COVID-19のおかげでしばらく美術館通いから遠ざかっていた。緊急事態宣言解除後徐々に美術館、博物館が再開しているので、そろそろ美術館めぐりを再開しようかと思いつつ、閉門蟄居に慣れてしまい、出かけるのが億劫になってしまった。今年初めの美術館巡りの際のFB投稿再掲でお茶を濁す次第。面目ない。

 

 少し前ですが、「上村松園と美人画の世界」(山種美術館)と「後藤純男の全貌」(千葉県立美術館)を続けて見てきました。同じ日本画の範疇にあるとは思えないほど作風が違いますね。

後藤純男作品は、誠実で丹念な描きこみが見る者の感情を震わせるものがあることは否定しません。特に、「百済観音像」には魂を揺さぶられるような思いがいたしました。ただし、この人「余白恐怖症」なのではないかと思うほどの余白のない構図、いかにも最近の院展系を思わせる執拗な描きこみ、かつ展示されていた作品の大部分が畳一畳大の大作で、情報量があまりに多くて、見ていていささか疲れました。雪の表現にしても、丸山応挙の国宝「雪松図」とは対極にあるしつこさは、古典的日本画の王道とは少し離れているなという印象でした。千葉県立美術館の企画展としては珍しく図録が販売されていたのですが、原画よりさらに色調が重く、原画の趣を損ねていたので購入しませんでした。ハガキ大のリトグラフが20万円で販売されていたのには驚きました。

平日の昼間というのに駐車場には入場を待つ車の列ができておりました。後藤純男ってそんなに人気画家でしたっけ?後から知りましたがちょうどNHK日曜美術館で紹介があった由、しかもこの千葉県立美術館、シニア割引ではなく、65歳以上は無料でした。そういえば入場者の年齢がやけに高かったですね。

一方上村松園の絵を眺めていると、P・ドラッカー(あの「マネジメント」のドラッカー先生です)が、『西洋絵画は遠近法に基づき幾何学的である。中国絵画は三遠法に基づき代数幾何学的である。日本絵画は空間が統合され、位相幾何学的(トポロジカル)である』と言っていたのが、なんとなくわかりかけてきた気がしました。どなたかがこのグループで評されていましたが、松園の作品は、今まさに動き出す瞬間をとらえているという言葉がありました。完璧に計算された構図と配色は、まさにドラッカー言うところの「空間が絵を支配し、空間が線を規定している」との言葉にふさわしいものだと感じ入ったことでした。

ただ、ひねくれものの私はまたこうも思うのです。たしかに洗練された構図と色使い、繊細な表現は、さすが女性初の文化勲章受章者だけのことはある。でもある意味これは浮世絵で完成されたものではないのか。実際歌麿とそっくりの構図や表現がしばしばあり、それをオマージュと呼び、着想を得たと言えば美しいのだろうけれど、美しさに加える感動はどこにあるのだろうと。

この展覧会で展示されていた中には、橋本明治、片岡球子、鏑木清方、小倉遊亀等々一目でそれとわかるビッグネームが顔をそろえておりました。松園は上品な完成された美人画ですが、これらのお歴々はもう少し人物の個性が表ににじみ出ているような気がして私は好みです。会場にはありませんでしたが北野恒富とか。

あぁ、それから、『西の松園、東の清方』というそうですね。私は語呂合わせもあるのだと思いますが『東の(池田)蕉園、西の松園』と覚えておりました。今回は蕉園の夫である池田輝方の『夕立』という屏風が展示されておりました。見事でした。夫妻ともに夭折が惜しまれます(大正6年に蕉園31歳で没、その4年後輝方38歳にて没)