【熊野】その4 スクナヒコナの存在 | 開運行動すれば【その先、ヒカリ♥】

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黄泉の国、記紀を正しく知る事は、日本人として非常に大事です。
漢方養生指導士
ご縁玉と寅の日お財布さまおまじない感謝祭の提唱者です!

 

 

かれ、

大国主神

(オホクニヌシノカミ)

出雲の御大(ミホ)の

御前(ミサキ)に

坐(イマ)す時、

 

波の穂より

天(アメ)の

羅摩船(カガミノフネ)に

乗りて、

鵝(ヒムシ)の皮を

内剥(ウツハ)ぎに剥ぎて

衣服(キモノ)にして、

帰(ヨ)り来(ク)る神あり。
 中略
 少名毘古那神

(スクナビコナノカミ)。

 

 

 

http://musashimitakejinja.jp/wp-content/uploads/2020/07/13page3.pdf

 

 

大国主神となったこの神が

出雲の海辺にいる時、

海の彼方からやって来る小人神が

スクナヒコナである。

 

二神はともに国を作ったが、

 

その後

スクナヒコナは

常世国に渡った。

 

紀では、

スクナヒコナは

記と同様に

海からやって来た小人神で、

二神は力を合わせて天下を経営し、

人間と家畜の医療を司り、

害虫害獣をはらった。

 

後に

記と同様に

小人神のみ

常世へと退去したという。

 

また記紀には

酒造りの神として

スクナミカミが語られるが、

これは

スクナヒコナと同神とされている。

 

 

日本書紀

 

その後に、少彦名命

行きて熊野の御碕に至りて

遂に常世郷(とこよくに)に

適(いでま)しぬ

 

 

 

淡嶋に行かれて

そこで粟茎にのぼられたところ、

はじかれて常世郷に渡り着かれた

(日本書紀)

 

 

または

 

粟をお蒔きになられた時、

粟の実が穂一杯に稔って落ちた。

そこで

粟柄に乗って弾かれて

常世の国までお渡りになった。

それで、

粟嶋と名付けているのである。

(伯耆国風土記)

 

 

 

    

【粟嶋神社 

鳥取米子】

 

733年(天平5年)の

『伯耆国風土記』(逸文)では、

こびとのスクナビコナ(少彦名命)が

この地で粟を蒔いて、

実ってはじけた粟の穂に乗って

常世の国へ渡り、

そのために粟島と呼ばれている、

と書かれている。

 

(つまり、粟島は

少彦名命の現世での最後の地、

ということになる。)

 

『日本書紀』でも

同じような逸話があり、

 

スクナビコナが

淡島(粟島)で粟茎に弾かれて

常世へ渡ったとされている。

 

民話では、

こびとであるスクナビコナが

天界から下界の海へ落ちてしまい、

空豆の皮で船を作って

伯耆の島(のちの粟島)に漂着する。

 

そこで出雲の神である

オオクニヌシ(大国主)と知己になる。

 

スクナビコナが排便すると、

天界にいた頃に食べた

粟の実の種が出てきたので、

 

これを島に植えたところ

数年で島は粟が一面に広がった。

 

すると、アワ畑に据えられた

案山子のお告げで

天界に戻るように命を受け、

粟の茎を曲げて穂につかまり、

茎がまっすぐに戻る力で

天界へ飛んでいった。

 

このことから、

オオクニヌシは

この島を「粟島」と名づける

 

と、あります

 

 

 

 

 

 

 

    

【潮御崎神社 

和歌山

 

潮御崎神社

 

 

 

 

第12代景行天皇28年、

潮岬字御崎にある

「静之窟(しずのいわや)」へ

少彦名命(すくなひこなのみこと)を

初めて勧請しました。

 

これが潮御崎神社の創始です。

 

その後

静之窟から静之峰へ遷座され、

後貞観12年(871)五月

潮見の端へ遷座しましたが、

明治2年に潮岬灯台建設のため、

この潮見の端から

再び旧地静之峰へ遷座し、

明治31年6月、昭和57年10月

社殿を修復して今日に至っています。

 

古事記・日本書紀に、

 

「十六代仁徳天皇三十年 

秋九月十一日

大后磐之媛豊楽

(宮中での御酒宴)を

し給はんとして

紀国に遊でまして

熊野の御崎に至り、

その処の

御綱柏を採りて帰り給う。」

 

と、ある。

 

 

御綱柏(みつてかしわ)の木と

伝承されて来た植物

(まるばちしゃの木)が

 

今も静之窟の周辺に自生しています。

 

 

 

 

 

 

 

    

【淡嶋神社 和歌山】

 

 

神話において

 

日本を創造したと伝えられる

少彦名命(すくなひこなのみこと)と

大己貴命(おほなむじのみこと)の

祠が

加太の沖合いの友ヶ島のうちの

神島(淡島)に祀られたことが

始まりとされる

 

 

 

 

「常世の国」とは死の国 

 

 

    

海の彼方にあるとされる

異世界である。

 

一種の理想郷として観想され、

永久不変や不老不死、若返りなどと

結び付けられた、

 

日本神話の他界観をあらわす

代表的な概念で、

 

古事記、日本書紀、

万葉集、風土記などの

記述にその顕れがある

 

海のかなたの理想郷

ニライカナイ

(沖縄、奄美の信仰)

 

 

常世の国=死の国という観想は、

 

神武東征における

御毛沼命の

常世の国渡りの話から読み取れる。

 

これは、

ヤマトタケルの東伐の中で

弟橘媛が

嵐を鎮めるために

海に身を投げたというエピソードと

状況が非常に類似しており、

 

仮に

この対比が妥当だとすれば、

 

御毛沼命は

海に身を投げて

わが身を生贄としたのであり、

 

 

 

 

直接に

「常世の国=死後の世界」を暗示させる

 

常世の国に渡った神話的存在が

いずれも多少は

穀物神・豊穣神の属性を

持っていることから

 

常世の国は

豊穣・穀物をもたらす

「穀霊の故郷」としての信仰

考察されている。

 

すなわち、

少彦名が

国造りに協力した

創造的な神であること、

 

御毛沼命の名義は

「御食」に通じ

穀物神の要素を持つと

考えられること、

 

そして田道間守が

「非時香果」を持ち帰った

という事績があることより、

 

「豊穣・穀物をもたらす存在」と

「常世の国」が結び付けられうる、

 

とする、考察がある

 

 

 

 

 

 

 

 

常世の国

黄泉の国、根の国

 

古事記で

 

「御毛沼命は波の穂を踏みて

常世の国に渡り坐し、

稲氷命は妣(はは)の国として
海原に入り坐しき」

 

 

スサノオが

 

「僕は妣の国、根之堅州国に行きたいと願うがゆえに泣いているのです」

 

あまりに

補陀落渡海の信仰の考えと

似ているのではないか

 

そう思いましたら、

論文がありました

ニコニコ

 

 

常世国の存在位置と不老不死性の 関係についての一考察

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