うろたえる
うろたえる。
許されるならば、履歴書の特技欄に書きたい。「すぐうろたえる」と。
うろたえる、っていい言葉だ。
そういえばHEAVENというバンドの歌詞に
「死ぬまでの長い一秒に僕はうろたえる」みたいなのがあった。
(間違ってたらごめん)
漢字だと狼狽える、と書くんですな。
ろうばい。
小心者の自分は、簡単にうろたえる。
何気無しに書いたFacebookの記事に「いいね!」がいっぱいつくと、うろたえる。
それが少し感情混じりの記事だったりすると、
自分がとっても「怒れる人」みたいに思われたんじゃないかと、うろたえる。
ならそんなの書かなきゃいいじゃん!と自省してまた、うろたえる。
うろたえる、うろたえれば、うろたえる時。
ヒーロー、うろたえる時、それは今!
自分、くだらないことを書いている時が一番幸せであります!
自分、薄っぺらい人間なので書いていることはあまり意味を持たないんであります!
まあ、そんなに気にする必要もないんですが。かえって自意識過剰だ。
おじいさん、ワタシいつになったらうろたえない人間になるの?
教えてモミの木よ。
なんか、どっしりとした人っているじゃないですか。
簡単にうろたえない人。
サウイフモノニワタシハナリタイ。
なんでハイジと賢治やねん。
なんで突っ込む時はいつも関西弁やねん。
ど~も~、ハイジでーす。賢治でーす。
gdgdになってきたので終わります。
ではまた。
許されるならば、履歴書の特技欄に書きたい。「すぐうろたえる」と。
うろたえる、っていい言葉だ。
そういえばHEAVENというバンドの歌詞に
「死ぬまでの長い一秒に僕はうろたえる」みたいなのがあった。
(間違ってたらごめん)
漢字だと狼狽える、と書くんですな。
ろうばい。
小心者の自分は、簡単にうろたえる。
何気無しに書いたFacebookの記事に「いいね!」がいっぱいつくと、うろたえる。
それが少し感情混じりの記事だったりすると、
自分がとっても「怒れる人」みたいに思われたんじゃないかと、うろたえる。
ならそんなの書かなきゃいいじゃん!と自省してまた、うろたえる。
うろたえる、うろたえれば、うろたえる時。
ヒーロー、うろたえる時、それは今!
自分、くだらないことを書いている時が一番幸せであります!
自分、薄っぺらい人間なので書いていることはあまり意味を持たないんであります!
まあ、そんなに気にする必要もないんですが。かえって自意識過剰だ。
おじいさん、ワタシいつになったらうろたえない人間になるの?
教えてモミの木よ。
なんか、どっしりとした人っているじゃないですか。
簡単にうろたえない人。
サウイフモノニワタシハナリタイ。
なんでハイジと賢治やねん。
なんで突っ込む時はいつも関西弁やねん。
ど~も~、ハイジでーす。賢治でーす。
gdgdになってきたので終わります。
ではまた。
気力を振り絞るな
人間の気力って、すごいものだと思う。
それは時に体力も超越して、自分の体を動かす。
実際に自分も、疲れ果ててもうダメだと思っても現場をこなしたり、
時には体のSOSを認識しながら無視していた時代もあった。
無視しても、どうしてもこれだけはやらなければ!と思えば何とかなったからだ。
尊敬する三代目市川猿之助丈(現在の猿翁丈)は、舞台中に倒れそうになったことがあるという。
「伊達の十役」という、一人で十役をこなす早替りが人気の舞台の話だったと思う(演目は記憶違いかも)。
連日の舞台で疲労困憊、疲れ果てていた彼が、舞台袖に戻ってきたとき、ついにその場に倒れ込んだ。
その時、自分で自分の高いびきを聞いて、
「こりゃいかん、このままでは自分は死ぬかも」と思い、まるで幽体離脱から現世に引き戻すかのように、意識を戻したという。
そしてそのまま舞台に戻ってお役を務めたという。
これは、人間離れした「気力」のなせる技だと思う。
こんな例は極端だとしても、人の気力とは、時に肉体の限界をも超えさせることができる。
でも、でも。
しょせん気力で持たせているものは、それが積もり積もれば無理になり、体を蝕んでいくと思う。
「俺(私)はいいんだ、一度の人生、無理を重ねてもパッと咲いて散りたい」と思うかもしれない。
でも、そう思う人ほど、一つの大輪の花を咲かせたら、もっともっと花を咲かせたくなるものじゃないかと思う。
夢には終わりがない。追えばいつまでも自分の人生の先に、それは在る。
だからさらに無理を重ね、気力に頼って体を酷使する。
中村勘三郎丈もそういう人だったのではと思う。
彼だって色んなことを成し遂げた時代の寵児だったけれど、まだまだやりたい事がどれだけあったことか。
だから、親しい人には心から言いたい。
気力を振り絞らないで。
瞬間的にはそういう場合もあるだろう、でも気力を振り絞り続けないで。
どうか、少しのゆとりを持たせてあげて。
今は良くても、どうにか持ったとしても、いつか。
いつか無理が祟ってそれが何かの形で表れるかもしれない。
その時に、大事な人を悲しませないためにも。
ピークに至る前に。
適当に、適当に、ね。
ピンと張り詰めている糸は弱いからね。
何だか、そんなことを書き残しておきたくなりました。
なんだろね(笑)おやすみなさい。
それは時に体力も超越して、自分の体を動かす。
実際に自分も、疲れ果ててもうダメだと思っても現場をこなしたり、
時には体のSOSを認識しながら無視していた時代もあった。
無視しても、どうしてもこれだけはやらなければ!と思えば何とかなったからだ。
尊敬する三代目市川猿之助丈(現在の猿翁丈)は、舞台中に倒れそうになったことがあるという。
