(初回投稿 3/27 02:34:44)
太田家の家督を継いだ、太田永厳。彼は、もしかすると…。
前回はこちらです↓
ここまで読んでくださった皆さま、ありがとうございます。
皆さまは、あの太田資武状の文章を覚えていらっしゃいますか。
「叔悦之兄、是も甥に候故、家督を被与奪、河越西門之屋敷へ被相移」
(叔悦の兄、是も甥に候故、家督を与奪致され、河越西門の屋敷に相移られ)
資武は岩付太田の祖、「永賢(=資家)」についてこう書いていました。
専門家・黒田氏は、これを「永賢(厳)=資家」が「岩付城主ではない根拠」として取り上げたのですが、
「受領名が明らかでない『太田資武状』の「永賢」は、道灌の養子として家督を継ぎ「河越西門之屋敷」に入ったとされます。「河越西門之屋敷」に入ったとなれば、扇谷上杉当主の近くで仕えた家宰であった可能性も出てきます」
と、Sさんは御指摘くださいました。その通りだと思います。
また、なんとあの伊東潤氏は、「太田永賢=永厳」を肯定するかのように
「道灌を殺されたことで、扇谷上杉家から離反した嫡男資康の太田家と、道灌の死によって太田家の名跡を継いだ永厳の太田家の二系統」
と、永厳が第三の家系とする黒田説に反することを書いた上に
「宗家は後者となり、後に前者は江戸太田家、後者は岩付太田家となっていく。」
と書いていらしたことが明らかになりました。
(また、たとえ、太田永賢(厳)が岩付城主であっても「家宰」という立場であれば、河越城内にも屋敷があって不思議ではないと思いますが、どうでしょうか。)
太田資武のいう自らの祖「太田永賢」こそ上杉の家宰にして太田家家督相続者の「太田永厳」であり、文書の残る「太田六郎資定」なのではないでしょうか。
道灌にも「持資」「資長」2つの名があるように、「叔悦の兄」に「資家」「資定」の2つの名があってもおかしくありません。いや、「資家」の名はもしかすると英勝院の祖先である「資康」に合わせて江戸時代草創期に創作された名前かもしれません。「家」と「定」もまた草書体にすると似た形です。「資家」は「資定」の読み間違いかもしれません。
ともあれ、太田資武のいう自らの祖「叔悦の兄、太田永賢」こそ「太田永厳」であり、さらに文書の残る「太田六郎資定」なのではないかということ。
これは検討に値するのではないでしょうか。どうでしょうか。
そしてさらに、実は「三不軒」「自枚軒」(埼玉県史料叢書12のp33,34に出てくる)という謎の人物がまだいるのです!!
それは、明日!!