます。

炭火のように、体の芯まで入ってきます。

 

しかし、禅密気功を日常的に続けられる方は、多くありません。

ジワジワ感を、感じられないからかもしれません。

 

私は数人の人に、禅密気功の築基功を紹介したことがあります。

誰もが効果を認めましたが、続けている方はごく僅かです。

 

その一人に、私の母親がいます。

その効果については 下記のリンク をご覧ください。

 

年寄 | 日日是 禅密

 

継続の力 | 日日是 禅密

 

私の母親は、別に気功が好きな訳ではありません。

そもそも私から教わった気功の事を 中国の体操 と言っています。

私は、効果が出てますで、呼び名は何でもよいと思っています。

 

私の母親は、70代半ばの頃には骨盤付近の背骨が曲がり、朝起きる時は腰の痛みの為、20分ほど時間を置かないと、起きられませんでした。

階段を降りるのも、やっとの状態でした。

 

当時、30分程度のウォーキングと、ラジオ体操は欠かさず行ってましたが、健康とは縁遠い状態でした。

 

しかし、禅密気功を行い、驚くような速さで腰の痛みが消え、1年程で背骨も真っすぐになりました。

 

1週間ほど、気功をさぼることがありましたが、止めて1週間ほどすると、如実に健康面が悪化するので、怖くなって気功を止められなくなりました。

 

母親は80代を越えました。

近所で、自分だけの力で二足歩行している女性は、私の母親だけになりました。

以前より背筋は伸びて、シャンシャンと歩いています。

そして、気功を始めた後も、中々治らなかった背中の吹き出物も、ほぼなくなってしまいました。

 

近所の人からは、〇〇さんだけ背筋が伸びシャンシャンと歩いていると、少し 妖怪、化け物 扱いされています。

 

何をしているか聞かれるそうで、息子から教わった体操をやってると、言っているそうです。

 

いいねー とは言われるらしいですが、誰からも教えてほしいとは言われる事はありません。

 

家に帰ってきた母親が 私は毎日体操をやっている、何もやらずに健康を羨ましがっているなら、やらなければいけない、私だって何もしていなくて健康な訳では無いと、いつも言っています。

 

まー、そのとおりだなと自分も思っています。

 

結構大事なポイントは70代半ばに、やはり人並みに老化の波に襲われた事です。

 

多分そのままであれば、近所のバーさん達と同じように、杖や乳母車に捕まってしか、歩けないようになっていたと思います。

 

70代半ばで禅密気功に出会えたことに、母親も私も本当に感謝しています。

近所のバーさん達の健康状態を見てしまうと、本当に良かったと思います。

母親も禅密気功を続けていなければ 乳母車族 になっていたことはほぼ間違いないと思います。

 

 

 

80代になっても何処も痛くなくて、人より健康な事に本当に感謝していると言っています。

私も何の因果か分かりませんが、自分が習った禅密気功のお陰で、数人の人の健康に大きく寄与でき、禅密気功を習って本当に良かったなと思います。

 

健康は宝物と言いますが、実感する年齢になりました。

自分も身近な人にも

 

コツコツ継続、最強かもしれません。

 

信じること、疑うこと難しい問題です。

 

信じる事、疑う事、誰もが持っている心の動きではないでしょうか。

 

疑う事は簡単ですが、信じる事は以外に難しいです。

 

人間という生き物は、基本的に相手を信じる生き物だそうです。

それは、進化の中で会得した能力だそうです。

人は相手を信じる事で、効率的な狩りが出来るようになり、他の動物に比べ多くの食料を獲得出来るようになりました。

相手を信じる事が人類に発展に大きく関わりました。

 

しかし、騙す人が多くいるのも周知の事実です。

男に騙され、女に騙される。

私、ダメなのよねツイツイお金を出しちゃうの

わかっているんだよな〜、でもいい女なんだよ

 

等など、人生、谷あり谷あり、ムチとムチ

ご愁傷様でございます。

 

さていよいよ本題です。

 

悟りという言葉があります。

さて、悟りの対義語はなんでしょうか

自分は最近まで知りませんでした。

 

悟りの対義語は 迷い です。

 

迷いが生じると、あっちかな、こっちかな、いやそっちかな。

少し穴を掘ると、疑心暗鬼になり、次の瞬間別の場所を少し掘り、また迷いが生じ別の場所を掘る。

 

これではいつまで経っても、欲しい物は得られません。

 

しかし、信じる事が出来れば迷い無く最短の道を行く事ができます。

 

名古屋〜東京へ行くのであれば、東京行の のぞみ に乗れば、ほぼ最短で最速です。

 

しかし、迷いが生じ、東京に行きたいのに、九州へ行き、横浜に行き、また、四国へ行き、その後北海道、そしてイルクーツクへ、私は、何処に行こうとしているのでしょうか?