「伊達の十役」という、一人で十役をこなす早替りが人気の舞台の話だったと思う(演目は記憶違いかも)。
連日の舞台で疲労困憊、疲れ果てていた彼が、舞台袖に戻ってきたとき、ついにその場に倒れ込んだ。
その時、自分で自分の高いびきを聞いて、
「こりゃいかん、このままでは自分は死ぬかも」と思い、まるで幽体離脱から現世に引き戻すかのように、意識を戻したという。
そしてそのまま舞台に戻ってお役を務めたという。
これは、人間離れした「気力」のなせる技だと思う。
こんな例は極端だとしても、人の気力とは、時に肉体の限界をも超えさせることができる。
でも、でも。
しょせん気力で持たせているものは、それが積もり積もれば無理になり、体を蝕んでいくと思う。
「俺(私)はいいんだ、一度の人生、無理を重ねてもパッと咲いて散りたい」と思うかもしれない。
でも、そう思う人ほど、一つの大輪の花を咲かせたら、もっともっと花を咲かせたくなるものじゃないかと思う。
夢には終わりがない。追えばいつまでも自分の人生の先に、それは在る。
だからさらに無理を重ね、気力に頼って体を酷使する。
中村勘三郎丈もそういう人だったのではと思う。
彼だって色んなことを成し遂げた時代の寵児だったけれど、まだまだやりたい事がどれだけあったことか。
だから、親しい人には心から言いたい。
気力を振り絞らないで。
瞬間的にはそういう場合もあるだろう、でも気力を振り絞り続けないで。
どうか、少しのゆとりを持たせてあげて。
今は良くても、どうにか持ったとしても、いつか。
いつか無理が祟ってそれが何かの形で表れるかもしれない。
その時に、大事な人を悲しませないためにも。
ピークに至る前に。
適当に、適当に、ね。
ピンと張り詰めている糸は弱いからね。
何だか、そんなことを書き残しておきたくなりました。
なんだろね(笑)おやすみなさい。
FBからの転載(まつおかかおるさんの記事)
(まつおかかおるさんより 記事転載)
先日私はあるブログに出会い
そのブログの内容を読んで
福岡百子さんという方に電話をしました
ネットで知り合った方で、ましてコンタクトもなにもとったことのない方にいきなり電話をすることなど
普段の臆病者の私からしたら異常事態でしたが
身体が勝手にそうしていました
NPOでもボランティア団体でもない一主婦の福岡百子さんがそのブログで何を発信していたのか、お伝えします。
この記事は拡散希望です。
(福岡百子さんの記事より)
私は昨年の6月から支援活動を始め、現在は広野町、楢葉町、富岡町、大熊町、双葉町、浪江町、南相馬(小高、原町、鹿島)の仮設住宅、借り上げ住宅、施設、幼稚園、小学校、中学校、あわせて100カ所以上の方々に支援品送りをさせて頂いている者です。時には川内村、都路、葛尾村にも支援をさせて頂いておりました。そうした中で、福島県の方々の苦悩を知るにつけ、この苦悩を見て見ぬふりしてはならないと思うようになりました。どうか、皆様、現実の姿を知って、救いの手をさしのべていただきたくお願い申し上げます。
まず、支援品についてです。福島は未だ寝具、衣類、下着、食器、生活消耗品、水、お米、調味料、食品などが不足しており、皆さまの温かいご支援をお願い申し上げます。
災害当初から支援は宮城、岩手に集中しておりました。福島は、原発への恐れからでしょうか、福島へ支援は入ることなく、宮城、岩手に流れておりました。支援品があふれて困っているとお聞きした宮城に、福島にお願い出来ないかと問い合わせましたが、他県に入ったものを福島に流すのは無理とのこと、ここでも決まりがあることを知りました。
私たちの義援金についてお話しさせていただきます。これは日赤の方からうかがった話です。私たちの義援金はそのまま県に渡し、県から市町村、そして被災者にと委ねたそうです。海外からの義援金は被災者への家電6点セット、教育支援、体育館、病院修繕費、ソフト事業費に。日赤としては国から資金をもらうことはなく、以前からの日赤の資金で毛布配りをしたとのことでした。被災者に義援金のことをたずねると、一家族につき5万円、7万円、30万円と町によって異なっておりました。それにしても余りにも少ない義援金。私たちの義援金はどこに使われてしまったのでしょう? 被災者にとって悲しかったことは、国からのお見舞金が何もなかったことです、とおっしゃっていました。
東電の補償金についてお話しいたします。これは2012年5/19、5/20に東電東京本社原子力補償相談室に身内として、直接電話で担当者から教えて頂いたものです。
東電は賠償金の一部として、単身者75万円、一家族(2人でも7人でも一様に)100万円支払いました。しかも申請のためには何ページもの書類を書かせられて。しかし、この賠償金は仮払金なので、全額返すように言われ、被災者は返金させられています。また、昨年6月からの3カ月分毎に、精神的損害金が一人10万円ずつ支払われるようになりました。しかし、このお金も仮払い金なので、6月からの3カ月分は返済するように言われ、被災者は自動的に引かれています。つまり、単身者は105万円、3人家族なら190万円を返金しなければならないのです。これを東電は「精算」という表現にしています。(ですから、被災者は「精算か」と当たり前のこととして受け入れてしまっている人も多いです。)人によっては、毎月の10万円で返金することにした、という人もいます。何ということでしょう。お金のない被災者は、どうやって生きて行ったらよいのでしょう?
