太田永厳について ③ | ゆうゆうねこの感想ブログ

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(また太田永厳)

戦国ラストサムライ、太田資武は自らの祖先を「太田永賢」であるとしか書き残していません。

 

だったら、発見されたという「太田永厳」という人物は、その「太田永賢」だと考えるのが自然ではないか?と考える3回目です。

 

「太田入道永厳」という人物の書状が発見された時、

◇本当は、岩付太田の祖「太田永賢」が太田道灌と同じ「備中守」を名乗っていたとされるべきだったのではないでしょうか◇

 

「太田潮田系図」では、「資家」の子が「備中守」を名乗っていることが書かれています。そうだとすれば資武の言う「太田永賢」(=資家)の受領名が「備中守」であってもそう不思議ではないと思います。どうでしょうか。

 

しかし、家系図はいくつもあり、どれも混乱しています。前も書きましたが、円覚寺150世の淑悦和尚は確実に存在している道灌の家族ですが、彼も道灌の「弟」と書かれていたり、「甥」と書かれていたりとそれぞれまちまちです。

 

「年代記配合抄」には、太田道灌の死後その跡を継いだという「太田六郎右衛門」が出てきます。そして、また彼も「被誅」とあります。太田家の主は、2代続けて主君に誅されているのでしょうか。

 

そんなことがあるのでしょうか。それでもなお、扇谷上杉に忠誠を誓えるものなのでしょうか。

 

ここには何かがあるはずです。

 

この「太田六郎」は太田道灌の弟とされ、(江戸太田側は太田資康とみる人もいますが)その子「備中守」がその後を継いだとされています。

 

しかし、その「備中守」は道灌から見れば「甥」なのですから、それが太田資武の言う「太田永賢」(=資家)であっても矛盾はしません。

 

また、例えば「太田六郎」が資武の言う「永賢」であっても「太田潮田系図」を見ればその嫡子「源六」は「備中守」なのですから矛盾しません。

 

系図が乱れているので、どうとでも取れてしまうのです。

 

資武は岩付太田の祖、淑悦和尚兄弟の父母のことは「不承」としています。資武が「ねつ造」しようと思うのならここを「六郎」と言っても何を言ってもよかったのです。でも、そうはしませんでした。資武は、「正しい歴史を残そう」と努力した人なのです。違うでしょうか。

 

太田道灌は、資武の言う「永賢」(=資家)の他に「永厳の父」も養子に取ったのでしょうか。そんなことはあり得ませんよね。でも、親子だったらそうとも受け取れませんか。「永賢(厳)の父」がまたも誅されてしまったため、「永賢(厳)」が直接道灌の後を継いだような系譜になっているのかもしれません。

 

家系図は混乱していますが、家系図も含めた様々な資料で登場しているのが、道灌の養子「資家」(=永賢)の存在です。(「寛政重修諸家譜」にも資家法名永賢と書いてあります。)その人を無視できるのでしょうか。

 

永厳は永賢で、それは岩付太田の「太田資家」なのではないでしょうか。◇

 

太田道灌も「資長」であったり「持資」であったりするのです。家系図で「資家」が違う実名として記録されていることもあり得るのではないのでしょうか。道灌は「資家」のほかに養子を持っていたのでしょうか?(実子資康がいるのに?)(←しつこい)

 

太田永厳について ④に続きます。→ こちら