放置され続けている、「太田六郎資定」さま…。
しかし、謎なまま放置され、ほとんど手がついていないのは「太田六郎資定」さまだけではありません。
この「太田六郎資定状」は、「北区史資料編古代中世2」によると、「温故雑帖五」(早稲田大学図書館長の市島謙吉氏による資料集?)の中に「太田六郎資定状」を含めた6点が同時に収められたものであるとされています。
この6点は、全てが川越の仙波仏蔵院(北院)(=今の喜多院)に関係していて、「鎌倉円覚寺蔵宋版尚書表紙之反故」紙に書かれていました。
その6点の最初に収められているのが「三不軒某書状写」です。
この「三不軒某」とはどんな人なのでしょう。「解説」によると「おそらく(上杉)朝良の家臣もしくはそれに準じる人物と推察」されています。
この「三不軒聖□」さまは、敵方のことを「早雲」と書いています。これは「伊勢宗瑞」の事なのでしょうが、「北区史 資料編」を解説なさっている専門家は、そのわきに(伊勢宗瑞)(カ)と入れています。この伊勢宗瑞に対する比定の慎重さ。それに対して、今までも書き、これからも述べますが「太田資家」に対する比定のいいかげんさ。それはどうしてなのでしょう。
この6つの文書は「太田道灌の後継者」を考えるにあたって非常に大切だと思います。20年間「放置」されてきましたが、彼らは当時の人間関係の中でささやかではあっても、相手に遠慮したり、思いやりながらも「確実」に生きていたのです。
確実に存在した彼らの「生」を無視して、何の「歴史」でしょう。何の「研究」なのでしょうか。
「文明明応年間関東禅林詩文等抄録」掲載の「自耕斎詩軸并序」にのみ見える人物(とWikipediaには書いてありますが)の成田正等には、私は「生命」を感じません。法諱「正等」と名乗る人物はいたのでしょう。でも、その人は本当に「成田」正等なのでしょうか。ここにも「早雲」を「(伊勢宗瑞)(カ)」とする慎重さはありません。
いつか誰かが推測ではない「成田正等」が実在したと証明できるのでしょうか。
できないと思います。そしてうやむやなまま、名前だけが流布してしまい、なんとなくそうだと思い込まされてしまうのです。
かわいそうな埼玉県。そして、そこに住んで(たくさん)税金を払っている会計ねこ。
ねこたちの税金はこうした専門家にも流れているのですね。
そして、もっとずっとかわいそうなさいたま市。
20年の大河ドラマが「明智光秀」でよかった。
(すみませんでした。よくなかったです‥。)
将来大河ドラマが「太田道灌」になった時「さいたま市」や「岩槻区」はどうするのでしょう?
「道灌築城は伝説に過ぎないから…」と黙っているのですか?
その経済的損失は、計り知れません。
それでも「絶対に成田氏が築城」と言えるのでしょうか。
「文明明応年間関東禅林詩文等抄録」掲載の「自耕斎詩軸并序」には、
「成田」なんて一言も書かれていないのですよ。
あ、「自枚軒」のことを書いていなかった…。似たような人です。