大学院に所属していた1999年の春先にインターンを探した。夏に卒業に必要な2教科を取る予定をしていたので、クラスを受講しながら昼間働こうと思っ た。その時はまだ学生で、専門教科やスクール・プロジェクトが主に記載してある、今思えば全く大した事も無いResume(履歴書)と、インターン先を探し ている旨のカバーレターを用意した。そしてYellow pageにて市内のIT関連会社のと思われるFax番号を調べ、自宅のコンピューターにFaxを繋げ、クリックのみでその大した事の無いResumeを次 から次へと市内の会社に送りつけた。500社位に送りつけただろうか ・・ こればっかりは覚えていない。それから、車で市内をドライブしながら、視界にITベンチャー 系の会社を見つけると、勝手にアポ無しで正面からオフィスに入って行き、適当に受付や雑用をしている社員にResumeを手渡しする事もした。
あの当時の前後を省みない行動力には今考えてもハラハラする限りである。まだ社会を知らない分、無茶が出来たのだと解釈していただきたい所だが。まぁ、そんな努力が芽生え たのか、夏の間のインターンが決まった。特にIT分野とは関係の無いAuction/Marketingの会社であったが、そこで夏の2ヶ月間働く事が出来た。
卒業の一年と半年も早くに仕事を探し始めた。これと言って特に理由は無い、ただ単に就職活動が面白かったからだ。最初から日本に戻って就職という気はさらさら無かった。なぜなら日本で自分の経歴が引き手あまたなのを知っていたからだ。こういう言い方は他人を不愉快に させるかも知れない、が、日本のリクルーターからは常々連絡が来ており、よくクライエントの会社と電話で面接をしていた。
それをさらに自分自身に確信させ たのはBostonで毎年行われるCareer Forumに出たことだった。会場には130を超える企業・2000を超える日本人留学生が来ていた。自分は他の企業には目もくれないで、Goldman SachsやLehman Brothers、当時まだ解体されていなかったArthur Andersen等、日本化の進んでいなさそうな外資系会社のブースの前に向かった。金曜と土曜、日曜の午前中と会場はやっているのだが、そういう外資系 の会社は目星を付けた人材20人位を各社毎に金曜・土曜と夜のPartyに誘い、会社の経費でフリーのDinnerを催していた。そしてDinnerに呼 んだ人材達を自分の会社で働くよう口説くのだ。自分は金曜と土曜、異なる会社にそれぞれ呼ばれたのだが、あまりにも簡単に決まりそうな就職に返って不安を 抱いた。もちろん、これにはMasterの学位や専攻であるMISが大きく関係していたのは明白ではあったが、幼い頃あれほど日本では拒絶 されてた自分が・・ という気持ちの方が大きかった。それと同時に、結局蓋を開けてみれば日本の国家も社会もアメリカ追随主義なのかというむかつきも正直感じた。
その時に何か吹っ切れたのだと思う。Bostonでの驚くほどの食いつきに気を良くしたのも事実だが、日本というオプションがあるのなら敢えてアメリカで 勝負してやろうと考えたのもその時だった。それにもっとはっきり言えば、日本でしか生きていけない、井の中の蛙的エリートに憧れも無かった。もし日本というオプションが持てるのであれば、自分がアメリカという地でどこまでやれるのか見てやろうと思った。
大学院を卒業する前の1999年・2000年はITブームの真っ只中、オンラインでResumeを送り、先方から面接の誘いが来るのを待つのであるが、色 々な会社が面接に呼んでくれた。もちろんここでも日系の会社は狙わない。それらの日系会社からは面接へ呼ばれても費用は自分持ち、そしてとんでもない低賃 金で働くことを要求される事になる。
この就職活動で自分を何よりも魅了したのは、ただでアメリカの色々な都市に旅が出来るという事だった。非常に聞こえがミーハーに思われるかも知れない。基 本的に普通のアメリカ企業は、州外からの人材と面接する際にはその渡航費用・ホテル代・食事代・レンタカー代はすべて面接経費で落とす。
本当に楽しかっ た。大学院最後のセメスター等は、行きたくも無い会社で自分のスキルを欲しがっている会社をわざと受け、行ったことも無い都市にただで旅行させてもらっ た。
To be continued
pic - Aliyah -


