謎の「太田六郎資定」振り返り | ゆうゆうねこの感想ブログ

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(初回投稿 3/27 01:38:09)
 
伊東潤著「黎明に起つ」

「ちなみに道灌の死後、太田家は二つの系統に分かれていた。

道灌を殺されたことで、扇谷上杉家から離反した嫡男資康の太田家と、道灌の死によって太田家の名跡を継いだ永厳の太田家の二系統である。

宗家は後者となり、後に前者は江戸太田家、後者は岩付太田家となっていく。
 

「太田永厳」=「太田永賢(資家)」説とは、けっして独りよがりな感想ではなかったのです。よかったです。
 
 
※※※
 
 
 
けれど、まだまだ謎は残されています…。
 
次に考えたいのは
 
太田六郎資定についてです…。
 
 
平成26年に発行された「埼玉県資料叢書12」の付122には「太田資定書状写」という文書が掲載されています。
 
その「解説」によると、「当時、扇谷家家臣太田氏の一族として太田資定という人物が存在していたことを知ることができる」とあります。
 
では、その
◇太田資定とは、誰なのでしょうか◇
 
この「太田資定書状写」は、いつも参照している「北区史資料編古代中世2」には「太田永厳書状」と共に写真入りで掲載されています。
 
そこで、彼は公卿三条西実隆の日記にも出てきます。
「関東太田六郎〃ー資定和歌点事」
とあって、ここで資定は京都の実隆に和歌の添削を求めています。
 
また、資定自身の書状では
「新続古今之事」
とあり、「新続古今和歌集」等の貴重な書籍を所持していておかしくない教養人であることも明かされています。
(結局は所持していませんでしたが…。)
 
彼はいったい誰なのでしょうか。
彼「太田六郎資定」は実在が確実な人物です。そしてまた、道灌の後継をしたという「六郎」という名を彼も名乗っていますけれども…。
 
よく考えてみれば、太田道灌が「持資」であるように、その後継者が主君から一字を受けて「資定」と名乗ることは自然なことのように思えます。逆に言えば(とよくいう人がいますね)傍系の人物が主君「定正」さまから「一字」をいただくということは無いのではないでしょうか。
 
◇この「太田六郎資定」こそが、太田道灌の後継者で太田家の家督相続者という可能性はないのでしょうか。◇
 
嫌な書き方をすると思われるかもしれませんが、「北区史資料編古代中世2」が発刊されてから、20年以上がたっています。
 
誰も興味もなかったのでしょうか…?
とても残念なことです…。
 
残されている太田永厳の書状は、仙波仏蔵院主(今の川越喜多院)にあてられたものです。そしてこの北区史資料編こに掲載されている「太田資定」の書状も同じく仙波仏蔵院にあてられたものなのです。二人は同時代人です。
 
太田資定の書状からは仏蔵院主にたやすく対面できる立場、距離を感じます…。どうでしょうか。
 
太田資定も太田永厳も、永正年間に上杉家家宰として埼玉県の川越にいた人物なのではないでしょうか。そして二人は同一人物なのではないのでしょうか。
 
そして、「太田永賢(=資家)」が実は「太田永厳」である(と思っています)ように「太田資家」はじつはこの「太田資定」なのではないでしょうか。