誰か教えて下さい?

 

両者共に、最初は東京へ行こうとしたのです。

 

しかし、両者には大きな大きな差が生まれます。

かたや辿り着き、かたや未だに彷徨い歩く。

 

間違っている情報を信じたり、善からぬ人を信じる必要はありませんが、いつまでも迷っていては、何も得られません。

 

信じる、信じないの前に、正しく、善良という大前提はありますが、勇気を持って飛び込み、信じて疑わないと言う選択をしないと、辿り着くのは難しいのでは無いかと個人的には思っています。

 

何でもかんでも信じろとは言いませんが、どこかのタイミングで信じると言う選択をしなければならないと思います。

 

そして、信じようと思える様な瞬間は、そうそう簡単には、訪れません。

 

縁と言って良いかと思います。

 

R7.2.24 気の瞑想

瞑想の基本について、朱剛先生から話がありました。

気功の真髄は瞑想です。

道教、仏教系ともに、伝統的な瞑想方法があります。

要するに手段です。
手段さえ分かっていれば、古い伝統と、知恵に基づいた瞑想ができます。

私は、手段が知りたいのです。


しかし、目的は自分で設定します。

そして、私の世界感、価値観は、やはり宗教の世界観とは、異なっていると感じます。

しかし、瞑想を行うことにより、たどり着く心の状態は、ほぼ同じです。
ほぼと書いたのは、仏教、道教の世界観と、現代に生きる、我々の世界観は、やはり違うからです。
全く違うとは言えませんが、全く同じとも言えません。

ですので、私達は昔から伝わる、効果のある瞑想法を、宗教観念に囚われる事なく行えばいいと思ってます。(手段を上手く使えば良いと思います)

だからと言って、決して宗教が悪いとか、劣っているとか、そんな事ではありません。

ここは日本です、ありがたいことに、宗教と、言論については、自由が保証されています。
そういった事は、各々の考えで決めていただく事だと思います。

まずは、蠕動です。

蠕動 は、あまりにも普通に行っているので、惰性になりがちです。

ですが、惰性にしてはいけません。

蠕動は、瞑想に繋がる重要な功法です。

必ず、自分の身体を入念にチェックし、調子の悪い部分はないか、凝っているところがないか、動きの悪いところがないか、動きが単調で同じ動きになっていか、もっと新しい動きはできないか?

こういった取り組み姿勢が、微妙な感覚の発見に繋がり、その微妙な感覚は、瞑想に引き継がれて、質の高い瞑想に繋がっていきます。

午前の、瞑想は良かったと思います。
昨日は、最近にはないぐらい、よく寝る事ができました。
体調は、かなり良い状態で瞑想に臨めました。

瞑想を始めると、何かが スコン と抜け落ちたように、静かな状態に入りました。

心の揺れは全くありません、無風の湖面の様です。

これほど、心のザワツキが無いことは、あまり経験がありません。

音は聞こえています。
ですが、私の内面は、とんでもなく静寂で澄みわたっています。

そして、静寂が、心地良さと言う友達を連れてきました。
とても静かで心地よいと言う、なんとも贅沢な、ゴールデンタイムに突入です。

こんな時は、何もせずに自分を、他人の様に眺めているのが一番良いです。

心は止まっています、そして、それをただただ観ている自分がいます。
すごいとかすごくないとか、そんな事はどうでもいいことです。

今、この時間が持てれば幸せです。

昼食時は、ウクライナの話になりました。
誰もが心を痛めています。
政治体系、思想に関係なく、独裁的な指導者が多くなっています。
誰がいったい選んでいるんだと思いますが、それは自分たちですので、目も当てられません。
政治や人々の生活に、無関心だと何処かで、責任を負わされるんだろうなと、漠然と考えてしまいました。

先日もテレビを見ていて、思わず声を上げそうになりました。

民主的な世の中では 自由 と言う選択肢しか無いそうです。

ある意味 自由 と言えば、最高に感じますが、その反面、全ての責任を負わされます。

それが嫌なので私の様な小心者は、かなり不自由ですが、会社員と言う選択をし、責任から逃れ、組織に依存している現実があります。

自由と言っても、以外に不自由なのかもしれませんね!

こういった事は瞑想の中に答えがあるのかもしれないですね。

お昼からの瞑想は、妙に身体の感覚が薄く、なんとか自分の身体が、認識できる様な状態でした。
心は静かですが、午前中の様な、心地良さは現れませんでした。

そのかわり、今日も指先は常にチリチリ、ピリピリとしていました。
何か出てるのか?