国民年金のある人は月6万円で生活しています。光熱費、交通費すべてを6万円で。雪国の会津は灯油代の出費も加わり、食費が無く、食事を抜いている人もいると聞きます。被災者に国は生活保護制度を適用できないものでしょうか?
国民年金の年齢に及ばない人、住宅ローンの残っている人、仕事が見つからない人は、さらに深刻です。ある中学校の校長先生から「食事を食べないで来る子もいる。子どもたちはおやつをするチャンスがないので、せめて学校でおやつを食べさせたい。お菓子の支援が欲しい」と頼まれたとき、経済上の深刻さに唖然としました。
双葉町の町役場の責任者からうかがった話ですが、3月11日に職員は出張で仙台に行っていたそうです。それで当日双葉町にいなかったからと言って、東電はその人に賠償金を出さなかった、とのことです。かわいそうに、その職員は、家を新築して3月13日に入る予定だったとのこと。一日も住むことなく、ローンだけが残り、東電からは賠償金ももらえないのです。
福島の被災者に対する国や東電の対応については、いっさい報道されないために、地元の人でさえ本当のことが分からず、「あなた達は東電のお金で楽な生活をしているんでしょう」と言われ、子どもまでもがいじめにあっています。周りから白い目で見られている被災者たちは、お世話になっているからと小さくなって生活し、家の中にこもりがちになり、孤独とストレスで、鬱病、パニック症候群になっていく人が多く、自殺者が絶えなくなりました。死んだ方がまし、死にたい人の気持ちがよくわかる、とよく耳にします。実際、また葬式?と思うほど、仮設の自治会長さんはしょっ中、葬式先から電話をよこします。私どもが支援している方のお兄様も自殺されました。原発で入れない地域のスーパーの店主。生きる希望を失ったようです。
東北の方は、被災前は何世代も一緒に住む大家族が多いです。肩を寄せ合って生活していました。しかし原発によって、家があっても家に住むことが出来ず、家族はバラバラに引き裂かれ、年寄りは一人仮設に預けられ、冷蔵庫の使い方もわからない方、料理作りをしたこともない80代の方が、細々と生活しています。子どもの声が聞こえない、ひっそりとした仮設で、部屋にこもって出ようとしない人や精神的におかしくなった人、救急車の世話になる人が多くなったと、自治会長さんも悩んでいます。
若い夫婦も、夫は仕事を求めて出稼ぎに行き、親子バラバラになり、精神的に不安定になった妻はアルコール依存症になり、子どもも不安定になり、家族崩壊状態です、と言って小学校の校長先生は胸を痛めておりました。
仮設住宅は人間の環境としては考えられないほど最悪です。私にはとうてい我慢できないと思いました。4.5畳という狭い部屋、押し入れは半畳。収納場所がないため、最低限のものしか置けません。周りに品物を置くと空きスペースは寝るのがやっと。手足を十分に伸ばせません。
隣の人の話し声が聞こえるので、小さい声で話したり、テレビも小さい音にして聞いているとのこと。屋根はトタンなので、今は冷房をしないとサウナ風呂に入ったよう。窓は一つでベランダもないので、玄関の戸を閉めると、真っ暗で風通しが悪く、穴蔵に入ったようで、夜は寝られず、熟睡できません、と言います。2~3人家族は4.5畳2間、プライバシーを守ることもできず、空間がありません。ある被災者は、「ここにいると息が詰まりそうで頭がおかしくなります」と言いました。 冬になり暖房をすると結露で床や畳が濡れ、湿気でカビが生えます。また、仮設は杭にチェーンで止めている所もあり、大風が吹くと家が揺れて怖いという所もあります。
人間には生活環境が大切で、これでは心身の病気になっていくのは当たり前と言えないでしょうか? 被災者を一日も早く、この環境から救えないのでしょうか? 本腰を入れてアパート等を作り、被災者を仮設から解放できないのでしょうか?
