「道灌の後継者を考える ⑤ 英勝院」振り返り | ゆうゆうねこの感想ブログ

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(初回投稿 2/26 12:06:15)
 
太田道灌の後継者。それは、「江戸太田家」と「岩付太田家」とされました。なぜ2つの家系があるのでしょう。なぜそんなことになったのでしょう。
 
それは、徳川家康夫人英勝院の祖先を江戸城に関係のある「太田道灌」としたからなのです。それはちょうど徳川家がその祖先を源氏の新田氏としたということと同じです。
 
クリスペプラーに明智光秀の遺伝子があったというのですから、英勝院が「太田道灌」の子孫でないなどとは言えません。しかし、出自にあいまいさのある英勝院の祖先を江戸城築城者「太田道灌」に求めたことは徳川家の支配体制を強化するための一つの政治的な判断だったのではないでしょうか。ちがうでしょうか。
 
 
前にも書きましたが、資康が本当に道灌の嫡男なら、どうして、養子の子孫(なぜ実子で嫡男の資康がいるのに資家を養子にしたのでしょう)である太田資武から話を聞かなければならなかったのでしょうか。
 
そして、それを信用して自家の公式記録に受け入れているのはなぜでしょう。
 
江戸太田側の歴史書「太田家記」には「太田安房守(資武)状によれば」という記述がいくつも並んでいます。
 
しかし、その「太田安房(資武)」からは「道灌の実子これ無く」(道灌の実子はいない)と書かれてしまったのです。
 
太田家記編集委員会は「あちゃー」となったと思います。しかし、それでも「資武状」を無視することはできませんでした。それはなぜなのでしょう。
 
 
太田資武の祖先は「太田資家」とされてきた、と私は書いてきました。
 
しかし、「資武状」で太田資武は自らの祖を「義芳栄賢庵主」あるいは「義芳永賢」「養竹院殿義芳賢公」としか書いていません。(「梅花無尽蔵」等で道灌公を「灌公」と記している個所がありますので「賢公」は永賢を指すと思われます)資武の祖先は法名「永賢」(えいけん)とされる人物なのです。
 
「永賢」。それは、「発見」されたという「太田永厳」とは違う人なのでしょうか。

 

◇岩付太田家の「資家」と江戸太田家の「資康」。二人を合わせると「家康」となります。◇

 

「家康」。江戸幕府創立の父です。お梶だった彼女を「英勝院」という日本第一の貴婦人にした人です。

 

お梶「英勝院」の祖先として、「資家」「資康」のこの家系ほど確かなものがあるでしょうか。

 

もしかすると、この二人は、二人とも江戸幕府草創期のだれかがお梶「英勝院」さまのために考えた空想上の人物だったのかもしれません。

 

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ここまで家康に愛されていた「英勝院」。その存在は、その他の夫人をおしのける「正室」そのものだったのかもしれません。天海僧正がプロデュースしたという日光東照宮陽明門の桔梗紋。それは、やはり「明智光秀の紋」などではなく「英勝院さまの紋」だったのでしょう。英勝院は三代将軍家光からも絶大な信頼を寄せられ、鎌倉扇谷の地を賜るのです。

 

しかし、やはりひそかに空想しています。なぜ、と思うのです。