以前も似たような話を書いたことがあるような気がしますが
例えばフランス語でパピヨンというと
蝶であり、蛾でもあります。
我々は、蝶と蛾を明確に区別します。
ところが、フランス語ではどちらもパピヨン。
例えば雨という言葉
日本語は霧雨、白雨、緑雨、神立、時雨、村雨、飛雨、鬼雨、宿雨、袖笠雨
などなど
日本語には雨を表す表現が非常に多い。
これは、日本人が古来から雨というものに特別に何かを感じ
それぞれに降りかたの違う雨に
名前を付けていったから。
そして、そういう名がある世界に生まれ育った我々は
それを区別するようになっていったから。
もし、そういった細かい差異に対する表現が無い言語で育てば
どんな雨だろうが
空から水落ちてくんべー
としかならない。
その量が多いか少ないかの差でしかない。
例えば雪
イヌイットの人たちは、我々にとっての雨のように
雪に関する表現が多いとか。
我々にとっては同じ雪。
でも、イヌイットの人たちにとっては違う雪となるのでしょう。
というように、言語によって見えている世界は変わります。
その見えている世界が違うという事は
当然感じ方、考え方、物の見方は異なる。
ところが、それでは困るから
何とかして相互の世界の認識をするために
単語にとりあえず一対一に意味をあてがっているわけです。
リンゴ=appleだよ
みたいに。
言語というのはある意味、思考の牢獄です。
我々は言語で考えるのですから、その言語を越えた思考は非常に難しいのです。