除染について、被災者の声をお伝えします。
「わたしたちの町は、もう住めないことが分かっている。30年40年帰れないことも分かっている。だのに、住めない所をどうして除染するのか。お金を捨てているようなものです。それよりも被災者の生活安定に目を向けて欲しい。別なところに新しい町を作って欲しい。新しい住まいも作って欲しい。除染ばかりに目を向けず、被災者の生活をまず第一にして欲しい。汚染された所は仕方がない。そこを廃棄物置き場にしたら良い。ふる里を失うことは辛いです。しかし、前を向かなければならない。私たちはもう住めないと思っているのですから。しかし、東電と国は除染したがる。そして解除したがる。解除して自宅に帰れると、補償金を出さなくて済むからです。国と東電は一つです」と、ある被災者は言いました。
最近、驚いていることがあります。南相馬市小高区は来年の5~7月ごろ除染することになりました。その前に復興庁は2000万円の予算を出し、被災者に日当で草刈り、ガレキ処理をさせることになりました。「雇用の確保に、ということですが、それは放射能を浴びさせることです」と役場の人も言いました。実際、現場で働く被災者が30分草刈りしたら1.25マイクロシーベルトあった、と言います。彼は担当者に言ったけど無視された、とのこと。現場には役場の人は来ていません。被災者はマスク無しで、普段着姿で働いています。弁当も出ません。そして、5月から働きだして、3カ月過ぎましたが、今でもお金は出ていません。8月10日過ぎに出ると言われた言葉を信じて、被災者たちは黙々と働いています。「お金のない我々は農協からお金を借りて生活しています。8月10日過ぎにお金が入ったら、農協に返金するつもりです。1日8時間、月~土曜日まで働いています。休みは雨の日と日曜だけです。」(これは、その後8月10日にお金が支払われ毎月10日に支払われることになりました。)
皆さま、福島の方々は悲しすぎませんか? 全てが人道的に許されることでしょうか?これは、国をあげての「いじめ」になりませんでしょうか? いじめは犯罪行為でもあります。私は国の無関心、対策の先延ばしに、ナチスのユダヤ人虐殺が重なって感じられます。
どうぞ皆様、被災者を救ってください。皆様のグループに現地の方をお呼びしてお話を聞いて下さい。そして物品や義援金のご寄付をお願い申し上げます。ご協力頂けます方は、よろしくお願い申し上げます。
そして、これらの記事を、早く被災者を救うために、転記して広めてくださいますようお願い申し上げます。
(福岡さん記事転載終わり)
福島にある仮設住宅190か所あまり
約300世帯がこのような状況にあります
70歳になる福岡さん、一人ではじめた支援活動
福岡さんはパソコンがなく、福岡さんのことを知り
支援したいというひらたさんという方が福岡さんの活動を
ブログに掲載して、少しずつ情報が拡散している状況です。
福岡さんはパソコンがないので、物資援助してくださる方々と被災者の方々の中間役になれるよう、自分の携帯番号をこの情報とともに公開しました。
そのおかげで私も彼女に電話することができました。
「危険や嫌がらせを覚悟で電話番号を載せましたが、不思議なことに誰からも嫌がらせを受けていないのよ^^
なにかが守ってくれてるのねえ^^」と笑っておっしゃっていました。
1時間ほどお話を伺いました。仮設住宅の現状は壮絶なものでした。
金銭的な問題もそうですが、私が一番恐ろしいと感じたのはやはり「住民同士の差別」
この精神的苦痛はおそろしいものです。
そして、この差別の根本にある問題は、情報のあいまいさです。
被災者の人は国や東電からお金もらって遊んでるじゃないか、それを被害者面して・・
被災者を受け入れている土地の方々は彼らの金銭状況を知らされていません。
金銭的問題で移住したくてもできない人がほとんどです。
耐久年数2年という仮設住宅はもうすでにぼろぼろです。
冷たい風が吹き込み、床がはがれてきています。
支援費も打ち切られ、食事もままならず、こどもはおやつなどとても食べられない。
そして、差別を受けています。
真実の情報が隠されているのが大きな原因のひとつです。
今仮設住宅で求められているもののリストを載せます、どうかご縁をつなげてください。
http://fukusima2012.blog.fc2.com/blog-entry-21.html
生物の一番の不幸は分断されることだと思いませんか。
一番の幸福は繋がることだと思いませんか。
「イラスト一枚でもいいの、その絵を毎日見て、きっと心が安まると思うから」
福岡さんの言葉に涙がでました。
私も絵を描いて送ろうと思います。私が絵が好きな理由はここに繋がるためにあったんだなと感じました。
