(初回投稿 2/27 13:12:14)
(振り返りを続けることをお許しください)
いろいろあっても、岩付太田家は越前福井で続いていきました。
「資武状」で太田資武は自らの祖を「義芳栄賢庵主」あるいは「義芳永賢」「養竹院殿義芳賢公」としか書いていません。(「梅花無尽蔵」等で道灌公を「灌公」と記している個所がありますので「賢公」は永賢を指すと思われます)
太田資武の祖先(そして太田資正の祖父)は法名「永賢」(えいけん)という人物なのです。
◇その「太田永賢」は、「発見」されたという「太田永厳」とは違う人なのでしょうか。◇
「太田家記」には興味深い記述があります。
道灌の父「太田道真資清」の資料上の初見についてです。
「管領記ニ有之、
此資光有之ハ道真之御事ならんか、武家補任正五位下列太田備中守資満道真と号すと書たり、満と光との訓曰、又清の字草字にかけは似たる故に、魚魯ノ違有して満と書たるを同訓故、光の字を書たるか」とあり、
(文書に)「資光」とあるのは「道真(資清)」のことではないか、としています。
「資清」の「清」の字を草書に書くと「満」と似ているし、同訓(訓読みが同じ)だから、「資光」と書いてしまっているのではないか。と注意書きがしてあるのです。
現代でも「草書」は読みづらいものですが、当時もそうだったのでしょう。清の字が満に見えてしまうこともあり得たのです。
また日本語の表記は「万葉仮名」から始まったように、「音」の表記です。
ですから、新井白石は「太田資正」のことを平気で「太田資政」と書いてしまっています。同じ音だから、許容範囲なのです。この太田家記でも「上杉定正」を「定政」、「宇都宮」を「宇津宮」とか書いていますが、それも許容範囲なのです。間違いではありません。
黒田基樹氏も「『永賢』は備中守の法名永厳と同音である」と認めています。
十分に許容範囲なのに、なぜ資武の言う「太田永賢」は「太田永厳」ではないと言うのでしょうか。