R7.2.24 気の瞑想

瞑想の基本について、朱剛先生から話がありました。

気功の真髄は瞑想です。

道教、仏教系ともに、伝統的な瞑想方法があります。

要するに手段です。
手段さえ分かっていれば、古い伝統と、知恵に基づいた瞑想ができます。

私は、手段が知りたいのです。


しかし、目的は自分で設定します。

そして、私の世界感、価値観は、やはり宗教の世界観とは、異なっていると感じます。

しかし、瞑想を行うことにより、たどり着く心の状態は、ほぼ同じです。
ほぼと書いたのは、仏教、道教の世界観と、現代に生きる、我々の世界観は、やはり違うからです。
全く違うとは言えませんが、全く同じとも言えません。

ですので、私達は昔から伝わる、効果のある瞑想法を、宗教観念に囚われる事なく行えばいいと思ってます。(手段を上手く使えば良いと思います)

だからと言って、決して宗教が悪いとか、劣っているとか、そんな事ではありません。

ここは日本です、ありがたいことに、宗教と、言論については、自由が保証されています。
そういった事は、各々の考えで決めていただく事だと思います。

まずは、蠕動です。

蠕動 は、あまりにも普通に行っているので、惰性になりがちです。

ですが、惰性にしてはいけません。

蠕動は、瞑想に繋がる重要な功法です。

必ず、自分の身体を入念にチェックし、調子の悪い部分はないか、凝っているところがないか、動きの悪いところがないか、動きが単調で同じ動きになっていか、もっと新しい動きはできないか?

こういった取り組み姿勢が、微妙な感覚の発見に繋がり、その微妙な感覚は、瞑想に引き継がれて、質の高い瞑想に繋がっていきます。

午前の、瞑想は良かったと思います。
昨日は、最近にはないぐらい、よく寝る事ができました。
体調は、かなり良い状態で瞑想に臨めました。

瞑想を始めると、何かが スコン と抜け落ちたように、静かな状態に入りました。

心の揺れは全くありません、無風の湖面の様です。

これほど、心のザワツキが無いことは、あまり経験がありません。

音は聞こえています。
ですが、私の内面は、とんでもなく静寂で澄みわたっています。

そして、静寂が、心地良さと言う友達を連れてきました。
とても静かで心地よいと言う、なんとも贅沢な、ゴールデンタイムに突入です。

こんな時は、何もせずに自分を、他人の様に眺めているのが一番良いです。

心は止まっています、そして、それをただただ観ている自分がいます。
すごいとかすごくないとか、そんな事はどうでもいいことです。

今、この時間が持てれば幸せです。

昼食時は、ウクライナの話になりました。
誰もが心を痛めています。
政治体系、思想に関係なく、独裁的な指導者が多くなっています。
誰がいったい選んでいるんだと思いますが、それは自分たちですので、目も当てられません。
政治や人々の生活に、無関心だと何処かで、責任を負わされるんだろうなと、漠然と考えてしまいました。

先日もテレビを見ていて、思わず声を上げそうになりました。

民主的な世の中では 自由 と言う選択肢しか無いそうです。

ある意味 自由 と言えば、最高に感じますが、その反面、全ての責任を負わされます。

それが嫌なので私の様な小心者は、かなり不自由ですが、会社員と言う選択をし、責任から逃れ、組織に依存している現実があります。

自由と言っても、以外に不自由なのかもしれませんね!

こういった事は瞑想の中に答えがあるのかもしれないですね。

お昼からの瞑想は、妙に身体の感覚が薄く、なんとか自分の身体が、認識できる様な状態でした。
心は静かですが、午前中の様な、心地良さは現れませんでした。

そのかわり、今日も指先は常にチリチリ、ピリピリとしていました。
何か出てるのか?

今回はこれにて終了です。

朱剛先生の瞑想会は、運動と、精神の養生がセットになっています。
身体と心の健康にとても有効です。(限界はあります)
いろんな意味で、偏る事が非常に少ないと思います。

運動だけ、瞑想だけでは、どうしても偏りが生じます。
バランスは、とても大切です。

偏差は字のごとく、偏りです。

終了