そして今緊急なのが、仮設住宅に近々出産を控えている方が2人いらっしゃるそうです。
その方々へ物資の支援があればうれしいとのことでした。
タオルやオムツ、出産に関するものならなんでも。
義援金を送って下さったら、自治会長さんにお渡しします。そのお金で仮設住宅のみなさんにおやつを配ったり、マッサージ器を買ってあげたりしたいそうです。
もし支援いただける方がいましたら、福岡さんのところへお電話していただくか。
私まつおかの所までご連絡ください。私が福岡さんとの中間に入ります。
長い記事でしたが読んでいただきありがとうございました。
皆さんの中にある慈愛が繋がりを求めている場所へご縁があるよう祈っています。。
(まつおかかおるさん記事の転載終わり)
この記事はFacebookのシェアで回ってきたものです。
まつおかさんが福岡さんの記事を転載し、広めたものです。
私もシェアさせていただきましたが、もう一度広めるためにブログに転載させて頂きました。
先日私はあるブログに出会い
そのブログの内容を読んで
福岡百子さんという方に電話をしました
ネットで知り合った方で、ましてコンタクトもなにもとったことのない方にいきなり電話をすることなど
普段の臆病者の私からしたら異常事態でしたが
身体が勝手にそうしていました
NPOでもボランティア団体でもない一主婦の福岡百子さんがそのブログで何を発信していたのか、お伝えします。
この記事は拡散希望です。
(福岡百子さんの記事より)
私は昨年の6月から支援活動を始め、現在は広野町、楢葉町、富岡町、大熊町、双葉町、浪江町、南相馬(小高、原町、鹿島)の仮設住宅、借り上げ住宅、施設、幼稚園、小学校、中学校、あわせて100カ所以上の方々に支援品送りをさせて頂いている者です。時には川内村、都路、葛尾村にも支援をさせて頂いておりました。そうした中で、福島県の方々の苦悩を知るにつけ、この苦悩を見て見ぬふりしてはならないと思うようになりました。どうか、皆様、現実の姿を知って、救いの手をさしのべていただきたくお願い申し上げます。
まず、支援品についてです。福島は未だ寝具、衣類、下着、食器、生活消耗品、水、お米、調味料、食品などが不足しており、皆さまの温かいご支援をお願い申し上げます。
災害当初から支援は宮城、岩手に集中しておりました。福島は、原発への恐れからでしょうか、福島へ支援は入ることなく、宮城、岩手に流れておりました。支援品があふれて困っているとお聞きした宮城に、福島にお願い出来ないかと問い合わせましたが、他県に入ったものを福島に流すのは無理とのこと、ここでも決まりがあることを知りました。
私たちの義援金についてお話しさせていただきます。これは日赤の方からうかがった話です。私たちの義援金はそのまま県に渡し、県から市町村、そして被災者にと委ねたそうです。海外からの義援金は被災者への家電6点セット、教育支援、体育館、病院修繕費、ソフト事業費に。日赤としては国から資金をもらうことはなく、以前からの日赤の資金で毛布配りをしたとのことでした。被災者に義援金のことをたずねると、一家族につき5万円、7万円、30万円と町によって異なっておりました。それにしても余りにも少ない義援金。私たちの義援金はどこに使われてしまったのでしょう? 被災者にとって悲しかったことは、国からのお見舞金が何もなかったことです、とおっしゃっていました。
東電の補償金についてお話しいたします。これは2012年5/19、5/20に東電東京本社原子力補償相談室に身内として、直接電話で担当者から教えて頂いたものです。
東電は賠償金の一部として、単身者75万円、一家族(2人でも7人でも一様に)100万円支払いました。しかも申請のためには何ページもの書類を書かせられて。しかし、この賠償金は仮払金なので、全額返すように言われ、被災者は返金させられています。また、昨年6月からの3カ月分毎に、精神的損害金が一人10万円ずつ支払われるようになりました。しかし、このお金も仮払い金なので、6月からの3カ月分は返済するように言われ、被災者は自動的に引かれています。つまり、単身者は105万円、3人家族なら190万円を返金しなければならないのです。これを東電は「精算」という表現にしています。(ですから、被災者は「精算か」と当たり前のこととして受け入れてしまっている人も多いです。)人によっては、毎月の10万円で返金することにした、という人もいます。何ということでしょう。お金のない被災者は、どうやって生きて行ったらよいのでしょう?
国民年金のある人は月6万円で生活しています。光熱費、交通費すべてを6万円で。雪国の会津は灯油代の出費も加わり、食費が無く、食事を抜いている人もいると聞きます。被災者に国は生活保護制度を適用できないものでしょうか?
