第1回 デジャブる旅行 | お試しブログ

第1回 デジャブる旅行

北の国では、
歌手の布施明 (ふせ アキラ) が、こんな歌を歌っていました。

ー♪→

うす紫色したシクラメンほど淋しい色はない♪

‥→‥→

疲れを知らない子供のよ-お-に-♪
時が二人を追い越して行く♪

 ⇔

南の国では、
歌手の喜舎場明 (きしゃば アキラ) がこんな歌を歌っていました。

ー♪→

産し子 (なしぐゎ) ぬ心 (くくる) や
今 (なま) や知 (し) らん
今日 (ちう) の吉日 (ゆかるひ) に
勝日 (まさるひ) に

ー・→

産し子 ≒ 授かった子の心は
今は知らないが
今日は何ともめでたい
良い日だこと

ー♪ー

北の布施明は、昔の子供ころを思い出し南の喜舎場明は、今からの子供を想像していました。

(・・?  布施明喜舎場明
その音の響きはまったく違いますが、その「語源 / 起源」を調べて見ると、ほぼ同じ意味でした。http://ameblo.jp/yuukata/entry-12254325062.html

布施 (ふせ) 喜舎場 (きしゃば) も、その「語源 / 起源」を調べて見ると、ともに同じく仏教用語でした。
*布施 ≒ 寄付 ≒ 喜捨



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(・・?  net 上で布施氏と検索して見ると、こんな情報が出てきました。http://folklore2006.jp/643.htm

古代豪族の布施氏(阿部氏の出)、清和源氏、藤原氏 (奥州藤原氏?) などにみられる。

# 山形県:123位、新潟県:156位、千葉県:232位、滋賀県:258位など。関東地方から新潟県、山形県にかけて多くみられる。

# 主なルーツ地
近江国伊香郡布施(滋賀県長浜市布施)、近江国蒲生郡布施(滋賀県東近江市布施)をルーツとする。

甲斐国巨摩郡布施(山梨県中央市布施)をルーツとする。

信濃国更級郡布施(長野県長野市布施)をルーツとする。


ー?→


色いろ調べて見ると、
地名としては、古くは大和国 → 河内国や近江国 → 東国や雪国に流れ、名字としては、関東地方から雪国にかけて‥→ と流れが多い。そして「ある時期 / ある地点」を拠点として、広範囲に「山の国や海の国」へ枝分かれしている様子が見られるように思います。

(・・?  布施明喜舎場明
その音の響きはまったく違いますが、その「語源 / 起源」を調べて見ると、ほぼ同じ仏教用語であった事がとても気になり出して来ました。

既 (すで) にどこかで視 (み) た事ある既視感 (きしかん) を『デジャブ』というようです。

ここから先 →
「もうそう」と仮説を建て →『デジャブる旅行』をして見る事にしました。



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布施の「語源 / 起源」を調べて見ると、仏教用語との情報が多いのですが、そのルーツは浄土 (念仏) 系の仏教であった。と考えて見ました。

(・・?  布施氏は浄土 (念仏) 系の仏教徒が多くいたかも?

net 上に、布施氏の主なルーツ地として、近江国、甲斐国、信濃国とあり、名字としては山形県、新潟県、千葉県に布施氏が多く‥ とありました。

むかし、

山形県の南と新潟県は同じ「越の国」≒「海の国」でした。そして、甲斐国と信濃国は『山の国』で、近江国はその間に位置していました。
*海の国 → 近江国 ← 山の国

(・・?  千葉県にはむかし、千葉氏が住んでおり、北上した千葉氏と南下した千葉氏がいました。

『山の国』≒ 甲斐国と信濃国の有名人として、武田氏、南部氏、望月氏が登場して来ます。

むかしの「白村江の戦い」で敗れた後 → 近江国 ~ 信濃国にかけて「牧」が急激に現れ、近江国 = 甲賀望月氏 ~ 信濃望月氏に → 牧 → 柵 → 佐久 → 望月氏に通じて行きます。


