(初回投稿 3/2 12:19:34)
このとき、原市沼川に白鳥が来たのでした。
愚かでしかない私ですが、
この時本当に白鳥が来たことを、忘れることはないでしょう。
◇◇◇◇◇◇◇
太田道灌の子孫は、「岩付太田家」と、「江戸太田家」に分かれたとされてきました。
しかし、今現在、「太田道灌」の真の後継は、このどちらでもない第三の家系である「太田永厳」であるとされているようです。
「太田永厳」という人物は、書j状を残しており「実在する人物」です。
◇「岩付太田家」の祖太田資家・「江戸太田家」の祖太田資康、二人の名前を合わせると「家康」となります。◇
この二つは、自らの祖先を太田道灌に求めた徳川家康夫人英勝院側(=江戸幕府)によって「作られた家系」なのではないかと思いました。
太田家の貴重な証言である「太田資武」状によれば、岩付太田家の祖は「義芳永賢」あるいは「栄賢」とだけされていて「資家」という言葉はどこにもありません。
この「太田資武状」は、数多く書き残され公式に保存されてきたことからも信用できるということも言わなければなりませんでした。
しかし、そんなことよりも「資武状」が信じられる点は、その内容です。資武は親太田資正から伝えられていないことは、「聞いていない」と書いています。そこには聞いてきたことはなんでも伝えようとする誠実さが感じられます。ここに私見はありません。
ですから、「岩付太田の祖」とされてきた「太田資家」という名乗りは太田資正から聞いてはいないのです。聞いていたとしたら、資武はそれを書いているはずです。
大体、道灌の養嗣子で太田道真から後を託されたというのなら「太田資家」の書状くらいあってもいいはずです。
ここで、自らの祖先であると資武が訴える岩付太田の「太田永賢」こそが、発見された文書の「太田永厳」なのではないか、という検討が行われてもよかったはずなのです。
しかし、「研究」はおかしな方向に進んでいきました。後世に作られた養竹院の位牌が「道永資家」とされ、墓石が「義芳永賢」とされているので、「義芳永賢」のほうが、間違っていることになってしまったのです。
太田資武は「資武状」で自らの祖を「義芳栄賢」「永賢」「義芳賢公」(梅花無尽蔵等で太田道灌のことを「灌公」としている例があるのでこれは永賢を指すと思われる)としか書いていません。だったら、太田永厳とは資武の言う「太田永賢」ではないのでしょうか。
そのことについて考えた「太田永厳」シリーズです。