R7.2.23 気の瞑想
朱剛先生から、朝イチで、瞑想に対する考え方の話がありました。
気功の瞑想は、大雑把に言うと、道教由来と仏教由来です。
しかし、瞑想をするために、仏教や道教に入信する必要はないです。
マインドフルネスなども、仏教由来の瞑想ですが、マインドフルネスを嗜むために、仏教に入信する人はいません。
そして瞑想を楽しむための資格ですが、そんな物はありません。
金持ち、貧乏人、男、女、賢い人、残念ながらそうで無い人、全く関係は無いと思います。
朝イチで瞑想に関して、道教、仏教の話がありましたが、それは瞑想するために、直接的に道教、仏教が関係しないと言う話でした。
何故か?
それは、瞑想が非常にシンプルな事を実行できれば、後は流れで自然に行くべき場所に落ち着くからです。(指導してくれる人は必要ですよ)
道教、仏教ともに、教義的などは星の数ほど書籍や、理論がありますが、残念ながらそれを読んだところで、瞑想的には何の進歩も無いはずです。
禅なども不立文字、教外別伝と言われ、実践を何より重んじます。
基本的な事を抑えれば、それが瞑想、禅となり、理論武装している、威張り散らしている坊主よりは、確実に人間的にも尊敬されると思います。
そもそも個人的には、瞑想は宗教縛りでなく、どちらかと言えば、脳科学で取り上げるべき物では無いかと思っているので、そういった学者さんに期待です。
午前開始
まずは 蠕動 座る前には、座る為の準備をやはりした方が良いと思います。
まずは気感を確保するため、筋を伸ばし、筋肉を解し、血流を確保した方が効率的だと思います。
気血、と言うように血の流れはとても大切です。
何より、健康に良いです。
午前中の瞑想は静かではありましたが、特に目新しいこと、特徴的な事はありませんでした。
瞑想したからと言って、必ず目新しい事が起こる訳ではないです。
しかし、瞑想が終了した時には、指先、掌が真っ赤っ赤になっていて、蜂に刺された時の様に、パンパンに張っていました。
これも瞑想の効果の一つです。
昼ご飯では、いろんな関係性について、朱剛先生が話されました。
要約すると、気功バカ、瞑想バカには、なってはいけないと言う事で、気功だけ、瞑想だけやっていれば良いとか、副交感神経だけで生きていこうとか、そういった考えは、あまり好ましく無いと言う話でした。
しごく当たり前の事で、今日ここでランチが食べられるのは、農家、物流、食品、飲食店の方のお陰で、教室に来るにも、地下鉄に乗らなければ教室に来れません。
皆が自分の役割を果たし、生活する中の一つに、気功や瞑想があるという事で、気功や瞑想ばかり、やっていれば良いと言うことではありません。
中庸と言う言葉がありますが、何事もバランスが大切です。
昼からの瞑想は、妙に全身がビリビリするような感覚がありました。
指先などは、アブラゼミが止まって鳴いているんじゃないかと思うほど、チリチリ、ピリピリ感がありました。
感覚的には、電気風呂に入っているぐらいの、ピリピリ感です。
このピリピリ感は、昼寝タイムでも継続し、教室終了までずーっと、ピリピリしていました。
その後は、金属音の耳鳴りが発生しこれも終了時まで続きました。
しばらくすると、急激に、全身が心地よさで満たされていきました。
寒い日にお風呂に入った瞬間にオーっと声を上げる瞬間、または喉がカラカラの時に飲むビールの最初の一杯の時に上げるクーと言ったときぐらいの心地よさがずーっと続きました。
まー、こう言った時は、頭の中で何かしらの 汁 が出ているんだと思います。
このあたりは、瞑想アルアルです。
その後、急に瞼の裏に、一面白の花畑が現れ、その後は白のペンキをぶちまけた様に、全面真っ白になりました。
以前は、画像が出ると、喜んだり、驚いたりしてましたが、あんまりにも当たり前になってしまったので、第三者的に観察出来るようになりました。
これも、瞑想アルアルかなと思います。
本日は、それほど特徴があるわけではありませんでしたが、気の瞑想らしい反応が楽しめた1日でした。
夕食は成増で アジフライ定食 でした。
どうしてアジフライは、あんなに美味しいの?
仏教や道教に入信しようと思わんが、アジフライ教があったら、間髪入れず入信ですな。
何なら、教祖になってもええですがな。
つづく