断崖(岩波文庫):イワン・アレクサンドロヴィチ・ゴンチャロフ | 夜の旅と朝の夢

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【ロシア文学の深みを覗く】
第8回:『断崖』
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今回はゴンチャロフ(1812-1891)の『断崖』(1869)を紹介します。全部で5巻もありますが、上には1巻目だけ貼っておきます。

ゴンチャロフの小説としては、初期の習作と晩年の短篇を除くと、『平凡物語』(1847)、『オズローモフ』(1859)、『断崖』の3つだけです。『平凡物語』『オズローモフ』については、以前読みましたので、これで全て読んだことになります。やったね。

全部読んでみて言えることは、ゴンチャロフの小説は全て面白いってことです。途轍もなく面白い。ドストエフスキーやトルストイなどと比べても、全然遜色がありません。

ただし、知名度では雲泥の差。その理由を考えてみたところ、取っ付きやすい小説がないせいかなと。

ドストエフスキーにしてもトルストイにしても、最初から大長編を読むのは勇気がいりますので、多くの人は薄めの本を読んで、大長編を読むかどうかを判断していると思います。でも、ゴンチャロフの場合、一番短い『平凡物語』でも上下巻、『オズローモフ』は全3巻、そして『断崖』は全5巻とどれも長い。これでは読まれないのも仕方ないかもしれません。でも、本当に面白いので、ちょっと勇気を出して読んでみて欲しいです。

ゴンチャロフの特徴は非常に丁寧な人物の性格描写。あまりに丁寧過ぎて、物語の進行はかなり遅いです。そういう小説を読むときは、読む方も覚悟してゆったりと読まなければならないでしょう。僕はちょっと時間かかり過ぎてしまいましたが・・・。ブログで紹介しない本を並行して読んでいるせいもあるんですけどね。

本書はゴンチャロフの他の小説と比べてもかなりゆったりと進みます。全部で5巻もありますが、1巻目はまるごとライスキーの性格を読者に知らせるためのプロローグといった感じ。

ライスキーは地主で特に何もせずに暮らせるだけの収入があります。一時期官民として勤めていましたが、それも辞めてしまい、ペテルブルグで引きこもりの未亡人の気を引くため、その未亡人の元に通う生活を送っています。

このライスキーという男は、自称芸術家ですが、何一つ身についていない男。才能には恵まれているようなのですが、一つのことをやり遂げるだけの努力ができない。彼の描く絵は、かなりちぐはぐしています。自分の興味のある顔などは巧く描けるのですが、興味のない個所は下手。全体的なバランスも悪いです。性格は悪くはないのですが、気分屋でかなり危なっかしい感じです。

そして、ほとんど気まぐれのように絵を諦め、今度は小説を書くと言い始める。未亡人やペテルブルグの生活に飽きがくると、自分の所有地に旅立つのであった。と、ここまでが第1巻。

第2巻は、所有地に住む人々との顔合わせに終始します。そしてラスト付近でようやくメインヒロインであるヴェーラが登場。美しくどこか影のあるヴェーラに魅かれるライスキーであったが、ヴェーラから完膚なきまでに拒絶されてしまうのであった。

ライスキーは、所有地で暮らしながらヴェーラの気を引くため悪戦苦闘する。ヴェーラには、どうやら意中の人がいるようなのだが・・・

とストーリーを紹介すると恋愛小説みたいですが、ライスキーの恋愛自体はストーリーを牽引するためのもので、あまり重要ではないです。

本書の本流は新旧の価値観が衝突する当時のロシアにおける人々の類型を描くことにあると思います。新旧の価値観の衝突といっても、新旧の二項対立ではなくもっと複雑です。

ライスキーの従祖母で所有地を取り仕切るタチヤーナは家柄や既存の道徳などを重視する保守派の代表。ライスキーは、進歩的な見解を持ち、農奴解放を口では謳っていますが、結局は農奴が暮らす所有地からの収入で暮らする夢想家。ヴェーラは進歩的で自由を愛する新世代の女性。

他にも、急進的な思想を持つが、何も新しいものを築けず、ただ古いものを壊そうとするだけのマルク。勉強だけに打ち込み、世の中の流れに取り残されたレオンチー。そして、作者が本格的な行動派と呼ぶトゥーシンなどなど、様々な価値観と性格の人物たちが会話を繰り広げる。

タイトルの「断崖」は、ライスキーの所有地にある崖からとられていますが、それは人々の間にある埋め難い溝も意味しているのでしょう。しかし、埋めることはできなくても、橋を渡し、それを乗り越えるようとする人もいる。それの担い手―すなわち、希望の担い手―は誰か? という感じの小説だと思います。

ちなみに、4巻には『おそ蒔きながら』というゴンチャロフが自作を解説したエッセイが併録されています。本書のネタバレが含まれますので、それが嫌な方は最後に読む方がいいでしょう。ただ本書を理解するためのヒントも多く書かれていますので、ネタバレを気にしない人は最初に読んでもいいかもしれません。

5巻もあると読む気も起こらないかも知れませんが、多くの人に読んでもらいたい傑作だと思いますので、ぜひ手にとってみてください。