国民年金の年齢に及ばない人、住宅ローンの残っている人、仕事が見つからない人は、さらに深刻です。ある中学校の校長先生から「食事を食べないで来る子もいる。子どもたちはおやつをするチャンスがないので、せめて学校でおやつを食べさせたい。お菓子の支援が欲しい」と頼まれたとき、経済上の深刻さに唖然としました。
双葉町の町役場の責任者からうかがった話ですが、3月11日に職員は出張で仙台に行っていたそうです。それで当日双葉町にいなかったからと言って、東電はその人に賠償金を出さなかった、とのことです。かわいそうに、その職員は、家を新築して3月13日に入る予定だったとのこと。一日も住むことなく、ローンだけが残り、東電からは賠償金ももらえないのです。
福島の被災者に対する国や東電の対応については、いっさい報道されないために、地元の人でさえ本当のことが分からず、「あなた達は東電のお金で楽な生活をしているんでしょう」と言われ、子どもまでもがいじめにあっています。周りから白い目で見られている被災者たちは、お世話になっているからと小さくなって生活し、家の中にこもりがちになり、孤独とストレスで、鬱病、パニック症候群になっていく人が多く、自殺者が絶えなくなりました。死んだ方がまし、死にたい人の気持ちがよくわかる、とよく耳にします。実際、また葬式?と思うほど、仮設の自治会長さんはしょっ中、葬式先から電話をよこします。私どもが支援している方のお兄様も自殺されました。原発で入れない地域のスーパーの店主。生きる希望を失ったようです。
東北の方は、被災前は何世代も一緒に住む大家族が多いです。肩を寄せ合って生活していました。しかし原発によって、家があっても家に住むことが出来ず、家族はバラバラに引き裂かれ、年寄りは一人仮設に預けられ、冷蔵庫の使い方もわからない方、料理作りをしたこともない80代の方が、細々と生活しています。子どもの声が聞こえない、ひっそりとした仮設で、部屋にこもって出ようとしない人や精神的におかしくなった人、救急車の世話になる人が多くなったと、自治会長さんも悩んでいます。
若い夫婦も、夫は仕事を求めて出稼ぎに行き、親子バラバラになり、精神的に不安定になった妻はアルコール依存症になり、子どもも不安定になり、家族崩壊状態です、と言って小学校の校長先生は胸を痛めておりました。
仮設住宅は人間の環境としては考えられないほど最悪です。私にはとうてい我慢できないと思いました。4.5畳という狭い部屋、押し入れは半畳。収納場所がないため、最低限のものしか置けません。周りに品物を置くと空きスペースは寝るのがやっと。手足を十分に伸ばせません。
隣の人の話し声が聞こえるので、小さい声で話したり、テレビも小さい音にして聞いているとのこと。屋根はトタンなので、今は冷房をしないとサウナ風呂に入ったよう。窓は一つでベランダもないので、玄関の戸を閉めると、真っ暗で風通しが悪く、穴蔵に入ったようで、夜は寝られず、熟睡できません、と言います。2~3人家族は4.5畳2間、プライバシーを守ることもできず、空間がありません。ある被災者は、「ここにいると息が詰まりそうで頭がおかしくなります」と言いました。 冬になり暖房をすると結露で床や畳が濡れ、湿気でカビが生えます。また、仮設は杭にチェーンで止めている所もあり、大風が吹くと家が揺れて怖いという所もあります。
人間には生活環境が大切で、これでは心身の病気になっていくのは当たり前と言えないでしょうか? 被災者を一日も早く、この環境から救えないのでしょうか? 本腰を入れてアパート等を作り、被災者を仮設から解放できないのでしょうか?
除染について、被災者の声をお伝えします。
「わたしたちの町は、もう住めないことが分かっている。30年40年帰れないことも分かっている。だのに、住めない所をどうして除染するのか。お金を捨てているようなものです。それよりも被災者の生活安定に目を向けて欲しい。別なところに新しい町を作って欲しい。新しい住まいも作って欲しい。除染ばかりに目を向けず、被災者の生活をまず第一にして欲しい。汚染された所は仕方がない。そこを廃棄物置き場にしたら良い。ふる里を失うことは辛いです。しかし、前を向かなければならない。私たちはもう住めないと思っているのですから。しかし、東電と国は除染したがる。そして解除したがる。解除して自宅に帰れると、補償金を出さなくて済むからです。国と東電は一つです」と、ある被災者は言いました。
最近、驚いていることがあります。南相馬市小高区は来年の5~7月ごろ除染することになりました。その前に復興庁は2000万円の予算を出し、被災者に日当で草刈り、ガレキ処理をさせることになりました。「雇用の確保に、ということですが、それは放射能を浴びさせることです」と役場の人も言いました。実際、現場で働く被災者が30分草刈りしたら1.25マイクロシーベルトあった、と言います。彼は担当者に言ったけど無視された、とのこと。現場には役場の人は来ていません。被災者はマスク無しで、普段着姿で働いています。弁当も出ません。そして、5月から働きだして、3カ月過ぎましたが、今でもお金は出ていません。8月10日過ぎに出ると言われた言葉を信じて、被災者たちは黙々と働いています。「お金のない我々は農協からお金を借りて生活しています。8月10日過ぎにお金が入ったら、農協に返金するつもりです。1日8時間、月~土曜日まで働いています。休みは雨の日と日曜だけです。」(これは、その後8月10日にお金が支払われ毎月10日に支払われることになりました。)
皆さま、福島の方々は悲しすぎませんか? 全てが人道的に許されることでしょうか?これは、国をあげての「いじめ」になりませんでしょうか? いじめは犯罪行為でもあります。私は国の無関心、対策の先延ばしに、ナチスのユダヤ人虐殺が重なって感じられます。
どうぞ皆様、被災者を救ってください。皆様のグループに現地の方をお呼びしてお話を聞いて下さい。そして物品や義援金のご寄付をお願い申し上げます。ご協力頂けます方は、よろしくお願い申し上げます。