今回はこれにて終了です。

朱剛先生の瞑想会は、運動と、精神の養生がセットになっています。
身体と心の健康にとても有効です。(限界はあります)
いろんな意味で、偏る事が非常に少ないと思います。

運動だけ、瞑想だけでは、どうしても偏りが生じます。
バランスは、とても大切です。

偏差は字のごとく、偏りです。

終了

R7.2.23 気の瞑想

朱剛先生から、朝イチで、瞑想に対する考え方の話がありました。


気功の瞑想は、大雑把に言うと、道教由来と仏教由来です。


しかし、瞑想をするために、仏教や道教に入信する必要はないです。
マインドフルネスなども、仏教由来の瞑想ですが、マインドフルネスを嗜むために、仏教に入信する人はいません。


そして瞑想を楽しむための資格ですが、そんな物はありません。
金持ち、貧乏人、男、女、賢い人、残念ながらそうで無い人、全く関係は無いと思います。


朝イチで瞑想に関して、道教、仏教の話がありましたが、それは瞑想するために、直接的に道教、仏教が関係しないと言う話でした。


何故か?
それは、瞑想が非常にシンプルな事を実行できれば、後は流れで自然に行くべき場所に落ち着くからです。(指導してくれる人は必要ですよ)
道教、仏教ともに、教義的などは星の数ほど書籍や、理論がありますが、残念ながらそれを読んだところで、瞑想的には何の進歩も無いはずです。
禅なども不立文字、教外別伝と言われ、実践を何より重んじます。


基本的な事を抑えれば、それが瞑想、禅となり、理論武装している、威張り散らしている坊主よりは、確実に人間的にも尊敬されると思います。
そもそも個人的には、瞑想は宗教縛りでなく、どちらかと言えば、脳科学で取り上げるべき物では無いかと思っているので、そういった学者さんに期待です。

午前開始

まずは 蠕動 座る前には、座る為の準備をやはりした方が良いと思います。
まずは気感を確保するため、筋を伸ばし、筋肉を解し、血流を確保した方が効率的だと思います。
気血、と言うように血の流れはとても大切です。


何より、健康に良いです。


午前中の瞑想は静かではありましたが、特に目新しいこと、特徴的な事はありませんでした。

瞑想したからと言って、必ず目新しい事が起こる訳ではないです。


しかし、瞑想が終了した時には、指先、掌が真っ赤っ赤になっていて、蜂に刺された時の様に、パンパンに張っていました。
これも瞑想の効果の一つです。

昼ご飯では、いろんな関係性について、朱剛先生が話されました。


要約すると、気功バカ、瞑想バカには、なってはいけないと言う事で、気功だけ、瞑想だけやっていれば良いとか、副交感神経だけで生きていこうとか、そういった考えは、あまり好ましく無いと言う話でした。


しごく当たり前の事で、今日ここでランチが食べられるのは、農家、物流、食品、飲食店の方のお陰で、教室に来るにも、地下鉄に乗らなければ教室に来れません。
皆が自分の役割を果たし、生活する中の一つに、気功や瞑想があるという事で、気功や瞑想ばかり、やっていれば良いと言うことではありません。
中庸と言う言葉がありますが、何事もバランスが大切です。

昼からの瞑想は、妙に全身がビリビリするような感覚がありました。


指先などは、アブラゼミが止まって鳴いているんじゃないかと思うほど、チリチリ、ピリピリ感がありました。
感覚的には、電気風呂に入っているぐらいの、ピリピリ感です。
このピリピリ感は、昼寝タイムでも継続し、教室終了までずーっと、ピリピリしていました。

 

その後は、金属音の耳鳴りが発生しこれも終了時まで続きました。
しばらくすると、急激に、全身が心地よさで満たされていきました。
寒い日にお風呂に入った瞬間にオーっと声を上げる瞬間、または喉がカラカラの時に飲むビールの最初の一杯の時に上げるクーと言ったときぐらいの心地よさがずーっと続きました。


まー、こう言った時は、頭の中で何かしらの 汁 が出ているんだと思います。
このあたりは、瞑想アルアルです。


その後、急に瞼の裏に、一面白の花畑が現れ、その後は白のペンキをぶちまけた様に、全面真っ白になりました。


以前は、画像が出ると、喜んだり、驚いたりしてましたが、あんまりにも当たり前になってしまったので、第三者的に観察出来るようになりました。
これも、瞑想アルアルかなと思います。

本日は、それほど特徴があるわけではありませんでしたが、気の瞑想らしい反応が楽しめた1日でした。

夕食は成増で アジフライ定食 でした。

どうしてアジフライは、あんなに美味しいの?

仏教や道教に入信しようと思わんが、アジフライ教があったら、間髪入れず入信ですな。

何なら、教祖になってもええですがな。



つづく