「満月 (まんげつ) 」の古語は『望月 (もちつき / 餅つき) 』で、望月氏は月星紋 (家紋) を使用していました。
*千葉氏も月星紋 (家紋) を使用


ー・ー


1543 (天文12) 年、
甲斐国 (現・山梨県) の武田信玄が、領土拡張を図り信濃国に侵攻する → 武田氏に「従う」望月氏と『反発』望月氏がいました。そこで、望月氏には「吸収と分散」がはじまりました。http://s.ameblo.jp/yuukata/entry-11562776457.html  そのとき、望月氏は東西南北に引っ越した。

後ほど、甲斐国の南部氏も東北地方に進出して行きます。

東北地方に進出した南部氏の配下に「大浦氏」がいて、津軽地方を支配するようになると、大浦氏は地名から『津軽氏』を名乗るようになったといいます。

元もと、南部氏の配下であった大浦氏の祖は『千葉氏』で、房総半島にあった 千葉県匝瑳市大浦から、と説があります。



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ところ変わって、
旧歴の七月十五夜、満月 ≒ 望月 (餅つき) の夜に勝連城 (かつれんグスク) 方面では、盛んに念仏廻り (エイサー) が行われますが、この念仏廻り (エイサー) の起源も浄土系の仏教から伝来しています。


勝連城 (かつれんグスク)

http://ameblo.jp/yuukata/entry-10790546963.html



9代目・勝連城主は茂知付 (もちづき) 氏で、茂知付も『満月 (望月 / 餅つき)』を意味していました。

その後、茂知付 (望月 / もちづき) 氏は阿麻和利 (あまわり) という人に亡ぼされ、10代目・勝連城主となった阿麻和利は、中城 (なかグスク) の護佐丸 (ごさまる) を滅ぼします。



その護佐丸 (ごさまる) は、中城 (なかグスク) 村を重要拠点としていました。

護佐丸 (ごさまる) の下には鍛冶屋 (かんじゃ-や-) と呼ばれた「鉄の民」が多くいたと云われ、その鍛冶屋 (かんじゃ-や-) ≒「鉄の民」は浄土系の信徒が多くいた可能性が高いです。



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あの時、
琉球の舜天王統の3代目・義本王は、英祖王に王位を譲りました。

http://ameblo.jp/yuukata/entry-11946461769.html そのとき義本王は玉城 (たまグスク) で焼身自殺を計ろうとしましたが、雨が降ってきたので死ぬ事ができづ、途方に暮れて中城 (なかグスク) 村で夜を過ごしました。

言い伝えによると、

義本王のお墓は3つあり、仲順大主 (ちゅんじゅんうふしゅ) のお墓は、実は義本王のお墓という説もあります。

また、その仲順大主 (ちゅんじゅんうふしゅ) は浄土宗か浄土真宗の僧侶で、当時の中城 (なかグスク) 村は浄土系の宗教が普及していた。という伝承もあります。

(・・?  もしも?!
義本王と仲順大主が同一人物?あるいは同年代の人物だとすると、

義本王 (1249-59) の時代は鎌倉時代なので、浄土系の宗教が流行した時代と重なります。

その仲順 (ちゅんじゅん) 部落のとなりは、

和仁屋 (わにや) という部落になっていました。

和仁屋 (わにや) の南側に坂田の翁長と部落があり?

坂田の息長 (おきなが) と翁長の坂田が似ているお話をしてみました。http://s.ameblo.jp/yuukata/entry-11934754336.html



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(・・;) あまり上手く文をまとめる事ができませんが、沖縄島の『製鉄、製塩、製土』などの焼き物 (やちむん) や鍛冶屋 (かんじゃ-や-) などが盛んな地域には、近江国にある地名と似ている事がよくあります。

例えば、翁長の坂田と息長の坂田、和仁屋と和邇、与那原 (米原 / よなばる) と米原 (まいばら) 、長浜、多和田ヌル ≒ 天女伝説など、とても偶然とは思えない関連性が見られます。