そして、これらの記事を、早く被災者を救うために、転記して広めてくださいますようお願い申し上げます。
(福岡さん記事転載終わり)
福島にある仮設住宅190か所あまり
約300世帯がこのような状況にあります
70歳になる福岡さん、一人ではじめた支援活動
福岡さんはパソコンがなく、福岡さんのことを知り
支援したいというひらたさんという方が福岡さんの活動を
ブログに掲載して、少しずつ情報が拡散している状況です。
福岡さんはパソコンがないので、物資援助してくださる方々と被災者の方々の中間役になれるよう、自分の携帯番号をこの情報とともに公開しました。
そのおかげで私も彼女に電話することができました。
「危険や嫌がらせを覚悟で電話番号を載せましたが、不思議なことに誰からも嫌がらせを受けていないのよ^^
なにかが守ってくれてるのねえ^^」と笑っておっしゃっていました。
1時間ほどお話を伺いました。仮設住宅の現状は壮絶なものでした。
金銭的な問題もそうですが、私が一番恐ろしいと感じたのはやはり「住民同士の差別」
この精神的苦痛はおそろしいものです。
そして、この差別の根本にある問題は、情報のあいまいさです。
被災者の人は国や東電からお金もらって遊んでるじゃないか、それを被害者面して・・
被災者を受け入れている土地の方々は彼らの金銭状況を知らされていません。
金銭的問題で移住したくてもできない人がほとんどです。
耐久年数2年という仮設住宅はもうすでにぼろぼろです。
冷たい風が吹き込み、床がはがれてきています。
支援費も打ち切られ、食事もままならず、こどもはおやつなどとても食べられない。
そして、差別を受けています。
真実の情報が隠されているのが大きな原因のひとつです。
今仮設住宅で求められているもののリストを載せます、どうかご縁をつなげてください。
http://fukusima2012.blog.fc2.com/blog-entry-21.html
生物の一番の不幸は分断されることだと思いませんか。
一番の幸福は繋がることだと思いませんか。
「イラスト一枚でもいいの、その絵を毎日見て、きっと心が安まると思うから」
福岡さんの言葉に涙がでました。
私も絵を描いて送ろうと思います。私が絵が好きな理由はここに繋がるためにあったんだなと感じました。
そして今緊急なのが、仮設住宅に近々出産を控えている方が2人いらっしゃるそうです。
その方々へ物資の支援があればうれしいとのことでした。
タオルやオムツ、出産に関するものならなんでも。
義援金を送って下さったら、自治会長さんにお渡しします。そのお金で仮設住宅のみなさんにおやつを配ったり、マッサージ器を買ってあげたりしたいそうです。
もし支援いただける方がいましたら、福岡さんのところへお電話していただくか。
私まつおかの所までご連絡ください。私が福岡さんとの中間に入ります。
長い記事でしたが読んでいただきありがとうございました。
皆さんの中にある慈愛が繋がりを求めている場所へご縁があるよう祈っています。。
(まつおかかおるさん記事の転載終わり)
この記事はFacebookのシェアで回ってきたものです。
まつおかさんが福岡さんの記事を転載し、広めたものです。
私もシェアさせていただきましたが、もう一度広めるためにブログに転載させて頂きました。
紫の花
高校を卒業してオッサン自動車(爆)に就職した私は、「音楽に関わる仕事がしたい」とう大雑把な夢を諦めきれずに、20歳で会社を辞めた。
まだ世間知らずで純情(死語)だった私はその後新聞広告の「旅行・BGMが好きな方」という求人広告を見て、ある会社に入った。
新聞の求人広告で職探しをしていた時代の話ですな(^_^;)フロム・エーもanも「きゃりーぱむぴゃむ」もない時代。
最後は人やないか!
しかもちゃんと言えてないし!
それにしても「旅行」はいいけど「BGMが好きな人」ってどんな求人広告やねん。
それ見て「音楽関係の仕事かも」と思った、上京したてのりんごのようなほっぺの自分、ピュアでしたね。
すいません。嘘をつきました。
「三丁目の夕日」のホリキタちゃん気取りでした。
まあそのいい加減な広告からも想像できるように、横浜の雑居ビルに事務所を構える「英会話の教材売り」の会社だったというオチつき。
2年は勤めましたけどね。
それはおいといて。
その後、ほんとの音楽業界で働く夢を捨てきれなかった自分、
身の程知らずというか怖いもの知らずというか、当時大好きだった二大アーティスト、
「オフコース」と「ユーミン」の事務所にアポなしで訪ねて行った。
「求人募集はないですか?」と。
当時、事務所の住所をどうやって調べたのかもう覚えていない。
確かユーミンの事務所もオフコースカンパニーも青山近辺だったと思う。
それにしても突然訪ねてきた「ファン丸出し」の自分に、両事務所ともそれは丁寧な対応をしてくれた。
人気絶頂のアーティストを抱える事務所なのに、と断られた失望感も忘れ感激したものだ。
しかし、丁重にお断りされても、がっかり感は消えない。
そのまま東京で遊んで、横浜の自宅に帰るか!なんて気晴らしも出来ないまま、すごすごと帰途についた。
渋谷駅まで地下鉄に乗り、東急東横線で横浜まで帰る途中。
ドア付近にぼんやり立っていた私の目に、沿線に咲く無数の紫の花が飛び込んできた。
その時、「いつか絶対にこの花を眺めながら、通ってやる!夢を諦めない!」と心に決めた。
憧れの音楽業界と沿線がどう結びついたのかは分からない。ただ、そう決心した。
その後、その日表参道の駅前で渡された「SOLD OUT」という会報の住所からキョー○ー東京という会社を知って、アルバイトとして採用され、
紫の花の咲く沿線の電車に乗って東京まで通うことになった。
そこから系列の横浜の会社に移り、その会社でユーミンもオフコースも仕事として関わった。
まわりまわってそのアーティスト達の現場に関わった、その時の感激は今も忘れない。
あの時の紫の花。今もなんという名前かも知らない。
あの時の渋谷駅のホームにもう電車が着くことはないんだな。
ありがとう渋谷駅!
