美術館が再開を始めているのに、閉門蟄居が続きすっかり出不精になってしまった。昨年12月のFB投稿でお茶を濁す。すまん。
12月上旬、ゴッホの映画をはしご。1本目は「永遠の門 ゴッホの見た未来」。ゴッホを演じたウィレム・デフォーはこの作品でヴェネチア国際映画祭の最優秀男優賞を受賞しており、ゴッホが憑依したかのような熱演は光るものの、37歳で亡くなったフィンセントを、映画公開当時63歳のデフォーが演じるのはちと無理があった。ある映画評に「違和感はない」とあったが、熱演をほめるなら別の言葉で表現してほしい。テオやゴーギャン役は相応の年齢の俳優が演じていたからなおさらである。ハンディカメラによる超近接撮影は、ゴッホの視線を共有するものとの言及あるも、これを安易に多用されると、映画館の座席に固定されている鑑賞者には、船酔いにも似た不快感が押し寄せてくるのであった。今は知らないが、昔NHKの大河ドラマの合戦シーンで同様に手持ちカメラのクローズアップが頻繁にあり、ひたすらぶれまくった動画を見せられている気分で、演出の貧困を呪うばかりであったことを思い出した。同じ評者が「ゴッホの生涯は、幸運ではなかったかもしれないが、幸福であっただろう」と無責任きわまりないコメントでまとめていた。画家にとって、絵が売れないことは不幸だろう。演奏家が、自分のコンサートに一人も観客が現れなかったら、それを不幸と呼ばずしてなんと言うのか。実際、フィンセントはテオに宛てた手紙で「いつまで私を無名の画家にとどめておくつもりか」と非難の言葉を記している。そもそもテオは相応に成功した目利きの画商であり、兄の作品を手許にとどめておいて、評価の高まったところで一気に市場に出して儲けようとしていたとの説がある。でなければ、フィンセントの生活費、画材費いっさい負担する理由がないというわけだ。
さて2本目は劇場を変えてイタリアの映画会社製作のルポルタージュ。
1本目との間に時間があって、ゆっくりワインを飲みながらランチをとったこともあって、上映中にたびたび夢の世界に移動することあり。イタリア映画だからナビゲーターはイタリア語、登場人物はフランス語、英語をしゃべり、当然ながらこちらは字幕にたよるが、わからない言葉でも聞こえてくる以上は聞こうとする意思が働くので、聞いていて疲れた。
正直、2年前に見た、ゴッホの絵が動く「ゴッホ最期の手紙」の方が印象は強いかな。
この映画は、スタッフの演じた実写版をキャンバスに投影し、それを125人の画家がゴッホの技法で改めて描いたものを動画として作り上げたものです。タンギー爺さんやガシェ医師が動きだすのはおもしろい見ものでしたね。
ゴッホ人気は衰えることを知らず、今年だけでもいくつか展覧会ありました。
ゴッホの絵をたくさん見て、2010年7月3日にアムステルダムのゴッホ美術館で、大量のゴッホの作品を目の前にして、知らず涙があふれてきたことを思い出しました。
なぜ日付を細かく覚えているか。
その日は私の誕生日で、日本の父からケータイに電話がかかってきて、話し始めると、美術館の係員からすぐ展示室を出るように注意されたので記憶しているのです。
そんなこんな、年の瀬に感傷に浸るヒマもなく、今日から正月明けるまで、母の介護のために帰省します。
みなさま、どうぞよいお年をお迎えください。