 [ 関連情報 ]
似ているお話
http://ameblo.jp/yuukata/entry-11946461769.html

まさかの近江国
http://ameblo.jp/yuukata/entry-11944611966.html

北から来た金丸 (かにまる)
http://ameblo.jp/yuukata/entry-11934754336.html



松田 道之(まつだ みちゆき、天保10年5月12日(1839年6月22日) - 明治15年(1882年)7月6日)は、日本の内務官僚・政治家。大津県令、滋賀県令(ともに初代)、東京府知事(第7代)などを務めた。琉球処分において中心的な役割を果たしたことで知られる。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/松田道之



随筆家の井伊文子氏は、



もと琉球の王族・尚家の女性で近江国の井伊家に嫁ぎ『華族』になりました。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/井伊文子



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(・・;) あまり上手く説明できませんが、これまで何度も沖縄島の『製鉄、製塩、製土』などの焼き物 (やちむん) や鍛冶屋 (かんじゃ-や-) などが盛んな地域には、近江国にある地名と似ている事がよくあると『デジャブ (既視感) 』した事があります。

そこで、思い当たるのは?
「歩く近江商人」が古くから沖縄島にも来ていたのでは? と事が思い浮かびます。



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 [ 歩く近江商人 ]
むかし、近江国を本拠地としつつ、全国各地の遠隔地へ行商をした近江商人がいました。

近江商人の起源は、平安末期 ~ 鎌倉時代までさかのぼると云われています。

本格的な活動は、戦国時代の末期に、近江国にあった安土桃山城を治めた織田信長による『楽市楽座』という商業基盤の整備ころ、歩く近江商人の活動範囲を広げたと云われています。
*そのほか、通行税を徴収する『関所』も廃止していた。

『楽市楽座』とは、当時の独占商売にも通じた「楽座 ≒ 同業者組合 (ユニオン) 」を廃止して商業の規制緩和をし、城下町での自由営業の許可と商業誘致を進めた制度? ようなもの。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/楽市・楽座


ー・→


現在でも、トヨタ、丸紅、伊藤忠、高島屋、日本生命、ワコールなど、近江商人に起源をもつ老舗企業は数多く存在しているようです。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/近江商人

江戸時代に入ると近江商人は徐々に活動地域や事業を日本全国に拡大させ、中には朱印船貿易を行う者も現れた。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/朱印船

(・・?  歩く近江商人は『関所』を気にせづ、全国各地を歩いていた?

歩く近江商人には、高島商人・八幡商人・日野商人・湖東商人とあり、中でも高島商人は、古くから活躍した近江商人で、東北地方へ出かけ、江戸時代になると、南部領(青森、岩手、秋田の3県にまたがる地域)の商権を一手に引き受けていたようです。

例えばあの時、南部鉄器の「ツブツブやかん」がありました。

http://ameblo.jp/yuukata/entry-11806961059.html その時、こんな1文を載せて見ました。


ー↓ー


色いろgoogle検索してみると、南部鉄器の鉄瓶は、白鳥伝説のある陸奥国の胆沢・水沢が発祥地と載っていました。

南部鉄器の語源は、南部氏から来ており、南部氏の配下に『大浦氏』がいて、津軽地方を支配するようになると、大浦氏は地名から『津軽氏』を名乗るようになったといいます。

元もと、南部氏の配下であった大浦氏の祖は『千葉氏』で、房総半島にあった 千葉県匝瑳市大浦から、と説があります。

平安時代まで九州島は『千葉氏』の所領でありました。千葉氏、大浦氏、安部氏など‥ 北上と南走伝説があります。


ー↓ー


話は複雑になりますが、
鎌倉時代ころ~日本刀と東北地方において、『前九年の役』に安倍則任という鬼退治をする人物が登場しています。安倍則任は昔『おに』で、安倍則任の「あだ名」は『白鳥八郎則任』であり、陸奥国 (現・岩手県胆沢郡前沢大字白鳥字鵜の木) の白鳥館を拠点としていました。