まだ世間知らずで純情(死語)だった私はその後新聞広告の「旅行・BGMが好きな方」という求人広告を見て、ある会社に入った。
新聞の求人広告で職探しをしていた時代の話ですな(^_^;)フロム・エーもanも「きゃりーぱむぴゃむ」もない時代。
最後は人やないか!
しかもちゃんと言えてないし!
それにしても「旅行」はいいけど「BGMが好きな人」ってどんな求人広告やねん。
それ見て「音楽関係の仕事かも」と思った、上京したてのりんごのようなほっぺの自分、ピュアでしたね。
すいません。嘘をつきました。
「三丁目の夕日」のホリキタちゃん気取りでした。
まあそのいい加減な広告からも想像できるように、横浜の雑居ビルに事務所を構える「英会話の教材売り」の会社だったというオチつき。
2年は勤めましたけどね。
それはおいといて。
その後、ほんとの音楽業界で働く夢を捨てきれなかった自分、
身の程知らずというか怖いもの知らずというか、当時大好きだった二大アーティスト、
「オフコース」と「ユーミン」の事務所にアポなしで訪ねて行った。
「求人募集はないですか?」と。
当時、事務所の住所をどうやって調べたのかもう覚えていない。
確かユーミンの事務所もオフコースカンパニーも青山近辺だったと思う。
それにしても突然訪ねてきた「ファン丸出し」の自分に、両事務所ともそれは丁寧な対応をしてくれた。
人気絶頂のアーティストを抱える事務所なのに、と断られた失望感も忘れ感激したものだ。
しかし、丁重にお断りされても、がっかり感は消えない。
そのまま東京で遊んで、横浜の自宅に帰るか!なんて気晴らしも出来ないまま、すごすごと帰途についた。
渋谷駅まで地下鉄に乗り、東急東横線で横浜まで帰る途中。
ドア付近にぼんやり立っていた私の目に、沿線に咲く無数の紫の花が飛び込んできた。
その時、「いつか絶対にこの花を眺めながら、通ってやる!夢を諦めない!」と心に決めた。
憧れの音楽業界と沿線がどう結びついたのかは分からない。ただ、そう決心した。
その後、その日表参道の駅前で渡された「SOLD OUT」という会報の住所からキョー○ー東京という会社を知って、アルバイトとして採用され、
紫の花の咲く沿線の電車に乗って東京まで通うことになった。
そこから系列の横浜の会社に移り、その会社でユーミンもオフコースも仕事として関わった。
まわりまわってそのアーティスト達の現場に関わった、その時の感激は今も忘れない。
あの時の紫の花。今もなんという名前かも知らない。
あの時の渋谷駅のホームにもう電車が着くことはないんだな。
ありがとう渋谷駅!
自分も同じ・その後
募金で思い出したことがある。
2005年、スマトラ沖の地震直後のこと。
親友のN嬢の家に泊まった私が翌朝、リビングでゴロゴロしていたら、旦那さまが新聞を読みながら言った。
「ほんとに可哀想だよ・・募金しなくちゃな・・」
そして、当時俳優○○のマネージャーだった私に向かって、こう言った。
「おい、ひとみちゃんよ~、お前んとこの○○に言ってくれよ、金儲けてるんなら募金しろって。
こういうのはウチみたいな金ない奴ばっかりが出すんだよ」
なるほど、という言い方はちょっと軽すぎるが、ほんとにその時「なるほど」と思った。
こういう時、ふだんから節約して厳しい家計から、少しでも募金してあげようと思う人は多い。
大金持ちが寄付したりする話も聞くけれど、あるとこから出すんだからまあ、いいだろう。
私も実際、バブル期(古っ!)にブイブイ言わせてた頃より、
個人でビジネスをするようになって爪に火を灯すような(笑)生活になってからの方が、募金している気がする。
なんとも言えないけれど、お財布に余裕がない時ほど、5円でも10円でもコンビニの募金箱に入れたくなる。
「私の方がマシ」とか高みから見ているつもりはないんだよ。
「情けは人のためならず」って気持ちは少しあるのかな?
説明できないけど、いいよね。
なんとなく、わかってくれるよね。
ヲイヲイ、誰に言ってんだ?大丈夫かジブン。
ちなみにそのスマトラ沖地震に遭い、一時は生死不明とまで騒がれていたJET LI(リー・リンチェイ)と、担当俳優○○との共演映画でその後遭遇することになるとは・・
少林寺拳士の血が騒いだのは言うまでもない。
でもほんとはアクション監督のユエン・ウーピンと会えたことの方が嬉しかった!
どうでも良かったね。
もうすぐ二年。