あの時の
http://s.ameblo.jp/yuukata/entry-11764023941.html
全国・鵜の木祭り、関係しています。


ー↓ー


その後、安倍則任の子孫 →  安倍宗任は九州島の松浦に引越し、その地名から『松浦氏』を名乗ります。

九州島の松浦は、佐賀県と長崎県に分別しました。長崎県の源 (みなもと) は、千葉氏の分家 → 長崎氏という説があり、長崎県には、大浦氏がたくさん住んでいました。


ー↑ー


その時の1文を思い出して見ると!偶然とは思えないほど、沖縄島にも「歩く近江商人」の影響を受けた人々がやって来たのでは?‥ という お話です。



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(・・;)  その前に ; 南部鉄器について、
今では、一まとめに「南部鉄器」と総称されているが、岩手県奥州市の南部鉄器と、岩手県盛岡市の南部鉄器の歴史は異なり、奥州市の南部鉄器は、平安末期に、江刺郡豊田館にいた藤原清衡 (奥州藤原氏) が近江国より鋳物師を招いて始め、次第に南下して ‥→ https://ja.m.wikipedia.org/wiki/南部鉄器
との伝承が語り継がれているようです。

(・・?  もしも?!
平安末期 ~ 鎌倉時代ころから「歩く近江商人」が存在し、近江国より鋳物師を招いて南部鉄器の源 (みなもと) が始まっていた。との伝承が本当だとすると!布施明と喜舎場明の?ある共通点が思い浮かびます。

平安末期 ~ 鎌倉時代というと、浄土思想が流行した時代。

近江国より鋳物師を招いて。と文の鋳物師 (いものし) は「鉄の民」で、当時の職業的な信仰心では鋳物師 ≒「鉄の民」は浄土系の信徒が多くいたと云われています。
*鎌倉時代に浄土系の宗教として、浄土宗、浄土真宗、時宗。ありました。



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(・・?  ところで?
布施氏の名字としては、山形県や新潟県に多い。http://folklore2006.jp/643.htm とありましたが、

むかし、

山形屋という百貨店が沖縄県にありました。

実は、その山形屋 (百貨店) も「歩く近江商人」から派生しているようです。


ー・→


山形屋 (百貨店) の創業は1751年 (宝暦元年)。創業者は近江商人の血を受け継ぐ現在の山形県庄内地方の北前船商人で、薩摩藩主の許可を得て開業した鹿児島城下唯一の呉服商が現在の山形屋の前身といわれる。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/山形屋


ー・→


あの時、
儀間真常という一向宗 (浄土真宗) の信徒が九州島から「住吉信仰」と『木綿 (もめん)』を持ち帰った。お話をして見ました。http://ameblo.jp/yuukata/entry-12127385306.html

そのとき、持ち帰った『木綿 (もめん)』が原料となって「琉球絣」が発展し、山形県の米沢絣もむかし『米沢琉球絣』という名前をしていました。


ー・→


沖縄県には、

「ニンジンしりしり」 とか 「パパイヤしりしり」 と呼ばれる家庭料理があります。



通称・しりしり器という金物で、ニンジンしりしり、パパイヤしりしり、ダイコンしりしり、をする。
*「しりしり」 作業は 「すりおろし」 作業



料理名は、ニンジンしりしり。



通称・野菜しりしり器という金物。
*もとは鉄製品


(・・! 意外にも!
この 「しりしり器」 は、沖縄県ではなく新潟県の三条市、燕 (つばめ) 市という『燕三条』と呼ばれる地域で製造され、しかも 出荷先は9割が沖縄県で、新潟県ではあまり使用しないといいます。
*秘密のケンミンshow という番組でも取り上げられたようです。

『燕三条』と呼ばれる地域は古くから金物 (鉄製品) の町で、

三条市のとなりは、
(・・!加茂市になっていました!


ー・→


浄土宗・袋中上人の父親は「賀茂氏」でした。http://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%A2%8B%E4%B8%AD


もしかすると?‥

かなり古くから、何らかの関係があるかもしれません。http://ameblo.jp/yuukata/entry-12148323121.html


(・・? ?‥?

http://ameblo.jp/yuukata/entry-12148611996.html



ダンプカー―…ご迷惑をおかけします―…ご迷惑をおかけします工事中




(・・?  あくまでもそれは?
「もうそう」と仮説  →『もう説』ですが、

(・・?  布施明喜舎場明
その音の響きはまったく違いますが、その「語源 / 起源」を調べて見ると、
何かの『デジャブ (既視感)』を思い出して来ました。